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第一部 都会人収容所
七、エチゼンれーるうぇい攻防
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フクイ市・サカイ市間、あるいはフクイ市・カツヤマ市間を結ぶ第三セクター鉄道〈エチゼンれーるうぇい〉。
フクイ駅東口脇にそびえるその駅舎は、数年前に大幅リニューアルされ、県産のスギ材を用いた洒脱な箱型建造物となった。
それに伴い、かつて地上から延びていた線路は、いまや駅舎二階から長い舌を伸ばし、吹きさらしのホームに吹き付ける湿気たっぷりの風を舐めていた。
そこで三人の男が電車を待っている。
ひとりは文庫本に目を落としたリクルートスーツの若者。彼はまるで彫像のように、微動だにしない。よほど物語に没頭しているのか、フクイ駅西口からの悲鳴にさえ眉ひとつ動かなかった。
一方、彼と背中合わせに腰かけているのがアサクラだ。三分丈パンツのポケットに手をつっこみ、ガラクタを出してはポケットにしまいを繰り返す一方で、しきりにショットガンをいじり回していた。
そんな落ち着かない男の隣では、当然ハシモトもまた落ち着かない。
絶えず湧きでる手汗をジーパンで拭い、次第に手を青くさせながら、フクイの街並みを見下ろしている。
そこここで自動車事故の黒煙が立ち昇っていた。北のほうで、またボンと赤く炎が爆ぜた。
無論、そんなことは、ハシモトには関係のないことである。
彼にとっての重大事は、天空城〈オオノ〉へ向かわなければならないことだった。
フクイにはエアラインがないで、だからこそ、〈オオノ〉にたどり着けさえすれば、〈クラブラザーズ〉も追って来られないというのが、アサクラの持論だった。
問題は、その方法だった。
恐竜の都カツヤマ市へおもむき、プテラノドンを手懐ける――そんなことが本当に可能だろうか?
「ブフウウウウウン!」
暗鬱とうつむいたハシモトのうなじを、生ぬるい鼻息が撫ぜた。西口を闊歩する、あのフクイティタンの鼻息が、駅舎を越えて吹き付けてきたのだ。
「……はぁ」
ハシモトはその不快感や憂いを、まとめて吐き出した。
それは隣のアサクラの毛先一本なびかせはしなかった。
これが人と恐竜の力の差なのだ。
手懐けるなど絵空事でしかない。
どう抗議すべきか、どうすればアサクラの考えが変わるか。
そう思案し始めたところに、アサクラのほうから声をかけられた。
「恐竜に乗って空を飛ぶなんて、不安か?」
「……もちろん。恐竜は、怖いですよ」
フクイに着いてすぐ白衣の恐竜に襲われたのだ。
西口をでる際には、フクイティタンとトリケラトプスに。
命の危機を感じなかったことは、一度たりともなかった。
「実を言えば、オレもこえぇよ」
「じゃあ、なんでこんな」
つい非難がましい言い方になってしまったのに気付いて、ハシモトはこう言い直した。
「……どうして、それならアサクラさんは前に進めるんです?」
柄にもなくアサクラは、卑屈に口の端を歪めた。
初めて見る表情にハシモトは戸惑った。
こんな顔もする人なのか、と。
「自分を大きくもつことだ」
唐突にアサクラは言った。
それが問いに対する答えなのだと気付くのに、やや時間を要した。
「自分にできねぇことはない。そう思うんだ。できねぇことばっか数えてると、前に進む力は萎えてく」
いつになく真摯なアサクラの眼差しが、目の前にあった。
そこには一本の芯があるように、ハシモトには見えた。
でも、ぼくにそんな芯はない……。
怒りに任せ、会社をとび出してきてしまったのを思い出す。
抗うことすらせず、勝手に我慢して、勝手に投げだしてきた。
そんな人間が、自分にできないことはないなどと思えるはずがなかった。
ハシモトは、アサクラから目を逸らした。
「……ぼくに何ができるって言うんです? ぼくはフクイに来たばかりです。ほとんど何も分かっちゃいないし、とくべつ力が強いわけでもない」
「それでもお前は、オレとここにいるだろうが。恐竜から逃げきって、殺されかけたオレを助けてくれた。そんで、今、〈オオノ〉を目指してる。違うか?」
「違いませんけど……」
それはアサクラが助けてくれたからだ。
アサクラの助けを必要としていたからだ。
自分ひとりでは何もできないから頼ってきた。
そんな打算が、たまたまアサクラの窮地を救ったのだ。
ハシモトはそう訴えようとしたが、アサクラはその気持ちを見抜いたかのように、先んじて首を振ってみせた。
「お前は、お前の足でここへ来たんだ。誰の手を借りたとか、助けを期待したとか関係ねぇ。誰が助けたって、導いたって、お前を踏みださせることができんのは、お前だけだ。お前がいま立ってる後ろには、進んできた分の足跡がちゃんと残ってる」
ひとくさり言い終えると、アサクラは階下におりる階段を見やった。
そして、ハシモトの胸に指を突きつけた。自分の芯を、そこに注ぎ込むかのように。
「怖くて進めねぇと思うなら、その足跡を数えろ。歩んできたことを誇れ。そうすれば、必ずまた前に進める」
その時、頭上の電光掲示板が、電車の到着を予告した。
アサクラの目は、もうハシモトを見ていなかった。やおら立ちあがったかと思うと、ショットガンの安全装置を外した。二度、三度と拳を握りこめば、階段に向きなおった。
ハシモトはかすかに震えた。
その背中が、恐竜より遥かに大きく。
日食を背負うより神々しく見えたからだ。
ジージャンに刺繍された真っ赤な『ソースカツ丼』の文字は、燃えあがったようにすら感じられた。
「来やがったぜ」
アサクラが腰を低くかまえ唸る。
「ヒエア……」
階段から五人のチンピラが姿を現す。
甲高いブレーキ音とともに電車が停止する。
それが開戦の合図となった。
「シュ……ッ!」ドム!
真っ先にとび出したチンピラを、アサクラが早速撃った!
「フハ、ァ!」
しかし銃口の向きから狙いを読み、チンピラたちはすでに射線から姿を消していた。
右に三。左に二。
二手に分かれたチンピラが、ドッと距離を詰めてくる!
「クソが」
アサクラは即座にポンプアクションを終え、左に狙いを構え、わずかに肘を上下させた。
その動きに反応し、チンピラたちがまたも射線から退いた。
「ヘア……?」
ところが、弾は発射されない。
銃口が横に滑り、アサクラが口角をニッと吊りあげた。先の動きはフェイントだったのだ!
ドム! そして弾が吐きだされる!
「うぎゃあぁあああぁああああ!」
巨大なスラグ弾に脚を撃ちぬかれたチンピラは、線路に落下し転がって地上へと消えていった。
「ハッハァッ!」
だが、敵はまだ四人! 右手側から接近した先頭のチンピラが、恐竜の骨と思わしき棍棒を振り下ろす!
「うるせぇ!」
アサクラは横に跳んで棍棒を躱しつつ、その脇腹に蹴りを叩きこむ!
よろめく棍棒チンピラ!
「うお、っと!」
その背中に後続チンピラがどんとぶつかり、二人まとめて転倒する!
右から迫るもうひとりが、バールのようなものを振りあげる!
しかしその足許に薬莢が転がり、胸に銃口が吸いついた!
ドム!
チンピラの胸に風穴がひらける!
「にゃろぉ!」
左から迫るのが最後のひとりだ!
アサクラはそれを肘打ちで牽制すべく、すでに姿勢を低くしタメを作っていた。
にもかかわらず、アサクラの肘はチンピラの腹をえぐる寸前で止まった。
「あぐ、っ」
胸を撃たれたチンピラの手からバールのようなものがすっぽ抜け、アサクラの肩をかすめたのだ!
「ホアアアァオ!」
六条大麦をパンパンに詰めこんだブラックジャックが、アサクラの側頭部を叩きつける!
「ぐあ……ッ!」
アサクラは吹っ飛ばされ、ホームの床を転がった。
そこに立ちあがった二人のチンピラが襲いかかり、背中を、腹を蹴りあげた。ブラックジャックチンピラも、すぐさまそこに加わった。血と呻きが飛び散った。
「ま、まずい……!」
ハシモトは、椅子の陰から一部始終を見ていた。
このままでは、アサクラが殺されるのは時間の問題だった。
すぐさま動きださなければならなかった。
他の誰かではなく、自分が。
『ボルガ』で皿を投げつけた、あの時のように。
幸い、反撃の手段はすぐ側にあった。アサクラの手を離れたショットガンだ。
「や、やるしかない!」
ハシモトは膝を殴り、怯える自分を鼓舞して、ショットガンを抱えあげた。
たちまち、その重さに慄いた。
それらしく構えてみても、うまく狙いを定めることができない。
重さで手が震えてしまうのだ。
それはショットガン本来の重さではないのかもしれなかった。
人を傷付けること。
殺すことが、ハシモトには恐ろしかったのだ。
「や、やっぱり……」
無理だ、とハシモトは銃口を下ろそうとした。
だが、その耳に。
「がはッ……!」
苦悶の声が届く。
チンピラの爪先が、アサクラの腹にめりこむ。
真っ赤な『ソースカツ丼』が踏み付けられる。
炎が苦しげに悶え、ハシモトの心を炙る。
「死ね」
そして、チンピラのひとりが笑った。
その瞬間、時間の流れが淀んだ。
虚空に伸びる自分の手が、恐竜骨棍棒を振りあげるその動作が、ひどく緩慢になったのだ。
頭にバチバチと熱が滾ったのは、その直後だったか、直前だったか。
曖昧な時間の中でハシモトは、とにかく世界から色が消し飛ぶさまを目の当たりにした。
チンピラどもの姿も、たちまち掻き消えた。
ひりつくような脳の痛みと、倒れたアサクラの姿だけが残った。
間もなく『ソースカツ丼』の炎も、強風にあおられたように散った。火の粉が舞い上がり、やがてそれも色を失くした。灰のように降り積もった火の粉の残滓は、しかし今度は緩やかな流れにさらわれてサラサラと暗い地面を這い、ある形を形作った。
足跡だった。
ひどく危うげな足跡が、ぽつぽつと浮かび上がり、ひとつ、またひとつと熾火のごとく柔らかな光を燈したのである。
そして、ついに最後の足跡が刻まれたとき、ハシモトとアサクラの間には、一筋の道が築き上げられていた。
ハシモトが立っているのは、その始まりだった。
『――足跡を数えろ。歩んできたことを誇れ。そうすれば、必ずまた前に進める』
アサクラの言葉が蘇り、足許にちりりと火の粉が舞った。
そうだ。ぼくは、自分自身の足でここまで来た。フクイへ来たのも、恐竜から逃げたのも、皿を投げたのも、全部ぼくだ。アサクラさんと一緒に〈オオノ〉まで行く。それを決めるのだって――!
全身を燃えるような血が駆けめぐった。
ハシモトは強く瞬いた。
シャッターを切ったように、元の情景が蘇った。
「うわあああああああああああああああああああッ!」
刹那、叫びが喉からせりあがり、止まっていた足が踏みだされた!
見えざる足跡をたどり、見よう見まねでショットガンをポンプし、照準を定める! ドム!
「あああぁっで……ぇ!」
チンピラの脇腹を銃弾がかすめた! 恐竜骨棍棒が転がり、ホームの下に滑落する!
「てっめェ!」
一転、残ったチンピラたちは怒りに目を剥き、ハシモトへと飛びかかる!
「うらァ!」
「わっ……!」
反動でよろめくハシモトの鼻先を、六条大麦ブラックジャックがかすめる!
「もっかいポンプしろ……!」
そこに血痰のからんだアサクラの助言が届いた。
ハシモトはよろめきながら、ハンドグリップを前後に動かす。
薬莢が排出され、新たな弾薬が薬室に装填される。
引金を、ひく!
「うあってぇい……ッ!」
太ももの肉をこそげとられ、ブラックジャックチンピラが真横にすっ転んだ!
あと一人だ……!
ハシモトは異様な興奮と冷静さの中で、最後のポンプアクションを終えた。
無傷のチンピラが泡を食って喚き散らしたのは、銃口がその胸に狙いを定めたのと同時だった。
「おい、マスナガ、こらァ! ボサっとしてんじゃねぇぞ、ボケが!」
その瞬間、ハシモトの指先は凍りついた。
チンピラの血走った眼に、ハシモトと背後のもう一人が映りこんだ。
「……」
背後で気配が動いた。
カツ。
次いで、足音がした。
それがゴッと冷気を放射したようだった。ハシモトは今度こそ、全身を凍りつかせた。
ふり返ることも、逃げることもできなかった。
傷付いたふたりのチンピラが、ニィと口端を吊り上げた。
耳朶に息がかかり、顔の横から腕があらわれた。
「えっ……」
ところが、それはハシモトの首を絞めあげるでもなく、まっすぐに伸び切ったまま静止した。手に握った拳銃の引き金にだけ、そっと指をかけて。
「なんだ、マスナガ、それ」
「おい、冗談は顔だけにしとけよ」
チンピラたちが呆然と呟いた。
パン! パン! パン!
次の瞬間、チンピラたちの額に風穴が穿たれた。
ひとりが白目をむいて倒れ、傷付いたふたりは痛みから解放された。
『〈エチゼンれーるうぇい〉カツヤマ行、間もなく発車します』
ホームにアナウンスが響きわたった。
そこで、ようやくハシモトは我に返った。
猫のように跳びあがり、背後を振り仰いだのだ。
「……フッ」
リクルートスーツの若者が、銃口の硝煙を吹き消した。
そして、ようやく虚ろな眼差しを寄越すのだった。
その目許を覆ったメガネフレームに、薄青い光を流動させながら。
フクイ駅東口脇にそびえるその駅舎は、数年前に大幅リニューアルされ、県産のスギ材を用いた洒脱な箱型建造物となった。
それに伴い、かつて地上から延びていた線路は、いまや駅舎二階から長い舌を伸ばし、吹きさらしのホームに吹き付ける湿気たっぷりの風を舐めていた。
そこで三人の男が電車を待っている。
ひとりは文庫本に目を落としたリクルートスーツの若者。彼はまるで彫像のように、微動だにしない。よほど物語に没頭しているのか、フクイ駅西口からの悲鳴にさえ眉ひとつ動かなかった。
一方、彼と背中合わせに腰かけているのがアサクラだ。三分丈パンツのポケットに手をつっこみ、ガラクタを出してはポケットにしまいを繰り返す一方で、しきりにショットガンをいじり回していた。
そんな落ち着かない男の隣では、当然ハシモトもまた落ち着かない。
絶えず湧きでる手汗をジーパンで拭い、次第に手を青くさせながら、フクイの街並みを見下ろしている。
そこここで自動車事故の黒煙が立ち昇っていた。北のほうで、またボンと赤く炎が爆ぜた。
無論、そんなことは、ハシモトには関係のないことである。
彼にとっての重大事は、天空城〈オオノ〉へ向かわなければならないことだった。
フクイにはエアラインがないで、だからこそ、〈オオノ〉にたどり着けさえすれば、〈クラブラザーズ〉も追って来られないというのが、アサクラの持論だった。
問題は、その方法だった。
恐竜の都カツヤマ市へおもむき、プテラノドンを手懐ける――そんなことが本当に可能だろうか?
「ブフウウウウウン!」
暗鬱とうつむいたハシモトのうなじを、生ぬるい鼻息が撫ぜた。西口を闊歩する、あのフクイティタンの鼻息が、駅舎を越えて吹き付けてきたのだ。
「……はぁ」
ハシモトはその不快感や憂いを、まとめて吐き出した。
それは隣のアサクラの毛先一本なびかせはしなかった。
これが人と恐竜の力の差なのだ。
手懐けるなど絵空事でしかない。
どう抗議すべきか、どうすればアサクラの考えが変わるか。
そう思案し始めたところに、アサクラのほうから声をかけられた。
「恐竜に乗って空を飛ぶなんて、不安か?」
「……もちろん。恐竜は、怖いですよ」
フクイに着いてすぐ白衣の恐竜に襲われたのだ。
西口をでる際には、フクイティタンとトリケラトプスに。
命の危機を感じなかったことは、一度たりともなかった。
「実を言えば、オレもこえぇよ」
「じゃあ、なんでこんな」
つい非難がましい言い方になってしまったのに気付いて、ハシモトはこう言い直した。
「……どうして、それならアサクラさんは前に進めるんです?」
柄にもなくアサクラは、卑屈に口の端を歪めた。
初めて見る表情にハシモトは戸惑った。
こんな顔もする人なのか、と。
「自分を大きくもつことだ」
唐突にアサクラは言った。
それが問いに対する答えなのだと気付くのに、やや時間を要した。
「自分にできねぇことはない。そう思うんだ。できねぇことばっか数えてると、前に進む力は萎えてく」
いつになく真摯なアサクラの眼差しが、目の前にあった。
そこには一本の芯があるように、ハシモトには見えた。
でも、ぼくにそんな芯はない……。
怒りに任せ、会社をとび出してきてしまったのを思い出す。
抗うことすらせず、勝手に我慢して、勝手に投げだしてきた。
そんな人間が、自分にできないことはないなどと思えるはずがなかった。
ハシモトは、アサクラから目を逸らした。
「……ぼくに何ができるって言うんです? ぼくはフクイに来たばかりです。ほとんど何も分かっちゃいないし、とくべつ力が強いわけでもない」
「それでもお前は、オレとここにいるだろうが。恐竜から逃げきって、殺されかけたオレを助けてくれた。そんで、今、〈オオノ〉を目指してる。違うか?」
「違いませんけど……」
それはアサクラが助けてくれたからだ。
アサクラの助けを必要としていたからだ。
自分ひとりでは何もできないから頼ってきた。
そんな打算が、たまたまアサクラの窮地を救ったのだ。
ハシモトはそう訴えようとしたが、アサクラはその気持ちを見抜いたかのように、先んじて首を振ってみせた。
「お前は、お前の足でここへ来たんだ。誰の手を借りたとか、助けを期待したとか関係ねぇ。誰が助けたって、導いたって、お前を踏みださせることができんのは、お前だけだ。お前がいま立ってる後ろには、進んできた分の足跡がちゃんと残ってる」
ひとくさり言い終えると、アサクラは階下におりる階段を見やった。
そして、ハシモトの胸に指を突きつけた。自分の芯を、そこに注ぎ込むかのように。
「怖くて進めねぇと思うなら、その足跡を数えろ。歩んできたことを誇れ。そうすれば、必ずまた前に進める」
その時、頭上の電光掲示板が、電車の到着を予告した。
アサクラの目は、もうハシモトを見ていなかった。やおら立ちあがったかと思うと、ショットガンの安全装置を外した。二度、三度と拳を握りこめば、階段に向きなおった。
ハシモトはかすかに震えた。
その背中が、恐竜より遥かに大きく。
日食を背負うより神々しく見えたからだ。
ジージャンに刺繍された真っ赤な『ソースカツ丼』の文字は、燃えあがったようにすら感じられた。
「来やがったぜ」
アサクラが腰を低くかまえ唸る。
「ヒエア……」
階段から五人のチンピラが姿を現す。
甲高いブレーキ音とともに電車が停止する。
それが開戦の合図となった。
「シュ……ッ!」ドム!
真っ先にとび出したチンピラを、アサクラが早速撃った!
「フハ、ァ!」
しかし銃口の向きから狙いを読み、チンピラたちはすでに射線から姿を消していた。
右に三。左に二。
二手に分かれたチンピラが、ドッと距離を詰めてくる!
「クソが」
アサクラは即座にポンプアクションを終え、左に狙いを構え、わずかに肘を上下させた。
その動きに反応し、チンピラたちがまたも射線から退いた。
「ヘア……?」
ところが、弾は発射されない。
銃口が横に滑り、アサクラが口角をニッと吊りあげた。先の動きはフェイントだったのだ!
ドム! そして弾が吐きだされる!
「うぎゃあぁあああぁああああ!」
巨大なスラグ弾に脚を撃ちぬかれたチンピラは、線路に落下し転がって地上へと消えていった。
「ハッハァッ!」
だが、敵はまだ四人! 右手側から接近した先頭のチンピラが、恐竜の骨と思わしき棍棒を振り下ろす!
「うるせぇ!」
アサクラは横に跳んで棍棒を躱しつつ、その脇腹に蹴りを叩きこむ!
よろめく棍棒チンピラ!
「うお、っと!」
その背中に後続チンピラがどんとぶつかり、二人まとめて転倒する!
右から迫るもうひとりが、バールのようなものを振りあげる!
しかしその足許に薬莢が転がり、胸に銃口が吸いついた!
ドム!
チンピラの胸に風穴がひらける!
「にゃろぉ!」
左から迫るのが最後のひとりだ!
アサクラはそれを肘打ちで牽制すべく、すでに姿勢を低くしタメを作っていた。
にもかかわらず、アサクラの肘はチンピラの腹をえぐる寸前で止まった。
「あぐ、っ」
胸を撃たれたチンピラの手からバールのようなものがすっぽ抜け、アサクラの肩をかすめたのだ!
「ホアアアァオ!」
六条大麦をパンパンに詰めこんだブラックジャックが、アサクラの側頭部を叩きつける!
「ぐあ……ッ!」
アサクラは吹っ飛ばされ、ホームの床を転がった。
そこに立ちあがった二人のチンピラが襲いかかり、背中を、腹を蹴りあげた。ブラックジャックチンピラも、すぐさまそこに加わった。血と呻きが飛び散った。
「ま、まずい……!」
ハシモトは、椅子の陰から一部始終を見ていた。
このままでは、アサクラが殺されるのは時間の問題だった。
すぐさま動きださなければならなかった。
他の誰かではなく、自分が。
『ボルガ』で皿を投げつけた、あの時のように。
幸い、反撃の手段はすぐ側にあった。アサクラの手を離れたショットガンだ。
「や、やるしかない!」
ハシモトは膝を殴り、怯える自分を鼓舞して、ショットガンを抱えあげた。
たちまち、その重さに慄いた。
それらしく構えてみても、うまく狙いを定めることができない。
重さで手が震えてしまうのだ。
それはショットガン本来の重さではないのかもしれなかった。
人を傷付けること。
殺すことが、ハシモトには恐ろしかったのだ。
「や、やっぱり……」
無理だ、とハシモトは銃口を下ろそうとした。
だが、その耳に。
「がはッ……!」
苦悶の声が届く。
チンピラの爪先が、アサクラの腹にめりこむ。
真っ赤な『ソースカツ丼』が踏み付けられる。
炎が苦しげに悶え、ハシモトの心を炙る。
「死ね」
そして、チンピラのひとりが笑った。
その瞬間、時間の流れが淀んだ。
虚空に伸びる自分の手が、恐竜骨棍棒を振りあげるその動作が、ひどく緩慢になったのだ。
頭にバチバチと熱が滾ったのは、その直後だったか、直前だったか。
曖昧な時間の中でハシモトは、とにかく世界から色が消し飛ぶさまを目の当たりにした。
チンピラどもの姿も、たちまち掻き消えた。
ひりつくような脳の痛みと、倒れたアサクラの姿だけが残った。
間もなく『ソースカツ丼』の炎も、強風にあおられたように散った。火の粉が舞い上がり、やがてそれも色を失くした。灰のように降り積もった火の粉の残滓は、しかし今度は緩やかな流れにさらわれてサラサラと暗い地面を這い、ある形を形作った。
足跡だった。
ひどく危うげな足跡が、ぽつぽつと浮かび上がり、ひとつ、またひとつと熾火のごとく柔らかな光を燈したのである。
そして、ついに最後の足跡が刻まれたとき、ハシモトとアサクラの間には、一筋の道が築き上げられていた。
ハシモトが立っているのは、その始まりだった。
『――足跡を数えろ。歩んできたことを誇れ。そうすれば、必ずまた前に進める』
アサクラの言葉が蘇り、足許にちりりと火の粉が舞った。
そうだ。ぼくは、自分自身の足でここまで来た。フクイへ来たのも、恐竜から逃げたのも、皿を投げたのも、全部ぼくだ。アサクラさんと一緒に〈オオノ〉まで行く。それを決めるのだって――!
全身を燃えるような血が駆けめぐった。
ハシモトは強く瞬いた。
シャッターを切ったように、元の情景が蘇った。
「うわあああああああああああああああああああッ!」
刹那、叫びが喉からせりあがり、止まっていた足が踏みだされた!
見えざる足跡をたどり、見よう見まねでショットガンをポンプし、照準を定める! ドム!
「あああぁっで……ぇ!」
チンピラの脇腹を銃弾がかすめた! 恐竜骨棍棒が転がり、ホームの下に滑落する!
「てっめェ!」
一転、残ったチンピラたちは怒りに目を剥き、ハシモトへと飛びかかる!
「うらァ!」
「わっ……!」
反動でよろめくハシモトの鼻先を、六条大麦ブラックジャックがかすめる!
「もっかいポンプしろ……!」
そこに血痰のからんだアサクラの助言が届いた。
ハシモトはよろめきながら、ハンドグリップを前後に動かす。
薬莢が排出され、新たな弾薬が薬室に装填される。
引金を、ひく!
「うあってぇい……ッ!」
太ももの肉をこそげとられ、ブラックジャックチンピラが真横にすっ転んだ!
あと一人だ……!
ハシモトは異様な興奮と冷静さの中で、最後のポンプアクションを終えた。
無傷のチンピラが泡を食って喚き散らしたのは、銃口がその胸に狙いを定めたのと同時だった。
「おい、マスナガ、こらァ! ボサっとしてんじゃねぇぞ、ボケが!」
その瞬間、ハシモトの指先は凍りついた。
チンピラの血走った眼に、ハシモトと背後のもう一人が映りこんだ。
「……」
背後で気配が動いた。
カツ。
次いで、足音がした。
それがゴッと冷気を放射したようだった。ハシモトは今度こそ、全身を凍りつかせた。
ふり返ることも、逃げることもできなかった。
傷付いたふたりのチンピラが、ニィと口端を吊り上げた。
耳朶に息がかかり、顔の横から腕があらわれた。
「えっ……」
ところが、それはハシモトの首を絞めあげるでもなく、まっすぐに伸び切ったまま静止した。手に握った拳銃の引き金にだけ、そっと指をかけて。
「なんだ、マスナガ、それ」
「おい、冗談は顔だけにしとけよ」
チンピラたちが呆然と呟いた。
パン! パン! パン!
次の瞬間、チンピラたちの額に風穴が穿たれた。
ひとりが白目をむいて倒れ、傷付いたふたりは痛みから解放された。
『〈エチゼンれーるうぇい〉カツヤマ行、間もなく発車します』
ホームにアナウンスが響きわたった。
そこで、ようやくハシモトは我に返った。
猫のように跳びあがり、背後を振り仰いだのだ。
「……フッ」
リクルートスーツの若者が、銃口の硝煙を吹き消した。
そして、ようやく虚ろな眼差しを寄越すのだった。
その目許を覆ったメガネフレームに、薄青い光を流動させながら。
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