鬼狩り

笹野にゃん吉

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 ナギの柔らかな頬を掻いたのは、小さな樅の木の葉だった。
 背丈は幼いナギとほとんど変わりないのに、葉先ばかり硬く痛くて意地が悪い。背の高い木々は、ちょこちょこ歩き回るナギを嘲るように風と笑う。これもまた意地の悪い連中だ。

 背丈がてんでばらばらの樅の森は、幾重にも重なり合った葉が光を妨げるせいで薄暗かった。小一時間ばかりも歩いてきたのに、ようやく前方に見えてきた明かりはちっぽけだ。それが、かろうじて森の様相を浮かび上がらせるばかりである。

 痛みと不安とでナギの歩幅は縮んでいく。懸命に踏みだす一歩一歩はあまりに重い。

 一方、先を行くナミの足取りは軽い。彼女が一歩を踏み出し、身体が右へ左へぶれる度に、正面から射す光がふっと隠れ、ぎらっと現れる。身体の軸はわずかに乱れている。にもかかわらず、その歩幅は一向に縮まらず、徐々にナギとの距離をひき離していった。

 ナミは痛くないのかな。怖くないのかな。

 ナギは何度抱いたか知れない疑問に首を傾げた。
 だが、答えなど目の前にある。さして変わりないはずの歩幅が、ほとんど大人の足と変わらず前へ進んでゆくのを見れば、その心情などすぐに知れる。

 余計なことは頭から追い出す。うずく胸や喉をいさめ歩調を速める。

 とはいえ、その威勢もいつまで続くだろうか。

 痛みと疲れで、いよいよ目が潤んできた。膝は軋んで力が入らず、肩の上下は荒々しくなるばかりで鎮まることがない。唾液を飲んで喉が潤えば、どれだけ楽だったろう。

 頬の熱が脈を打つ。かすり傷の痛みだ。
 途端に苦痛が膨れ上がる。

「ねぇ、ナミ――」

 とうとう弱音を吐きかけた、その時だった。
 ナギの目を光の槍が貫いたのは。

「あっ……」

 暗く陰鬱にかげっていた森が、ようやくにしてひらけたのだ。
 背の高い二本の樅のわきを抜けたところで、ナミが振り返った。

「どう、ナギ? すごいでしょ!」

 ナミが小さな胸を反らしてみせる。柔らかな風が吹き、鋼のように黒く長い髪と足許の青々とした草地を波打たせた。胸の中に廻るのは濃厚な草木の香りではない。澄み切った高地のほんのりと甘い匂いだ。

「……す、すごい」

 先程まで感じていた苦痛が、真正面から吹き付ける風にさらわれて後方へと消えてゆく。

 そこは小さな草原を頂いた崖だった。二つの景色を貼り合わせたように、地上の景色がナギたちの立つ草原を支えている。

 眼下に広がるのは、ナギたちの住む西野村。

 網目状に配置された畑に緑が芽吹き、それらを守るように神聖な灰色を帯びた白樺の木が周りを覆っている。家々はその白樺を背負うようにして建ち、破風が風を抱いて見事な曲線を描いていた。

 右手には、村の北面には広大な牧草地が風に波打っている。緑の海を緩やかに泳ぎ遊ぶのは艶やかな黒や茶の体毛を輝かせる馬たちだ。

 村とこちら側を隔てるのが、南北に伸びた祓川はらいがわ。ときに畑に潤いを与え、ときに村人たちの喉の渇きを癒す清冽な流れ。高所から見下ろしてみると、大地の血潮のようで逞しく面白い。

 面白いと言えば、村人たちなど米粒のようだ。普段は大人ばかりで閉塞的に思える村も、この〈秘密の丘〉から見れば、威厳などこれっぽっちも感じられない。

 なんとも開放的な気持ちにさせられる。

 危険だから云々、掟が云々と大人たちは子どもを囲う。叱る。
 気持ちはわからないでもないけれど。
 そんなのは窮屈で退屈だ。

 けれど、どうだ。
 ここには如何なる桎梏もない。自由ばかりが充ち満ちている。

 だからこそ――だろうか。

 ひらけた世界では、否応なしに深い闇もまた目についた。
 村の背後にそびえる巨大な。

「……あれってどこまで続いてるのかな」

 ナミが言った。
 ナギが今まさに恐れていたものに、どうやら彼女も目を留めたらしい。

 西野村の背後には、遥か高みから睨めつけるようにして、空をも穿たんばかりの断崖がそびえ立っている。それは南北に伸び、北は峻険な人跡未踏の岩山〈果山かさん〉の一部となり、南は果てを見ることもできなかった。岩壁を彩るのは血を塗りたくったような赤。ところどころに怪物の牙か爪と見紛うような突起が飛び出している。

 そして、その足許――西野村の真後ろには、大きな穴が深い闇を湛えていた。枯れた森の中で見る洞よりもなお虚ろで不気味な。
 じっと目を向けていると、遠く離れたこの場所からでも魂を抜き取られてしまいそうだ。大人たちは常々、あれを直視してはならないと言うけれど。

「ねぇ、ナギはどう思うの?」

 痺れを切らし、ナミが訊ねてきた。

 ナギは恐れを断ちきるべく〈黄泉の門〉から目を逸らし、真っ直ぐにナミを見つめる。

 空色の瞳と目が合った。
 途端に胸が炙られるように熱くなる。じりじりと視線が落ちていく。

 色鮮やかな唇が目に入る。遠征に出た大人たちが都から持ち帰ってくる桃のような。肌襦袢のような質素な着物から覗いた肌は、白樺の樹皮ほど神々しくはない。けれど、柔らかくやさしい桜色。

 ところどころが土に汚れて、汗の照りも眩しい。
 それでも彼女は美しい。とても可憐だと思う。

 それが何故なのかは。
 幼いナギにも解る。

 だからなのか。
 唇からこぼれたのは「そんなの知らないよ」というぶっきらぼうな一言になってしまった。

 幸い、ナミは特に気を害した様子もなく「そうだよね」と呟いた。その声が風の音にすっと小さな切れ目を入れた。それもすぐ新しい風に埋められて消えた。
 けれど、ナギの細やかな後悔の念は、爽やかな風では埋まらなかった。

「……ナギはここ好きじゃない?」

 そこに沈黙を恐れるようなナミの声。

 慌てて返した「そんなことない!」の一言が場違いに大きく響いた。風は肩をすくめるように静かに流れた。

 一瞬の静寂。
 ややあって返されたのは無垢な微笑み。
 頬が薄らと熱くなる。

 やがて冷たい風がほてる身体を冷ます頃。
 前歯の一本欠けた口で、ナミがはにかんだ。

「一緒に来てくれてありがとね、ナギ」
「べつにいいよ」

 また素っ気ない返しになってしまった。
 それを悔やむうち、ナミの視線は村へ落ちていた。

 虚しい風の音が、沈黙の深さを教える。
 ナギはその意味を量りかねたように、幼馴染の横顔を盗み見た。

「あ」

 目があった。
 耳の中で遊んでいた風の音がぴたりとやむ。目を逸らしたいのに、逸らすことができない。いいや、本当は逸らしたくなんかない。

「……私ね」

 切り出すと、ナミのほうが先に目を逸らした。胸いっぱいに空気を吸いこんで、雲を波打たせる天上の海をあおいで言った。

「ここに来たらナギに言おうと思ってたことがあったんだ!」
「……なに?」

 どぎまぎしながらしぼり出した声は、槌に打たれた鉄のように響いた。そんな情けない悲鳴じみた声を、こんな時に限って風は隠してくれない。みんな意地悪だ。

 けれど、ナミは笑わない。

「あのね――」

 決然とした声があって――尻すぼみに途切れた。

 何故なら。
 背後の森が、髪を千切るような激しい音をたてて鳴いたからだ。

 二人の相貌から、熱が抜け落ちた。それを埋めたのは、肌をはち切らんばかりの恐怖だった。

 恐るおそる振り返ると、森が震えていた。歔欷として声を殺したように。あるいは痛みにのたうつように。

 獣の狂乱の叫びが遠く風を裂いてやって来る。けたたましい獣の悲鳴が谺をなし、森の頂から無数の鳥が飛び立った。

 やがて怯懦は臨界に達する。森全体が一つの生き物のごとく不気味に蠢き始めた。

 次いで悲鳴じみた枝の破砕音。
 木々の中から影が飛び出したのは、それから間もなくのことだった。

「あっ、ああっ……!」

 を目の当たりにした瞬間、ナギはがくがくと震え、くずおれた。股の間に黒っぽい染みが拡がった。

 咄嗟に膝を叩いた。骨が軋むほど強く。自分の身体に何度も「逃げろ!」と訴えた。

 無駄だった。なにも力は湧き上がってこなかった。草地が濡れてゆくばかりだった。

 一方、ナミは茫然と立ち尽くしていた。隣で立ち尽くしていた。逃げることもなければ、倒れることもなく、失禁することもなかった。ただ同じように「逃げなければ――」と焦燥しているのだけが判った。

 草を踏む音。

 ナギは立ちはだかる影の爪先から頭の先までを見つめた。

 村の屈強な男たちと変わりない体格の怪物――。

 浅黒い肌が光を吸い、毒々しい紫の楔形の爪がぎちぎちと蠢く。
 額から伸びた角が明滅する。斑をなした血のような赤黒が、脈打つように。双眸からは赫々たる光が溢れる。まるで、見たものすべてを焼き尽くす地獄の業火のごとく。
 削ぎ落とされたように平らかな鼻がひくつく。まばらに並んだ鈍色の牙が、チッと金属質の音をたてる。

 濁った唾液が滴り落ちる。

 ナギは大人たちの言っていた、掟や危険を思い出していた。

 しかし、それを暗唱し終える間は与えられなかった。

 赤い糸が空中に飛散した。ぴんと張りつめたかと思う間にたちまち解れ、草地を汚した。そうしてナギの尿と混ざり合った。

「ナミ……?」

 意思とは関係なく、勝手に声がもれ出した。

 眼前に大きな楔形の爪があったから。幼い少女の腹を斜めに貫き、臀部から飛び出していたから。
 
 爪と肉の間から血と臓物がこぼれ、こぼれ。
 ナギの淡い恋心を刺激した彼女の、命そのものが、こぼれ、こぼれていた。

「あ、ああ、あああああぁぁぁァ!」

 絶叫した。空気がひび割れ、木々の表面を削るように響いた。

 怪物がゆっくりとナギを見た。赤い目でナギを見た。その口許が笑った。牙の間から青い舌が覗き、薄く黒い唇をなぞった。

 やがて爪は引き抜かれ、亡骸は血溜まりの中にバシャリと崩れ落ちる。それを蹂躙するように、汚らわしい唾液もまた。

 ナギは立ち上がった。できの悪い絡繰りめいた動きで、足許を震わせながら。恐れではなく、怒りでその足を震わせながら。

 噛みしめた唇から血が滲んだ。怒れる炎のごとく、日を照り返した。

「うわああああああああぁぁぁっ!」

 獣じみた咆哮とともに、小さな拳を突き出した。

 ぶち、と鈍い音。
 それは怪物ではなく、自身の拳から聞こえた。

 むなしさがこみ上げた。挑む前から敗北など知っていた。それでも怒りがすべてを塗り潰した。

 涙を流し、もう一方の拳を振り上げた。

 怪物もまた、その手を振り上げた。喉の奥からコトコトと、壊れた水車のような呟きを発しながら。

 次の瞬間、肉の弾ける音が、ナギを揺らした。
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