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「お、覚えていません」

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「いえ、特別には。普通だと思います」

 お届け物を手渡すさいに、二言三言話す程度ならば普通といえるだろう。

「ほう、普通ねえ。噂では橋本宅にはよく出入りされていたとか」

 田西刑事は執拗に畳みかけてくる。

「出入りというか、配達ですけど」

 野田は記憶を探った。
 ネット通販の荷物が目立った。衣類や食材や書籍などを週に三回程度。頻度は比較的多いほうではあるが、買い物のためにこまめに外出するより自宅で過ごすことが好きな人なのだろうと思っていた。誰が噂をしているのかは知らないが、下世話な話だ。橋本さんには旦那さんがいるはずだった。

「先週の木曜日、14時37分、野田さんは被害者、橋本夫人宅にうかがいましたね。その時のことを聞かせてください。いつもと違った様子はありませんでしたか。雰囲気が違うとか、あわてていたとか」

 刑事が時刻を正確に把握していることに驚いた。配達時に完了記録を機器に登録するので、データを調べれば時間はわかるのだが、すでに上司は警察にデータを提出済みらしい。

「というのはですね、野田さん、橋本夫人さんに最後に会ったのが、あなたなんですよ。ほかの宅配業者や郵政には、その日には配達がなかったことは確認済みなんです。近所の人も目撃していない。旦那さんは残業で遅くなって、帰宅せずに会社に泊まったのだそうです。遺体が発見されたのは翌日の早朝。つまりあなたが生前の橋本夫人を見た最後の目撃者の可能性があるんです」

「え、そうなんですか」

 ふたりの刑事はぎろりと野田を睨んだ。野田の背筋に冷汗が流れる。

「こちらの写真をご覧ください。被害者が最後に身に着けていた服装なんですが、配達にうかがったときと同じでしょうか」

 遺体の写真だった。顔を隠してあるが銀色の寝台のようなところに寝かされている。安置所のようなところか、あるいは解剖台かもしれない。
 地味で特徴のないワンピースから生気のない手足が伸びている。

「お、覚えていません。いちいち服のことなんか……」

「どうしました。気分が悪そうですが」

 田西刑事の目が、ぎろりと光った。写真を眺めてうつむきがちな野田を掬い上げるようにみつめてくる。写真を見て悔恨の情でも沸いたのではないか、と訊ねているようだった。

「これは皆さんに訊いているんですが……野田さん、先週木曜日の夜20時から24時までの間、どこにいて何をしていらっしゃいましたか」

「う、ぐ」

 言葉に詰まった。やましいことは何もない。だが田西刑事の達磨のような目と、井敬刑事の切れ長の目はとても鋭い。身がすくんだ。
 警察の仕事は人を疑うことだ。任務を遂行しているに過ぎない。ぼくがすべきことは冷静に対応し、疑いをといてもらうことだけだ。
 人に疑われるというのはなんと嫌な気分になるのだろう。

「顔色が真っ青ですよ、なにか気になることでも」

「当日は、出勤でした。退社後は……よくおぼえてません」

 思い出そうともがけばもがくほどなにも浮かんでこない。
 配達が順調に終わって21時前には退社した気がする。だが適当なことを言ってそれが間違っていたら心証が悪くなるだろう。コンビニに寄っただろうか、知り合いと遭遇してなかったろうか。
 毎日が平凡なルーティンのため、印象が薄い。遅くとも21時40分には自宅に戻って、風呂かメシかゲームでもしてダラダラしていたに違いない。一人きりだ。アリバイを証明することはできない。

「時間はたっぷりありますから、よく思い出してください」

「あの、ぼ、ぼくは」

 焦ればあせるほど、記憶が混乱する。

「データによりますと、その日の退社は20時39分ですね」

「……そんなとこだと思います」

 ついむっとした声で答えてしまった。データは入手済ということか。
 所長を横目で見たが、視線をそらされた。

「所長さん、20時からの配達のデータもみせていただけたら助かります」

「はい、わかりました」

 パソコンを前にして、所長の顔は緊張している。従業員が就業時間中に人を殺したとしたら会社を巻き込む大問題になるからだろう。疑惑を持たれているのかと考えたら胸がちりちりと痛んだ。
 パソコンの画面に先週木曜日の配達記録が表示された。

「ほう、なるほど。最近は配達時間を登録する機械があったり、GPSで経路を確認できたり、タコメーターと連動で、車載カメラも完備で入れ替わりは不可能、と。アリバイは鉄壁なんですね」

 残念そうな田西の口ぶり。社畜を監視するシステムに感謝するときがくるなんて屈辱的だ。ぼくはそっと息をついた。

「退社後のアリバイはなし、と。あ、誤解なさらないでください。アリバイ確認は関係者全員にうかがっている、いわば刑事の挨拶みたいなもんですから」

 刑事ドラマでは、アリバイを完璧に披瀝するか激昂するのが犯人フラグだ。犯人でもないただのモブは、頷いていいものか、困った顔をしていいものか、それとも無表情でいたらいいものかわからず、彫像のように突っ立っているしかない。

「あんたはどう思うね。知り合いのようだが」

 田西刑事は丹野を振り仰いだ。
 それまでは壁際のオブジェと化していた熊男がゆらりと揺れた。一歩、二歩近づいてきた。でかい。縦も横もある。身長は180センチ以上はあるだろう。昨夜はベンチに座っていたから背の高さは意識しなかった。身長だけなら同僚の荒川のほうがはるかに大きいが、この男には周囲を威圧する迫力がある。
 彼の発言内容は風の流れを左右する。そんな予感があった。観察力と洞察力に秀で、論理的思考で推理する頭脳の持ち主。探偵と聞けば、なるほど納得だ。この男なら真実を見抜けるのではないか。野田は期待した。

「知り合いというほどではない。一宿一飯の恩義でもあればともかく、野田は今の時点では有力な容疑者といえる」

「は……!?」

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