14 / 46
14 退院
しおりを挟む
無事に病室に滑り込んだ。ただしトラブルがひとつだけ起こった。トイレに行った美羽が不機嫌な顔で戻ってきたのだ。
「触らないでやろうとしたのに、狙いが定まらなかった!」
下半身の話題だと気づくまで、俺は五秒かかった。
「ああああ。やだやだ。あんなもん、触りたくなかったのに、洗うときとパンツにしまうときに触んないとだめだったし」
枕に突っ伏して悔し涙を流されては、こちらも黙っていられない。
「洗わなくていいんだよ。振って雫を落とせばいいの。見られて弄られた俺のほうが叫びたいよ!」
清水に俺の身体を献上しようとしたくせに。
「やだー、汚いじゃん。初めて触るのは清水先輩のになるはずだったのに。しかたないから次に触るのは清水先輩ので妥協する!」
「俺の手が汚れるわ!」
どころか、抱いてくれとか言いやがったよな、こいつは。一刻も早く体を取り返さなきゃ。
「ちゃんと寝ろよ。熱でも出たら明日……もう今日か、退院させてもらえないぞ。……ところで俺ってどこで寝るの?」
「そこらに転がればいいんじゃない? どうせ誰も見てないし」
素朴な疑問だが、霊体も眠らないといけないのだろうか。訊いてみたら、美羽の答えはこうだった。
「寝なくても問題はない。でも寝たほうがエネルギーの浪費をふせげる」
「なるほど」
なんとなく察してはいたが、同じベッドに誘われることはなかった。
翌朝の検査結果は異常なし。化膿も骨折も無し。擦り傷と多少の打ち身だけで意識明瞭。健康で元気な患者は退院させられるものだ。
迎えに来た母さんは機嫌がよかった。紙袋の中から着替えを出してベッドに並べていく。
「そりゃ事故に決まってるわ。自殺だったら恥かしくて世間に顔向けできないもの」
反応に困ったのか、美羽がこちらを見る。
肩をすくめて見せた。
母さんは昔から厳格だ。好き嫌いがはっきりしている。好きか嫌いかが善悪にすりかわることもよくある。母さんにとっては、自殺はあるまじきことなのだ。
美羽には異論があるかもしれないが俺は母さんを落胆させたくはない。
個人経営の書道教室で長いあいだ先生と呼ばれてきた人である。生徒には『書の乱れは心の乱れ』『墨を磨るときは心をまっすぐに立てなさい』と生徒を叱咤している。『黒い墨を含んだふくよかな筆を白い半紙にのせるとき、迷いはすべて消える』と怪しいこともよく言っている。残念ながら、意味はわからない。正座が苦手な俺は中学生のときに書道をやめた。粗忽ものの妹は墨をよくぶちまけたので、小学校低学年でやめた。母は嘆いたが人間には向き不向きがある。
ただし、墨を磨ることだけは今でも好きだ。透明な水が艶のある墨色に変わっていくとき、濃くなっていく墨の香りに恍惚となることもある。母さんとの目に見えないつながりも感じられる。
「あんたが飛び降りたって連絡があったとき、私ったらてっきり……」
「てっきり?」
「ううん、なんでもない」
母さんは埃でも払うように手をひらひらさせ、顔をしかめた。嫌なことを見たり聞いたりしたときの癖だ。
「かばんを一緒に落としちまった気がするんだけど。どこにあるか知ってる?」
「家にあるわよ。全部預かったから。でも一緒に落としたんじゃなくて、教室に残っていたみたいよ」
「……スマホは無事?」
「一緒に落ちたのにひび一つなかったよ。運がいいこと」
スマホを拾おうとして落ちた説が優位になった。ほっと息を吐く。
警察の聴き取りには美羽が上手く対処した。
「校舎は三階建てで屋上から地面までは15メートルくらいだろ。真下にはエアコンの庇や樹木や植栽があってクッションが多い。自殺するなら、もっと場所を選びますよ。フェンスに頭をつけてスマホを弄っていたら誤って外に落としちゃって。手が届かなかったからフェンスを越えたんです。で、バランスを崩して……ああ、怖かった。思い出すと、ほら、手が震える」
「自殺じゃないときいて安心したよ。しかし強運だねえ」警察は頬を緩ませる。「内臓破裂や脳挫傷どころか、全身打撲や骨折もなく、せいぜいが草木が当たって掠り傷ができただけなんて」
「京都の清水寺、行ったことありますか?」
「ああ、大昔だが、修学旅行で行ったことあるぞ」
「清水の舞台は地面まで約13メートルあるけど意外に生還率が高くて、十代の男女は9割が助かっている」
「へえ、詳しいなあ」
「失敗率の高い清水の舞台程度の高さしかないとこで飛び降り自殺なんてしませんよ」
美羽が笑うと、警察も母も看護師も笑った。どうやら美羽の言い分を信じてもらえたようだ。
もし俺だったら「自殺なんかするわけないだろう、バカにすんな!」って警察に怒鳴っていたかもしれない。
隙を見て「グッジョブ!」と親指を立てると、
「措置入院にならなくてよかった。時間の無駄だもんね」と美羽が呟いた。
措置入院がなにかわからないので曖昧にうなずいた。
「母さんや梓を残していくなんて、俺がするわけないじゃないか。そう言ってくれ、美羽」
そう耳元で囁いたが、あっさりと無視された。
「触らないでやろうとしたのに、狙いが定まらなかった!」
下半身の話題だと気づくまで、俺は五秒かかった。
「ああああ。やだやだ。あんなもん、触りたくなかったのに、洗うときとパンツにしまうときに触んないとだめだったし」
枕に突っ伏して悔し涙を流されては、こちらも黙っていられない。
「洗わなくていいんだよ。振って雫を落とせばいいの。見られて弄られた俺のほうが叫びたいよ!」
清水に俺の身体を献上しようとしたくせに。
「やだー、汚いじゃん。初めて触るのは清水先輩のになるはずだったのに。しかたないから次に触るのは清水先輩ので妥協する!」
「俺の手が汚れるわ!」
どころか、抱いてくれとか言いやがったよな、こいつは。一刻も早く体を取り返さなきゃ。
「ちゃんと寝ろよ。熱でも出たら明日……もう今日か、退院させてもらえないぞ。……ところで俺ってどこで寝るの?」
「そこらに転がればいいんじゃない? どうせ誰も見てないし」
素朴な疑問だが、霊体も眠らないといけないのだろうか。訊いてみたら、美羽の答えはこうだった。
「寝なくても問題はない。でも寝たほうがエネルギーの浪費をふせげる」
「なるほど」
なんとなく察してはいたが、同じベッドに誘われることはなかった。
翌朝の検査結果は異常なし。化膿も骨折も無し。擦り傷と多少の打ち身だけで意識明瞭。健康で元気な患者は退院させられるものだ。
迎えに来た母さんは機嫌がよかった。紙袋の中から着替えを出してベッドに並べていく。
「そりゃ事故に決まってるわ。自殺だったら恥かしくて世間に顔向けできないもの」
反応に困ったのか、美羽がこちらを見る。
肩をすくめて見せた。
母さんは昔から厳格だ。好き嫌いがはっきりしている。好きか嫌いかが善悪にすりかわることもよくある。母さんにとっては、自殺はあるまじきことなのだ。
美羽には異論があるかもしれないが俺は母さんを落胆させたくはない。
個人経営の書道教室で長いあいだ先生と呼ばれてきた人である。生徒には『書の乱れは心の乱れ』『墨を磨るときは心をまっすぐに立てなさい』と生徒を叱咤している。『黒い墨を含んだふくよかな筆を白い半紙にのせるとき、迷いはすべて消える』と怪しいこともよく言っている。残念ながら、意味はわからない。正座が苦手な俺は中学生のときに書道をやめた。粗忽ものの妹は墨をよくぶちまけたので、小学校低学年でやめた。母は嘆いたが人間には向き不向きがある。
ただし、墨を磨ることだけは今でも好きだ。透明な水が艶のある墨色に変わっていくとき、濃くなっていく墨の香りに恍惚となることもある。母さんとの目に見えないつながりも感じられる。
「あんたが飛び降りたって連絡があったとき、私ったらてっきり……」
「てっきり?」
「ううん、なんでもない」
母さんは埃でも払うように手をひらひらさせ、顔をしかめた。嫌なことを見たり聞いたりしたときの癖だ。
「かばんを一緒に落としちまった気がするんだけど。どこにあるか知ってる?」
「家にあるわよ。全部預かったから。でも一緒に落としたんじゃなくて、教室に残っていたみたいよ」
「……スマホは無事?」
「一緒に落ちたのにひび一つなかったよ。運がいいこと」
スマホを拾おうとして落ちた説が優位になった。ほっと息を吐く。
警察の聴き取りには美羽が上手く対処した。
「校舎は三階建てで屋上から地面までは15メートルくらいだろ。真下にはエアコンの庇や樹木や植栽があってクッションが多い。自殺するなら、もっと場所を選びますよ。フェンスに頭をつけてスマホを弄っていたら誤って外に落としちゃって。手が届かなかったからフェンスを越えたんです。で、バランスを崩して……ああ、怖かった。思い出すと、ほら、手が震える」
「自殺じゃないときいて安心したよ。しかし強運だねえ」警察は頬を緩ませる。「内臓破裂や脳挫傷どころか、全身打撲や骨折もなく、せいぜいが草木が当たって掠り傷ができただけなんて」
「京都の清水寺、行ったことありますか?」
「ああ、大昔だが、修学旅行で行ったことあるぞ」
「清水の舞台は地面まで約13メートルあるけど意外に生還率が高くて、十代の男女は9割が助かっている」
「へえ、詳しいなあ」
「失敗率の高い清水の舞台程度の高さしかないとこで飛び降り自殺なんてしませんよ」
美羽が笑うと、警察も母も看護師も笑った。どうやら美羽の言い分を信じてもらえたようだ。
もし俺だったら「自殺なんかするわけないだろう、バカにすんな!」って警察に怒鳴っていたかもしれない。
隙を見て「グッジョブ!」と親指を立てると、
「措置入院にならなくてよかった。時間の無駄だもんね」と美羽が呟いた。
措置入院がなにかわからないので曖昧にうなずいた。
「母さんや梓を残していくなんて、俺がするわけないじゃないか。そう言ってくれ、美羽」
そう耳元で囁いたが、あっさりと無視された。
10
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
※毎日18時更新です。よろしくお願いします!
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
敏感リーマンは大型ワンコをうちの子にしたい
おもちDX
BL
社畜のサラリーマン柊(ひいらぎ)はある日、ヘッドマッサージの勧誘にあう。怪しいマッサージかと疑いながらもついて行くと、待っていたのは――極上の癒し体験だった。柊は担当であるイケメンセラピスト夕里(ゆり)の技術に惚れ込むが、彼はもう店を辞めるという。柊はなんとか夕里を引き止めたいが、通ううちに自分の痴態を知ってしまった。ただのマッサージなのに敏感体質で喘ぐ柊に、夕里の様子がおかしくなってきて……?
敏感すぎるリーマンが、大型犬属性のセラピストを癒し、癒され、懐かれ、蕩かされるお話。
心に傷を抱えたセラピスト(27)×疲れてボロボロのサラリーマン(30)
現代物。年下攻め。ノンケ受け。
※表紙のイラスト(攻め)はPicrewの「人間(男)メーカー(仮)」で作成しました。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる