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第2-19話 法律と倫理
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「ううん、そんなんじゃない、よ……」
三娘が静かに空気を吸い込んだ。
照勇は息を止めて、待った。
「この恩知らずめ! わたしが石栄に会うまではおまえの命は守ってやると約束しただろうが!! いや、言い方を間違えた。石英に会うまでは手放してやらないからな!!」
三娘が怒るのはもっともだ。なぜかはわからないが、三娘は殺し屋のあとを追うよりも先に照勇を助けに来てくれたのだ。本当になぜだかはわからないが。
あのとき、三娘を恐れて逃げ出したのは、今振り返ると浅はかだったかもしれない。
「三娘、あのね、実は……」
誠実に話すべきだ。照勇はそう思い直して背筋を伸ばそうとしたときに、入り口の戸が開いた。
「待たせたな」
丁禹だ。その後ろには胥吏が二人付き従い、知事の左右に佇立した。
思わず辞儀をした照勇の足元で硬い音がする。全員の視線が集まった。床には白い塊が落ちていた。
「っ……!」
照勇が胸に入れていた饅頭だ。乾いてかちかちになっている。
「こ、これは、ただの非常食です!」
問われる前にすばやく拾い上げて懐にしまった。そっと伺いみると胥吏は憐れむような顔をしているが丁禹は無表情で話し始めた。
「別室で人さらいを尋問したところ五娘の話と一致した。五娘をさらったのはほんの出来心で、今は深く反省しているとウソ泣きを見せられた」
丁禹はにやりと笑んだ。やはり癖がある。
「蘭音はどうなるんですか」
「杖刑、そして追放だな」
どうせ、ほかの土地でも同じことを繰り返すだろうが。
そう言って、読み飽きた書物を放りだすように顔をあげる。
「というわけで五娘が妓楼に売られた経緯に瑕疵があることはわかった。だからといって契約証文をただちに反故にするのは、のちのちの影響まで考慮しなければならん。庶民の円滑な経済活動に支障が出てはいかないからな」
ちょっとの瑕疵があるだけで無効にしていたら経済が回らない。
知事の言はもっともだと思うが、この人の性格を考えたら意地悪で言っている可能性がある。
つまり、照勇をただもてあそんでいる可能性だ。
「人身売買は合法ですか?」
「もちろん違法だ」
丁禹は執務机の左側に積まれた書類に手を伸ばした。さっと文面に目を通すやなにかを書き込んで印を押し、右に置いた。左から右に書類を積みかえる類の書類仕事が溜まっているようだ。子供の話を聞いているだけでは暇だと言いたげだった。
「かまわず続けたまえ。今日中に書類を片付けたくてね」
「今回は人さらいが第三者に売り渡した事案です。立派な人身売買です。ですから……」
頭の中で頁を繰る。道観の書庫には普丹国の法律書『普丹律』があった。ひまに飽かせてつまむように読んだものだから、体系はあやふやだ。
法律書に記されていたのは、罪をおかせば罰がともなうということ。権利には責任がともなうということ。損害は償わねばならないということ。
「違法行為による取引は無効ではないでしょうか。本来は親が子を売ることだって法律では禁じておりますのに」
「え、そうなのか!?」
三娘が驚愕する。子を売る親は珍しくないからだろう。
「ふむ。ではなぜ我々が取り締まらないか、わかるか」
丁禹の視線は書類から剥がれない。
おもわず、賄賂、と言いかけて口をつぐむ。官にたいする侮辱と受け取られかねない。それに丁禹は賄賂を受け取らない。丁禹側の問題ではないということだ。
「あえて告訴するものが居ない、ということでしょうか」
考えたすえに照勇が答えると、卓が割れるのではないかと心配するほど大きな音を立てて、丁禹は印を押した。両隣の胥吏がびくんと反応する。
「そうだ。子が親を訴えることは不孝になる。不孝者の汚名は一生付きまとう。人殺しより重い罪だと考えるものもいる。倫理よりも法を優先するのは、賢い生き方とは言えぬ。だから誰も官に訴えない!」
賢くはなくても正しさは枉げられてしまうのではないか。結局はどこかが、誰かが、割を食うことになるのだ。それも例外なく力を持たぬものが背負わされる。
「五娘、おまえの幼さではまだ許容はできまい。批難しているのではない。心根がまっすぐでたわむことを知らない年頃なのだ。わたしにだってそんな頃はあったのだぞ」
筆を置いた丁禹は、従者が運んできた茶をゆっくりと服んだ。何かを懐かしむように、目をつむっている。
「丁知事どの、妹は幼くて、飢饉や戦火の苦しみを知りません。いまはわたしとともに、行方不明の兄を探す旅の途上にあります。見聞を広めている最中なのです」
三娘は照勇をかばうような言い方をした。さらに拱手して問う。
「妹をこのまま妓楼に預けておくつもりはない。教えていただきたい。五娘を妓楼に縛りつけているのは契約証文という紙切れ一枚なのですよね。それさえなくなれば妹は自由の身になる」
「うむ」
三娘はにやりと笑った。
「五娘、安心しろ。わたしが『交渉』してやるからな」
三娘が静かに空気を吸い込んだ。
照勇は息を止めて、待った。
「この恩知らずめ! わたしが石栄に会うまではおまえの命は守ってやると約束しただろうが!! いや、言い方を間違えた。石英に会うまでは手放してやらないからな!!」
三娘が怒るのはもっともだ。なぜかはわからないが、三娘は殺し屋のあとを追うよりも先に照勇を助けに来てくれたのだ。本当になぜだかはわからないが。
あのとき、三娘を恐れて逃げ出したのは、今振り返ると浅はかだったかもしれない。
「三娘、あのね、実は……」
誠実に話すべきだ。照勇はそう思い直して背筋を伸ばそうとしたときに、入り口の戸が開いた。
「待たせたな」
丁禹だ。その後ろには胥吏が二人付き従い、知事の左右に佇立した。
思わず辞儀をした照勇の足元で硬い音がする。全員の視線が集まった。床には白い塊が落ちていた。
「っ……!」
照勇が胸に入れていた饅頭だ。乾いてかちかちになっている。
「こ、これは、ただの非常食です!」
問われる前にすばやく拾い上げて懐にしまった。そっと伺いみると胥吏は憐れむような顔をしているが丁禹は無表情で話し始めた。
「別室で人さらいを尋問したところ五娘の話と一致した。五娘をさらったのはほんの出来心で、今は深く反省しているとウソ泣きを見せられた」
丁禹はにやりと笑んだ。やはり癖がある。
「蘭音はどうなるんですか」
「杖刑、そして追放だな」
どうせ、ほかの土地でも同じことを繰り返すだろうが。
そう言って、読み飽きた書物を放りだすように顔をあげる。
「というわけで五娘が妓楼に売られた経緯に瑕疵があることはわかった。だからといって契約証文をただちに反故にするのは、のちのちの影響まで考慮しなければならん。庶民の円滑な経済活動に支障が出てはいかないからな」
ちょっとの瑕疵があるだけで無効にしていたら経済が回らない。
知事の言はもっともだと思うが、この人の性格を考えたら意地悪で言っている可能性がある。
つまり、照勇をただもてあそんでいる可能性だ。
「人身売買は合法ですか?」
「もちろん違法だ」
丁禹は執務机の左側に積まれた書類に手を伸ばした。さっと文面に目を通すやなにかを書き込んで印を押し、右に置いた。左から右に書類を積みかえる類の書類仕事が溜まっているようだ。子供の話を聞いているだけでは暇だと言いたげだった。
「かまわず続けたまえ。今日中に書類を片付けたくてね」
「今回は人さらいが第三者に売り渡した事案です。立派な人身売買です。ですから……」
頭の中で頁を繰る。道観の書庫には普丹国の法律書『普丹律』があった。ひまに飽かせてつまむように読んだものだから、体系はあやふやだ。
法律書に記されていたのは、罪をおかせば罰がともなうということ。権利には責任がともなうということ。損害は償わねばならないということ。
「違法行為による取引は無効ではないでしょうか。本来は親が子を売ることだって法律では禁じておりますのに」
「え、そうなのか!?」
三娘が驚愕する。子を売る親は珍しくないからだろう。
「ふむ。ではなぜ我々が取り締まらないか、わかるか」
丁禹の視線は書類から剥がれない。
おもわず、賄賂、と言いかけて口をつぐむ。官にたいする侮辱と受け取られかねない。それに丁禹は賄賂を受け取らない。丁禹側の問題ではないということだ。
「あえて告訴するものが居ない、ということでしょうか」
考えたすえに照勇が答えると、卓が割れるのではないかと心配するほど大きな音を立てて、丁禹は印を押した。両隣の胥吏がびくんと反応する。
「そうだ。子が親を訴えることは不孝になる。不孝者の汚名は一生付きまとう。人殺しより重い罪だと考えるものもいる。倫理よりも法を優先するのは、賢い生き方とは言えぬ。だから誰も官に訴えない!」
賢くはなくても正しさは枉げられてしまうのではないか。結局はどこかが、誰かが、割を食うことになるのだ。それも例外なく力を持たぬものが背負わされる。
「五娘、おまえの幼さではまだ許容はできまい。批難しているのではない。心根がまっすぐでたわむことを知らない年頃なのだ。わたしにだってそんな頃はあったのだぞ」
筆を置いた丁禹は、従者が運んできた茶をゆっくりと服んだ。何かを懐かしむように、目をつむっている。
「丁知事どの、妹は幼くて、飢饉や戦火の苦しみを知りません。いまはわたしとともに、行方不明の兄を探す旅の途上にあります。見聞を広めている最中なのです」
三娘は照勇をかばうような言い方をした。さらに拱手して問う。
「妹をこのまま妓楼に預けておくつもりはない。教えていただきたい。五娘を妓楼に縛りつけているのは契約証文という紙切れ一枚なのですよね。それさえなくなれば妹は自由の身になる」
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