13 / 53
第一章 愛犬
6
しおりを挟む
一カ所にとどまった輪っかはわずかに右に傾いて、小刻みにぶるぶると震えた。とくに左側が激しく揺れている。
なぜだ。なぜまったく怖くないのだ。
まるでその動きが、右側の首元を後肢で掻いている大型犬のようだからか?
「……大型犬……?」
犬の動きに似ていると気づいたら、薄ぼんやりとだが大型犬の姿が浮かびあがった。
秋田犬の姿に見える。
秋田犬といえば日本原産の大型犬。身体能力が高く、力も強い。闘犬や狩猟犬になれるほどの攻撃性を備えている。いっぽう、飼い主に忠実で番犬の適正に優れている。亡くなった主人を何年も待ち続けた忠犬ハチ公がとくに有名だ。
その大型犬が口を開けて舌を少し見せている。
「み、見える……なんで……?」
「双葉師匠の霊力の余波だよ」
仙師がさも当然といった顔で言う。
ザビエルはこの大型犬に怯えていたのか。散歩で大型犬と遭遇しても怯えることがなかったザビエルの性格を考えると、あの幽霊秋田犬がザビエルを威圧したにちがいない。
「我慢しろ、ザビエル。双葉師匠が除霊してくれるからな」
背中に話しかけた。
肝心の双葉師匠が秋田犬を見据えながら部屋に入ってきた。
『うー』
秋田犬が突然歯を剥き出して威嚇を始めた。あきらかに双葉師匠を敵視している。
動物にとことん嫌われる人がいるというのは本当らしい。
だが秋田犬が師匠に飛びかかることはなかった。首輪の霊力によるものか、ベランダから離れられないのだ。目に見えないリードがつながっているのかもしれない。
「双葉師匠、お願いいたします」
「うむ」
双葉師匠は秋田犬から部屋全体に視線を移した。なにもない部屋の角を見て首を傾げる。
「どうしました?」
双葉師匠が近づくと、まるで光に照らされたように人の姿が現れた。うなだれたようすで佇む、腰の曲がった、パジャマ姿のおばあさんだ。
おばあさんは双葉師匠を見上げて『あんた誰?』と聞いた。
「通りすがりの者です。おばあさんはどうしてここにいるんですか」
おばあさんはきょろきょろとあたりを見回してしょんぼりと答えた。
『わかんない。頭がぐるぐるして』
「ご自分の名前はわかりますか」
『名前……あたしの……?』
おばあさんは答えを探すかのように上を見て下を見て、溜息をついた。
『わかんない』
認知症だ。認知症の幽霊がぼくの部屋にいる。
「ここは自分のおうちですか」
『……どうだろう。わかんないね。ああ、でも……チロがいるから、あたしのうちだね』
おばあさんは秋田犬を見て相好を崩した。飼い主と飼い犬。
「ほんとうのおうちに帰りましょう。眩しい光が見えるでしょう」
『ほんとうのおうち……?』
秋田犬がワンワンと吠えだした。
『でもチロは』
「チロも一緒に帰りますよ」
『ああ、じゃ、帰ろう』
おばあさんはベランダに出てきて秋田犬のそばに近寄った。霊に触れそうになり、ぼくは思わず後退った。恐怖は感じないが肌が粟立った。関わってはいけないと本能が警告している。
背中からはザビエルの動揺が伝わる。
『チロ』
おばあさんの呼びかけに、秋田犬は尻尾をふって、お座りをした。
『一緒に帰ろか』
『ワン』
紙で作った輪っかを残して、二筋の淡い光のもやになった秋田犬とおばあさんは双葉師匠の持っていたスマホの画面に吸い込まれた。
「チョロいな」
双葉師匠はふんと鼻息を虚空に吹かした。
「どこに帰ったんですか」
おそろおそる訊ねた。
「本来行くべき場所、魂の根源に帰ったのよ」
スマホの中にそんなものがあるわけない。
「帰るとどうなるんです?」
「分解されてエネルギーに還元されて、新しい生命のもとになる」
「生まれ変わるんですか?」
生まれ変わりなんて信じていないけど、なんて答えるのか気になって訊いてみた。
「生まれ変わりは魂が濁っているのよ。未練が残ってるの。だから綺麗にして送ってあげないといけない。その手間があるぶん、まあ、お金になるんだけどね」
双葉師匠はにやりと笑った。
やっぱり請求する気じゃないか。ともかく助けられたのは事実だ。目に余るほど高額でなければ支払ってもいいという気になっていた。
だが師匠は首を振った。
「お代の代わりに教えてください。なぜ呪いだと思ったんです。呪われるようなことを誰かにしたからですか」
「え」
なぜだ。なぜまったく怖くないのだ。
まるでその動きが、右側の首元を後肢で掻いている大型犬のようだからか?
「……大型犬……?」
犬の動きに似ていると気づいたら、薄ぼんやりとだが大型犬の姿が浮かびあがった。
秋田犬の姿に見える。
秋田犬といえば日本原産の大型犬。身体能力が高く、力も強い。闘犬や狩猟犬になれるほどの攻撃性を備えている。いっぽう、飼い主に忠実で番犬の適正に優れている。亡くなった主人を何年も待ち続けた忠犬ハチ公がとくに有名だ。
その大型犬が口を開けて舌を少し見せている。
「み、見える……なんで……?」
「双葉師匠の霊力の余波だよ」
仙師がさも当然といった顔で言う。
ザビエルはこの大型犬に怯えていたのか。散歩で大型犬と遭遇しても怯えることがなかったザビエルの性格を考えると、あの幽霊秋田犬がザビエルを威圧したにちがいない。
「我慢しろ、ザビエル。双葉師匠が除霊してくれるからな」
背中に話しかけた。
肝心の双葉師匠が秋田犬を見据えながら部屋に入ってきた。
『うー』
秋田犬が突然歯を剥き出して威嚇を始めた。あきらかに双葉師匠を敵視している。
動物にとことん嫌われる人がいるというのは本当らしい。
だが秋田犬が師匠に飛びかかることはなかった。首輪の霊力によるものか、ベランダから離れられないのだ。目に見えないリードがつながっているのかもしれない。
「双葉師匠、お願いいたします」
「うむ」
双葉師匠は秋田犬から部屋全体に視線を移した。なにもない部屋の角を見て首を傾げる。
「どうしました?」
双葉師匠が近づくと、まるで光に照らされたように人の姿が現れた。うなだれたようすで佇む、腰の曲がった、パジャマ姿のおばあさんだ。
おばあさんは双葉師匠を見上げて『あんた誰?』と聞いた。
「通りすがりの者です。おばあさんはどうしてここにいるんですか」
おばあさんはきょろきょろとあたりを見回してしょんぼりと答えた。
『わかんない。頭がぐるぐるして』
「ご自分の名前はわかりますか」
『名前……あたしの……?』
おばあさんは答えを探すかのように上を見て下を見て、溜息をついた。
『わかんない』
認知症だ。認知症の幽霊がぼくの部屋にいる。
「ここは自分のおうちですか」
『……どうだろう。わかんないね。ああ、でも……チロがいるから、あたしのうちだね』
おばあさんは秋田犬を見て相好を崩した。飼い主と飼い犬。
「ほんとうのおうちに帰りましょう。眩しい光が見えるでしょう」
『ほんとうのおうち……?』
秋田犬がワンワンと吠えだした。
『でもチロは』
「チロも一緒に帰りますよ」
『ああ、じゃ、帰ろう』
おばあさんはベランダに出てきて秋田犬のそばに近寄った。霊に触れそうになり、ぼくは思わず後退った。恐怖は感じないが肌が粟立った。関わってはいけないと本能が警告している。
背中からはザビエルの動揺が伝わる。
『チロ』
おばあさんの呼びかけに、秋田犬は尻尾をふって、お座りをした。
『一緒に帰ろか』
『ワン』
紙で作った輪っかを残して、二筋の淡い光のもやになった秋田犬とおばあさんは双葉師匠の持っていたスマホの画面に吸い込まれた。
「チョロいな」
双葉師匠はふんと鼻息を虚空に吹かした。
「どこに帰ったんですか」
おそろおそる訊ねた。
「本来行くべき場所、魂の根源に帰ったのよ」
スマホの中にそんなものがあるわけない。
「帰るとどうなるんです?」
「分解されてエネルギーに還元されて、新しい生命のもとになる」
「生まれ変わるんですか?」
生まれ変わりなんて信じていないけど、なんて答えるのか気になって訊いてみた。
「生まれ変わりは魂が濁っているのよ。未練が残ってるの。だから綺麗にして送ってあげないといけない。その手間があるぶん、まあ、お金になるんだけどね」
双葉師匠はにやりと笑った。
やっぱり請求する気じゃないか。ともかく助けられたのは事実だ。目に余るほど高額でなければ支払ってもいいという気になっていた。
だが師匠は首を振った。
「お代の代わりに教えてください。なぜ呪いだと思ったんです。呪われるようなことを誰かにしたからですか」
「え」
12
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2024/12/11:『めがさめる』の章を追加。2024/12/18の朝4時頃より公開開始予定。
2024/12/10:『しらないこ』の章を追加。2024/12/17の朝4時頃より公開開始予定。
2024/12/9:『むすめのぬいぐるみ』の章を追加。2024/12/16の朝4時頃より公開開始予定。
2024/12/8:『うどん』の章を追加。2024/12/15の朝8時頃より公開開始予定。
2024/12/7:『おちてくる』の章を追加。2024/12/14の朝8時頃より公開開始予定。
2024/12/6:『よりそう』の章を追加。2024/12/13の朝4時頃より公開開始予定。
2024/12/5:『かぜ』の章を追加。2024/12/12の朝4時頃より公開開始予定。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~
海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。
そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。
そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
人生負け組のスローライフ
雪那 由多
青春
バアちゃんが体調を悪くした!
俺は長男だからバアちゃんの面倒みなくては!!
ある日オヤジの叫びと共に突如引越しが決まって隣の家まで車で十分以上、ライフラインはあれどメインは湧水、ぼっとん便所に鍵のない家。
じゃあバアちゃんを頼むなと言って一人単身赴任で東京に帰るオヤジと新しいパート見つけたから実家から通うけど高校受験をすててまで来た俺に高校生なら一人でも大丈夫よね?と言って育児拒否をするオフクロ。
ほぼ病院生活となったバアちゃんが他界してから築百年以上の古民家で一人引きこもる俺の日常。
――――――――――――――――――――――
第12回ドリーム小説大賞 読者賞を頂きました!
皆様の応援ありがとうございます!
――――――――――――――――――――――
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる