上 下
30 / 74

第2-16話 契約無効

しおりを挟む
「なぜか」

「人間ではありません!」

「人間に限るとは書かれていない。わたしはこの松の木が気に入ったのだ。身請けしたいと願っても、やはり無効なのかな。妓女の身代と同額を支払おう」

 丁禹が身請けを切り出すと、朱老太婆は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべて両手を揉んだ。

「そういうことでしたら、その契約証文は有効でございます!」

 知事が随員に合図をすると、すぐさま紙が用意された。どうやら手形のようだ。金額が書きこまれた手形を手にした朱老太婆は愛想をふりまく。

「はい。たしかに。いまからこの松は知事さまの所有物となりました」

 知事は松の枝先をまるで女性の手を取るように恭しく握った。

「では、参ろう。おや、なぜそばに来ないのだ。女将、松の木によく言い聞かせなさい」

「あ、あの、庭師を呼びますのでしばしお待ちを……」

「庭師を呼ぶには及ばない。妓女に言い含めるのは女将の仕事であろう」

「ま、松の木に言葉は通じません」

 朱老太婆はあきらかに狼狽していた。

「はて、言うことを聞かない妓女はどうなるのだ」

「朱老太婆に杖で打たれます!」

 照勇は声を張り上げると、丁禹はにやと意地の悪い笑みを浮かべた。
 共犯になったような居心地の悪さと奇妙な心地よさが混ざりあう。

「ふむ、では杖で打つなりして松に言い聞かせてくれ。誰か女将に杖を貸してやれ」

 捕吏がこんを手渡した。朱老太婆はよろよろと松の木に近づくと、「えい、えい」と幹を打った。
 なんとも滑稽な図である。周囲からくすくすと笑声が漏れる。笑い声は段々と大きくなり、渦のように朱老太婆を包み込んだ。

「知事さま、おゆるしくださいませ……!」

 朱老太婆は棍を手放し、その場に身を伏せた。顔は朱に染まっている。

「手形はお返しいたします。この身請け話はなかったことに!」

「それは残念だ」

 丁禹はこれみよがしに大きな溜息をついた。

「この契約はやはり無効か」

 手形を破るとき、丁禹は照勇に目線を送った。
 知事の意図を照勇は汲み取った。
 あまり気は進まないが、その詭弁きべんに乗っかるしかないだろう。

「ご賢察です。松や奇岩は文字が読めません。契約証文になにが書いてあるか理解できないので契約は一方的な押しつけとなり、無効になるのですね。おや、では妓女たちはどうでしょう。文字の読み書きができない者は松や奇岩と変わらないのではありませんか」

 周囲を見回した。朱老太婆は顔を伏せているが、投げ出した手は震えていた。
 妓女や見習いの童女、用心棒たちはそれぞれ顔を見合わせている。自分たちを松の木や岩と比べられたらいい気分はしないだろう。
 だがいまは契約の不備を突く唯一の機会だ。
 丁知事が始めた三文芝居に参加しない手はない。
 知事はにやけ顔で歓迎してくれている。
 思っていたよりも丁禹は悪い人ではないのかもしれない、と考え直した。
 照勇は朱老太婆に向き直る。

「契約証文に名を書かせるとき、内容を読み上げればよかったのに、なぜしなかったのですか。存在しない借金が書かれていたからですか。契約証文があるから政庁にすがっても無駄だと言ってましたよね」

「あたしは良かれと思って」

「弱い者は虐げてもいいと──」

「まあ、待て」

 丁禹が照勇をとめた。
 これから問い詰めるつもりだったのに。気勢を削がれて思わず照勇は口を尖らせた。

「おまえのこじつけはなかなかよかったぞ、くく」

 丁禹は袖で顔の下半分を隠している。どうやら笑ってるようだ。

「契約時に同意はなかったのだな。では、さきほど手をあげた、文字の読み書きのできない者は、紙の端に悪戯書きをしただけであろう。契約証文は無効。これはわたしの決定である」

 丁禹がきっぱりと言い切った。

 どよめきがおこる。
 照勇にとっても、雷が落ちたような衝撃だった。
 とうとつに身体が熱くなった。武侠小説を読んだときと同じだ。悪漢をこらしめる江湖の英雄に胸躍らせたときと同じだ。

 俗世にも正義はある。そう知らしめた丁知事は英雄だ。ぐっと拳を握る。気が緩んだら飛び上がって快哉を上げ、知事に抱きついていたかもしれない。

 松は歳寒さいかんみさお。厳寒の冬でも緑を絶やさない。困難があれど節操を変えずに信念を貫くさまに擬される。松を利用して朱老太婆を糾弾した丁知事は、きっとこう言いたかったのだろう。
 おのれの胸の内に正義は生きているのだと。

「そ……んな……!?」

 朱老太婆は口をぱくぱくとさせて、あえぐ。

「理不尽な条件で働かされていた者はこれで自由だ」

 周囲のざわつきは大きくなっていく。
 照勇は弓月を見る。弓月は照勇の手を握りしめた。

「すごいね、五娘。知事が味方してくれたね」

 己が信じる正義が知事に認められたのだ。機知により、みなを救うことができたのだ。
 照勇は誇らしい気持ちになった。
 死んだ石栄に言いたい。裏切った沢蓮至に言いたい。世の中には正しいことがまかり通ってよいのだと。
 丁禹が片手をあげて、場をしずめた。

「契約から自由になりたいと思う者は一歩前に出なさい」

 照勇は興奮を抑えられず、伸び上がって周囲を見回した。だが応じた者はわずかに三人。用心棒が一人と妓女が二人だった。見習いの少女は誰一人動かなかった。

「え……?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

お兄ちゃんは今日からいもうと!

沼米 さくら
ライト文芸
 大倉京介、十八歳、高卒。女子小学生始めました。  親の再婚で新しくできた妹。けれど、彼女のせいで僕は、体はそのまま、他者から「女子小学生」と認識されるようになってしまった。  トイレに行けないからおもらししちゃったり、おむつをさせられたり、友達を作ったり。  身の回りで少しずつ不可思議な出来事が巻き起こっていくなか、僕は少女に染まっていく。  果たして男に戻る日はやってくるのだろうか。  強制女児女装万歳。  毎週木曜と日曜更新です。

☆男女逆転パラレルワールド

みさお
恋愛
この世界は、ちょっとおかしい。いつのまにか、僕は男女が逆転した世界に来てしまったのだ。 でも今では、だいぶ慣れてきた。スカートだってスースーするのが、気になって仕方なかったのに、今ではズボンより落ち着く。服や下着も、カワイイものに目がいくようになった。 今では、女子の学ランや男子のセーラー服がむしろ自然に感じるようになった。 女子が学ランを着ているとカッコイイし、男子のセーラー服もカワイイ。 可愛いミニスカの男子なんか、同性でも見取れてしまう。 タイトスカートにハイヒール。 この世界での社会人男性の一般的な姿だが、これも最近では違和感を感じなくなってきた。 ミニスカや、ワンピース水着の男性アイドルも、カワイイ。 ドラマ やCM も、カッコイイ女子とカワイイ男子の組み合わせがほとんどだ。 僕は身も心も、この逆転世界になじんでいく・・・

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

AIアイドル活動日誌

ジャン・幸田
キャラ文芸
 AIアイドル「めかぎゃるず」はレトロフューチャーなデザインの女の子型ロボットで構成されたアイドルグループである。だからメンバーは全てカスタマーされた機械人形である!  そういう設定であったが、実際は「中の人」が存在した。その「中の人」にされたある少女の体験談である。

処理中です...