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第4-5話 倫理と法律
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照勇がぱらぱらとめくっていると黒炎元帥が声をかけてきた。
「倫理に興味が出たかね」
「そうですね……」
「お嬢ちゃんには少し難しすぎるかな。倫理とは人が守るべき道徳、善悪正邪を判断する筋道のことだ」
照勇ははっと顔をあげた。それこそ求めている答えではないか。
「善悪正邪……それはどうやったら見極められますか」
三娘は『世の中に正義はない』と言った。李高は詐欺師なのに詐欺師にだまされた。良かれと思ってやったことが裏目に出た経験を、照勇はすでに味わっている。
なにが正しくてなにが間違っているのか、自分はなにを基準にして判断すればいいのか。今のままでは迷って動けなくなってしまいそうだ。このかたはすべてを見透かしているのではないか。
「父母は息災かね」
「いえ……」
「では模範となる人間はいるかね。こうありたいと焦がれるような理想の姿は」
「……」
物語の中の江湖の英雄。それ以外、なにも浮かばない。それさえもいまは色あせている。
力がほしいとずっと考えていた。力はなんでもいい。腕力でも知力でも財力でも権力でもいい。悪を圧倒する力がひとつでもあれば英雄になれると信じていたからだ。
だがいまは、その考えだけでは不十分だとわかっている。
なにが『悪』なのか、どれが『正義』なのか、わからなければ意味がない。
自分には少しばかりの知識や見識はある。だから世のため人のために役立つのではないかと考えた。それが、とんだうぬぼれだったと思い知ったばかりだ。自分はからっぽだ。
うつむいた視線の先には元帥の描いた聖人の姿があった。
ああ、だから儒仏道の聖人や神を模写させるのか。ちっぽけな人間では彼らのような至高には到達できない。彼らと一体化して正邪善悪を裁くのだ。
照勇はふと疑問が浮かんだ。それは国が決めた法律となにが違うのだろうか。
「法律を守っていれば倫理の実践になりませんか」
照勇の問いに、元帥は鷹揚にうなずく。
「法律と倫理は重なる部分はある。しかし絶対的な違いがあるのだよ」
「人を殺してはならないとか、盗みを働いてはいけないといったことは法律も倫理も一緒ではありませんか。ごくあたりまえの人の道です」
我ながら白々しいことを言う。人の道から外れた人物と一緒に旅をしているのだから。冷や汗が背を伝う。
元帥は険しい顔になった。
「法律を守ることは国の掟に従うことだ。なぜ人は法律を守るのか。守らないと罰せられるからだ。だがもし法律がなくなったら、どうなる。罰を怖れずにみなが好き勝手に人殺しをするだろうか。そういうヤカラも出てくるかもしれない。倫理とは道徳心を向上させるものだ。各人が各人の心の声に従うことだ。罰が歯止めになるわけではない。それを知ることは人生においてもっとも有益だ。国ではなくおのれの心に従うのだ」
「おのれの心に従う……」
「誰もが是非の心を持っている。玉のごとくな。常に磨き続けなさい。ああ、是非の心というのは正邪善悪を見分ける目のことである。子供には少し難しかったかな」
元帥は照勇の手のひらをぽんぽんと叩く。温もりが伝わってきた。
隣ににじり寄っていた紅眼公爵がそっと耳打ちする。
「ここだけの話、元帥は実は皇帝の血筋なんだ」
「ええ!?」
思わず声をあげて元帥を見上げた。
「たいしたことではない。いくら事実だとはいえ、そのようなことをあまりふれまわってはいかん」
元帥は微笑をたたえて紅眼公爵をたしなめたが、
「説教のひとつひとつに深い教養が垣間見えるところが、さすがは元帥ですね」
紅眼公爵にとっては自慢なのだろう、興奮の面持ちで元帥をたたえた。
照勇は拱手して首を垂れた。
「礼を失した態度のかずかず、お詫び申し上げます」
「なに、昔のことだ。いまは幾人かの弟子とほそぼそと暮らす身。弟子には賤民もいるが出自など関係ないのだ。ここは学びの場。集いし者は家族と同じ。そのような尊貴への眼差しは不要である」
といいつつも、黒炎元帥はどこかうれしそうだった。
「今上帝とお会いになったことがおありなのでしょうか」
「う……いや、それがな、わけがあって名乗り出られないのだ。今上帝の父親はわたしの父でもある。つまり今上帝とは異母兄弟なのだ。しかしわたしの母は後宮の女官でな、ひそかに睦み合ったとかで正式な記録には載ることはなかったそうだ。やがて女官は後宮を辞し、嫁ぎ先で月足らずの子を産んだ。あとで知った話では、女官をしていた母というのも元はとある国の姫君だったらしい。故国を滅ぼされて女官として生かされていたのだそうだ」
愁いを帯びた溜息をつく。
照勇の心臓が高鳴った。目の前にいるのは自分と同じ血を引く人間ということになる。
「倫理に興味が出たかね」
「そうですね……」
「お嬢ちゃんには少し難しすぎるかな。倫理とは人が守るべき道徳、善悪正邪を判断する筋道のことだ」
照勇ははっと顔をあげた。それこそ求めている答えではないか。
「善悪正邪……それはどうやったら見極められますか」
三娘は『世の中に正義はない』と言った。李高は詐欺師なのに詐欺師にだまされた。良かれと思ってやったことが裏目に出た経験を、照勇はすでに味わっている。
なにが正しくてなにが間違っているのか、自分はなにを基準にして判断すればいいのか。今のままでは迷って動けなくなってしまいそうだ。このかたはすべてを見透かしているのではないか。
「父母は息災かね」
「いえ……」
「では模範となる人間はいるかね。こうありたいと焦がれるような理想の姿は」
「……」
物語の中の江湖の英雄。それ以外、なにも浮かばない。それさえもいまは色あせている。
力がほしいとずっと考えていた。力はなんでもいい。腕力でも知力でも財力でも権力でもいい。悪を圧倒する力がひとつでもあれば英雄になれると信じていたからだ。
だがいまは、その考えだけでは不十分だとわかっている。
なにが『悪』なのか、どれが『正義』なのか、わからなければ意味がない。
自分には少しばかりの知識や見識はある。だから世のため人のために役立つのではないかと考えた。それが、とんだうぬぼれだったと思い知ったばかりだ。自分はからっぽだ。
うつむいた視線の先には元帥の描いた聖人の姿があった。
ああ、だから儒仏道の聖人や神を模写させるのか。ちっぽけな人間では彼らのような至高には到達できない。彼らと一体化して正邪善悪を裁くのだ。
照勇はふと疑問が浮かんだ。それは国が決めた法律となにが違うのだろうか。
「法律を守っていれば倫理の実践になりませんか」
照勇の問いに、元帥は鷹揚にうなずく。
「法律と倫理は重なる部分はある。しかし絶対的な違いがあるのだよ」
「人を殺してはならないとか、盗みを働いてはいけないといったことは法律も倫理も一緒ではありませんか。ごくあたりまえの人の道です」
我ながら白々しいことを言う。人の道から外れた人物と一緒に旅をしているのだから。冷や汗が背を伝う。
元帥は険しい顔になった。
「法律を守ることは国の掟に従うことだ。なぜ人は法律を守るのか。守らないと罰せられるからだ。だがもし法律がなくなったら、どうなる。罰を怖れずにみなが好き勝手に人殺しをするだろうか。そういうヤカラも出てくるかもしれない。倫理とは道徳心を向上させるものだ。各人が各人の心の声に従うことだ。罰が歯止めになるわけではない。それを知ることは人生においてもっとも有益だ。国ではなくおのれの心に従うのだ」
「おのれの心に従う……」
「誰もが是非の心を持っている。玉のごとくな。常に磨き続けなさい。ああ、是非の心というのは正邪善悪を見分ける目のことである。子供には少し難しかったかな」
元帥は照勇の手のひらをぽんぽんと叩く。温もりが伝わってきた。
隣ににじり寄っていた紅眼公爵がそっと耳打ちする。
「ここだけの話、元帥は実は皇帝の血筋なんだ」
「ええ!?」
思わず声をあげて元帥を見上げた。
「たいしたことではない。いくら事実だとはいえ、そのようなことをあまりふれまわってはいかん」
元帥は微笑をたたえて紅眼公爵をたしなめたが、
「説教のひとつひとつに深い教養が垣間見えるところが、さすがは元帥ですね」
紅眼公爵にとっては自慢なのだろう、興奮の面持ちで元帥をたたえた。
照勇は拱手して首を垂れた。
「礼を失した態度のかずかず、お詫び申し上げます」
「なに、昔のことだ。いまは幾人かの弟子とほそぼそと暮らす身。弟子には賤民もいるが出自など関係ないのだ。ここは学びの場。集いし者は家族と同じ。そのような尊貴への眼差しは不要である」
といいつつも、黒炎元帥はどこかうれしそうだった。
「今上帝とお会いになったことがおありなのでしょうか」
「う……いや、それがな、わけがあって名乗り出られないのだ。今上帝の父親はわたしの父でもある。つまり今上帝とは異母兄弟なのだ。しかしわたしの母は後宮の女官でな、ひそかに睦み合ったとかで正式な記録には載ることはなかったそうだ。やがて女官は後宮を辞し、嫁ぎ先で月足らずの子を産んだ。あとで知った話では、女官をしていた母というのも元はとある国の姫君だったらしい。故国を滅ぼされて女官として生かされていたのだそうだ」
愁いを帯びた溜息をつく。
照勇の心臓が高鳴った。目の前にいるのは自分と同じ血を引く人間ということになる。
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