上 下
33 / 74

第2-19話 法律と倫理

しおりを挟む
「ううん、そんなんじゃない、よ……」

 三娘が静かに空気を吸い込んだ。
 照勇は息を止めて、待った。

「この恩知らずめ! わたしが石栄に会うまではおまえの命は守ってやると約束しただろうが!! いや、言い方を間違えた。石英に会うまでは手放してやらないからな!!」

 三娘が怒るのはもっともだ。なぜかはわからないが、三娘は殺し屋のあとを追うよりも先に照勇を助けに来てくれたのだ。本当になぜだかはわからないが。
 あのとき、三娘を恐れて逃げ出したのは、今振り返ると浅はかだったかもしれない。

「三娘、あのね、実は……」

 誠実に話すべきだ。照勇はそう思い直して背筋を伸ばそうとしたときに、入り口の戸が開いた。

「待たせたな」

 丁禹だ。その後ろには胥吏しょりが二人付き従い、知事の左右に佇立ちょりつした。
 思わず辞儀じぎをした照勇の足元で硬い音がする。全員の視線が集まった。床には白い塊が落ちていた。

「っ……!」

 照勇が胸に入れていた饅頭だ。乾いてかちかちになっている。

「こ、これは、ただの非常食です!」

 問われる前にすばやく拾い上げて懐にしまった。そっと伺いみると胥吏は憐れむような顔をしているが丁禹は無表情で話し始めた。

「別室で人さらいを尋問したところ五娘の話と一致した。五娘をさらったのはほんの出来心で、今は深く反省しているとウソ泣きを見せられた」

 丁禹はにやりと笑んだ。やはり癖がある。

「蘭音はどうなるんですか」

「杖刑、そして追放だな」

 どうせ、ほかの土地でも同じことを繰り返すだろうが。
 そう言って、読み飽きた書物を放りだすように顔をあげる。

「というわけで五娘が妓楼に売られた経緯に瑕疵かしがあることはわかった。だからといって契約証文をただちに反故にするのは、のちのちの影響まで考慮しなければならん。庶民の円滑な経済活動に支障が出てはいかないからな」

 ちょっとの瑕疵があるだけで無効にしていたら経済が回らない。
 知事の言はもっともだと思うが、この人の性格を考えたら意地悪で言っている可能性がある。
 つまり、照勇をただもてあそんでいる可能性だ。

「人身売買は合法ですか?」

「もちろん違法だ」

 丁禹は執務机の左側に積まれた書類に手を伸ばした。さっと文面に目を通すやなにかを書き込んで印を押し、右に置いた。左から右に書類を積みかえる類の書類仕事が溜まっているようだ。子供の話を聞いているだけでは暇だと言いたげだった。

「かまわず続けたまえ。今日中に書類を片付けたくてね」

「今回は人さらいが第三者に売り渡した事案です。立派な人身売買です。ですから……」

 頭の中で頁を繰る。道観の書庫には普丹国の法律書『普丹律』があった。ひまに飽かせてつまむように読んだものだから、体系はあやふやだ。
 法律書に記されていたのは、罪をおかせば罰がともなうということ。権利には責任がともなうということ。損害は償わねばならないということ。

「違法行為による取引は無効ではないでしょうか。本来は親が子を売ることだって法律では禁じておりますのに」

「え、そうなのか!?」

 三娘が驚愕する。子を売る親は珍しくないからだろう。

「ふむ。ではなぜ我々が取り締まらないか、わかるか」

 丁禹の視線は書類から剥がれない。
 おもわず、賄賂、と言いかけて口をつぐむ。官にたいする侮辱と受け取られかねない。それに丁禹は賄賂を受け取らない。丁禹側の問題ではないということだ。

「あえて告訴するものが居ない、ということでしょうか」

 考えたすえに照勇が答えると、卓が割れるのではないかと心配するほど大きな音を立てて、丁禹は印を押した。両隣の胥吏がびくんと反応する。

「そうだ。子が親を訴えることは不孝になる。不孝者の汚名は一生付きまとう。人殺しより重い罪だと考えるものもいる。倫理よりも法を優先するのは、賢い生き方とは言えぬ。だから誰も官に訴えない!」

 賢くはなくても正しさはげられてしまうのではないか。結局はどこかが、誰かが、割を食うことになるのだ。それも例外なく力を持たぬものが背負わされる。

「五娘、おまえの幼さではまだ許容はできまい。批難しているのではない。心根がまっすぐでたわむことを知らない年頃なのだ。わたしにだってそんな頃はあったのだぞ」

 筆を置いた丁禹は、従者が運んできた茶をゆっくりとんだ。何かを懐かしむように、目をつむっている。

「丁知事どの、妹は幼くて、飢饉ききんや戦火の苦しみを知りません。いまはわたしとともに、行方不明の兄を探す旅の途上にあります。見聞を広めている最中なのです」

 三娘は照勇をかばうような言い方をした。さらに拱手きょうしゅして問う。

「妹をこのまま妓楼に預けておくつもりはない。教えていただきたい。五娘を妓楼に縛りつけているのは契約証文という紙切れ一枚なのですよね。それさえなくなれば妹は自由の身になる」

「うむ」

 三娘はにやりと笑った。

「五娘、安心しろ。わたしが『交渉』してやるからな」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

お兄ちゃんは今日からいもうと!

沼米 さくら
ライト文芸
 大倉京介、十八歳、高卒。女子小学生始めました。  親の再婚で新しくできた妹。けれど、彼女のせいで僕は、体はそのまま、他者から「女子小学生」と認識されるようになってしまった。  トイレに行けないからおもらししちゃったり、おむつをさせられたり、友達を作ったり。  身の回りで少しずつ不可思議な出来事が巻き起こっていくなか、僕は少女に染まっていく。  果たして男に戻る日はやってくるのだろうか。  強制女児女装万歳。  毎週木曜と日曜更新です。

☆男女逆転パラレルワールド

みさお
恋愛
この世界は、ちょっとおかしい。いつのまにか、僕は男女が逆転した世界に来てしまったのだ。 でも今では、だいぶ慣れてきた。スカートだってスースーするのが、気になって仕方なかったのに、今ではズボンより落ち着く。服や下着も、カワイイものに目がいくようになった。 今では、女子の学ランや男子のセーラー服がむしろ自然に感じるようになった。 女子が学ランを着ているとカッコイイし、男子のセーラー服もカワイイ。 可愛いミニスカの男子なんか、同性でも見取れてしまう。 タイトスカートにハイヒール。 この世界での社会人男性の一般的な姿だが、これも最近では違和感を感じなくなってきた。 ミニスカや、ワンピース水着の男性アイドルも、カワイイ。 ドラマ やCM も、カッコイイ女子とカワイイ男子の組み合わせがほとんどだ。 僕は身も心も、この逆転世界になじんでいく・・・

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

AIアイドル活動日誌

ジャン・幸田
キャラ文芸
 AIアイドル「めかぎゃるず」はレトロフューチャーなデザインの女の子型ロボットで構成されたアイドルグループである。だからメンバーは全てカスタマーされた機械人形である!  そういう設定であったが、実際は「中の人」が存在した。その「中の人」にされたある少女の体験談である。

処理中です...