えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

めでたし、めでたし

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――その日、九条正孝(くじょうまさたか)は奇跡を見た。

 少女の安否が気に掛かっていた九条は、図書館で少女と言葉を交わしたその日からずっと、物陰に隠れ異形の男と少女の行動をつけていた。
 しばらくは、特に篠塚家に変化は見られなかった。
 いたって普通の、住宅街にある一軒家。
 時折男が洗濯物を干すために窓を開ける程度で、どこかへ出かけるという兆しもない。

 変化が起こったのは、それから二日後のこと。
 昼過ぎに突然玄関のドアが開いたかと思えば、二人はスーツケースを持ち、駅へと向かって夏の日差しの中を歩いていく。
 日傘をさし、少女を気遣うようにして微笑む男は、一見すれば人間の男と変わりないように見えた。至って普通の、どこにでもいる平穏な男。

 だからこそ、九条の目にはより異質なものに映る。

 少女が図書館で本を落とした時開かれていたのは、「犬神」の項だった。
 だとすればあの男は、到底人間の少女が一人で御しきれるような、生ぬるい存在ではない。

 犬神は主人の願いを叶え、使い切れぬほどの富、ありとあらゆる名声を主人に与えるが、最期には必ず――

 ――必ず、主人を不幸(・・)にする。

 あの本に書かれていた通り、「犬神」とはそういう化生(けしょう)のはずなのだ。
 与えるだけ与え、それこそ呪いのようにじわじわと術者の心身を食い潰す。
 客観的に見れば間違いなく少女の横を歩く男は「良くないもの」で、排除すべき悪霊のはずだ。
 だから、客観的に見れば何もかも間違っている。
 恋人か何かのように歩幅を合わせ歩くのも、繋がれた腕に頬を赤らめ、嬉しそうにはにかむのも、全部が全部、見せかけだけの偽りの愛情だ。

 そのはずだと、頑なに信じていたかった。

 だがあの日、九条は奇跡を見た。

 何の変哲もない、観光地から外れた辺鄙な田舎道を進んでいく二人の後を付け、次に目を開けた瞬間、九条の目に飛び込んできたのはそれこそ、奇跡か魔法とでも形容しなければ説明がつかない情景だった。
 突如として現れた、一面に広がるひまわり畑。古びた白亜の教会。
 その中に佇む花嫁姿の少女と、スーツを纏う仏頂面の男。
 
 瞬間的に頭を駆け抜けていったのは、「ここにいてはいけない」という、至ってシンプルな逃走本能だった。
 今自分はきっと、見てはいけないものを見た。
 触れてはいけない場所に、踏み込んでしまった。

 図書館で別れた時、遠巻きに口を動かす彼女は何を伝えようとしていたのか。
 その所作を思い出し、九条は一人戦慄する。

 ――この幸福を、壊さないで。

 まさかと、先ほどまでは雑木林だったはずの、背の高いひまわり畑に身を潜めたまま、九条はぎこちなく口角を吊り上げた。
 立ち去るべきなのは分かっている。けれど、足が動かなかった。
 頬を赤らめたまま泣き崩れる少女と、慌てたように膝をつく男の姿を凝視する傍ら、背を嫌な汗が伝い落ちていく。

 この異空間としか形容出来ない悪趣味なまでに美しい情景の中にあるのは、一人の人間の少女に対する、一途で、どこまでも真摯な想いだった。

 ただ部外者だけを置き去りにして、長く重い口付けが終わる、その刹那。

 ――男と、目が合った。

 主人の隣にいる時の無表情とはわけが違う、 感情の一切を削ぎ落とした作り物の顔が、まっすぐに九条の瞳を射抜く。
 思っていたよりも無害な存在なのではないかと考え始めていた九条の甘い考えを、真っ向から粉砕するように。深い闇に、呑まれそうになる。
 未知の存在を前に、九条は本気で死を覚悟した。
 
 ――魔法が、終わる。

 それはきっと、化生の腕の中にある少女が瞼を押し上げるまでの、一瞬の間の出来事。
 次に目を開けた時、九条は元の雑木林の中にいた。
 ひまわり畑も古びた教会もなく、あたり一面に響き渡る蝉の声が九条の意識を現実へと引き戻していく。

 生きている。どうして自分が生かされているのか、その理由は定かではない。だが己の生を認識した瞬間、九条は周囲を見渡し、一心不乱に男と少女の姿を探した。
 
 そうして目にしたのは、九条になど目もくれず、腕をつなぎ、慈愛に満ちた顔で主人を見つめる悪霊であるはずの男と、その愛を享受する一人の少女の微笑みだった。

 立ち尽くし、二人の後ろ姿を見守りながら、九条は考えを巡らせる。
 ネットが発達した今のご時世、オカルト記事に食いつく人間はそう多くはない。
 だから、この調査に意味なんてない。

 ただ彼女が飼い犬の悪霊に取り憑かれ、無残に死んでいくのを黙って見過ごすことが、我慢できなかっただけ。
 ただそれだけのほんの少しの身勝手な正義感で、九条はこれまで仕事の片手間に独断で二人の調査を続けていた。

 大勢の人間を殺した。
 その時点で、男は間違いなく良くないものであるはずなのだ。

 けれど確かに。

 あの一瞬、九条は幸福の姿を見た。
 常人には理解し得ない、異形の愛を見たのだ。


***********


 旅行から、幾日か経過したある日。
 アスファルトがじりじりと熱を反射する、身を焼き尽くすような灼熱の中。
 夏休みらしく元気に走り回る子供達の声をどこか遠くで聞きながら、九条は一人篠塚家の前に佇んでいた。
 勢い勇んでインターホンに手を伸ばしては、躊躇いがちに下ろしていく。
 そんなことを何度か繰り返した時。

「何しに来た」

 感情を読ませない平坦な声が、九条の耳を刺した。
 咄嗟に振り返れば、スキニージーンズのポケットに乱雑に両腕を突っ込み、不機嫌さを隠しもしない端正な顔立ちの男が視界に飛び込んでくる。

 ドアは、開かなかったはずだ。
 それなのに、男は事も無げに九条の背後に立つ。
 まじまじと男の能面を眺めながら、九条は一人息を呑んだ。

「……そんなに、死にたいのか」

「ま、待ってくれ! 僕はもう、君たちに関わる気はないというか、……ただ最後に。……これを、渡しておきたくて」

 未知のものに対する震えを必死に押し殺し、持っていた肩がけのカバンから一冊、革製の手帳を男へと差し出す。

「篠塚さんと、君に関しての調査ノート。ここに書かれていることが、僕の知っている全てだ」

 だからどうしたとでも言いたげに、微かに男の眉が動く。
 あんなことがあった手前、会うのが恐ろしくなかったと言えば嘘になる。
 けれど、九条はどうしても男に会わなければならなかった。

「……正直、自分でも何を考えているのか分からないよ。これが正しい判断なのかも、分からない。わざわざここに来なくても、勝手に燃やすなり、捨てるなりすればよかったのかもしれない。でも……、これはきっと、僕なんかがどうこうしていいものじゃない」

 手帳を握りしめる指先に、力がこもる。

「そう思えたから、君に渡しておきたかった。他でもない君に。……これの処分は、君に任せるよ」

 しばしの沈黙ののち、男は慎重に手帳を受け取った。
 そのまま立ち去ろうとする男を呼び止め、九条は震える声で吐き出していく。
 
「それから、……最後に一つだけ、聞かせて欲しい」

 会って、最後に確かめたいことがあった。
 確かめなければならなかった。
  
「本気で彼女を、――篠塚さんを、愛しているのか」

 それが、一度は足を踏み入れ、関わってしまった者の責務だと思えた。
 
「ああ」

 立ち止まり、答えを返す男に一切の迷いはなく。

「愛している」

 男の顔が、ほんの少しの柔らかさを帯びる。
 心からの言葉に、九条は一つの確信を得た。

 どれほど男が悪いものであったとしても。
 大勢の犠牲の上に成り立つ、血にまみれた幸福だったとしても。

「――そう、か」

 何人も、踏み込んではいけない。
 部外者が、勝手な憶測と正義感で壊していいものではない。
 九条にとって眼前の男は、悍ましい人外の異形でしかない。
 呪いをもたらす、負の象徴でしかない。
 だが、きっと。あの少女にとっては――
 
「お幸せに」

 それが、理解し得ないものに対する、九条に出来うる限り最大限の敬意だった。
 すれ違いざま、黒い狗が男の言葉を鼻で笑う。

お前・・に言われなくても」

「っ――」

 咄嗟に振り返った時、そこに男の姿はなかった。
 じりじりと肌を焼く太陽の下、時折聞こえる風鈴の音をどこか遠くで聞きながら、九条はゆっくりと篠塚家の門前を後にする。
 
 本当にこれでよかったのかは、未だ分からない。
 もしかすると、とんでもない災いの種を放置してしまったのかもしれない。
 けれどと、重圧感からの解放に胸をなでおろしながら、九条は思うのだ。

 当人たちが幸せであるのならば、それでいいではないかと。

 九条は所詮、他人だ。
 少しばかり霊的なものが見えるだけで、何の力も持たない赤の他人。
 だからもう、関わるのは止めにする。
 故意的な虐殺ではなく、単なる事故だった。
 解き明かさない方が万人が幸せである事象も、この世界にはきっと存在する。
 だから――

 雲一つない快晴の下、少しだけ軽くなった鞄の肩紐を握りしめながら、九条は背中で別れを告げる。

 ――全ては夏の暑さが見せた、束の間のおとぎ話だ。


***********


 ――その日、無名の犬は少女と出会った。
 
 バリバリと耳障りな音を立てる、土砂降りの豪雨の中。
 閉ざされていたボロボロのダンボールの蓋が、ゆっくりと開かれていく。
 雨と血の匂いに混ざり最初に鼻に飛び込んできたのは、今まで嗅いだことのない、純朴で、どこか暖かな香りだった。
 傘から滴り落ちた水が顔に当たる感触で、犬は力なく瞼を押し開けていく。

「……なんで、うちの前にいるの」

 今にも消えてしまいそうな弱々しい声でそう発した時の少女の顔を、今でもよく覚えている。
 情けなく見開かれたのち、泣きそうになる黒い目。
 迷惑だと、言外に訴える震える唇。
 腰を上げ、立ち去ろうとする少女に、犬は瞬間死を悟った。
 
 けれど、少女は戻ってきた。見放そうと思えば、見放せたはずなのに。
 ここで犬が死んだととしても、誰も少女を責めはしないのに。
 咄嗟に駆け寄り、傘を庭に投げ捨て、雨水と泥でぐちゃぐちゃになった箱を躊躇なく胸に抱きかかえ、少女は犬を自身の家に迎え入れた。

 それからだ。少女との、奇妙な共同生活が始まったのは。

 犬の記憶にあったのは、自身よりも大型の獣に耳を食いちぎられる壮絶な痛み。 
 それから、所狭しと並べられた狭苦しい檻の中に、ゴミか何かのように押し込まれていたこと。鉄格子に塞がれた窓の先に、薄汚い室内とは対照的な大型の建物があったこと。
 残された片方の耳に飛び込んでくるのは、耳障りな獣の喚き声。

 それが少女――咲里と出会うまでの、くろの世界の全てだった。

 それなのに。

 ただいまと、自信なさげに吐き出される呟きが好きだ。
 くろが餌を食べるだけで、安堵したかのようにやわらぐ表情が好きだ。
 躊躇いがちに零される、名前を呼ぶ声が好きだ。
 静かに頭を撫でる指が好きだ。
 顔を舐めあげた時、困ったように笑うのが好きだ。
 生気のない顔が、くろの姿を捉えるその一瞬輝きを増すのが好きだ。
 抱き枕かのようにしてくろの体を包み込み眠る、その腕のぬくもりが好きだ。

 好きだ。
 好きなのだ。
 咲里の一挙一動、その全てが。
 どうしようもなく、愛おしい。

 咲里は何も言わなかったが一緒に過ごすうち、少女の居場所が外にはないことを知った。
 外の世界は変わらず無情で、ただ咲里だけが特別なのだということを知った。

 だからあの日――死の間際に過ぎったのは、飛び出したことに対する悔いではなく、今ここで死んだらこれから先一体誰がこの小さな主人を守るのだろうという、漠然とした恐怖だった。
 横たわったボロボロの体に顔を埋め、泣き喚く咲里を遠ざかる意識の中で感じながら、黒い獣は全てを呪った。

 離れるわけにはいかなかった。
 離したくなかった。
 初めて手にした安らかに眠ることの出来る家(ばしょ)を、己を愛してくれた特別な人を、――永遠のものに、してしまいたかったのだ。


******




 九条と別れたあと。
 受け取った手帳を、家の裏手で一人ぱらぱらと乱雑に捲っていたくろは、とあるページに書かれていた一文にその腕を止めた。

 ――必ず、主人を不幸(・・)にする。

 馬鹿なことをと、くろは一文を鼻で笑い飛ばす。
 瞬間、手のひらの上でボッという発火音がした。
 ページの隅から、小さな炎が燃え広がっていく。
 男はこのノートを好きにしろと言った。だったら、好きにさせてもらう。

 こんなものを、咲里に見せる必要はない。

 やがて、小さかった炎は手帳全体を呑み込んでいく。
 そうして最後には、跡形もなく、塵さえ残さず燃え尽きた。

(不幸になんて、するわけがない)

 少なくとも、咲里がくろを求め続けるのであれば。
 傍にいてと望むのならば、必要とするのならば。

 だがもしも、咲里がくろを捨てる――自分ではない誰かの横で、幸せになる。
 そんな瞬間が、万に一つも訪れるとするのであれば。

 その時はきっと、くろは咲里を不幸にするだろう。
 自分を縛り付けておきながら、他の男と幸せを享受しようとした代償として。
 最期は、地獄へと引き摺り降ろす。

 代償なんて大それたものではないかと、くろは自虐的に口角を釣り上げる。
 とどのつまり、それは単なる嫉妬以外の何物でもない。

 だが訪れるはずのない未来を考えたところで、そんなものは時間の無駄だ。
 ――死後、その魂を縛り続けるのだとしても。
 咲里との時間に、邪魔なものは何一つとして持ち込みたくない。
 そんなことを考えながら、くろは家の中に戻った。

「咲里」

 ソファーに腰掛ける咲里に背後から声を掛ければ、小さく肩を震わせたのち、ゆっくりとこちらを振り返る。
 咲里が突然姿を消したり見せたりすることに驚くことは既に理解していたが、微かに見開かれたのち、くろの姿を確認して安堵する瞬間が見たくて、ついついやってしまう。

「今、戻った」

「あ、うん。……その、な、何かあったの……? ほら、その、……突然姿が消えるから、そうなのかな……、なんて」

「ああ。家の裏に、ゴキブリがいた」

「ご――ッ!?」

「あんた、虫が嫌いだろう。だから、あんたの目に入る前に、始末してきた」

 嘘は言っていない。
 ゴキブリも人間も、咲里以外の存在など、くろにとっては等しく無価値以外の何物でもない。
  
「……そ、そっか。……ありがとう」

「ああ」

 ゴキブリという単語が、それなりにショッキングだったのか。
 必死に微笑みながらも、ヒクヒクと引き攣っている口角に、次からは別の虫の名前に置き換えることにしようだなんてことを考えながら、くろはそっと咲里の隣に腰を下ろす。
 ソファーの前に置かれたローテーブルの上には、くろが席を立った時と同じ状態のままにオセロ盤が放置されていた。盤面の状況としては、黒と白が半々、といったところだ。
 旅行から戻ってきたのち、咲里と古くなったフライパンを買い替えにホームセンターに出かけた際、ついでに買った代物なのだが、何度か試しに遊んでみたところどうにも琴線に触れたようで、最近では食後二人でテレビを見ながら、のんびりオセロに興じるのが生活の一部となりつつあった。

「悪かった。……途中で、席を立って」

「ううん。こっちまで入ってきちゃってたら、……オセロどころじゃ、なかったと思うし」

「……そうだな」

 涙目でゴキブリから逃げる咲里を、ありありと想像出来る。
 淡々と同意を示しながら、だがそれもそれで悪くはなかっただなんて、咲里からすれば物騒なことを思いながら、くろは試合を再開する。
 ひっくり返しては戻され、何度もそれを繰り返しては、マス目を埋め潰していく。
 テレビ台の上に置かれた片耳の犬の置物に見守られながら、時間は穏やかに進んでいく。
 しばしそうやってゲームを進めていったところで、咲里が小さく声を上げた。

「あ」

 ぱっと見では互角に見えたが、黒い石の数が多い。
 それすなわち、今回はくろの勝ちだ。

「相変わらず甘いな、あんたは」

 だからこそ、こんな男に取り憑かれてしまった。
 うっと言葉に詰まる咲里に表情筋を和らげながら、くろはテーブル上に広げたオセロセットを片付けていく。
  
「つ、次は、……勝つから」

「ああ」

 どこかすねたように鼻息を荒くしながらも、当然のように次の機会が与えられる。
 そんな単純なことに、途方もなく安堵した。
 
「楽しみに、している」

 あんたには、一生敵わない。
 言外にそんな意味を込めながら、くろは不意打ちにソファーに仰向けに寝転がり、咲里の膝の上に頭を乗せる。
 瞬間ぼっと赤くなった顔に、自然と笑みが溢れ出た。
 
「え、あ、……えっと」

「……撫でてくれないのか」

 昔みたいに。

 拗ねたように小さな声で付け足せば、益々咲里の顔は赤みを増していく。
 ただの犬だった頃、咲里はよく頭を撫でてくれた。
 だが人間の男の姿を取るようになってからは、くろが咲里を撫でるばかりで、咲里を撫でるのも無論楽しいのだが、少々の物足りなさを感じる。
 情事の時、どさくさに紛れて撫でられたことは何度かあったのだが、完全に素面となると話は変わってくる。

「な、撫でるって……、あの、でも、昔は昔っていうか、犬の状態で撫でるのと、人間の状態で撫でるのは、ちょっと、あの……、難易度が、違うと、……いうか」

「……俺は俺だろう」

「それは、そう……なんだけど」

 咲里はしばし、右往左往と落ち着きなく腕を彷徨わせていたが、じっと見つめ続けていると覚悟を決めたのか。
 恐る恐る、くろの頭に手のひらを乗せた。
 そのままゆっくりと動かされていく指先の感触に、くろは懐かしさを覚える。

 咲里と出会わなければ、自分には何もなかった。
 何かに敵意を抱くことも、こうして心安らぐこともなく、ただ無の中に沈んでいくだけ。
 だから心から、くろは咲里と出会えてよかったと思っている。

 ――旅行から帰ってきてから、咲里は以前と比べ格段に明るくなったが、それでも時折、負い目を感じているような節を見せることがある。

 与えられるばかりで、自分は何もしてやれていない。
 そう頑なに気にし続けていることを、くろが気付いていないわけがない。

 だが、そうではないのだ。
 ただ、隣に居てくれるだけでいい。
 以前そう口にした言葉に、微塵の嘘も、偽りもなく。

 名前を呼んで、こうして頭を撫でてくれるだけでいい。
 他者からすればそんな他愛のないものが、くろにとっては何物にも代えがたい咲里にしか与えられないものであり、それだけが、くろの世界を構成するすべてなのだから。

 安心感からか、眠る必要のない体を心地のよい眠気が侵食していく。
 うとうとと船を漕いでいると、頭上の咲里がほころぶのが視界の隅に飛び込んできた。

 夏の暑さから隔絶された、小さな小さな世界の中で。

「おやすみ、くろ」

 短い髪を優しく撫でる、咲里のぬくもりを感じながら。
 くろは一人、咲里に促されるままにゆっくりと瞳を閉ざしていった。



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