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第2-25話 解放と別れ

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 「なくなったと。本当か!?」

 丁禹が大きな声をあげた。
 照勇は三娘を振り返った。三娘は怪訝そうな顔で首を振る。
 それもそうだ。三娘はずっとそばにいたのだから彼女が工作できたはずがない。

「では五娘を縛るものはなくなったのだな」

「え、いえ、それは」朱老太婆は慌てた。「もう一度契約すればいいだけです!」

 照勇はあきれた。もう二度とするものか。

「借金の証拠がなくなったのですね。短いあいだでしたがお世話になりました」

 照勇は朱老太婆に頭をさげた。
 
「五娘。一度官衙に戻ろうか」

「はい、そうします。丁知事。……さようなら、弓月」

「さようなら、そしてありがとう、五娘」

 弓月は不思議そうに、だが愉快そうに、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。
 これから弓月と崔丹がうまくいくかどうかまで気にする必要はない。それは二人の特権だ。希望の一端をくわえて口は閉じる。

「丁知事さま、無体でございます。五娘は妓楼うちの見習いです」

 知事に手を伸ばそうとする朱老太婆を、胥吏がさえぎった。

「文句があるならば訴状と契約証文を持ってくるがよい」

 丁禹は照勇をつれて妓楼をあとにした。




「遠回りをしよう」

 丁禹は三娘と五娘を連れて飯屋に入った。胥吏を含めた七人が入ると満席になるような小さな店だ。注文を取ることもなく、すぐにあつあつの麺が運ばれてくる。

「知事どの、われわれは食べたら出発する予定だが、よいな」

 三娘は店内の可動空間と七人の配置と距離をさりげなく目で測っている。

「兄を探す旅の途中だと言ったな。長剣を背負っているが、それは護身用か。姉妹の旅となると用心しないといかんな」

 剣に言及された三娘の頬に緊張が走る。丁禹の返答次第では無心になるのもやぶさかではない、という空気が照勇にも伝わってくる。
 しかし丁禹はそんな空気に頓着せず、一口で麺の半分を豪快に啜り込んだ。

「では、食べたらお別れだな。縁があればまたふたたびまみえることもあるだろう」

 三娘と照勇はほっとして熱々の麺をほおばった。

「どうやったのですか、丁知事」

 身請けしてやろうなどと恩着せがましいことを言っていたくせに、一銭も払わずに照勇を籠から解き放った。契約証文はどこに消えたのか。

「なんのことだ」

「丁知事がやったとしか考えられません」

「これのことか」

 丁禹は懐からさきほどの反故紙の半分を出して、油に汚れた卓子に置いた。
 裏返してみると、見覚えのある署名と指印があった。

「契約証文……ぼくの……?」

 半分に破かれて無効になっている。残りの半分は崔丹に渡した地図だ。

「どうやったんですか、これ」

「おまえならわかるだろう」

 丁禹が盗めた好機は一度しかない。

「庭で全員分を検めたときにり取ったのですね」

「検めていたときに、するりと袖の中に入ったのだ。よくあることだろう」

 袖の下の穴から証文を摘み取ったのだ。それも照勇のものだけを。
『するりと袖の中に入った』
 小刀を盗んだ照勇の言い訳と同じだ。照勇は「そんな莫迦な」と否定できない。

「ふん」

 三娘は食べ終えた碗を卓子に叩きつけるように置くと、乱暴に証文をつかんで口元をぬぐい、まるめて卓子の横の炭桶に投げ込んだ。ぼっと燃えあがる。

「窃盗の証拠を消してやった」

「あきれました。県知事ともあろうものが窃盗をするなんて。……といっても、証拠はもう燃えてしまいましたが」

 照勇は碗の汁を全部飲み干すと、ぷはあと息を吐いた。あたたかい食事は気力を充実させてくれる効果がある。腹が満ちると気も大きくなる。

「ここを去ることになるが、未練はないな、五娘」

 三娘は丁禹に聞かせるように念を押した。
 照勇はうなずく。
 丁禹だけはつまらなそうに口をすぼめる。

「わたしに対しても、弓月や崔丹にたいしても、未練を感じないとは」

「考えてもしかたのないことなので」

「弓月と崔丹がどうなるか心配はないのか。わたしはうれうぞ。廃道観に辿りついた崔丹が科挙をあきらめて蔵書を金にかえるかもしれない。弓月は待ちきれずに茶商の息子を選ぶかもしれない」

「二人の行く末は二人のものです。ぼくが勝手に期待するものじゃありません」

 もし崔丹が順調に科挙に及第したら、きっとたくさんの縁談が舞い込むだろう。いまもこれからも、二人の歩みには困難が待ち受けているだろう。だが悩むのは彼らの特権だ。

「では最後に、わたしに聞いておきたいことはあるか」
 
 と言って、丁禹はひどくまじめな顔になった。
 三娘と照勇は顔を見合わせて、三娘がさきに口を開いた。

「ここの支払いはあんたの奢りでいいんだよな」

 答えるまえに、胥吏たちから「ごちそうさまです」と唱和されて、丁禹は胸を叩いた。
 照勇も尋ねた。

「皇帝陛下はどんな方ですか」

 意外だったのだろう、丁禹は両眉をつりあげて答えた。

「数年前初めて謁見を賜った。といっても殿試だったが。陛下は当時すでに六十を越えておられ、頭に銀を戴いていたが矍鑠かくしゃくとしておられた。明晰な頭脳と深い見識、感情に左右されない冷静さと厳格さ、他者を圧倒する威厳をもちあわせておられる。この評価はわたしだけではない。同輩はみな口をそろえるだろう。まことにこの国の統治者にふさわしいかただ」

「お仕えすることに疑念を抱いたことはないのですか」

「あるわけがない」

「どうやったら会えるのかな」

「科挙に及第したらどうだ」

「そう言うと思った」

 笑みがあふれて止まらず、照勇はごまかすように拱手して、別れの言葉を告げた。


 (二章 了)
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