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第1-2話 敵か味方か
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「子猫みたいな怯えようだな。お前を殺すだって? お前なんかどうでもいい。わたしが探しているのは石栄という宦官だ」
白仮面の声は妙に明るかった。
「石栄は……」
死んだ、という言葉は寸前で飲みこんだ。うかつなことは言わないほうがいい。ぼくを殺すのが目的ではないなら、石栄を殺した賊と白仮面は無関係なのだろうか。
大堂のほうから大きな音が聞こえてきた。戸棚を倒したのだろう、陶器が割れる音が続く。
「あっちで暴れているのは石栄か?」
白仮面は扉の向こうを顎でさす。
「ち、違うよ。ぼくを殺しにきた賊だよ」
やはりそうだ。白仮面は彼らの仲間ではない。
「ふうん。強盗か山賊かな。面倒なときに来てしまったな」
そう吐き捨てるや、白仮面は頭を引っ込めようとする。
「ちょっと待って。あいつらは強盗でも山賊でもないよ。ぼくを殺そうとしているんだ。助けてよ」
とっさに言葉が口をついて出た。目の前にいるのは身元不明の怪しい人物なのに。だが他にすがりつける腕はない。
「さっきも言ったように、用があるのは石栄なんだ。お前が殺されようが八つ裂きにされようが、わたしにはどうでもいい。強盗か否かどうかも、どうでもいいことだ」
白仮面は敵ではないようだが、味方でもないようだ。目の前で子供が殺されようとしているのに。江湖の英雄なら、こんなとき、絶対に見捨てやしない。白仮面は英雄じゃない。絶望した。そして無性に腹が立った。
「石栄はいまここにはいないんだ」
「ではどこに?」
「下山している。食料の買い出しだ。でもぼくが死んだと知ったらもう戻ってこないと思う。ぼくを生かしておかないと石栄に会えないけど、いいのか。どうせ顔も知らないんだろう」
どくどくと脈動を感じて、戸惑った。生まれて初めて嘘をついた。石栄の死顔が脳裏にちらつく。自分の命がかかっているとはいえ、よどみなく嘘がつけたことが信じられない。
「小賢しいガキだ。むかつくがしかたない。こっちに来い」
「こっち?」
「お前は身体が小さいから穴を通れるだろう。外に出てこい」
白仮面は頭を引っ込めた。穴とは、その汚い、排泄用の穴のことか。
「さっさと来い。やつらが来るぞ」
ためらっていると足音が近づいてくる気配がした。
ぼくは慌てて穴に頭を突っ込んだ。
「腕からくぐれ」
「こんな小さい穴、無理だよ」
「猫ってのは、頭が通ればどんなに狭いところでも通れるもんだろう」
無茶なことを言うものだ。
猫をまねてみたが脇の下ですっぽりとはまり込んでしまった。
「ちっ」
白仮面はぼくの襟首を掴んで力任せに引っ張った。地面に落とされる。
丸太になった気分だ。顔の下の排泄物にぎょっとする。凍っていてくれて助かった。
「ぐずぐずするな」
乱暴に立たされ、引きずられ、白虎の石像の上に押し上げられた。
「風が痛い」
吐く息が真っ白だった。
「石像の頭から屋根に飛び移れ」
白虎は道観を守っている聖獣のひとつだ。石像とはいえ、足で踏みつけていいものではない。口中で詫びて、頭を踏んだ。半身だけ屋根にひっかかる。
「うわわ」
積もった雪のせいで陶瓦が滑る。かじかんだ体がうまく動かない。体温が急速に奪われる。死にたくない一心で、必死に手足を動かした。
「中のようすを見てくる。お前は屋根をつたって東端に向かえ」
「東端?」
東端はごつごつした岩しかない。
理由を尋ねる間もなく、白仮面は腰にさした剣を抜くと、ひらりと身を翻して消えた。軽やかな動きだった。
「見た目は英雄っぽいのになあ。う、寒い。凍え死ぬ」
一人きりになったとたん、身体がしぼんだ。雪は降り止まず、日は落ち、どんどんと温度が下がっている。震えがとまらない。さえぎるもののない屋根の上だ。こんなところに長くいたら凍死してしまう。
四つん這いになって、言われたとおりに東へ向かう。
東端にかぎらず周囲は岩ばかりだ。この山自体が巨大な岩でできている。
道観は山頂の岩の隙間にへばりつくように建てられていた。東西南北の南面以外は崖だ。南面には牌楼と牆壁がある。そこを潜り抜けるとふもとにつながる、つづら折りの石段がある。
ある、といっても照勇は一歩も踏んだことはない。
道観から出たことがないからだ。
薄闇のなか目を凝らすと、同じような形の山がいくつも白く浮かんでいる。あの山を五つほど過ぎた先に小さな町がある、と石栄に聞いたことがあった。
たった一度だけ、ねだったことがある。買い出しにぼくもつれていってほしいと。無理を承知で頼んだのだ。
『照勇さまは俗世にふさわしくありません』
石栄は許さなかった。
『俗世は残酷で無慈悲です。嘘つきや人殺しがいっぱいいるのですよ。目にするだけで穢れてしまいます』
それでも、と粘った。小説本をたくさん手に入れたかったのだ。
石英は許してはくれなかったが、流行りの本を買ってきてくれた。嬉しかった。嘘つきや人殺しがたくさん出てくる本だったけれど。
そっと下を覗き込んだ。月明かりを反射した雪がまぶしい。銀色の粒がきらめいて風に舞っている。視線を先に辿ると唐突な闇があらわれる。崖だ。ところどころ岩が隆起しているだけの急斜面。足を滑らせたら奈落に真っ逆さま。命はない。
「ん? あれはなんだろう」
白仮面の声は妙に明るかった。
「石栄は……」
死んだ、という言葉は寸前で飲みこんだ。うかつなことは言わないほうがいい。ぼくを殺すのが目的ではないなら、石栄を殺した賊と白仮面は無関係なのだろうか。
大堂のほうから大きな音が聞こえてきた。戸棚を倒したのだろう、陶器が割れる音が続く。
「あっちで暴れているのは石栄か?」
白仮面は扉の向こうを顎でさす。
「ち、違うよ。ぼくを殺しにきた賊だよ」
やはりそうだ。白仮面は彼らの仲間ではない。
「ふうん。強盗か山賊かな。面倒なときに来てしまったな」
そう吐き捨てるや、白仮面は頭を引っ込めようとする。
「ちょっと待って。あいつらは強盗でも山賊でもないよ。ぼくを殺そうとしているんだ。助けてよ」
とっさに言葉が口をついて出た。目の前にいるのは身元不明の怪しい人物なのに。だが他にすがりつける腕はない。
「さっきも言ったように、用があるのは石栄なんだ。お前が殺されようが八つ裂きにされようが、わたしにはどうでもいい。強盗か否かどうかも、どうでもいいことだ」
白仮面は敵ではないようだが、味方でもないようだ。目の前で子供が殺されようとしているのに。江湖の英雄なら、こんなとき、絶対に見捨てやしない。白仮面は英雄じゃない。絶望した。そして無性に腹が立った。
「石栄はいまここにはいないんだ」
「ではどこに?」
「下山している。食料の買い出しだ。でもぼくが死んだと知ったらもう戻ってこないと思う。ぼくを生かしておかないと石栄に会えないけど、いいのか。どうせ顔も知らないんだろう」
どくどくと脈動を感じて、戸惑った。生まれて初めて嘘をついた。石栄の死顔が脳裏にちらつく。自分の命がかかっているとはいえ、よどみなく嘘がつけたことが信じられない。
「小賢しいガキだ。むかつくがしかたない。こっちに来い」
「こっち?」
「お前は身体が小さいから穴を通れるだろう。外に出てこい」
白仮面は頭を引っ込めた。穴とは、その汚い、排泄用の穴のことか。
「さっさと来い。やつらが来るぞ」
ためらっていると足音が近づいてくる気配がした。
ぼくは慌てて穴に頭を突っ込んだ。
「腕からくぐれ」
「こんな小さい穴、無理だよ」
「猫ってのは、頭が通ればどんなに狭いところでも通れるもんだろう」
無茶なことを言うものだ。
猫をまねてみたが脇の下ですっぽりとはまり込んでしまった。
「ちっ」
白仮面はぼくの襟首を掴んで力任せに引っ張った。地面に落とされる。
丸太になった気分だ。顔の下の排泄物にぎょっとする。凍っていてくれて助かった。
「ぐずぐずするな」
乱暴に立たされ、引きずられ、白虎の石像の上に押し上げられた。
「風が痛い」
吐く息が真っ白だった。
「石像の頭から屋根に飛び移れ」
白虎は道観を守っている聖獣のひとつだ。石像とはいえ、足で踏みつけていいものではない。口中で詫びて、頭を踏んだ。半身だけ屋根にひっかかる。
「うわわ」
積もった雪のせいで陶瓦が滑る。かじかんだ体がうまく動かない。体温が急速に奪われる。死にたくない一心で、必死に手足を動かした。
「中のようすを見てくる。お前は屋根をつたって東端に向かえ」
「東端?」
東端はごつごつした岩しかない。
理由を尋ねる間もなく、白仮面は腰にさした剣を抜くと、ひらりと身を翻して消えた。軽やかな動きだった。
「見た目は英雄っぽいのになあ。う、寒い。凍え死ぬ」
一人きりになったとたん、身体がしぼんだ。雪は降り止まず、日は落ち、どんどんと温度が下がっている。震えがとまらない。さえぎるもののない屋根の上だ。こんなところに長くいたら凍死してしまう。
四つん這いになって、言われたとおりに東へ向かう。
東端にかぎらず周囲は岩ばかりだ。この山自体が巨大な岩でできている。
道観は山頂の岩の隙間にへばりつくように建てられていた。東西南北の南面以外は崖だ。南面には牌楼と牆壁がある。そこを潜り抜けるとふもとにつながる、つづら折りの石段がある。
ある、といっても照勇は一歩も踏んだことはない。
道観から出たことがないからだ。
薄闇のなか目を凝らすと、同じような形の山がいくつも白く浮かんでいる。あの山を五つほど過ぎた先に小さな町がある、と石栄に聞いたことがあった。
たった一度だけ、ねだったことがある。買い出しにぼくもつれていってほしいと。無理を承知で頼んだのだ。
『照勇さまは俗世にふさわしくありません』
石栄は許さなかった。
『俗世は残酷で無慈悲です。嘘つきや人殺しがいっぱいいるのですよ。目にするだけで穢れてしまいます』
それでも、と粘った。小説本をたくさん手に入れたかったのだ。
石英は許してはくれなかったが、流行りの本を買ってきてくれた。嬉しかった。嘘つきや人殺しがたくさん出てくる本だったけれど。
そっと下を覗き込んだ。月明かりを反射した雪がまぶしい。銀色の粒がきらめいて風に舞っている。視線を先に辿ると唐突な闇があらわれる。崖だ。ところどころ岩が隆起しているだけの急斜面。足を滑らせたら奈落に真っ逆さま。命はない。
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