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伍
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驟雨はおさまり、雲はちぎれてゆく。その隙間から白刃めいた光が伸びてくる。幾重にも折りたたまれ、鍛え抜かれた業物のようなそれは目に痛いほど眩い。
畑のほうは村人たちが安否を気遣っているのか騒々しい。逃げ込んでいた女子どもや老人たちが、ぞろぞろと外へ出て行くのが見える。
〈鬼狩り〉たちは気が立っているのか、今も鯉口に指を添えたままだった。険しい相貌を崩そうとせず、粘ついた殺気を発散し続けている。
サノの前を行くナギもそうだ。刃の鎧で武装したような殺気を感じる。囲炉裏の間で白刃を覗かせた、あのときに似た緊張だ。もう少し距離を詰めれば、また刃の光を見る破目になるかもしれない。
サノはナギを恐れの眼差しで見た。
死んだ〈鬼〉に向けて執拗に刀を突き下ろすナギの形相は、〈鬼〉にも劣らぬ悍ましさを湛えていた。黒い涙を流す修羅のようだった。サノはあんな表情を、生まれてこの方初めて目にした。心変わりしたお頭でさえ、あんな狂気をのぞかせることはなかった。
それがナギの強さなのだろうか。
人として壊れたところがなければ、〈鬼〉などという異形には対抗できないのだろうか。迷いのない太刀筋と墓場でのやり取りが思い出され、サノはそんなことを思った。
と同時に、人の心までも惑わす〈鬼〉に慄然としたものを感じすにはおれなかった。なるほど鬼流しは、罪人を裁くための立派な刑罰だ。
家々が近づいてくると、ナギが振り向いた。サノは恐怖を覚えたが、それを面に出さぬよう努めた。ナギの狂気を理解することはできないが、彼が自分の命を救ってくれたことには純粋な感謝を示したかったからだ。
「ひどい雨だったから、畑が大変だと思う。ちょっと見てきてくれないか。俺はまた〈鬼〉が現れるかもしれんから、注意してなくちゃいけないんでな」
狭間の辺りで、〈鬼狩り〉たちが右往左往している。が、その多くは自分の家や持ち場へ帰ろうとしているように見えた。
おそらく〈鬼〉への警戒が薄れてきたのだろう。ナギがああ言ったのは、単に一人になりたかったからかもしれないし、恐れるサノの心を気遣ってのことかもしれなかった。
サノは深く頷き、ナギの横を通り過ぎた。
家々の、白樺の木の隙間から畑へ踏み入ってゆく。畑には女や老人の姿があった。中にミヨの姿もある。仁王立ちの姿勢で首だけを動かしているが、畑をもったことのないサノには、彼女がなにをしているのかてんで理解できない。
畝を崩さぬよう注意をはらいながら、ミヨの背中にそっと声をかけた。
「奥方、なにをされてるんで?」
振り返ったミヨは、サノを認めると目許に深いしわを作った。
「あら、サノ。雨がひどかったから畑を見てるのよ。さっき〈鬼〉が出たとき、あなたここにいなかったようだけど、大丈夫だった?」
「ええ、なんとか。ナギが助けてくれましたので」
「そう、ナギが。怪我はなさそうね?」
「ええ、オレは無事です。ナギはかすり傷を負ったようですが」
言うと、ミヨの目許に翳りが落ちた。まるで彼女の瞳の中を痩せ細り青ざめた魚が迷いこんだように。
「……そうなの。あとでみてあげないと。あの子は無茶をしなかった?」
ナギの狂気的な笑みが脳裏を過ぎった。背筋を冷たい指でなぞられたように腰が震える。
けれどサノは、それをミヨに伝えようとはしなかった。彼女に余計な心配をかけるべきではないし、あのナギを否定することは、彼の〈鬼狩り〉としての在り方を否定することだと考えたからだ。そんな権利は、罪人であり、この地でなんの貢献もできていない自分のような人間にはないものだ。
「大丈夫です。本当に浅い傷を一つこしらえただけですよ」
そう言うと、ミヨの瞳に微かな光が差した。
「そう。ならいいのよ」
ひとまず彼女は胸を撫でおろした。
しかしその目には、まだ憂いが重くのしかかっているように見えた。
サノは、ミヨの憂いを晴らすための言葉を探した。その目が捉えるのは、いっぱいに水を吸いこんだ土の波だった。
「これから土を耕すんですか?」
問うと、ミヨが瞼を大きくもち上げた。「いいえ!」と、返ってきた声が、思いの外大きく、驚きのあまり腰が抜けてしまいそうだった。
「雨の降った日に土を耕してはだめ。これだけ水を吸ったら、明日も手をつけないほうがいいでしょう。湿った土を掘り返すと、却って土が固まってしまうから」
「へぇ、そうなんですか」
無知をさらす結果にはなったが、致し方あるまい。その甲斐あって、ミヨの憂いの層を、一つばかり剥がせたような気がした。
「それより一度中へ戻りましょう。服を乾かしたほうがいいわ」
そう言ったミヨの服はほとんど濡れていなかった。手には唐傘が握られている。逃げる際に持ってきたのだろう。
濡れているのはサノのほうだ。〈鬼〉の血のほとんどは雨で流され、泥汚れのようにしか見えなかったので、ミヨを驚かせずに済んだ。だが、早々に着替えるなり、乾かすなりしたほうがいいのは明らかだった。改めて〈鬼〉の血が服についているのだと思うと、言い知れぬ不快感が全身を粟立たせた。
そそくさと歩き出したミヨに続き、サノも家へ戻る。
ミヨが「少しそこで待っててちょうだい」と言うので、土間に水溜りを作っていると、ミヨは新しい衣服を抱えて戻ってきた。
おそらくナギの古着なのだろう。全体的に黄ばみ、表面は毛羽立っている。それでも〈鬼〉の血のついた服よりはいい。そもそもサノには、生まれてこの方、真っ白い衣服に袖を通した経験などない。今更、さしたる抵抗もないのだった。
「ほら、風邪をひくわよ。さっさと着替えてしまいなさい」
ミヨはそう言って服を差し出してくるのだが、奥の部屋に引っこむことも、後ろを向くこともなかった。サノとしては、当惑してあたふたと視線を彷徨わせるしかない。
「あ、あの、奥方……奥方から見れば、まだまだ子どもに見えるかもしれませんが、オレはもう十六の男なんです。裸を見られる気恥ずかしさくらいはあるというか……」
「あらまあ!」
ミヨはようやくサノの当惑を理解したようだ。薄く笑みを浮かべて「ごめんなさいね」と言うと、奥の部屋へひっこんだ。
緊張を吐息にしてから、サノは簡単に身体を拭き着替えた。脱いだ服には、ところどころ半端に流され蛇の悪霊がとり憑いたような黒い染みが流れていた。
玄関の戸を開けると、外はすっかり明るくなっていた。洗濯日和だ。サノは、ミヨの入った部屋の戸を叩いた。
「奥方、洗濯をしようと思うんですが、桶と板はどこにありますか?」
訊ねるとすぐにミヨが出てきて首を横に振った。
「いいのよ、サノ。あなたはそんなことしなくて。洗濯なら私がやります!」
「いえ、そういうわけにはいきません!」
サノはやや語気を荒くして言った。
「タツゴの旦那は好きに生きよと言ってくださいました。しかしオレは罪人です。ちんけな泥棒だろうが盗みは盗みだ。罪は罪だ。だからオレはこの村で、ただ道楽に明け暮れてちゃいかんのです。一所懸命に生きねば、この村に来た意味がないのです」
改めて口にすると、胸がきりりと痛んだ。脳裏を過ぎったのは、饅頭を盗まれて顔を真っ赤にした男ではなく、救いの眼差しを向ける女の姿だ。
サノは首を振って、過去の幻影を振り払った。
ミヨを見ると、その顔が今にもひび割れんばかりに歪んでいた。なにか間違ったことを言ってしまったのだろうか、と不安になる。
ところがミヨは、サノの横を通り過ぎると、そそくさと桶と洗濯板を持って来てそれを寄越すのだった。
「そうよね。甘えさせてばかりじゃだめよね。私、あなたがここへ来てくれたことが嬉しくて、家族が増えたみたいとすっかり浮かれてしまっていたわ。けれど、あなたにはあなたの務めがあるのよね」
「解っていただけたようで嬉しいです」
ミヨの白く輝くような笑みを見ながら、サノはどうして彼女がこんなにも自分に優しくしてくれるのかを疑問に思っていた。タツゴにしてもナギにしてもそうだ。誰も罪人のサノを蔑んだり、貶めたりすることはない。
その思いに応えなければ、とサノは拳を握った。
胸中で脈打つ焦りを感じながら。
畑のほうは村人たちが安否を気遣っているのか騒々しい。逃げ込んでいた女子どもや老人たちが、ぞろぞろと外へ出て行くのが見える。
〈鬼狩り〉たちは気が立っているのか、今も鯉口に指を添えたままだった。険しい相貌を崩そうとせず、粘ついた殺気を発散し続けている。
サノの前を行くナギもそうだ。刃の鎧で武装したような殺気を感じる。囲炉裏の間で白刃を覗かせた、あのときに似た緊張だ。もう少し距離を詰めれば、また刃の光を見る破目になるかもしれない。
サノはナギを恐れの眼差しで見た。
死んだ〈鬼〉に向けて執拗に刀を突き下ろすナギの形相は、〈鬼〉にも劣らぬ悍ましさを湛えていた。黒い涙を流す修羅のようだった。サノはあんな表情を、生まれてこの方初めて目にした。心変わりしたお頭でさえ、あんな狂気をのぞかせることはなかった。
それがナギの強さなのだろうか。
人として壊れたところがなければ、〈鬼〉などという異形には対抗できないのだろうか。迷いのない太刀筋と墓場でのやり取りが思い出され、サノはそんなことを思った。
と同時に、人の心までも惑わす〈鬼〉に慄然としたものを感じすにはおれなかった。なるほど鬼流しは、罪人を裁くための立派な刑罰だ。
家々が近づいてくると、ナギが振り向いた。サノは恐怖を覚えたが、それを面に出さぬよう努めた。ナギの狂気を理解することはできないが、彼が自分の命を救ってくれたことには純粋な感謝を示したかったからだ。
「ひどい雨だったから、畑が大変だと思う。ちょっと見てきてくれないか。俺はまた〈鬼〉が現れるかもしれんから、注意してなくちゃいけないんでな」
狭間の辺りで、〈鬼狩り〉たちが右往左往している。が、その多くは自分の家や持ち場へ帰ろうとしているように見えた。
おそらく〈鬼〉への警戒が薄れてきたのだろう。ナギがああ言ったのは、単に一人になりたかったからかもしれないし、恐れるサノの心を気遣ってのことかもしれなかった。
サノは深く頷き、ナギの横を通り過ぎた。
家々の、白樺の木の隙間から畑へ踏み入ってゆく。畑には女や老人の姿があった。中にミヨの姿もある。仁王立ちの姿勢で首だけを動かしているが、畑をもったことのないサノには、彼女がなにをしているのかてんで理解できない。
畝を崩さぬよう注意をはらいながら、ミヨの背中にそっと声をかけた。
「奥方、なにをされてるんで?」
振り返ったミヨは、サノを認めると目許に深いしわを作った。
「あら、サノ。雨がひどかったから畑を見てるのよ。さっき〈鬼〉が出たとき、あなたここにいなかったようだけど、大丈夫だった?」
「ええ、なんとか。ナギが助けてくれましたので」
「そう、ナギが。怪我はなさそうね?」
「ええ、オレは無事です。ナギはかすり傷を負ったようですが」
言うと、ミヨの目許に翳りが落ちた。まるで彼女の瞳の中を痩せ細り青ざめた魚が迷いこんだように。
「……そうなの。あとでみてあげないと。あの子は無茶をしなかった?」
ナギの狂気的な笑みが脳裏を過ぎった。背筋を冷たい指でなぞられたように腰が震える。
けれどサノは、それをミヨに伝えようとはしなかった。彼女に余計な心配をかけるべきではないし、あのナギを否定することは、彼の〈鬼狩り〉としての在り方を否定することだと考えたからだ。そんな権利は、罪人であり、この地でなんの貢献もできていない自分のような人間にはないものだ。
「大丈夫です。本当に浅い傷を一つこしらえただけですよ」
そう言うと、ミヨの瞳に微かな光が差した。
「そう。ならいいのよ」
ひとまず彼女は胸を撫でおろした。
しかしその目には、まだ憂いが重くのしかかっているように見えた。
サノは、ミヨの憂いを晴らすための言葉を探した。その目が捉えるのは、いっぱいに水を吸いこんだ土の波だった。
「これから土を耕すんですか?」
問うと、ミヨが瞼を大きくもち上げた。「いいえ!」と、返ってきた声が、思いの外大きく、驚きのあまり腰が抜けてしまいそうだった。
「雨の降った日に土を耕してはだめ。これだけ水を吸ったら、明日も手をつけないほうがいいでしょう。湿った土を掘り返すと、却って土が固まってしまうから」
「へぇ、そうなんですか」
無知をさらす結果にはなったが、致し方あるまい。その甲斐あって、ミヨの憂いの層を、一つばかり剥がせたような気がした。
「それより一度中へ戻りましょう。服を乾かしたほうがいいわ」
そう言ったミヨの服はほとんど濡れていなかった。手には唐傘が握られている。逃げる際に持ってきたのだろう。
濡れているのはサノのほうだ。〈鬼〉の血のほとんどは雨で流され、泥汚れのようにしか見えなかったので、ミヨを驚かせずに済んだ。だが、早々に着替えるなり、乾かすなりしたほうがいいのは明らかだった。改めて〈鬼〉の血が服についているのだと思うと、言い知れぬ不快感が全身を粟立たせた。
そそくさと歩き出したミヨに続き、サノも家へ戻る。
ミヨが「少しそこで待っててちょうだい」と言うので、土間に水溜りを作っていると、ミヨは新しい衣服を抱えて戻ってきた。
おそらくナギの古着なのだろう。全体的に黄ばみ、表面は毛羽立っている。それでも〈鬼〉の血のついた服よりはいい。そもそもサノには、生まれてこの方、真っ白い衣服に袖を通した経験などない。今更、さしたる抵抗もないのだった。
「ほら、風邪をひくわよ。さっさと着替えてしまいなさい」
ミヨはそう言って服を差し出してくるのだが、奥の部屋に引っこむことも、後ろを向くこともなかった。サノとしては、当惑してあたふたと視線を彷徨わせるしかない。
「あ、あの、奥方……奥方から見れば、まだまだ子どもに見えるかもしれませんが、オレはもう十六の男なんです。裸を見られる気恥ずかしさくらいはあるというか……」
「あらまあ!」
ミヨはようやくサノの当惑を理解したようだ。薄く笑みを浮かべて「ごめんなさいね」と言うと、奥の部屋へひっこんだ。
緊張を吐息にしてから、サノは簡単に身体を拭き着替えた。脱いだ服には、ところどころ半端に流され蛇の悪霊がとり憑いたような黒い染みが流れていた。
玄関の戸を開けると、外はすっかり明るくなっていた。洗濯日和だ。サノは、ミヨの入った部屋の戸を叩いた。
「奥方、洗濯をしようと思うんですが、桶と板はどこにありますか?」
訊ねるとすぐにミヨが出てきて首を横に振った。
「いいのよ、サノ。あなたはそんなことしなくて。洗濯なら私がやります!」
「いえ、そういうわけにはいきません!」
サノはやや語気を荒くして言った。
「タツゴの旦那は好きに生きよと言ってくださいました。しかしオレは罪人です。ちんけな泥棒だろうが盗みは盗みだ。罪は罪だ。だからオレはこの村で、ただ道楽に明け暮れてちゃいかんのです。一所懸命に生きねば、この村に来た意味がないのです」
改めて口にすると、胸がきりりと痛んだ。脳裏を過ぎったのは、饅頭を盗まれて顔を真っ赤にした男ではなく、救いの眼差しを向ける女の姿だ。
サノは首を振って、過去の幻影を振り払った。
ミヨを見ると、その顔が今にもひび割れんばかりに歪んでいた。なにか間違ったことを言ってしまったのだろうか、と不安になる。
ところがミヨは、サノの横を通り過ぎると、そそくさと桶と洗濯板を持って来てそれを寄越すのだった。
「そうよね。甘えさせてばかりじゃだめよね。私、あなたがここへ来てくれたことが嬉しくて、家族が増えたみたいとすっかり浮かれてしまっていたわ。けれど、あなたにはあなたの務めがあるのよね」
「解っていただけたようで嬉しいです」
ミヨの白く輝くような笑みを見ながら、サノはどうして彼女がこんなにも自分に優しくしてくれるのかを疑問に思っていた。タツゴにしてもナギにしてもそうだ。誰も罪人のサノを蔑んだり、貶めたりすることはない。
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