地獄の底でふたりきり

ぬえもと

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17.鱧は蛇に似たり

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 次に目を開けた時、真っ暗な闇の中を落ちていたはずのイヴは、またしても鏡作りの回廊に逆戻りしていた。
 鏡張りの廊下を、無意識に亡霊のような足取りで歩んでいく。
 いつから進んでいるのか、全く覚えはない。
 記憶は完全に混濁しきっており、ひどく頭が痛んでいた。
 何が真実で何が偽りなのか、考えれば考えるほど分からなくなる。
 視界はぼやけ、一歩足を踏み出すたびに、強烈なめまいに体は傾いていく。
 息を荒げながら右手で頭を押さえ、なんとかその場に崩れ落ちまいと体を立て直せば、左肩を思い切り鏡に打ち付けた。
 じんとした痛みがイヴの体を襲う。
 痛い。歯を食いしばり、イヴは深く息を吐く。
 ただ鈍痛だけが、イヴの身を蝕んでいた。

 許せない。許したくない。
 こんな記憶、知らない。会ったことなんてない。
 許せなかった。
 助けろと願ったのは確かに自分自身のはずで、にも関わらず見当違いの怒りに体は熱を帯びていく。

 お願いだから、逆らわないで。
 ただ、壊れて。
 下僕は下僕らしく、ただ膝を折っていればいい。
 せっかく戻ってきたのに、またレボルトはイヴは拒もうとしている。
 そんなこと、許さない。赦せない。
 今度こそ、今度こそは。

 違う。そんなこと望んでいない。
 帰りたかった。ただそれだけだ。
 あんな記憶、知らない。知るべきじゃなかった。
 レボルトの言う通り、思い出してはいけないものだった。

「私は、帰る……のよ……っ!」

 吐き捨てるようにして言えば、少しは気がまぎれるような気がした。
 背を汗が伝う。頭に靄が掛かったかのように、思考が散漫になっていた。

 会いたい。レボルトに、会いたい。
 だって、そのために戻ってきた。

 息を荒げながら、必死に前へ進もうともがく。
 壁に肩を押し当てたまま、無様に足掻き続ける。
 どこへたどり着くとも知れない道を、無心で進んでいく様はさぞ滑稽なことだろう。

 それでも、進むことをやめられない。
 立ち止まれば、今度こそ本当に自分が自分でなくなってしまうような気がした。
 まだ、『私』は『私』のままだろうか。
 次第に薄れゆく意識の中、もがきながらイヴはそんなことを思った。
 誰にも、会いたくない。父にも、兄にも、レボルトにも。
 特にレボルトにだけは、絶対に出会いたくなかった。
 レボルトに会いたいと心の底から望む誰かの囁きの間、イヴは小さな声でそっとつぶやいた。
 次に会ったが最後、本当におかしくなる。

 自分であって自分でないものの思いを振り払うようにして、ただ無心で前へ進み続ける。

「……私は、壊れてなんかいない」

 そう思えるうちは、きっとまだまともだ。
 そう、信じていたかった。

「……っ」

 不意に、ロングスカートに足を取られてしまう。
 バランスを立て直すことが出来ず、イヴはそのまま地面へと倒れ込む。
 訪れる衝撃に備えようと、イヴは強く目をつむっていた。
 だが体に痛みはなく、背後から強い力で腕を引かれている。

「あなたは、愚かだ」

 この状況でもっとも聞きたくなかった声に、イヴは目を見開き、大きく肩を震わせた。
 怒っているとも取れる静かな声を発した主は、イヴの心境を知ってか知らずか、事務的なまでに淡々とイヴの体を助け起こした。
 背後から抱きすくめられるような形となり、心中は決して穏やかとはいえない。
 過呼吸をおこしそうになる身を必死に落ち着けようとするも、そう簡単に冷静になれるものなら最初から苦労などしない。
 歓喜と恐怖がないまぜになり、余計に思考は混乱を極めていく。
 背後の蛇は、一体どんな顔をしているのだろうか。
 行くなと忠告したのに扉を開けてしまった主人に、心底呆れ返っているとでもいうのだろうか。

 だが、レボルトは淡々としている。
 事務的にイヴの体を助け起こすと、なんの感慨もないといった様子でそそくさと腕を離してしまう。
 再びふらつき壁に腕をついたイヴを冷え切った目で眺め、蛇は軽くため息を吐く。

「だから行くなと言ったんです。余計なことを思い出しても、地上に戻る足かせになるだけですよ」

「……余計な、こと?」

 心臓の音がうるさい。
 今、余計なことだと言ったのか、この男は。
 こうして死に物狂いで求め、会いたいと願い、地上での名前をも捨て去ったうえで会いに来たというのに、それをどうでもいいと捨てさった。
 靄のかかった頭に血が上っていく。理性を失った短絡的な脳は、背を向け無慈悲にもそそくさと回廊を進んで行くレボルトの後ろ姿を恨みがましく睨みつけることしかできない。

「過ぎたことを思い出して何になるというんです? あなたは地上に帰るんでしょう? なら、とっとと行きますよ。もたもたしていないで、ちゃんと歩いてください。今度こそ迷わないでくださいよ。俺だって、暇じゃないんです」

 吐き捨てるようにして、レボルトは淡々と答える。
 振り返る素振りはない。
 沸騰した頭は煽られているだけなのだとも気付かずに、イヴは歯を食いしばり、見当違いな憎悪を込めて、レボルトの広い背中をその場にとどまり睨みつけた。

「……あなたにとって」

 ゆっくりと、レボルトが歩みを止める。

「過去はもう、どうでもいいというの?」

 二人で過ごした時間も、二度の口付けも、すべて無意味だったといいたいのか。
 言外にそう問えば、蛇はぴくりとも表情筋を動かさず、純然たる事実として、興味なさげに淡々と呟きを零した。

「過去は過去です。そんなもの、俺にはどうだっていい」

 また、この男は逃げるというのか。
 そんなのは赦さない。今度こそ、この男を手に入れてみせる。
 イヴをまっすぐに捉える眼差しに混ざる黄金にも気付けずに、イヴは一人、ふらり、ふらりと、おぼつかない足取りでこちらを見下ろすレボルトへと歩みを進めていった。
 向かってくる喪服姿の少女を、レボルトは黄金の瞳で眺めている。
 倒れ込むようにして腕の中へ飛び込んできた主人を、蛇は逆らうことなく静かに受け止めた。

 レボルトのシャツを掴み、イヴは数度男の胸板に額を打ち付ける。

 だって、ずるいじゃないか。こんなにも求めているというのに、拒絶するなんて残酷すぎるではないか。
 もう全てどうだっていい。地上なんて、もうどうでもいいのだ。
 ただ、レボルトに会いたかった。今も昔も、ずっとずっと、レボルトの影を追い続けていた。
 ただの友人以上になりたかった。下僕と主人以上の関係になりたかった。見守るだけでなく、全て奪い去って欲しかった。
 あの時だって、身勝手が許されるものなら無様にもレボルトにすがってしまいたかった。だが、出来なかった。これ以上裏切りたくなかった。
 辛かった。ずっとずっと我慢してきた。課せられた義務は果たさなければいけない。
 そう思って仕方がないと諦めていた。それももう終わりだ。
 父のこともアダムのことも、どうだっていい。
 全部、何もかも、どうでもいい。

(……私には、レボルトがいればそれでいい)

 ああ、今ならば許される。

「イヴ様」

 だって、今の私は、王の娘ではないのだから。

 ならば、自由な生を送って何が悪い。
 下僕を好きにして、何が悪い。
 欲しいものを欲しいと言って、何が悪い。

 しばしされるがままになっていた男が咎めるように名を呼んだ瞬間、イヴの中で何かが切れる音がした。

「……レボルトは、私の下僕なんでしょう?」

「……イヴ様?」

 怪訝な顔で、レボルトはイヴの言動を見守っていた。

「……だったら、私のために壊れてよ」

 首に腕を回し、呆然とする男の顔を引き寄せ、イヴは必死につまさきを伸ばし、レボルトの唇を奪った。
 アダムやレボルトにされたものに比べれば、幼稚もいいところだ。技術も何もあったものではない。だが、レボルトの機嫌を取るには十分すぎるものだったらしい。
 すぐに離れてしまったイヴを鼻で笑うと、レボルトはイヴの腰を支え、喉元を食い破らんばかりの深い口付けを落とした。
 予想外の反撃にイヴは腰を引くも、それを許すまいとばかりにレボルトは口付けを深めていく。
 歯列をなぞり、舌を絡ませ、強い力で腰を掴まれる。
 空気を求め口を開けば、さらに深く貪り喰われていく。
 そこに、先ほどまで淡白にイヴを拒んでいた従順な僕の面影はない。
 あるのはただ、罠にかかった獲物を恍惚とした目で見つめる肉食獣の眼光だった。

 イヴが息も絶え絶えになった頃、ようやく蛇はキスをやめた。
 勝ち誇った笑みを浮かべた蛇は、ぼんやりと熱のこもった目で下僕と蔑んだ相手を見上げる主人を眺めている。
 後ずさろうとしたイヴをそっとその場に押しとどめ、レボルトは熱のこもった声でイヴの耳元に囁きかける。

「……本当に、あなたは愚かな人だ」

 どういう意味?

 問おうと開きかけた口は、声にならない声を上げるだけだった。
 言い切った勢いのままに、レボルトは何の躊躇いもなくイヴの首筋に牙を突き立てた。
 甘噛みなどという次元ではない。首に、何かが食い込んでくる感触がした。
 噛まれている。殺されるのかと身を硬くするも、レボルトは食い破ろうとしているというわけではないらしい。

 一体、何がしたいのか。

 レボルトを引き剥がすため、イヴはとっさに腕をふり上げようとした。だが、出来なかった。
 体に、力が入らない。それどころか、意識がゆっくりと遠のいていく。
 また、拒絶するつもりなのか。
 どこか不安げに伸ばされた小さな腕をそっと手に取り、倒れいく主人を抱き上げた男は、安堵させるかのように、静かにイヴの手へと口付けを落とした。
 霞む視界でイヴが最後に目にしたものは、うっとりと、心底満足げに口角を釣り上げる、金の目をした蛇の姿だった。

* * * * * * *

「蛇がどうして悪魔なんて呼ばれているか、分かるか?」

 あれはいつのことだっただろうか。確か、レボルトの元を始めて訪れてから、1年ほど経過したころだっただろうか。
 書斎の本棚を物色するアダムを机の上に腰掛け眺めていると、不意にそんなことを聞かれたことがあった。

 いつだって、アダムは蛇を悪く言う。
 もっと言ってしまえば、アダムはレボルトのことが嫌いだ。
 兄の言葉に、イヴは首を横に振った。
 何度も会って話をしているが、やはりレボルトはそこまで毛嫌いされるような相手ではないように思えた。口は悪いが、ただそれだけだ。確かに意地も悪く、性根もひん曲がっているが、それだけ。
 極悪人というほど悪い男というわけではない。
 イヴの不満を見抜いてか、アダムは呆れたように溜息を吐いてみせた。

「……お前、まさか会いに行ったんじゃないだろうな」

「そ、そんなわけないじゃない! わたし、いいつけはきちんとまもっているわ!」

 言いつけは守っている。その言葉に偽りはない。
 父がいいと許可したのだから、決して逆らっているわけではない。
 そういうことにしようと、イヴは乾いた笑みを発した。

「ならいいんだがな」

 投げやりに言いながら、アダムは手に持っていた本を所定の位置へと戻していく。
 戻しては新たな本を手に取り、探していたものでなかったと気付くとまた戻し、新たなものを手に取る。先ほどからその繰り返しだ。

「……蛇に魅入られたが最後、いつか必ずその身を滅ぼすことになる」

「みを、ほろぼす?」

「……よくないことが起こる、という意味だ」

「ふーん」

 興味なさげに呟けば、部屋には沈黙が満ちる。
 ぶらぶらと短い足を戯れにばたつかせ、イヴは兄の背をそっと眺めていた。

「……本当に、面倒なことになった」

 しばしの沈黙ののち、アダムはイヴに気取られぬよう、小さな声で呟きを漏らす。
 その視線の先、青空の下、窓の外に身を顰める金の目をした一匹の蛇から妹を隠すように、アダムは勢い良く部屋のカーテンを閉ざした。
 イヴが自身を付け狙う影に気付いていないことが、その時のアダムにとっては唯一の救いであった。
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