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第4-4話 黒炎元帥
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「占有者がいるみたいだな。泊まらせてもらえないか頼んでこよう」
三娘が講堂の戸に手をかけた。するとざわめきがぴたりとやんだ。
「おい、まさか幽霊……」
李高の怯えが伝わり、照勇はあわてて打ち消した。
「幽霊なんていないよ、いるわけないよ」
「いないと証明できるのか」
「だって見たことないもん」
照勇と李高の会話を意に介さず、三娘は豪快に戸を開けて叫んだ。
「頼もう!」
まるで道場破りだ。
「今夜一晩世話になりたいのだがっ!」
「あらまあ、お客さんとは珍しい。ともかく中にお入りな~」
ふくよかな女性が出迎えてくれた。衣服にツギがあるが髪はきちんと結い上げている。堅実な暮らしをしている慈母といった雰囲気だ。
幽霊ではない。ほっと吐息をつく。
「ちょっと狭いけど我慢してちょうだい~」
講堂の中では十人ほどがそれぞれに文机に向かって座っている。年齢も性別もバラバラだ。文机の上には書物が広げられている。
私塾なのだろうか。講師とおぼしき老年の男性は顎髭が立派で威厳があった。
「おや、きみたちも学びにきたのかね。どうぞ、奥へ。ここは来るもの拒まずだ」
「勉学はけっこう。ただ一晩泊まらせてもらえないだろうか。邪魔にならないように気をつける」
三娘は入り口に近い壁に背を預けてあぐらをかいた。
「なにを学んでいるのですか?」
一方照勇は文机に突進した。
なんの書物を読んでいるのか知りたくてたまらなかった。久しぶりに目にする書物。山の上で暮らしていたときは毎日欠かさず読んでいたのだ。物語に耽溺する快感を思い出して胸が爆ぜた。なにより書物が恋しかった。
「倫理だよ」
近くにいた真面目そうな男性が答えてくれた。
「興味があるなら本を見せてあげるよ」
「興味あります!」
李高は三娘に目配せをして肩をすくめた。
「妹さんは病気なのかな。活字中毒とかいう」
「五娘、邪魔になるなよ」
三娘は書物には無関心だ。
「はいはいはい、どうぞ~」
慈母が野菜入りの粥をみっつ持ってきてくれた。
「これくらいしかないけど、どうぞお食べなさい~」
なけなしの食糧なのではないだろうか。底が見えるような薄い粥を目にして、三娘は隠しもっていた魚と小ガニを慈母に突き出した。夕飯用に取っておいたものだった。
「お返しだ。納めてくれ」
「あらまあ、ありがとう~」
紅眼公爵が教えてくれたところによると、慈母はここではまさに母のような存在で、白雪聖母と呼ばれているそうだ。講師にあたる威厳に満ちた男性は黒炎元帥。指導者にして父親のような存在なのだろう。
紅眼公爵というのは、照勇に答えてくれた真面目そうな男性の名前である。
黒炎元帥も紅眼公爵も白雪聖母も、本名ではない。なぜかここでは自称の肩書で呼び合うのが習わしだという。黒炎元帥の弟子は聖母や公爵を含めて九人、廃寺院で共同生活をしながら、元帥に教えを乞う日々だという。
肩書こそ大仰だが、寄りそって暮らす大家族といった雰囲気を感じる。
拝借した本をわくわくしながら文机の上に広げていた照勇の耳朶に、
「うへえ」
李高の情けない声が届いた。
「また粥かよ。饅頭はないのか」
「あいにく小麦は切らしていてねえ。ああそうだ~、芋があったからふかしてあげようか」
白雪聖母は優しく微笑む。
「ありがたい」
「いえ、けっこうです」
ところが三娘はすかさず断った。
「この男は病み上がりなので粥でよい。なんなら食わずに腹を休ませてもいいくらいだ。お気遣いには感謝します」
「あらまあ、お大事に~」
「三娘、おれは粥が嫌いなんだよ。いい思い出がないんだ」
李高は唇を突き出して抗議したが、三娘は木匙で李高の額を叩いた。
「いい思い出がないだって。がっついて火傷でもしたんだろ」
「莫迦にすんなよ」
「いい思い出がないなら、上書きすればよかろう。こうやって……ふうふうと息を吹きかけてから……」
三娘は木匙にすくった粥に息を吹いて冷ましてから李高の口元に持っていった。
「え……?」
「ほら、口を開けろ」
「むぐ」
李高は顔を真っ赤にして、喉を鳴らして飲み込んだ。
「どうだ。美味いか」
「……正直、よくわかんねえよっ……!」
李高はうろたえたつつも三娘をにらんだ。
いっぽう照勇は粥を味わう心の余裕がなかった。
「これ、画……だけなんですか」
ページを繰っても繰っても、どこかで見たような人物の立ち絵姿ばかりだ。
「これは元始天尊。それは釈迦牟尼。となりは聖人の孔夫子だよ。儒仏道の聖人や神々を黒炎元帥がみずから描かれたものなんだ。ぼくらは模写をしながら元帥のお話を聞き、倫理とはなにかを考えるんだよ」
そう説明してくれた公爵の文机にはできあがった模写がある。公爵の模写のほうが元帥の画より巧く見えるのは気のせいだろうか。
「それで、倫理はつかめましたか」
「うーん、それはね、難しい」
三娘が講堂の戸に手をかけた。するとざわめきがぴたりとやんだ。
「おい、まさか幽霊……」
李高の怯えが伝わり、照勇はあわてて打ち消した。
「幽霊なんていないよ、いるわけないよ」
「いないと証明できるのか」
「だって見たことないもん」
照勇と李高の会話を意に介さず、三娘は豪快に戸を開けて叫んだ。
「頼もう!」
まるで道場破りだ。
「今夜一晩世話になりたいのだがっ!」
「あらまあ、お客さんとは珍しい。ともかく中にお入りな~」
ふくよかな女性が出迎えてくれた。衣服にツギがあるが髪はきちんと結い上げている。堅実な暮らしをしている慈母といった雰囲気だ。
幽霊ではない。ほっと吐息をつく。
「ちょっと狭いけど我慢してちょうだい~」
講堂の中では十人ほどがそれぞれに文机に向かって座っている。年齢も性別もバラバラだ。文机の上には書物が広げられている。
私塾なのだろうか。講師とおぼしき老年の男性は顎髭が立派で威厳があった。
「おや、きみたちも学びにきたのかね。どうぞ、奥へ。ここは来るもの拒まずだ」
「勉学はけっこう。ただ一晩泊まらせてもらえないだろうか。邪魔にならないように気をつける」
三娘は入り口に近い壁に背を預けてあぐらをかいた。
「なにを学んでいるのですか?」
一方照勇は文机に突進した。
なんの書物を読んでいるのか知りたくてたまらなかった。久しぶりに目にする書物。山の上で暮らしていたときは毎日欠かさず読んでいたのだ。物語に耽溺する快感を思い出して胸が爆ぜた。なにより書物が恋しかった。
「倫理だよ」
近くにいた真面目そうな男性が答えてくれた。
「興味があるなら本を見せてあげるよ」
「興味あります!」
李高は三娘に目配せをして肩をすくめた。
「妹さんは病気なのかな。活字中毒とかいう」
「五娘、邪魔になるなよ」
三娘は書物には無関心だ。
「はいはいはい、どうぞ~」
慈母が野菜入りの粥をみっつ持ってきてくれた。
「これくらいしかないけど、どうぞお食べなさい~」
なけなしの食糧なのではないだろうか。底が見えるような薄い粥を目にして、三娘は隠しもっていた魚と小ガニを慈母に突き出した。夕飯用に取っておいたものだった。
「お返しだ。納めてくれ」
「あらまあ、ありがとう~」
紅眼公爵が教えてくれたところによると、慈母はここではまさに母のような存在で、白雪聖母と呼ばれているそうだ。講師にあたる威厳に満ちた男性は黒炎元帥。指導者にして父親のような存在なのだろう。
紅眼公爵というのは、照勇に答えてくれた真面目そうな男性の名前である。
黒炎元帥も紅眼公爵も白雪聖母も、本名ではない。なぜかここでは自称の肩書で呼び合うのが習わしだという。黒炎元帥の弟子は聖母や公爵を含めて九人、廃寺院で共同生活をしながら、元帥に教えを乞う日々だという。
肩書こそ大仰だが、寄りそって暮らす大家族といった雰囲気を感じる。
拝借した本をわくわくしながら文机の上に広げていた照勇の耳朶に、
「うへえ」
李高の情けない声が届いた。
「また粥かよ。饅頭はないのか」
「あいにく小麦は切らしていてねえ。ああそうだ~、芋があったからふかしてあげようか」
白雪聖母は優しく微笑む。
「ありがたい」
「いえ、けっこうです」
ところが三娘はすかさず断った。
「この男は病み上がりなので粥でよい。なんなら食わずに腹を休ませてもいいくらいだ。お気遣いには感謝します」
「あらまあ、お大事に~」
「三娘、おれは粥が嫌いなんだよ。いい思い出がないんだ」
李高は唇を突き出して抗議したが、三娘は木匙で李高の額を叩いた。
「いい思い出がないだって。がっついて火傷でもしたんだろ」
「莫迦にすんなよ」
「いい思い出がないなら、上書きすればよかろう。こうやって……ふうふうと息を吹きかけてから……」
三娘は木匙にすくった粥に息を吹いて冷ましてから李高の口元に持っていった。
「え……?」
「ほら、口を開けろ」
「むぐ」
李高は顔を真っ赤にして、喉を鳴らして飲み込んだ。
「どうだ。美味いか」
「……正直、よくわかんねえよっ……!」
李高はうろたえたつつも三娘をにらんだ。
いっぽう照勇は粥を味わう心の余裕がなかった。
「これ、画……だけなんですか」
ページを繰っても繰っても、どこかで見たような人物の立ち絵姿ばかりだ。
「これは元始天尊。それは釈迦牟尼。となりは聖人の孔夫子だよ。儒仏道の聖人や神々を黒炎元帥がみずから描かれたものなんだ。ぼくらは模写をしながら元帥のお話を聞き、倫理とはなにかを考えるんだよ」
そう説明してくれた公爵の文机にはできあがった模写がある。公爵の模写のほうが元帥の画より巧く見えるのは気のせいだろうか。
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