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第2-16話 契約無効
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「なぜか」
「人間ではありません!」
「人間に限るとは書かれていない。わたしはこの松の木が気に入ったのだ。身請けしたいと願っても、やはり無効なのかな。妓女の身代と同額を支払おう」
丁禹が身請けを切り出すと、朱老太婆は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべて両手を揉んだ。
「そういうことでしたら、その契約証文は有効でございます!」
知事が随員に合図をすると、すぐさま紙が用意された。どうやら手形のようだ。金額が書きこまれた手形を手にした朱老太婆は愛想をふりまく。
「はい。たしかに。いまからこの松は知事さまの所有物となりました」
知事は松の枝先をまるで女性の手を取るように恭しく握った。
「では、参ろう。おや、なぜそばに来ないのだ。女将、松の木によく言い聞かせなさい」
「あ、あの、庭師を呼びますのでしばしお待ちを……」
「庭師を呼ぶには及ばない。妓女に言い含めるのは女将の仕事であろう」
「ま、松の木に言葉は通じません」
朱老太婆はあきらかに狼狽していた。
「はて、言うことを聞かない妓女はどうなるのだ」
「朱老太婆に杖で打たれます!」
照勇は声を張り上げると、丁禹はにやと意地の悪い笑みを浮かべた。
共犯になったような居心地の悪さと奇妙な心地よさが混ざりあう。
「ふむ、では杖で打つなりして松に言い聞かせてくれ。誰か女将に杖を貸してやれ」
捕吏が棍を手渡した。朱老太婆はよろよろと松の木に近づくと、「えい、えい」と幹を打った。
なんとも滑稽な図である。周囲からくすくすと笑声が漏れる。笑い声は段々と大きくなり、渦のように朱老太婆を包み込んだ。
「知事さま、おゆるしくださいませ……!」
朱老太婆は棍を手放し、その場に身を伏せた。顔は朱に染まっている。
「手形はお返しいたします。この身請け話はなかったことに!」
「それは残念だ」
丁禹はこれみよがしに大きな溜息をついた。
「この契約はやはり無効か」
手形を破るとき、丁禹は照勇に目線を送った。
知事の意図を照勇は汲み取った。
あまり気は進まないが、その詭弁に乗っかるしかないだろう。
「ご賢察です。松や奇岩は文字が読めません。契約証文になにが書いてあるか理解できないので契約は一方的な押しつけとなり、無効になるのですね。おや、では妓女たちはどうでしょう。文字の読み書きができない者は松や奇岩と変わらないのではありませんか」
周囲を見回した。朱老太婆は顔を伏せているが、投げ出した手は震えていた。
妓女や見習いの童女、用心棒たちはそれぞれ顔を見合わせている。自分たちを松の木や岩と比べられたらいい気分はしないだろう。
だがいまは契約の不備を突く唯一の機会だ。
丁知事が始めた三文芝居に参加しない手はない。
知事はにやけ顔で歓迎してくれている。
思っていたよりも丁禹は悪い人ではないのかもしれない、と考え直した。
照勇は朱老太婆に向き直る。
「契約証文に名を書かせるとき、内容を読み上げればよかったのに、なぜしなかったのですか。存在しない借金が書かれていたからですか。契約証文があるから政庁にすがっても無駄だと言ってましたよね」
「あたしは良かれと思って」
「弱い者は虐げてもいいと──」
「まあ、待て」
丁禹が照勇をとめた。
これから問い詰めるつもりだったのに。気勢を削がれて思わず照勇は口を尖らせた。
「おまえのこじつけはなかなかよかったぞ、くく」
丁禹は袖で顔の下半分を隠している。どうやら笑ってるようだ。
「契約時に同意はなかったのだな。では、さきほど手をあげた、文字の読み書きのできない者は、紙の端に悪戯書きをしただけであろう。契約証文は無効。これはわたしの決定である」
丁禹がきっぱりと言い切った。
どよめきがおこる。
照勇にとっても、雷が落ちたような衝撃だった。
とうとつに身体が熱くなった。武侠小説を読んだときと同じだ。悪漢をこらしめる江湖の英雄に胸躍らせたときと同じだ。
俗世にも正義はある。そう知らしめた丁知事は英雄だ。ぐっと拳を握る。気が緩んだら飛び上がって快哉を上げ、知事に抱きついていたかもしれない。
松は歳寒の操。厳寒の冬でも緑を絶やさない。困難があれど節操を変えずに信念を貫くさまに擬される。松を利用して朱老太婆を糾弾した丁知事は、きっとこう言いたかったのだろう。
おのれの胸の内に正義は生きているのだと。
「そ……んな……!?」
朱老太婆は口をぱくぱくとさせて、あえぐ。
「理不尽な条件で働かされていた者はこれで自由だ」
周囲のざわつきは大きくなっていく。
照勇は弓月を見る。弓月は照勇の手を握りしめた。
「すごいね、五娘。知事が味方してくれたね」
己が信じる正義が知事に認められたのだ。機知により、みなを救うことができたのだ。
照勇は誇らしい気持ちになった。
死んだ石栄に言いたい。裏切った沢蓮至に言いたい。世の中には正しいことがまかり通ってよいのだと。
丁禹が片手をあげて、場をしずめた。
「契約から自由になりたいと思う者は一歩前に出なさい」
照勇は興奮を抑えられず、伸び上がって周囲を見回した。だが応じた者はわずかに三人。用心棒が一人と妓女が二人だった。見習いの少女は誰一人動かなかった。
「え……?」
「人間ではありません!」
「人間に限るとは書かれていない。わたしはこの松の木が気に入ったのだ。身請けしたいと願っても、やはり無効なのかな。妓女の身代と同額を支払おう」
丁禹が身請けを切り出すと、朱老太婆は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべて両手を揉んだ。
「そういうことでしたら、その契約証文は有効でございます!」
知事が随員に合図をすると、すぐさま紙が用意された。どうやら手形のようだ。金額が書きこまれた手形を手にした朱老太婆は愛想をふりまく。
「はい。たしかに。いまからこの松は知事さまの所有物となりました」
知事は松の枝先をまるで女性の手を取るように恭しく握った。
「では、参ろう。おや、なぜそばに来ないのだ。女将、松の木によく言い聞かせなさい」
「あ、あの、庭師を呼びますのでしばしお待ちを……」
「庭師を呼ぶには及ばない。妓女に言い含めるのは女将の仕事であろう」
「ま、松の木に言葉は通じません」
朱老太婆はあきらかに狼狽していた。
「はて、言うことを聞かない妓女はどうなるのだ」
「朱老太婆に杖で打たれます!」
照勇は声を張り上げると、丁禹はにやと意地の悪い笑みを浮かべた。
共犯になったような居心地の悪さと奇妙な心地よさが混ざりあう。
「ふむ、では杖で打つなりして松に言い聞かせてくれ。誰か女将に杖を貸してやれ」
捕吏が棍を手渡した。朱老太婆はよろよろと松の木に近づくと、「えい、えい」と幹を打った。
なんとも滑稽な図である。周囲からくすくすと笑声が漏れる。笑い声は段々と大きくなり、渦のように朱老太婆を包み込んだ。
「知事さま、おゆるしくださいませ……!」
朱老太婆は棍を手放し、その場に身を伏せた。顔は朱に染まっている。
「手形はお返しいたします。この身請け話はなかったことに!」
「それは残念だ」
丁禹はこれみよがしに大きな溜息をついた。
「この契約はやはり無効か」
手形を破るとき、丁禹は照勇に目線を送った。
知事の意図を照勇は汲み取った。
あまり気は進まないが、その詭弁に乗っかるしかないだろう。
「ご賢察です。松や奇岩は文字が読めません。契約証文になにが書いてあるか理解できないので契約は一方的な押しつけとなり、無効になるのですね。おや、では妓女たちはどうでしょう。文字の読み書きができない者は松や奇岩と変わらないのではありませんか」
周囲を見回した。朱老太婆は顔を伏せているが、投げ出した手は震えていた。
妓女や見習いの童女、用心棒たちはそれぞれ顔を見合わせている。自分たちを松の木や岩と比べられたらいい気分はしないだろう。
だがいまは契約の不備を突く唯一の機会だ。
丁知事が始めた三文芝居に参加しない手はない。
知事はにやけ顔で歓迎してくれている。
思っていたよりも丁禹は悪い人ではないのかもしれない、と考え直した。
照勇は朱老太婆に向き直る。
「契約証文に名を書かせるとき、内容を読み上げればよかったのに、なぜしなかったのですか。存在しない借金が書かれていたからですか。契約証文があるから政庁にすがっても無駄だと言ってましたよね」
「あたしは良かれと思って」
「弱い者は虐げてもいいと──」
「まあ、待て」
丁禹が照勇をとめた。
これから問い詰めるつもりだったのに。気勢を削がれて思わず照勇は口を尖らせた。
「おまえのこじつけはなかなかよかったぞ、くく」
丁禹は袖で顔の下半分を隠している。どうやら笑ってるようだ。
「契約時に同意はなかったのだな。では、さきほど手をあげた、文字の読み書きのできない者は、紙の端に悪戯書きをしただけであろう。契約証文は無効。これはわたしの決定である」
丁禹がきっぱりと言い切った。
どよめきがおこる。
照勇にとっても、雷が落ちたような衝撃だった。
とうとつに身体が熱くなった。武侠小説を読んだときと同じだ。悪漢をこらしめる江湖の英雄に胸躍らせたときと同じだ。
俗世にも正義はある。そう知らしめた丁知事は英雄だ。ぐっと拳を握る。気が緩んだら飛び上がって快哉を上げ、知事に抱きついていたかもしれない。
松は歳寒の操。厳寒の冬でも緑を絶やさない。困難があれど節操を変えずに信念を貫くさまに擬される。松を利用して朱老太婆を糾弾した丁知事は、きっとこう言いたかったのだろう。
おのれの胸の内に正義は生きているのだと。
「そ……んな……!?」
朱老太婆は口をぱくぱくとさせて、あえぐ。
「理不尽な条件で働かされていた者はこれで自由だ」
周囲のざわつきは大きくなっていく。
照勇は弓月を見る。弓月は照勇の手を握りしめた。
「すごいね、五娘。知事が味方してくれたね」
己が信じる正義が知事に認められたのだ。機知により、みなを救うことができたのだ。
照勇は誇らしい気持ちになった。
死んだ石栄に言いたい。裏切った沢蓮至に言いたい。世の中には正しいことがまかり通ってよいのだと。
丁禹が片手をあげて、場をしずめた。
「契約から自由になりたいと思う者は一歩前に出なさい」
照勇は興奮を抑えられず、伸び上がって周囲を見回した。だが応じた者はわずかに三人。用心棒が一人と妓女が二人だった。見習いの少女は誰一人動かなかった。
「え……?」
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