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眠り姫

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 高校に入ってから、雪乃はあからさまに誠一郎を避けるようになった。
 彼女のシナリオに沿おうとする根幹部分がそうさせるのか、はたまた自分の通う高校の保険医と懇意にするのはまずいと判断したのか。
 家に来るように誘ってみても拒まれ、廊下ですれ違った際に話しかけようとすれば咄嗟に逃げられてしまう。
 雪乃の心境を誠一郎に推し量ることはできないが、雪乃との接触回数が減り、日に日にストレスがたまっていくのだけは確かだった。
 ただでさえストレスは募る一方なのに、春川さくらの存在は誠一郎の苛立ちをますます加速させていく。
 自分はこんなにも雪乃と会うことを我慢しているというのに、あの女はベタベタベタベタ毎日雪乃に密着し、鬱陶しいまでに好意を囁き続けている。本来その場所にいるのは自分のはずなのに。主人公風情が、何を思い上がっているのか。
 大人しく攻略対象に靡いていればいいものを、春川さくらは雪乃こそが自分をこの乙女ゲーム世界のループから救う存在だと信じきっているらしい。

(そんなわけないだろう)

 雪乃に対し、いくら主人公であるさくらが尻尾をふったところで、ただのノーマルエンディングに収まるだけだ。
 この世界に、高校生活ほんぺんの先など存在しない。
 エンディングを迎えるたびに、初めから繰り返す。それが自分たちに課せられた世界のことわり。さくらに、救いなどない。愛される代わりに、永遠に抜け出せない。それが主人公に課せられた運命だ。
 春川さくらが、自分が乙女ゲームの主人公だという自覚を持ち始めていたのには、ずっと前から勘付いていた。抜け出そうともがいていたことも当然知っている。
 だが、どう足掻こうがさくらの運命は変わらない。無駄なあがきと嘲笑っていたのが、まさかここにきて仇になるとは。
 
 雪乃が保健室に足を運んだのは、入学式から少し経った四月の中旬。
 その時に、一度だけ。
 たまたま近くを通りかかったであろう春川さくらに、一応は牽制をしてみたが、あの女は懲りなかった。それどころか、ますます雪乃への接触を過度なものにしていく。
 保健室の壁に掛けられているカレンダーに、ちらりと視線をやる。
 梅雨の訪れを告げる、六月の頭。じとじとと振りそそぐ雨の音に、誠一郎は溜息を吐く。そろそろ何か打って出なければ。このまま春川さくらに雪乃をいいようにされているのでは、腹の虫が収まりそうになかった。時計を見ればちょうど、昼休みが始まろうとしている。
 何かいい手段はないだろうかと考えを巡らせたところで、保健室の戸が勢いよく開けられた。何事かと渋々視線を保健室の入り口に向ければ、そこに佇んでいたのは誠一郎が会いたいと望んでいた雪乃その人だった。
 ぜえはあと息を荒げ、雪乃は大急ぎで保健室の戸を閉ざす。
 ただ事ではない雪乃の様子に、誠一郎は咄嗟に立ち上がりドアを閉めたまま呆然とその場に立ちすくんでいた雪乃の元に歩を進めた。
 
「雪乃……? どうしたんだい、急に」

「いちにい」

 久方ぶりに聞く愛称に、びくりと肩が揺れてしまう。
 名前を呼ばれた。それだけで、体の内側から歓喜が湧き上がってくる。
 だが、雪乃は誠一郎の変化に気が付いていないようだった。
 誠一郎の白衣の内襟を掴み身を乗り出してくる雪乃には、何か切迫したものを感じる。
 いや、そんなことより距離が近い。すぐ近くで雪乃の匂いがする。
 たまらず、腕が空を泳いだ。久方ぶりの雪乃からの接触に、彼女の事情がどうであろうとあからさまにテンションが上がっていくのを隠せない。

「ちょっとでいいから、匿って」

「それはべつに、構わない、けど」

 息を荒げる雪乃を落ち着かせるようにして、誠一郎は抱きしめたい衝動を無理やり押さえ込み、雪乃の肩にそっと手を置いた。

「本当? えこひいきとか言われてクビになったりしない? 最近はそういうの厳しいんじゃないの?」

「ならないならない」

 とんだ見当違いの心配をする雪乃に、誠一郎はたまらず吹き出していた。
 
「まさかそんなことを心配して、最近会ってくれなかったの?」

「……だって! 私のせいでいちにいが路頭に迷うことになったら、なんていうか、……寝覚めが悪いじゃない」

「大丈夫だよ。ちょっとくらい雪乃を特別扱いしたって、バレなければ問題ないんだから。保健室には滅多に人も来ないし、いたいだけいればいい」

「でも」

「でももだってもなし。僕と雪乃の仲じゃないか。細かいことは気にしなくていいんだよ」

 どれだけ横暴な行為を行おうが、誠一郎が保険医のポジションから追い出されることはない。そもそも、保健室は誠一郎のテリトリーだ。誠一郎が許可しなければ、誰も入ってくることはない。久方ぶりに過ごす雪乃との時間に、誠一郎は自分でも面白いくらい気分が舞い上がっていくのを実感していた。

「ほら、そこ座って。お茶でも入れるから」

「あ、……ありがとう」

「どういたしまして」

 水を入れ、電気ケトルのスイッチを入れる。
 ちらりと背後に視線を向ければ、促されるまま事務机に向き合い、かしこまって座る雪乃の姿が視界の端を掠めた。

「それで? 雪乃は何から逃げてきたの?」

 聞くまでもなく、大方予想はついているのだが。

「……ちょっと、友達から」

「友達?」

「……「さくら」っていうんだけど。……いや、あのね。いい子なんだけど、ちょっと接触が激しいっていうか、その……愛が重くてしんどいっていうか……。好きでいてくれるのは嬉しいんだけど、……て、貞操の危機を感じるっていうか」

「……へぇ?」

 予想通りの人物の名、しかしながら予想外にいきすぎた接触に、喉から地を這うような声が出てしまう。出来れば、もっと具体的に聞いておきたい。その上で血祭りに上げてやりたかったが、雪乃の前でそんな顔を見せるわけにもいかず、誠一郎は黙って話を聞き続けた。
 
「とにかく、なんていうかいたたまれなくなっちゃって。……こんなところに逃げ込むのは卑怯だとは思うんだけど、ちょっと色々精神的に限界だったっていうか。……嫌いではないんだけど、なんていうか。……反応に困るというか」

 誠一郎を心配させまいとしているのか、あくまで悪いのは自分だとさくらを庇おうとしているのか。もしくはその両方か。
 雪乃は、さくらをどう対処すればいいのか困惑している様子だった。
 誠一郎はたまらず、貼り付けた穏やかな笑みの裏で、歪んだ喜びを覚えてしまう。
 雪乃は、さくらの愛を受け入れたわけはない。ざまあみろ。
 お前に雪乃はふさわしくない。
 いつの間にか、雪乃は机に突っ伏し、うんうんとうなり声を上げている。
 安心させるように昔よくしていたように頭を撫でてやれば、雪乃は心地よさげに瞼を閉じていった。心を許されているのだという感覚に、誠一郎はこれ以上ない充足感に包まれていく。
 雪乃が気を許しているのは、自分だけ。
 いくらさくらが雪乃を特別扱いしようとも、雪乃にとっての特別は自分だけ。

「疲れた時は、いつでもおいで」

 いつでもそんなつまらない役割は、投げ出してしまってもいいんだよ。
 そんな物騒な思想をにじませながらも、誠一郎は表面上は優しい王子様の仮面を被り続ける。
 
「前にも言っただろう? 僕はいつだって、雪乃の味方だから」

 髪に指を絡ませ、からまりを解きほぐしていく。

「……ありがとう」

 へにゃりと和らげられた表情に、自然と誠一郎も和やかな顔になってしまう。
 その日を境に、雪乃は時折昼休みになると保健室を訪れるようになった。
 誠一郎と他愛のない話をし、お茶を飲み、一緒に昼食を摂る。
 春川さくらから逃げるという口実であるのが癪ではあったが、以前のように雪乃と同じ空間にいられるという事実は、誠一郎の精神を満たすには十分すぎるほどだった。

 そんな中、ある日の昼休み。
 いつものように雪乃の愚痴を聞きながら茶を沸かす準備をしていると、いつの間にか眠ってしまったのだろう。だらしなく机に突っ伏したまま、昼寝を開始してしまった雪乃の寝顔が飛び込んできた。
 このままの体制にしておくのも体を痛めてしまうと、誠一郎はそっと雪乃の体を揺すってみる。

「雪乃」

 しかし、呼びかけたところで起きるそぶりはない。
 よっぽど疲れていたのか。それとも、それほどまでに気を許されているのか。
 出来れば後者であればいいのにと願いながら、誠一郎は仕方なく雪乃をベッドまで運ぶことにした。
 少し力を入れてやれば、簡単に雪乃の体は誠一郎の胸の中に収まった。
 甘えるように胸に頬を摺り寄せてくる雪乃に表情筋を緩ませながら、誠一郎はそっと雪乃の体をベッドへと横たえてやる。
 ベッドサイドに置かれていた丸椅子に腰掛け、誠一郎はしばし雪乃の穏やかな寝顔を見守っていた。頭を撫でてやれば甘えるように和らげられる表情に、胸の底から愛しさがこみ上げてくる。
 こうしていると、かつて雪乃が事故にあった日のことを思い出した。
 そういえば、あの時初めて雪乃に執着していることに気が付いたんだったか。

「無防備な顔を晒してくれるのは嬉しいけれど、……襲われるとは思わないの?」

 言い終わってから、まあ思わないだろうなと、誠一郎は自虐的な笑みをこぼす。
 雪乃は、良くも悪くも誠一郎を信頼している。信じさせるような振る舞いをしてきたのは自分ではあるが、しかしこうまで無防備でいられるといささか対処に困ってしまう。
 雪乃は、綺麗になった。誠一郎の知るこれまでの雪乃と容姿は微塵も違わないはずなのに、好意を前面に押し出された微笑みを見ているだけで卒倒しそうになる。
 周囲を満たすのは、消毒液の芳香。
 無防備に晒された白い首筋に、「あの日」とは違う感情が首をもたげる。
 雪乃を傍に置いておきたい。誰にも渡したくない。この真っ白な首筋に、自分のものだという証を刻み込んでやりたい。
 椅子から立ち上がり、誠一郎は雪乃の頭の横に両腕をつく。
 顔を近付けていけば、穏やかな寝息が誠一郎の耳をついた。

「ねえ、雪乃。僕は――」

 それは、紛れもない独占欲だった。
 頬に片方の手を当ててやれば、安心したかのように頬ずりをされる。
 大事に大事にしてやりたい。けれど、無茶苦茶にしてやりたい。その信頼を無残にも裏切ってやったのなら、雪乃はどんな顔をするのだろうか。
 さらに顔を近付けていけば、甘やかな匂いが誠一郎の脳髄を犯した。
 いつだって、そうだ。雪乃のことを考えると、誠一郎はおかしくなる。

 初めて、誰かを特別だと思った。
 人に好かれる感動を知った。失う恐怖を知った。愛情を、知ってしまった。
 雪乃が自分以外の誰かに笑いかけるだけで虫唾が走る。
 傍にいるだけで満足だと思っていたのに、もっともっとと貪欲になっていく。
 雪乃の、すべてが欲しかった。

 躊躇いがなかったか、と言われれば嘘になる。
 だが、沸騰した頭は考えるよりも先に誠一郎の体を動かしていた。
 
 誠一郎の唇が、雪乃のそれを塞ぐ。
 力なく開けられていた口を舌で割り開けば、雪乃は簡単に誠一郎の侵入を許した。
 歯列をなぞり、口蓋を犯し、意識がないのをいいことに、好き勝手に口の中を弄っていく。
 気分は高揚し、今雪乃に触れているのは紛れもなく自分なのだという悦びに、体はこれ以上ないほどに熱を帯びていく。
 たかがキスでこれならば、先に進んでしまえばどうなってしまうのだろうか。
 頬を赤く染め、男の口付けを享受する雪乃は、誠一郎の頭をおかしくさせる。

(ああ、かわいい。雪乃、かわいい、雪乃。僕の、僕だけの――)

 雪乃はお姫様ではないし、当然誠一郎も王子様などではない。
 だが、そんなもの知ったことではないと心地の良い狂気に誠一郎は沈み込んでいく。
 滅茶苦茶にしてやりたい。雪乃の全てを自分の色で染めてやりたい。
 誠一郎がいなければ、生きていけないようになればいい。 
 おぞましい考えが、誠一郎の頭の中を埋め尽くしていく。

 雪乃に役割を捨てさせる、いい方法があるではないか。
 ああ、これならきっと、うまくいく。
 クツクツと喉の奥を不気味に震わせながら、誠一郎は口付けをさらに深めていく。 

 誠一郎が溺れている以上に、雪乃に自分自身を求めて欲しかった。
 そのためなら、もう、手段は選ばない。
 奪われてしまうくらいなら、いっそのことこの手で壊してしまえばいい。

 逃げようともがく舌を絡め取り弄んでやれば、びくんと雪乃の体が軽く痙攣を起こす。
 ああ、このくらいでやめておかなければ、雪乃が起きてしまう。

「ん……っ、ぁ……っ」

 吐息交じりに吐き出された嬌声に名残惜しさを感じながら、誠一郎は渋々口付けを中断した。透明な糸が雪乃と誠一郎の口を結び、やがてはぷつりと途切れる。
 叶うのならばこのまま雪乃の全てを暴きたててやりたかったが、意識のない雪乃を犯しても何も面白くない。最後にマーキングのように雪乃の首筋に顔を埋め所有印を刻み込んでやれば、少しは春川さくらに対する苛立ちが治まったような気がした。

「……い、ちにい?」

 誠一郎が体を起こすと同時に、ゆっくりと雪乃の瞼が押し開けられていく。
 
「おはよう、雪乃。……かわいいかわいい、僕だけのお姫様」

 寝起きだからだろうか。どこか呆然と誠一郎を見上げる眼差しは、先ほどの行為も相まってどこか色気を感じさせる。
 明確な信頼を持って無防備な顔を晒す雪乃に、誠一郎の中をどす黒い感情が支配していく。
 誰にも雪乃は渡さない。春川さくらにも、世界の理システムにも、雪乃を奪わせたりはしない。
 だってそうだろう。雪乃は、誠一郎だけの「お姫様」なのだから。
 早く、同じところまで堕ちてくればいい。
 役割なんて捨て去ってしまえばいい。
 そうすれば、雪乃は誠一郎だけの「お姫様」になる。
 その日を今か今かと待ちながら、「王子様」は小綺麗に微笑んで見せた。


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