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第2-15話 県知事の奇行

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「名は?」

「与五娘と申します。わたしは人買いにかどわかされて妓楼に売られました。契約証文にあるような身代金は一文たりとも受け取っておりません。借金は捏造ねつぞうです。このような非道が政庁の目と鼻の先でまかり通ってよいのでしょうか」

 朱老太婆が「莫迦なことを言うんじゃない」と叫んでいるが、知事は手で制する。

「証明することはできるか」

「証明……」

「口ではいくらでも言えるだろう。人買いをここへ連れてこれるか。あるいは対価を受け取っていないことを立証できるか」

「それは……できません」

 蘭音は去ってしまった。金銭の授受がなかったという証明はどうやったらいいかわからない。やりとりを見ていた弓月という証人はいるが、利益を得る者が口裏を合わせているのだと反論されるだろう。

「となると、難しいな」

「五娘の言うことはウソでございます!」

 朱老太婆が膝行して知事ににじり寄った。

「契約証文こそが領収証に代わるもの。妓楼で働く者は全員契約を交わしております。騙されたなど偽りです。みな本人の意志でございます。その証拠の証文をいま持って参ります」

 這いつくばったまま部屋を辞そうとした朱老太婆だったが、房室の入口は聴衆で鈴なりだ。掻き分けて進むのも困難なありさまである。

「ここは狭い。裏に園庭があったな。そちらで見るとしよう。どうやらみんな興味津々のようだからな」

 丁知事の提案により、妓楼に雇われている全員が庭に集められた。


 快晴の冬の朝である。人影に喜んだ鯉が餌をねだって飛び跳ねる。松の枝先は露をきらめかせる。あずまやは凜として寒さに耐えている。庭の中央には丁禹が、まるで世界の中心に立つかのように堂々と胸をはり、紙片に目をこらしている。足下には朱老太婆が携えた木箱が開いた状態になっている。中には証文がみっしりだ。
 昨夜見つけられなかった証文は、照勇が足をひっかけた木箱の中に入っていたようだ。あのときに気づいていれば、と悔しさがわく。
 丁禹を守護するように捕吏が丸く囲み、最前列には朱老太婆と弓月、そして照勇が控える。

「ふむ、全員分あるのか。では問題はないな。金額の多寡は双方了解済みであろう。よもや……」

 証文は有効な形式であると丁禹は満足げにうなづいた。

「よもや、字の読み書きが出来ぬ者がおるのか。何が書いてあるか知らずに契約した者がおるなら手をあげよ」

 遠巻きに成りゆきを見守っていた妓女と見習いのほぼ全員が手をあげた。なかには用心棒も混じっている。厨師の阿辺も手をあげていた。
 朱老太婆はあわてて声をあげた。

「署名指印をご覧ください。納得して契約した証拠でございます」

「契約の内容については署名指印があれば同意があったとみなされる。文句を言う筋合いではない。とはいえ自身の名前さえまともに書けない者には酷な契約となっているようだ」

 署名指印のない、未使用の証文を一枚取りあげて、丁禹は首を左右にふった。その口端には笑みが浮かんでいる。
 嫌な予感がする。丁禹と視線があった。

「おまえは手を上げなかったな。正直でよろしい。なにか言いたいことはあるか」

「はい。契約のさい、読み上げも説明もありませんでした。いやなら金を支払えと言われて。でもそんなことは不可能です。選択肢がないのですから契約は強制と言えます」

 隣で弓月がこくこくとうなづく。

「そんなことはございません。たとえ読み書きできなくても契約は契約ですから。どんな契約内容かは理解できずとも、こちらを信頼してまかせるという意思表示だったと信じております。もし疑問があったならば弓月は署名指印する前にあたしに尋ねるべきでした」

 朱老太婆の鼻息が荒い。勝ちを確信して興奮しているのだ。

「ほう、あれは枝振りがよい」

 ふいに、丁禹は松の木を指さした。
 みながつられて振り返る。真冬の寒さをはねのけて青々と茂る松の木が聴衆のちょうど背後に立っていた。丁禹が歩き出すと、捕吏がつられて動き、聴衆は左右に分かれて道を作り、しかたなく照勇たちも従った。気まぐれな丁禹の言動は周囲を戸惑わせた。

「ふむ、すばらしい。墨と筆を持ってこい」

 唐突に詩を詠みたくなる病気にでもかかったのかと思いきや、丁禹は樹皮に墨を塗りこめた。そして契約証文を樹皮に押し当てる。

「朱肉を持ってこい」

 松葉の先に朱肉をつけて、やはり証文に押し当てた。

「……なにをなさっておられるんです……?」

 怯えながらも朱老太婆が問うと、丁禹は証文をかざして真顔で答えた。

「松の木が妓女になりたそうにしていたから証文を書かせたのだ。ほら、舞妓ぶぎのように枝を広げているだろう。おや、奇岩も望んでいるようだ。こちらも麗しいではないか」

「松や岩は妓女にはなれません……!」

 さすがに莫迦にされていると思ったのだろう、朱老太婆は顔を真っ赤にした。
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