29 / 74
第2-15話 県知事の奇行
しおりを挟む
「名は?」
「与五娘と申します。わたしは人買いにかどわかされて妓楼に売られました。契約証文にあるような身代金は一文たりとも受け取っておりません。借金は捏造です。このような非道が政庁の目と鼻の先でまかり通ってよいのでしょうか」
朱老太婆が「莫迦なことを言うんじゃない」と叫んでいるが、知事は手で制する。
「証明することはできるか」
「証明……」
「口ではいくらでも言えるだろう。人買いをここへ連れてこれるか。あるいは対価を受け取っていないことを立証できるか」
「それは……できません」
蘭音は去ってしまった。金銭の授受がなかったという証明はどうやったらいいかわからない。やりとりを見ていた弓月という証人はいるが、利益を得る者が口裏を合わせているのだと反論されるだろう。
「となると、難しいな」
「五娘の言うことはウソでございます!」
朱老太婆が膝行して知事ににじり寄った。
「契約証文こそが領収証に代わるもの。妓楼で働く者は全員契約を交わしております。騙されたなど偽りです。みな本人の意志でございます。その証拠の証文をいま持って参ります」
這いつくばったまま部屋を辞そうとした朱老太婆だったが、房室の入口は聴衆で鈴なりだ。掻き分けて進むのも困難なありさまである。
「ここは狭い。裏に園庭があったな。そちらで見るとしよう。どうやらみんな興味津々のようだからな」
丁知事の提案により、妓楼に雇われている全員が庭に集められた。
快晴の冬の朝である。人影に喜んだ鯉が餌をねだって飛び跳ねる。松の枝先は露をきらめかせる。亭は凜として寒さに耐えている。庭の中央には丁禹が、まるで世界の中心に立つかのように堂々と胸をはり、紙片に目をこらしている。足下には朱老太婆が携えた木箱が開いた状態になっている。中には証文がみっしりだ。
昨夜見つけられなかった証文は、照勇が足をひっかけた木箱の中に入っていたようだ。あのときに気づいていれば、と悔しさがわく。
丁禹を守護するように捕吏が丸く囲み、最前列には朱老太婆と弓月、そして照勇が控える。
「ふむ、全員分あるのか。では問題はないな。金額の多寡は双方了解済みであろう。よもや……」
証文は有効な形式であると丁禹は満足げにうなづいた。
「よもや、字の読み書きが出来ぬ者がおるのか。何が書いてあるか知らずに契約した者がおるなら手をあげよ」
遠巻きに成りゆきを見守っていた妓女と見習いのほぼ全員が手をあげた。なかには用心棒も混じっている。厨師の阿辺も手をあげていた。
朱老太婆はあわてて声をあげた。
「署名指印をご覧ください。納得して契約した証拠でございます」
「契約の内容については署名指印があれば同意があったとみなされる。文句を言う筋合いではない。とはいえ自身の名前さえまともに書けない者には酷な契約となっているようだ」
署名指印のない、未使用の証文を一枚取りあげて、丁禹は首を左右にふった。その口端には笑みが浮かんでいる。
嫌な予感がする。丁禹と視線があった。
「おまえは手を上げなかったな。正直でよろしい。なにか言いたいことはあるか」
「はい。契約のさい、読み上げも説明もありませんでした。いやなら金を支払えと言われて。でもそんなことは不可能です。選択肢がないのですから契約は強制と言えます」
隣で弓月がこくこくとうなづく。
「そんなことはございません。たとえ読み書きできなくても契約は契約ですから。どんな契約内容かは理解できずとも、こちらを信頼してまかせるという意思表示だったと信じております。もし疑問があったならば弓月は署名指印する前にあたしに尋ねるべきでした」
朱老太婆の鼻息が荒い。勝ちを確信して興奮しているのだ。
「ほう、あれは枝振りがよい」
ふいに、丁禹は松の木を指さした。
みながつられて振り返る。真冬の寒さをはねのけて青々と茂る松の木が聴衆のちょうど背後に立っていた。丁禹が歩き出すと、捕吏がつられて動き、聴衆は左右に分かれて道を作り、しかたなく照勇たちも従った。気まぐれな丁禹の言動は周囲を戸惑わせた。
「ふむ、すばらしい。墨と筆を持ってこい」
唐突に詩を詠みたくなる病気にでもかかったのかと思いきや、丁禹は樹皮に墨を塗りこめた。そして契約証文を樹皮に押し当てる。
「朱肉を持ってこい」
松葉の先に朱肉をつけて、やはり証文に押し当てた。
「……なにをなさっておられるんです……?」
怯えながらも朱老太婆が問うと、丁禹は証文をかざして真顔で答えた。
「松の木が妓女になりたそうにしていたから証文を書かせたのだ。ほら、舞妓のように枝を広げているだろう。おや、奇岩も望んでいるようだ。こちらも麗しいではないか」
「松や岩は妓女にはなれません……!」
さすがに莫迦にされていると思ったのだろう、朱老太婆は顔を真っ赤にした。
「与五娘と申します。わたしは人買いにかどわかされて妓楼に売られました。契約証文にあるような身代金は一文たりとも受け取っておりません。借金は捏造です。このような非道が政庁の目と鼻の先でまかり通ってよいのでしょうか」
朱老太婆が「莫迦なことを言うんじゃない」と叫んでいるが、知事は手で制する。
「証明することはできるか」
「証明……」
「口ではいくらでも言えるだろう。人買いをここへ連れてこれるか。あるいは対価を受け取っていないことを立証できるか」
「それは……できません」
蘭音は去ってしまった。金銭の授受がなかったという証明はどうやったらいいかわからない。やりとりを見ていた弓月という証人はいるが、利益を得る者が口裏を合わせているのだと反論されるだろう。
「となると、難しいな」
「五娘の言うことはウソでございます!」
朱老太婆が膝行して知事ににじり寄った。
「契約証文こそが領収証に代わるもの。妓楼で働く者は全員契約を交わしております。騙されたなど偽りです。みな本人の意志でございます。その証拠の証文をいま持って参ります」
這いつくばったまま部屋を辞そうとした朱老太婆だったが、房室の入口は聴衆で鈴なりだ。掻き分けて進むのも困難なありさまである。
「ここは狭い。裏に園庭があったな。そちらで見るとしよう。どうやらみんな興味津々のようだからな」
丁知事の提案により、妓楼に雇われている全員が庭に集められた。
快晴の冬の朝である。人影に喜んだ鯉が餌をねだって飛び跳ねる。松の枝先は露をきらめかせる。亭は凜として寒さに耐えている。庭の中央には丁禹が、まるで世界の中心に立つかのように堂々と胸をはり、紙片に目をこらしている。足下には朱老太婆が携えた木箱が開いた状態になっている。中には証文がみっしりだ。
昨夜見つけられなかった証文は、照勇が足をひっかけた木箱の中に入っていたようだ。あのときに気づいていれば、と悔しさがわく。
丁禹を守護するように捕吏が丸く囲み、最前列には朱老太婆と弓月、そして照勇が控える。
「ふむ、全員分あるのか。では問題はないな。金額の多寡は双方了解済みであろう。よもや……」
証文は有効な形式であると丁禹は満足げにうなづいた。
「よもや、字の読み書きが出来ぬ者がおるのか。何が書いてあるか知らずに契約した者がおるなら手をあげよ」
遠巻きに成りゆきを見守っていた妓女と見習いのほぼ全員が手をあげた。なかには用心棒も混じっている。厨師の阿辺も手をあげていた。
朱老太婆はあわてて声をあげた。
「署名指印をご覧ください。納得して契約した証拠でございます」
「契約の内容については署名指印があれば同意があったとみなされる。文句を言う筋合いではない。とはいえ自身の名前さえまともに書けない者には酷な契約となっているようだ」
署名指印のない、未使用の証文を一枚取りあげて、丁禹は首を左右にふった。その口端には笑みが浮かんでいる。
嫌な予感がする。丁禹と視線があった。
「おまえは手を上げなかったな。正直でよろしい。なにか言いたいことはあるか」
「はい。契約のさい、読み上げも説明もありませんでした。いやなら金を支払えと言われて。でもそんなことは不可能です。選択肢がないのですから契約は強制と言えます」
隣で弓月がこくこくとうなづく。
「そんなことはございません。たとえ読み書きできなくても契約は契約ですから。どんな契約内容かは理解できずとも、こちらを信頼してまかせるという意思表示だったと信じております。もし疑問があったならば弓月は署名指印する前にあたしに尋ねるべきでした」
朱老太婆の鼻息が荒い。勝ちを確信して興奮しているのだ。
「ほう、あれは枝振りがよい」
ふいに、丁禹は松の木を指さした。
みながつられて振り返る。真冬の寒さをはねのけて青々と茂る松の木が聴衆のちょうど背後に立っていた。丁禹が歩き出すと、捕吏がつられて動き、聴衆は左右に分かれて道を作り、しかたなく照勇たちも従った。気まぐれな丁禹の言動は周囲を戸惑わせた。
「ふむ、すばらしい。墨と筆を持ってこい」
唐突に詩を詠みたくなる病気にでもかかったのかと思いきや、丁禹は樹皮に墨を塗りこめた。そして契約証文を樹皮に押し当てる。
「朱肉を持ってこい」
松葉の先に朱肉をつけて、やはり証文に押し当てた。
「……なにをなさっておられるんです……?」
怯えながらも朱老太婆が問うと、丁禹は証文をかざして真顔で答えた。
「松の木が妓女になりたそうにしていたから証文を書かせたのだ。ほら、舞妓のように枝を広げているだろう。おや、奇岩も望んでいるようだ。こちらも麗しいではないか」
「松や岩は妓女にはなれません……!」
さすがに莫迦にされていると思ったのだろう、朱老太婆は顔を真っ赤にした。
11
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
お兄ちゃんは今日からいもうと!
沼米 さくら
ライト文芸
大倉京介、十八歳、高卒。女子小学生始めました。
親の再婚で新しくできた妹。けれど、彼女のせいで僕は、体はそのまま、他者から「女子小学生」と認識されるようになってしまった。
トイレに行けないからおもらししちゃったり、おむつをさせられたり、友達を作ったり。
身の回りで少しずつ不可思議な出来事が巻き起こっていくなか、僕は少女に染まっていく。
果たして男に戻る日はやってくるのだろうか。
強制女児女装万歳。
毎週木曜と日曜更新です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
歩みだした男の娘
かきこき太郎
ライト文芸
男子大学生の君島海人は日々悩んでいた。変わりたい一心で上京してきたにもかかわらず、変わらない生活を送り続けていた。そんなある日、とある動画サイトで見た動画で彼の心に触れるものが生まれる。
それは、女装だった。男である自分が女性のふりをすることに変化ができるとかすかに希望を感じていた。
女装を続けある日、外出女装に出てみた深夜、一人の女子高生と出会う。彼女との出会いは運命なのか、まだわからないが彼女は女装をする人が大好物なのであった。
二十歳の同人女子と十七歳の女装男子
クナリ
恋愛
同人誌でマンガを描いている三織は、二十歳の大学生。
ある日、一人の男子高校生と出会い、危ないところを助けられる。
後日、友人と一緒にある女装コンカフェに行ってみると、そこにはあの男子高校生、壮弥が女装して働いていた。
しかも彼は、三織のマンガのファンだという。
思わぬ出会いをした同人作家と読者だったが、三織を大切にしながら世話を焼いてくれる壮弥に、「女装していても男は男。安全のため、警戒を緩めてはいけません」と忠告されつつも、だんだんと三織は心を惹かれていく。
自己評価の低い三織は、壮弥の迷惑になるからと具体的な行動まではなかなか起こせずにいたが、やがて二人の関係はただの作家と読者のものとは変わっていった。
放課後の秘密~放課後変身部の活動記録~
八星 こはく
児童書・童話
中学二年生の望結は、真面目な委員長。でも、『真面目な委員長キャラ』な自分に少しもやもやしてしまっている。
ある日望結は、放課後に中庭で王子様みたいな男子生徒と遭遇する。しかし実は、王子様の正体は保健室登校のクラスメート・姫乃(女子)で……!?
姫乃は放課後にだけ変身する、『放課後変身部』の部員だったのだ!
変わりたい。いつもと違う自分になりたい。……だけど、急には変われない。
でも、放課後だけなら?
これは、「違う自分になってみたい」という気持ちを持った少年少女たちの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる