地獄の底でふたりきり

ぬえもと

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16.蛇の口裂け

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 一体、どれほどの時が経過したのだろうか。
 倦怠感を覚える体に鞭を打ち、イヴはベッドに横たわったまま緩慢な動作で、おもむろに額に片方の手の甲を押し当てた。
 手首を動かすたびに、じゃらりという耳障りな音がイヴの耳を刺す。
 今この場に、アダムはいない。その事実にイヴが深く息を吐けば、体は一層マットレスの海へと沈み込んでいく。

 アダムには調整者としての仕事がある。
 そう毎日イヴに掛かりきりになれるほど男が暇ではないことが、イヴにとっては唯一の救いであった。
 それでも、最初の数日は執拗なまでに貪られ続けた。
 少なくとも時間感覚がおかしくなり、逃げようにも起き上がる気力がなくなる程度には憔悴しているのは確かだった。

 初めて体を重ねたあの日から、アダムは宣言通り一切イヴの外出を許さなかった。
 それどころか、寝室から一歩も出してもらえていないのが現状だ。
 レボルトに会うどころか、しばらくイヴはアダム以外の顔を見ることすらしていないことになる。
 父の姿すら見ていないところを見ると、この状況を黙認されているのか、それともアダムが牽制をしているのか。

 いずれにせよ、状況は決してよろしくはないようだ。

 幸いにも、執拗なまでに世話を焼きたがるアダムのおかげで、食事や衛生的な面には何も問題はない。
 問題がないところが、一番の問題だった。
 いっそのこと手酷く扱ってくれれば諦めもつくというのに、アダムはイヴを手酷く扱ってはくれなかった。
 今だって、別段外に出ることが許されているというわけでもないのに、体は清められ、いつの間に着せられたのか白いキャミワンピをまとっている。
 おそらく眠っている間に着せられたのだろうが、どうせ脱がせるのだから放っておいてくれればいいというのに。

 アダムから向けられる情の全てが、今のイヴにとっては苦痛以外の何物でもなかった。

 溺愛されているといえば聞こえはいいが、これは実質上の監禁だ。
 手首には枷をはめられ、もしも肉体的に元気だったとしても、そもそも縛られていてはこの部屋から出ることは出来ない。
 軽く引っ張ってみたところで、耳障りな音を立てるだけで外れる素振りはない。
 力づくで抜け出すということは現状不可能に近かった。

  空いたもう片方の腕で掛け布団を胸元に引き寄せながら、イヴはおもむろに窓の外へと視線を這わせる。
 夕日の赤ですら、今のイヴにとっては度のすぎる眩しさだった。
 窓に背を向け、ベッドの上で小さく体を丸める。
 体を動かせば、どろりとむき出しのふとももに何かが伝う感触がする。
 眉をしかめおもむろにシーツを掴めば、ぐしゃりとイヴの意思に合わせ皺が刻まれていった。

 どこか遠い目で呆然とその様を眺めながら、イヴの脳裏には皮肉げに口角を吊り上げた、いけ好かない金髪が浮かび上がる。
 アダムのことを好きになれたのならば、一体どれほど楽だったのだろうかと、今でも思わずにはいられない。
 それどころか、心なんてなくなってしまえばいいのにとすら思えてしまう。

 だが、忘れられない。

 いつも見下した目でこちらを見る金髪の男を。
 強引に唇を奪っておきながら、嫌いだと頑なに拒み続けた残像を。
 下僕だと言いながら、最後まで決して膝だけは折ろうとしなかった黄金を。

 ああ、下僕だというのならば。

 追い詰められた頭はどこまでもバカなことを考える。

「……助けに、来なさいよ」

 その上で、みっともなく惨めな主人に許しを請えばいい。
 遅くなってすまないと、無様に膝をつけばいいのに。

 かすれ声が、虚しい音を弾き出す。
 唇をきつく噛み締めれば、微かに鉄の味がした。

 嫌われているのは分かっている、完璧な容姿をしたあの男にひとつでも汚点を残せたのならそれで十分なのだと言ったのと同じ口が、無様にも救いを求めている。

 何をバカなことを。
 口に出してしまえば、自分の惨めさに笑いがこみ上げてきた。

 肩を震わせ声を上げ笑えば、揺らいだ鎖が歪な音を立てる。
 代わり映えのない現実から目を背けるように、イヴは体を抱きしめる腕に一層力を込めた。
 一時瞼を閉ざせば、茜色に染められていた室内が一瞬で黒に満たされる。

 その時だった。
 悪魔の靴音が、響いてきたのは。

 深くベッドの中に身を潜め、亡霊を恐れる子供のようにシーツを握る腕に力を込める。
 また、この身を穢されるのか。
 いや、勝手にそんな風に思い込んでいるだけか。
 アダムの妻なのだから、ここで行われていることは何もおかしくはない。

(……でも、私は)

 どれだけ体を捧げようとも、この心は既に蝕まれている。

 靴音が、部屋の前で止まった。
 だががちゃりとドアノブが回る音はすれども、その後扉が開く気配はない。
 何かやり残した仕事でもあったのだろうか。
 アダムの訪れが先延ばしになるのならば、それに越したことはない。
 いずれにせよ、行われることは同じだ。ならば、どうでもいいことかと、イヴは投げやりに瞳を閉ざしベッドの上で縮こまっていた。

「イヴ様」

 不意に、名を呼ばれる。それと同時に、強い風に部屋のカーテンが音を立てて揺らいだ。
 久しぶりに耳にする呼称、布一枚を隔てた先の低音に、大きく体が震える。
 だってこんなのは、あまりにも都合がよすぎるではないか。

「助けに来いと言ったのはあなたのくせに、いざ来てみれば無視ですか。全く、どうしてあなたのような人に名付けを許してしまったのか。……一生の不覚ですよ」

 声の主は、わざとらしく溜息を吐く。
 布団の上からイヴの背をさする手つきは、酷く優しい。

「いつまでそうして包まっているつもりですか? せっかく来たんです。顔くらいは見せてくれませんかね」

 投げかけられた苦笑いを遮るようにして、イヴは布団を力強くめくり上げた。
 開かれた視界の先、黒いスーツに身を包み、身をかがめるレボルトの姿があった。
 どうやってここに入ってきたんだとか、言いたいことはいろいろあったはずなのに、いざ久方ぶりに神経質そうな顔を見てしまえば、頭の中が真っ白になってしまう。
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたレボルトの胸板を、イヴは体を起こし、無意識に殴りつけていた。

「……ばか」

 ゆっくりとベッドの上に腰掛けたレボルトは、無表情の中に微かな憐憫をにじませて、イヴの暴挙を眺めていた。
 レボルトはベッドの上に座り込んだイヴの肩を押さえ、イヴが動くたび響く鎖の音に、むき出しになった肌に刻まれた赤い華に、思い切り眉をしかめる。

「ばか、ばか、ばか……! この馬鹿っ! 大馬鹿! 大嫌い! ばか、馬鹿馬鹿馬鹿!!!」

 殴りつけるたびに、執着の証が音を立て揺れる。
 威圧的に細められた蛇の眼差しにも気付かず、イヴは無心でレボルトの胸を殴りつけていた。
 イヴの肩を支える腕は、らしくないほどに暖かい。
 罵倒の一つでも飛ばしてくれればいいものを、レボルトは無言でイヴの身を引き寄せ背を撫でるだけだ。
 レボルトが、一層イヴの肩を強く引き寄せる。
 ボロボロの体を抱きしめる腕は、やはりイヴの知るレボルトとは違う人のものに思えた。

「……助けに来れるなら、もっと早くに迎えに来なさいよ」

「相変わらずかわいくないことを言う」

「うるさい、ばか」

 レボルトの肩に、軽く頭突きを食らわせてやる。
 自分でもかわいくないことは分かっている。
 こんな性格になってしまったのは誰のせいだと思っているのか。
 昔なら、それこそレボルトと出会ったばかりの頃であったのなら、もっと素直になれたのかもしれない。

 だが照れ隠しに口走ったところで、大人しくされるがままになっている時点でレボルトに胸中は知れ渡っていることだろう。主人を腕に抱く蛇は、喉元から低い笑い声を漏らし、らしくなく上機嫌だ。

「邪魔、ですね」

 見上げた先のレボルトの目が細められる。
 一瞬黄金の輝きを覗かせると同時に、視界の隅でイヴの両手首を繋ぎ止めていた鎖が、音を立てて外れた。

「今の、どうやって。……そもそも、どうやってここに」

「色々あるんですよ。色々とね」

 レボルトがイヴの体から手を離す。
 立ち上がった男は、スーツの前裾を両手で下に引っ張り身を整えながら、ぶつぶつと何事かを吐き出した。

「まだ…………か」

「今、なんて」

 声が小さすぎるせいで、何を言っているのかイヴには断片的にしか聞き取ることが出来なかった。
 振り返ったレボルトは、質問には答えず仏頂面でシラをきっている。

「時間がありません。ここから逃げる気があるのなら、この手を取ってください」

 差し伸べられた手を取るのに、何の躊躇いもなかったと言えばきっと嘘になる。
 自分が何のためにここで育てられたきたのか、アダムにどれほどの愛を捧げられてきたのか、そんなことは痛いほどに分かっている。
 それでもと、イヴはレボルトを見上げる瞳に力を込めた。

 夕日の赤が、レボルトの横顔を赤く染め上げる。
 息を飲み、一拍置いてから、イヴは差し出されたレボルトの腕を強く握りしめた。
 手を取ると同時に、レボルトは力強くイヴの腕を引いた。
 体が宙を浮く感覚に咄嗟に目を閉ざす。
 次に目を開いたとき、イヴの体はレボルトの腕の中にあった。
 抱き上げている本人は、顔を赤く染め混乱しているイヴを無視し、軽々とイヴを抱き上げたまま、部屋の入口へと向かっている。

「ちょっと、自分で……っ」

「どうせ腰は立たないでしょう? 今日くらいは、至らない主人のためにサービスしてあげますよ」

 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
 何が起こったのか全て見透かされているのかと思うと、今更ながら急に消えてしまいたい気持ちになった。
 肌に刻まれた情事の痕跡を見れば何があったかなど、想像に難くないだろうに。
 急に大人しくなったイヴに何を察知したのか、レボルトはなぐさめるようにしてイヴの背を数度叩いてみせた。それが無性に、イヴには虚しく思えた。

 レボルトが部屋の扉に手をかける。鍵がかかっていたと思われていたそれは、呆気ないまでに簡単に開かれていった。
 押し開けられた扉の先、広がる見覚えのない空間に、イヴはレボルトの首に回した腕に力を込めた。
 アダムの部屋の先にあったものは、天井も、壁も、全てが鏡作りの長い長い廊下だった。
 レボルトはイヴの困惑を知ってかしらずか、足で扉を閉ざし、平然とした顔のまま鏡作りの廊下を闊歩していく。

「俺は、あなたを軽蔑したりはしませんよ」

 果てのないとも思える廊下を歩きながら、レボルトはぼそりとそんな声を漏らした。
 鏡の中に浮かぶレボルトは、見慣れた顔で口の端を吊り上げた。

「元から嫌いなんです。最初から期待なんてしていないんですから、これ以上評価を下げようもないでしょう?」

 嫌いだというくせに、レボルトの声は残酷なまでに柔らかい。

「それもそうね」

 レボルトの首元に顔をうずめながら、イヴは静かに口元に笑みを浮かべた。
 嫌われていようとも、義務感で偽りの優しさを向けられているのだとしても、こうして迎えに来てくれたのならこれ以上は何も望むまい。

 蛇と無様な女が二人きり、永遠とも思える鏡の廊下を進んでいく。
 何もかも現実離れした光景に、イヴは小さく息を吐いた。
 首にかけた腕を離し、頭をレボルトの胸に傾けながら、イヴは問う。

「ねえ、どこへ行くの?」

「そうですね……。ここではない、どこかへ」

「何よそれ」

 イヴの質問に曖昧な笑みを返し、レボルトは先へ先へと進んでいく。

「イヴ様は、どこか行ってみたい場所はありますか?」

「……平和な場所がいいわ。静かな場所なら、どこでも」

(……レボルトと一緒なら、どこだって)

「分かりました」

「ねえ、レボルト」

「なんですか?」

「ありがとう。来てくれて、嬉しかった」

「……ただ逆らえないだけですよ」

「なんだっていいの。レボルトが来てくれたっていう事実は変わらないもの。私は、それだけで嬉しい」

 レボルトが名前に縛られていることなど、とっくに分かりきっている。
 それでも救い出しに来てくれたことに変わりはないのだ。
 ならば、それだけで十分報われている。
 この道の先に何が待っているのか何てわからない。
 それでも、レボルトと一緒ならばどんな場所だって楽園と思えることだろう。

 やがて、レボルトは一つの扉の前で足を止めた。
 何の模様も刻まれていない、シンプルな白樺のドアだった。

「立てそうですか?」

「……たぶん」

 イヴが小さく頷いたのを確認し、レボルトは素足のイヴをそっと地面に下ろした。
 よろめきイヴがバランスを崩せば、レボルトはそっと肩を抱きイヴの体を受け止めた。

「……ごめん」

「いいですよ、別に。あなたが――」

「迷惑なのはいつものこと、でしょう?」

「……そうでしたね」

 前髪を掻き上げながら、レボルトは不器用に笑う。
 いつも傲岸不遜なレボルトらしくもない、妙に弱気な態度にイヴは首を傾げた。

「イヴ様」

 静かな声に顔を上げると同時に、レボルトはイヴの身をそっと扉に押し付けた。
 身をかがめ、イヴの肩を掴み、レボルトは深く息を吸い込んだ。

「一度しか言いませんから、よく聞いてください」

「な、何よ」

 急に改まった顔をされると、どうしていいのか分からなくなる。
 真剣な紫色の目を直視できずに、イヴは言いながらそっと顔を逸らした。

「急に――」

 言いかけた声は、喉の奥へと吸い込まれていった。
 顎を片手で掴まれたかと思えば、ぐっとレボルトの方へと向きなおらされてしまう。
 黙っていろとばかりに、初めて唇を奪ったあの時とは正反対の触れるだけの戯れを施し、レボルトはイヴの瞳を深く覗き込んだ。

「俺は、あなたが嫌いです」

 嫌いだと言うのなら、どうしてそんな顔をするのか。
 捨てられた子犬のような顔で、すがるように見つめないでほしい。
 愛の告白をするのと同じトーンで、蛇は主人に嫌いだと嘯く。

「毎回毎回、俺の気持ちも知らないで好きだ何だと鬱陶しい。来るなと言っているのに何度も舞い戻ってくるわ、強情だわ、わがままだわ、めんどくさいわ、ちっともかわいくない。……本当に、大嫌いです」

 肩を掴む腕に込められた力が増す。
 イヴの顎を掴むもう片方の腕の親指が、確かめるようにイヴの唇をなぞっていった。
 レボルトのやっていることは支離滅裂だ。
 嫌いだと発したのと同じ口で一度ならず二度もイヴの唇を奪い、触れる指先は壊れ物でも触れるかのように優しい。
 これが、嫌いな相手への対応なわけがない。
 心臓がうるさいほどに脈を早めている。

 イヴは臆病な人間だ。
 好きだなんだと勝手なことを言っておきながら、いざレボルトに好意を持たれているのではないかと仄めかされると、心底困惑してしまう。

「そう、思っていたんですがね」

「え……」

「――俺といると、あなたは不幸になる。だから全てを忘れて、誰にも手出しのできない場所で、どうか、今度こそは安らかな生を」

 レボルトが言い終わり、イヴが目を見開くのと同時に、レボルトはイヴの体ごと扉を押し開いた。
 押し込まれた先に広がっていたのは、一面の闇だった。
 ぽっかりと扉の先に広がる大きな穴の中を、気付けばイヴは一人落ちていく最中だった。

「違う……っ! 私は……!」

 ただ、レボルトと一緒にいたかった。
 それだけなのに、それ以上なんて望んでいないのに。
 不幸なわけがない。
 救いに来てくれただけで満足だった。
 そう思い込んでいたかったのに、どうして最後にそんなことを言うのか。

「レボルト……!! 私、私は……!!」

 暗い闇の中を落ちていく中で、イヴはぽっかりと扉の形に空いた穴を見つめていた。
 手を伸ばせども、届くはずはない。
 レボルトを掴もうと、イヴは必死に身をよじり、落ちていきながらもがき続けた。
 分かってはいても、頭上に見えるレボルトの影を追い求めてしまう。

 ドア枠を掴んだ蛇の顔は、よく見えない。

 違う、忘れたかったわけじゃない。
 幸せな生? そんなものどうだっていい。
 レボルトと一緒に居られるのならなんだってよかった。
 助けに来てくれて、嬉しかった。
 呼びかけに応えてくれて、本当に嬉しかったのだ。

 下僕だって何だって、その身を縛れるのならなんだって。

 それなのに、どうして一人穴の中を落ちているのか。

 幸せの頂点から、一気に絶望のどん底へと叩き落された気分だった。

 今度こそは、とはどういう意味なのか。
 この先に待っているものが何なのか。
 楽園の下に存在するもの、落ちていく先にはなにがあるのか。

 「い、や」

 察した瞬間、漠然とした言葉が無意識に口をついて出た。

 地上になんて行きたくない。
 新たな生なんて歩みたくない。
 それは確かに、アダムとの婚姻関係を断ち切るには最善策であろう。
 転生し別の人間となってしまえば、全てが無に帰す。
 だが全てをなかったことにするということは、レボルトとの契約もなくなってしまう、ということと同意だ。

「いや、いや、……そんなの、いやよ」

 レボルトと結んだ唯一の糸だけは、断ち切りたくない。
 嫌だ、絶対に。
 忘れたくなんてない。
 やっと思いが届いたというのに。それなのに、この仕打ちなのか。
 もがく、あがく、抗い続ける。

 伸ばした腕は虚しく空を切り、どれほど涙をこぼそうと、重力には逆らえず体は無様に下へ下へと落ちていく。

 嬉しかった。
 そのはずなのに。

 溢れ出した身勝手な想いは、やがては暴走を始め出す。
 許さない、絶対に、許せない、許したくなんてない。
 下僕だというのならば、逆らえないというのなら、どうしてこんなことをした。

 どうして、どうして、どうして。

 結局、レボルトは最後まで明確な好意を口にしなかった。
 でも、そんなのはずるいではないか。
 最後くらい、せめて最後くらい、好きだと言ってくれればよかったのに。
 すがるような顔をするくらいならば、好きにしてくれればいいのに。

 ああでも、臆病なのはお互い様だったのか。

 深い深い絶望の底へと堕ちていくなかで、イヴは天に伸ばした腕を強く握りしめた。

 絶対にこの気持ちを忘れたりなんかしない。
 別の人間になろうとも、この契約だけは手放したりなんかしない。
 身勝手と言われたって、何だっていいのだ。

 レボルト。
 私は、あなたを許さない。

 だから、次にもしも出会う時が来るのならば、その時は、真に私のことを思うのならば。
 今度こそは、心の底から壊れてほしい。

* * * * * * *


「それでね、昨日のドラマがすっごい面白くって」

 帰り道、友達と制服姿で街を歩いていると、――は、不意にどこからともなく這うような視線を感じた。
 立ち止まると同時に、赤みがかった長い髪が風に吹かれ揺れる。
 ――はカバンを握る両腕に、ぎゅっと力を込めた。
 視線の先を眺めたところで、不審な影はない。
 ただ気配だけが、――の肌に絡みついて離れなかった。

 子供の頃から、何かがいつも近くにいるような感覚がする。
 気配は決して気のせいなどではなく、ソレは確かに少女の影に潜んでいて、いつも危険から遠ざけようとしていていた。
 それこそ守護霊のように、ソレは――の側に当然のようにあるものだった。
 だが、守ってもらっていることを感謝した日は一度たりともなかった。
 だってそうだろう。

 これは、私の側にあって然るべきものなのだから。

(……私、今何を考えて)

「――? どうしたの?」

 友人の呼び声に、――は気配へと背を向けた。

「何でもない」

 首を横に振り、年々強くなる明確な気配に無視を貫くと、――は数歩先で立ち止まった友達を駆け足気味に追いかけていった。

 嫌い、嫌い、大嫌い。
 見つめるくらいなら、奪ってくれればいいのに。
 忘れろと言ったのはそっちなのに、しつこく付きまとうなんて残酷ではないか。
 ああ、いつだってそうだ。
 肝心なところで、奪い去ってはくれない。壊れてはくれないのだ。
 幸せになれと、他力本願な願いで――を遠ざけてしまう。

「……だから、蛇は嫌いなのよ」

 ――の囁きは、秋風の中に密やかに掻き消えた。
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