鬼狩り

笹野にゃん吉

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 ナギたちにも隠していることがある。

 いや、隠しているというのは正しくない。ただそれを吐露するきっかけに恵まれなかっただけだ。

 居候が決まったばかりの頃は、とてもすべてを打ち明ける気にはなれなかった。タツゴは硬派な男で、本心を口にすればきつい叱責を受けるような気がしたし、ミヨの優しさも最初だけだと思っていた。ナギなんかは初対面の相手に白刃を見せつけてくるような相手だ。本心を吐露するどころか、まともに話しのできる相手とさえ思っていなかった。

 だが今、改めて過去を語る必要が生じたなら、あの三人になら、胸のうちをすべて語り聞かせることができるだろう。

 サノは誰かの役に立ちたいと思い続けている。それは目に見える相手への貢献でなくともかまわない。ただ自分が、世のためになっているという実感が欲しかった。

〈スミ〉にいた頃、サノは役立たずだった。なにもないところで転び、盗む物を間違え、鼠を見て腰を抜かした。

 だが、そのどうしようもない不器用さは、度々〈スミ〉の連中の張りつめた心を癒してもいたようだった。だからサノには、自分がまったくなんの役割をもったこともないのだと悲観することはなかった。ただ小さな寂寥だけがあった。

 役立つ実感を得たい理由は、過去の苦しみに、それを上塗りしたいからだ。自分が犯した過ちを払拭したいからだ。

 サノは饅頭を盗んで鬼流しの処罰を受けた。西野村は〈鬼〉の出る過酷な地だ。饅頭を盗んだにしては重い処罰だと言えるだろう。

 だが、それは表向きの罪。
 サノが悔い続けている罪科は他にある。
 
〈スミ〉を抜ける決断をすることになったあのとき。
 眼前には衣服をひん剥かれた女が倒れていた。

 女はひどく怯えた眼差しを向け、猿轡の奥から絶えず呻き声を発していた。喉の奥からヒュっと短い吐息が漏れたのと、お頭が「犯れ」と言ったのはほぼ同時だった。
 サノはお頭を一瞥し、一歩踏み出した。
 女がびくりと震えた。女の悲鳴が頭から弾けた。
 思考が明滅し、気をたしかにもった頃には、踵を返し、仲間を突き倒していた。外にまろび出ると背筋がちりちりと痛んだ。

〈スミ〉の連中の怒声が追ってきた。耳を聾するような声だった。
 けれど、サノの耳には、絶えず女の悲鳴が聞こえていた。言葉など判るはずがないのに「助けて、助けて」と訴えているのが分かった。

 仲間だった者たちを振り切って、屋敷を出たときには、もう女の声は聞こえなかった。
 逃げ切った。〈スミ〉の連中が探し回っている様子もなく、都の雑踏はゆっくりと流れていた。

 サノは〈スミ〉の悪行を誰にでも伝えることができた。サノは生き証人だった。女を助けることができたかもしれなかった。

 けれど、自分をこれまで育ててくれたお頭を想うと、たとえ彼が悪に堕したのだとしても、告げ口できなかった。

 お頭はいずれ、サノが幼かった頃の義を重んじる男に戻ってくれるのではないか。
 あり得ないと解っていても、そう信じようとした。

 サノは、屋敷へ戻ろうとはしなかった。女を見捨てたのだ。そして、これからお頭の、〈スミ〉の手にかかるであろう哀れな運命にある者たちを見捨てたのだった。

 それからずっと女のことばかり考え、後悔で胸がつまった。いつでも〈スミ〉を告発できたが、ついにしなかった。

 こんな愚かで浅ましい自分は、生きるに値しない存在だ。
 だから空腹で眩暈がしたときには、天が相応の罰を与えに来たのだと考え、一度はそれを受け入れようとした。

 ところが、身体の力が抜けてゆくにつれ、死に対する恐怖は強まり、生に対する渇望は大きくなっていった。己を責める声は闇の中に忘れ去られ、気付けばその手には饅頭が握られていた——。

 鬼流しが決まり、西野村での生活が始まってから、もう二月が経とうとしている。
 その間に〈鬼〉は何度も現れていた。最初に遭ったのは、ナギが守ってくれたあのときだ。

 自分はあのとき、守られるべきではなかったと思う。

 タツゴは生きろと言ってくれたが、自分は生き残るべき人間ではないはずだ。死にも劣らぬ、ひどい運命のもとにあった者を見捨て、それでも情けなく地面を這いながら生を求めてきた自分には、死という罰が相応しいはずだった。

 生がこんなにも大切なのなら、死がこんなにも恐ろしいのなら、恥を秘めながら生きるより、死によって裁かれるのが妥当ではないか。

 誇りを手に入れ、求められる実感を手に入れ、罪の意識が消えるだろうか。そんなことを思っている時点で、自分は償いの心をもたぬ卑しい罪人のままではないか。

 サノは自分をいたぶり続けた。自分を許すことができなかったし、許してはいけないと思っていた。まして、こんなにも優しい村の中で、真っ当に生きることを願うなど、罪人にあっていい態度ではない。

 西野村の人々は、サノをからかうことがあっても、詰ったりはしなかった。罪人だというだけで蔑んだりはしなかった。

 けれどそれは、サノが最も望んでいることだった。自分の心が襤褸のようになるまでいたぶって欲しかった。卑しい自分を糾弾して欲しかった。

 こんなことを思うからこそ、自分はここに導かれたのだろうか。
 人として真っ当に生き、責める者もなく、ただ孤独に己をいたぶることが償いに相応しい辛苦だとしたら。
 たしかにそれは辛い道だ。真っ当に生きようとすればするほど過去の自分が思い出され、自分自身がこの首を絞めあげてゆくのだから。

 それでも。
 いいのだろうか、と思う。

 この優しすぎる村の中で、自分が少しでも幸せを得ていいものかどうか。幸せが増えれば、苦痛も増すだろうが、幸福が幸福であることに変わりはない。

 あのとき、見捨ててしまった女のいる世で。苦しみを負う者たちの生きる世で。あるいは苦しみに苦しんだ挙句、生きることのできなかった者のあった世で。自分のような人間の幸福が許されるのか。

 胸を鷲掴み、浅く長く息を吐いた。胸に巣食う罪悪感は、まるで薄まることがない。苦しかったが、それでよかった。どうせ生きてゆくのなら、死が相応しい裁きでないのなら、この心を忘れてはならない、と強く思った。

 その時だ。
 しんと静まり返った夜に、空を割るような悲鳴を聞いたのは。

 間もなくして、角笛の音が朗々と響き渡った。
 隣の部屋がどたどたと騒がしくなる。

 サノは起き上がった。あの恐怖がやって来たのだと解った。
 次にこの胸に生じたのは、生きたいという思いだった。サノは唇を噛み、卑しい己を戒めた。

 引き戸がひらいた。ほとんど光源のない所為で、その顔は解らなかったが、背丈や息遣いから、相手がタツゴであると知れた。

「〈鬼〉が来た。すぐに畑へ逃げろ」

 タツゴが冷静にそう告げると、もう一度、角笛の音が轟いた。それともつれ合うように、甲高い悲鳴が夜を裂いた。次いで男たちの怒号が波のように押し寄せてきた。

 サノはミヨとともにタツゴを前にして、家を出た。
 外は篝火の明かりで満たされ、まるで村全部が燃えているようだった。篝籠の幾つかは倒れ、大地を焦がしている。方々で魂の弾丸が飛び交い、蒼い残滓が目を舐めた。

 それらとは似て非なる明かりを湛えたものが、暗闇の中に無数にあった。
 それもまた燃えているようだった。人を殺したい、という欲に。それが〈鬼〉と呼ばれる怪物であることは、ここにいる誰もが知っていた。

 一体や二体ではない。〈ほむら〉に撃たれ、刀で斬られ、数は減って行かねばならないはずなのに、狭間の背後から次々と飛び出してくる影のいきおいが衰えることはなかった。

 亡骸は増え続けてゆく。けれど、暗闇の中に灯る赤い眼差しは、それよりもなお多い。
 角笛が吹かれても、せいぜい四、五体現れるのが普通だ。それも〈鬼〉に慣れた狩人たちなら、角笛の残響が去るまでに片してしまえる。だが今は、十を超える鬼が闇の中にひしめき、次々と人々の悲鳴をしぼりだしていた。

 どうやら、この状況に動揺しているのは、サノやミヨのような守られる側の人間だけではないらしい。迅速に動きださねばならないはずのタツゴも、一瞬は呆気にとられたようだった。
 だが、すぐに気を取り直し「行ってくる。お前たちは早く畑へ!」と叫ぶと、戦場へ駆け出して行った。その剣がたちまち三体の〈鬼〉を亡骸へと変えた。

「行きましょう」
「はっ、はい!」

 サノが答えると、門の近くで悲鳴が上がった。

 思わず視線がそちらへむく。
 惨状を捉える。〈鬼狩り〉の一人が首を噛み千切られ、絶命したところだった。鈍色の牙が真紅に染まり、殺意を湛えた目が次の獲物を探す。

 間もなく、方々から男たちの悲鳴が轟き始めた。何人もの〈鬼狩り〉が犠牲となった。篝火に血がくべられ、じゅうじゅうと嫌な音をたてた。

 サノは茫然としてその様を眺めていた。逃げだせなかった。目を逸らせなかった。しきりにミヨが袖を引いていたが、その場から動けず、次々と四散する赤い軌跡を追い続けていた。

〈鬼狩り〉が、狂ったように刀を振るう。次々と〈鬼〉を断ってゆく。

 ところが、中には、低く唸り痛みに耐えながら〈鬼〉を斬り、立ち上がることもできずに地を舐める者もいた。

 その時、混沌とした戦場に、白い軌跡がひかれた。

 白い長着の女だった。
 サノはそれを驚愕の眼差しで見た。その女は、流れ者として同じ道程を歩いてきたテルに違いなかった。

 負傷した〈鬼狩り〉——ゲンジは「来るな!」と声を荒げた。しかしテルは歩みを止めず、なにやらぶつぶつ呟きながら、〈鬼狩り〉の傍らに屈みこんだ。
 そして傷口に手をかざせば、〈鬼狩り〉が魂を抜き取られたかのように眠りに落ちてしまったではないか。

 なにが起こった?

 その答えを得る間もなく、新たな悲鳴が空を割る。ごん、と音をたて篝籠が倒れる。皓々たる光を放つ炎が、その傍らに落ちた〈焔〉の黒い輪郭を色濃く描き出す。

「ダメだ……危ないぞ」

 サノはテルへ視線を戻した。村のそこここで爪と刀がかち合っている。血が飛んでいる。肉が弾けてゆく。戦場の真っ只中に屈んでいるなど、自殺行為だ。いずれ彼女も血肉の断片と化してしまう。

「逃げろ、逃げるんだ」

 サノはかすれた声で訴えた。しかしその声は、篝火の炎の爆ぜる音、刃と刃の打ち合う音、男たちの怒号や悲鳴によってかき消され、テルのもとへは届かなかった。

「サノ、サノ!」

 耳もとでミヨの声がした。けれど、振り返らなかった。

 家々の間を抜ければ畑がある。神聖なものに囲まれ、〈鬼〉を寄せ付けない、安全な場所が。

 そうと分かっていても身体が動かない。動き出してくれない。縫いとめられたように、テルから視線が離れなかった。

「おい、なにしてんだ! 早く逃げろ!」

 それが誰に向けられたものなのか、最初は分からなかった。
 テルの丸くなった背にコウタが立ち、その刃を閃かせるまでは。

「腰抜かしてたら死ぬぞ! おっさんのことはいいから、お前は早く畑へ逃げるんだ!」

 テルに向かって言っているらしかった。しかし彼女は聞く耳をもたず、屈みこんだまま身動ぎ一つしない。その目には決然とした光が宿っていた。

 コウタは舌を打ち、刀を閃かせた。〈鬼〉が両断され、べちゃ、と嫌な音をたてて倒れる。間髪入れず新たな〈鬼〉がコウタを襲う。
 普段は軽佻なことばかり口にしているコウタも、戦場にあれば立派な〈鬼狩り〉だ。次々と襲いかかる〈鬼〉を斬り倒し、テルに指一本触れさせることがなかった。

 今だ。今しかない。

 コウタが〈鬼〉を引きつけている間に、テルを救い出すのだ。それができるのは、今、自分しかいない。

 サノは一歩踏み出した。震える足で。

 袖を掴み「行ってはなりません!」と叫ぶミヨを振り切って、サノはさらにもう一歩を踏み出す。

 立ち止まっていれば、踵を返してしまえば、なにが起こるのかをサノは知っている。耳を塞いでも、頭の中で谺が続くのだ。女の悲鳴が、いつまでも。
 もう二度とあんな過ちを冒してはならない。贖罪とは、ただ罪を悔いるのでは足りない。同じ過ちを繰り返さぬように、己を叱咤し続け、行動に起こさなければならないのだ。

 コウタがまた〈鬼〉を斬った。〈鬼〉の断末魔が喉を炙られたようにゴロゴロと天に突きぬけた。

 それを聞いてサノの足の震えは大きくなる。次第に硬直してゆく。

「動け……!」

 テルの白い頬を見る。そこに点々と〈鬼〉の返り血がついている。それがいつか彼女から出た血になるかもしれない。立ち止まっていてはならない。

 サノは新たな一歩を踏み出す。走ることはできない。
 幸い襲いかかってくる〈鬼〉はいない。けれど〈鬼〉のいきおいが弱まることはなく、時折、人の悲鳴が湧き立ち、〈鬼狩り〉たちの息は荒くなってゆく。

 あと三歩。
 あと三歩でテルのもとへ辿り着く。彼女に逃げるよう訴えかけ、倒れた〈鬼狩り〉を担いで畑へ行くのだ。それが、自分がここに来た意味なのだ。

 さらに一歩を踏み出した折、コウタが短い悲鳴を上げて倒れ込んだ。
 見れば、斬り殺したと思われていた〈鬼〉が、その足にかじりついているではないか。
 コウタは痛みで刀を手離してしまっていた。
 だが、彼も〈鬼狩り〉として生きてきた戦士だ。咄嗟に担いでいた〈焔〉を構え、〈鬼〉の脳天を爆散させた。血や脳漿はたちまち蒸発し、焦げた肉片だけが辺りに散らばった。〈鬼〉は今度こそ死に絶え、黒い灰となって風に散っていった。

 しかしコウタは、痛みでもう立ち上がることもできなくなっていた。

「もう少しだ、踏ん張れぇ!」

 遠くで誰かが声を上げた。勝鬨がそれに応えた。

 こちらの状況は芳しくない。

 目敏い〈鬼〉の一体が、ついに屈みこんで動かないテルを見つけた。狂ったように両手を振り乱しながら駆けこんでくる。

 コウタは上半身を捻り、銃口をそちらへ向けた。たちまち乾いた音とともに蒼い軌跡が走ったが、〈鬼〉はそれを紙一重で躱した。

 コウタは動くことができない。刀も握られていない。テルは屈んだまま動かない。倒れた〈鬼狩り〉が目を覚ますこともない。

〈鬼〉が迫ってくる。

 サノは恐れた。
 逃げなければ、死ぬ。

 自分のものではないように、足ががくがくと震えていた。まるでそれ自体が一つの生き物のように、いくら叱りつけても震えが止まることはなかった。

 逃げろ。

 踵を返すことは簡単にできるような気がした。つんのめりながら畑へ駆けてゆく自分の姿は妙にしっくりとくる。
 テルが殺されれば、次の獲物は自分になるかもしれない。死にたくなければ逃げるしかないのだ。コウタは戦うことができず、テルもまたそうで、サノもまたそうなのだ。

 逃げればいいのだ。簡単なことだ。逃げてしまえばいいのだ。今までのように。

 その時、背後でミヨの叫ぶ声が聞こえた。

「逃げてぇっ!」

 サノはその声で許されたと思った。
 逃げていいのだ、と。

 そして身体が動いた。

 前に。

 コウタの傍らに転がった刀を引っ掴み、動けぬ三人を庇うように前に立った。

「なにしてんだ、サノ!」

〈鬼〉がやって来る。見れば見るほど恐ろしい顔だ。胸が弾け飛んでしまいそうだ。逃げ出したかった。

 けれど、逃げなかった。重い刀を遮二無二振り回し、決して〈鬼〉を近付かせないようにした。

「うわ、うわああああああっ!」

 見捨ててはならないのだ。もう二度と。
 あの哀れな声を上げる者を作ってはならないのだ。この生涯に。
 ただこの思いのためだけに、自分はこの村へと導かれたのだ。

 お頭の悪から逃れ、饅頭を盗み、〈スミ〉の一員と知られることなく鬼流しの刑を受けてやって来たのは、このときを迎えるための運命さだめだった。自分はこのときのために生まれてきたのだ。サノははっきりとそう自覚した。

 だが、これこそが運命だというのなら、運命とは、なんと残酷なものだろう。

 ようやく役に立ったと思えたのに。
 サノは粟立った首筋に死を感じていた。

〈鬼〉を断つ刀を握ったところで、サノはしょせん素人に過ぎない。小刀一つまともに扱えないのだ。〈鬼〉を斬れるはずなどなかった。

 すぐに太刀筋を読まれた。
 刀の閃く瞬間、身体を捻って躱した〈鬼〉は、一本一本が槍のように研ぎ澄まされたその爪で、サノの白い喉に狙いを定めた。

 血が飛んだ。

 喉の奥から、腹の奥から悲鳴がしぼり出された。あるいはそれは断末魔と呼ばれるのかもしれなかった。

 裁かれるときが来たのだと思った。
 どうせ裁かれるなら、後ろの三人に助かって欲しかった。
 けれど、それが叶うかどうか、たしかめることはできないだろう。
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