えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(じゅうに)

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 目を覚ました時、咲里が最初に感じたのは額を襲う冷たさだった。

 ついで、頬に触れる柔らかな熱の感触に吸い寄せられるようにして、ゆっくりと瞼を押し上げていく。
 焦点の合わない視界の中、最初に咲里の目に飛び込んできたのは、紺色と肌色で構成された壁だった。
 何度か瞬きを繰り返すうちに、やがて自分がじっと見つめていたものの正体が明らかになっていく。

「前にも思ったんだが」

 薄暗い照明の中。枕元に、紺地に細かな白ラインが刻まれたシンプルな浴衣を纏い、正座するくろの姿があった。咲里の頬に触れていたのは、どうやらくろの手のひらだったらしい。
 男のはだけた浴衣の襟から、微かにくろの胸板が覗いている。

「あんた、……俺の体を見るの、好きだよな」

 淡々と零された衝撃的な発言に、それまで夢と現実の狭間をさまよっていた咲里は覚醒を余儀なくされた。煌々と見開かれた咲里の目を、くろはきょとんとした顔で眺めている。

「平気か」

 先ほどの発言に特にフォローを入れることもなく、くろは枕元に置いてあった水の入ったペットボトルを差し出してきた。

「……え、あ、うん。あり、がとう」

 何やらとんでもないことを口にしていたような気がするが、喉が渇いているのは確かなので、ありがたく受け取っておく。
 布団から体を起こせば、額に乗せられていた濡れタオルが落下する。
 半分ほど水を飲んだところで、咲里はペットボトルをくろに返した。
 そのまま立ち上がろうとする咲里の両肩に、くろはそっと手を当て、押し留める。

「風呂で倒れたんだ。もう少し、横になっていた方がいい」
 
 未だ現状を把握しかねている咲里を、咎めるようにして。
 険しい顔をするくろに、咲里は渋々再び布団の上に横になる。
 再び咲里の額に濡れたタオルを乗せ、くろは安堵の息を吐いていた。

 勢い良く迫っておきながら、最終的にはのぼせて倒れるだなんて、それこそ大馬鹿ではないかと、咲里は自分の言動を思い返しては壁に頭を叩きつけたい衝動に駆られた。

 外はまだ暗く、くろの肩越しに見えた壁掛け時計は十時を指し示している。
 くろの言葉通り、眠っていたというよりも倒れていた、という表現が的確らしい。
 体調は、まだ熱が篭っているせいか多少フラフラする程度で、くろが世話を焼いてくれていたおかげか、それほど悪くはない。
 浴衣に着替えさせてもくれたようだし、いつもながらくろには世話をかけっぱなしである。

「……服、とか。いろいろ、ありがとう」
 
「ああ」

 淡々とした返事の後、長い静寂が落ちる。
 その沈黙を破るようにして、咲里は横たわったまま、羞恥をごまかすようにして軽くくろの浴衣の袖を引っ張った。

「くろ。あの、さっきの。その、……前にもって、……どういう」

 しばし、咲里の言葉の意味を掴みかねていたのか。
 くろは咲里の顔を凝視したまま固まっていたが、少しすると何を指しているのか理解したのか。
 
「……脱げと言っただろう」

 眉根を寄せ、どこか責めるようにして、そんな言葉をこぼす。
 くろの言葉を頼りに、咲里は記憶の中を探っていく。

(言われて、みれば)

 以前、なし崩し的にソファーの上で体を重ねた時、確かに言った。
 くろも脱いでくれればいい、と。 
 しかし――

「あ、あれは……、その、私ばっかり見られるのが、恥ずかしかった、だけで……!! い、今のも別に、見ようとして見たわけでは……!! そ、それに、その言い方は、ちょっと語弊があるって、いうか」

「じゃあ、嫌いなのか」

 拗ねたような言い回しに、咲里はたまらず押し黙る。
 別に、嫌いなわけではない。行為の時に抱きしめられるのは酷く心地がいいし、むしろ、ほどよく筋肉質な肌は、整いすぎてつい見てしまうというか。

(ということは、くろの言う通り、好きってことに……。でもそれって、とんだ変態なんじゃ)

「気に食わないなら、変える」

 あたふたと暴走を極める咲里の意識を、くろの声が現実へと引き戻す。
 淡々と、それこそ取り留めのないことにようにそんな言葉を吐き出した男の顔を凝視したまま、咲里は強く口元を引き結んだ。

「……変えられる、ものなの?」

 吐き出された言葉は、かき消えそうなほどに、弱い。

「ああ。……あんたが気に入りそうなものには、してみたつもりだが。……この姿は、単なる人間の紛い物だ。変えようと思えば、どうとでも変えられる」

 ――人間の、紛い物。

 くろの言葉に誘われるようにして、咲里はくろの左耳へと視線をやった。
 犬の姿の――本来のくろには存在しないはずのそれが、人間のくろには備わっている。浴衣の裾から腕を離し、咲里は腕をくろの顔へと向けて伸ばした。
 咲里の腕に応えるようにして、くろがそっと背をかがめる。
 しばしの躊躇いののち、咲里はくろの左頬に触れた。
 咲里よりも筋肉質な、暖かな熱の感触。触れた指先には、確かに耳の質量を感じる。血肉の通った、人間の肌の感触だ。

 ――では、くろ曰く「紛い物」の肌に触れ、泣きそうになるこの感情は何なのか。

「あんたが望むなら、すぐにでも――」

「ううん」

 くろの言葉を遮り、咲里はぎこちのない笑みを浮かべる。

 たぶん、最初は誰だってよかったのだ。
 別に、この姿でなくても構わなかった。
 けれど。

 左耳のない黒い犬も、今こうして不安気に咲里を見つめている仏頂面だって、くろであることに変わりはない。
 だから――

「……このままが、いい」

 この姿を選んでくれたくろの心を、篠塚咲里は愛したのだから。
 ――それが例え、到底咲里には御しきれない、人ならざるものだとしても。

「……わかった」

 頬に触れる咲里の手を、男の腕がそっと上から押さえつける。
 中途半端な熱に、体がふわふわと泳いでいた。
 心地の良い圧迫感に身を任せるようにして、咲里はゆっくりと瞼を閉ざしていく。
 それを、阻むようにして。

「咲里」

 心地の良い低音が、咲里の名を呼ぶ。

「さっきは、悪かった」

「どうして……?」

 いつもと言動が逆だなんてことを考えながら、咲里はゆるやかに目を見開く。
 視線の先、言葉に詰まったのち、気まずそうに視線を逸らすくろの顔があった。

「抱かないと言ったくせに、結局、その。……とにかく、悪かった」

 妙に必死に取り繕ってみせるくろに、小さく吹き出す。
 思い返せばこの数日、咲里はくろに謝らせてばかりだ。
 悪いのはいつも、咲里なのに。
 咲里のようなつまらない小娘、いつだって見離せるはずなのに。

 くろは決して、咲里を責めなかった。

「……許して、あげない」

 もっと、怒ってもいいのに。
 そんな意思を込め、微笑み交じりに意地悪を口にすれば、咲里の腕を掴むくろの腕に力が増す。意識がゆるやかに、夢の中へと落ちていく。

「どうしたら、許してもらえる?」

 咲里の軽口に、応えるようにして。
 微かに口角を吊り上げ、くろは力を失っていく咲里の腕に、そっと自身の指を絡めた。

 とうの昔に、死んでいるはずなのに。
 咲里が、この手で埋めたはずなのに。

「ずっと、傍にいて」

 こんなにも、暖かい。

「ああ」

 照明が、ゆっくりと消えていく。

「ずっと、あんたの傍に」

 闇の中響き渡る、溶けそうな囁きに誘(いざな)われるままに。
 咲里はそっと、心地の良い微睡みに身を任せた。


****

「咲里」

 翌朝。昨晩よろしく向かい合って座卓に座って朝食を貪っていた咲里は、食事を終えるタイミングを見計らい、急に改まった態度で名を呼ぶくろに、たまらずピンと背筋を伸ばした。

「少し、行きたい場所がある。……構わないか」

「う、……うん」

 勢いに圧倒されるままに、咲里は素直に首を縦に振った。
 ほっと、あからさまにくろが安堵の息を吐く。

(そういえば)

 くろが自分から明確に己の要求を申し出てくるのは、今回が初めてではないだろうか。

 昨晩と同じく、内線で片付けを頼むくろの背を見つめたまま、咲里はそんなことを思う。咲里の言葉に従うだけでなく、くろが自分の意思を持ってくれること自体は、咲里にとっても歓迎すべきものだ。
 なので、くろの申し出自体は素直に喜ばしい。咲里にできることなら、何だって協力する。
 しかし――

(……なんというか)

 昨日から、――正確には旅行に来てから、くろは挙動不審だ。
 どことなくテンションが高く、それはもはや情緒不安定と言ってもいい次元なのかもしれない。

(私の、気のせいかもしれないけど)

 突き放すような真似をしたかと思えば、急激に距離が近くなる。
 今朝咲里が目覚めてからは、よりその不審さに拍車が掛かった気がする。

 いつもと同じように朝食を貪る咲里の顔を眺めては、静かに微笑んでみせる。
 かと思えば次の瞬間には、わざとらしく咳払いをしながら視線を逸らしている。
 昨日風呂場で無理矢理迫ったことを根に持たれているのかと思ったが、どうも、そういうわけでもないらしい。

(……変なものでも、食べた?)

 全く見当がつかず、そんな気の抜けたことを考えるのが、お粗末な咲里の頭には精一杯だった。
 
******

 くろと連れ立って、日傘の下石造りの道を歩いていく。
 しかし、歩くたびに周囲から人は減っていき、咲里は漠然とした不安を覚えた。

「あ、の。……どこに、行くの?」

「着けば分かる」

 服の裾を引っ張れば、くろは咲里を安堵させるようにして、いつも通りの無表情の中微かに口角を釣り上げる。
 しかし男の自信とは反対に、次第に奥まった場所に向かっていく現状に、咲里は多少の恐怖を覚えていた。
 深緑の中蝉の声を聞きながら、咲里は必死で昨日くろに見せてもらった観光マップを頭の中に思い描いていく。

(こっちに観光地なんて、あったっけ……)

 たぶん、なかったような気がする。
 少なくともこんな山の中にある時点で、まともな観光地ではないだろう。

 きちんと舗装されていた道が、ざらざらとした土の道へと変貌を遂げる。
 もしや、道を間違えているのでは。
 そんなことを咲里が尋ねようとした瞬間、くろの足が止まった。

 それまで外にいる時には頑なに畳もうとしなかった傘をしまい、くろは改まった様子で正面から咲里に向き合う。
 木漏れ日が、くろの仏頂面をほのかに照らし出す。

「咲里」

「は、はい」

「……少しだけ、目を瞑ってくれないか」

 咲里に対し両手を差し出すくろの顔を見上げ、咲里は数度瞬いた。
 躊躇わなかったか、と言えば嘘になる。周囲に人気はなく、ただ木々と虫たちが支配するだけの獣道。端から見れば、心中をしにきたと思われてもおかしくはない光景だ。

 くろの顔をまじまじと見つめたまま、咲里は一人息を呑む。

 かつて、似たような言葉をクラスメイトから掛けられたことがあった。
 当時、馬鹿正直に瞳を閉じた咲里の身を襲ったのは、クズカゴに入れられていたゴミだった。その記憶を発端に、これまで向けられてきた悪意の数々を思い出し、咲里は軽く身震いを起こす。

 けれど――
 くろが、咲里を傷付けるような行為をしたことはない。
 どれほど悍ましいものであろうとも、くろだけは裏切らないと知っている。
 だから。

 差し出された腕に両手を重ね、咲里はゆっくりと瞳を閉ざしていく。
 瞬間力強く握り返された腕に、酷く安堵した。
 柔らかな気配が、咲里の腕を慎重に引いていく。
 熱に促されるまま一歩一歩と足を踏み出すたび、心地の良いむずがゆさに全身が支配されていった。

 やがて、くろの歩みが止まる。
 しばしの沈黙ののち離されていく腕に、咲里は反射的に瞼を押し上げていった。

 視線の先にあったのは、見渡す限り一面に広がる、ひまわり畑だった。
 風に、花が揺れる。
 果てのない黄金色を背に、気に入りの黒いカーディガンを纏い、してやったりという顔で微笑むくろの、そのあまりの眩しさに、――言葉を失う。

 突発的に脳裏を過ぎったのは、初めて男と出会った日の光景だった。
 土砂降りの雨の中、葬儀場に男が立っていた。
 あの日、ぞっとするほどの無表情でもって傷だらけの咲里を見下ろしていたのと同じ顔が、どこまでも穏やかに、笑う。
 雲ひとつない快晴の下、ほがらかに。

「気に入ったか?」

「……うん」

 込み上げてきた涙を必死にこらえ、咲里はゆるやかに口角を釣り上げる。

「……ありがとう。私を、連れてきてくれて」

 一人では顔を上げることすら叶わなかった、美しい世界に。
 
 おとぎ話はいつだって、ハッピーエンドと相場が決まっている。
 愛し合う二人が様々な困難を乗り越えて、結ばれて、物語は幕を閉じる。
 けれど、現実には――

「まだ、先がある」

 言いながら、くろは再び咲里の手を取った。
 片腕で咲里の腕を引き、もう片方の腕で咲里の腰を支える。

「目、閉じた方が……、いい?」

「ああ」

 肯定の言葉を受けて、咲里は慎重に瞼を下ろしていく。
 もう、躊躇いはなかった。

 隣を歩く男からは、不思議と太陽の匂いがする。
 時間にすれば、一瞬の出来事だったのだろう。
 けれど、くろに身を任せ歩く一瞬一瞬が、咲里にとっては永遠のように思えてならなかった。

 しばらく歩いたところで、ぎぃという音を立て、耳元で扉のようなものが開く音がする。
 深緑の代わりに周囲を満たすのは、埃と、古びた木材の匂い。
 
 一歩、二歩と、古びた床板を踏みしめていく。
 肌に触れるくろの腕が、酷く強張っていた。

「もう……開けても、いい」

 くろに促されるままに、ゆっくりと瞼を押し上げていく。
 目を開けた時最初に視界に飛び込んできたのは、久方ぶりに目にする、スーツ姿のくろだった。
 初対面時と同じ姿に懐かしさを覚えると共に、くろの背後に広がる光景に、咲里は一人瞠目する。太陽の光が差し込む、ひまわりのあしらわれたステンドグラス。参列者のいない、木製の古びたベンチ。咲里の身を包むのはプリンセスラインの、白い、――ドレスだった。

 これでは、まるで――
 
「咲里」

 咲里の想像を、肯定するかのように。 

「あんたに俺のことを知りたいと言われてから、……色々と、考えたことがある」

 自嘲気味に笑う男は、サテンの手袋に包まれた咲里の腕を取ると、包み込むようにして両手で握りしめた。

「俺のことを知ったところで、何も面白くないとは思うが。……あんたが知りたいなら、話す」

 真剣な眼差しが、まっすぐに咲里を射抜く。

「……あんたはいつも、俺に罪悪感を感じているような物言いをする。だが俺は、あんたのために死ねてよかったと思っている。……犬の寿命は、せいぜい十年か……長くても、二十年が限界だ。だが、この姿になれたおかげで、俺はあんたの傍に居続けられる。だから――。あんたが、自分を責める必要はない」

 前を向いて生きていいのだと、他でもないくろが咲里を肯定する。
 
「すまない。……前にも言ったが、話すのは、あまり……得意じゃ、ない。――だから、最後にこれだけ言わせてくれ」

 逸らすことなく、真っ直ぐに咲里の瞳を射抜いて。

「あんたは、俺が、幸せにする」

 プロポーズとしか思えない、そんな真摯な言葉を吐く。
 咲里の手のひらを握りしめる腕に、一層力が増した。

「っ――」

 息が、詰まる。
 限界まで込み上げた感情が、自分勝手に咲里の口から飛び出しそうになる。
 彼氏じゃないと怒ったり、今日は抱かないと拒絶したり、かと思えば唐突に人間の結婚式の真似事を始める。
 恋人ではなくとも、くろの思いは嘘ではない。だから、関係性の名前にこだわるのはやめよう。
 せっかく、そう割り切れたと思っていたのに。
 
「す、すまない。……痛かったか」 

 それなのに、涙を滲ませた咲里を見て、くろは見当違いに動揺し始める。
 ぱっと離された腕に、咲里の中にくすぶっていた感情が思い切り爆発した。

 子供っぽいワガママだと分かっているのに、言葉が勝手に口を突いて出る。

「なんで、こんな……、だって、……っ、彼氏じゃない、……って、言った、くせ、に」

「……彼氏では、ないだろう」

 何を馬鹿なことをと、くろの眉間に深い皺が刻まれる。
 言葉に詰まる咲里の頭を撫でるくろは、言っていることとやっていることがチグハグで、咲里はますます混乱した。
 
「あんたは、俺のものになった。それはつまり、……人間の言葉に当てはめるとすれば、「妻」と、……呼ぶんじゃ、ない、……のか?」

「え……?」

 次第に曇っていくくろの顔を見上げたまま、咲里は絶句した。
 思考が止まる。

――これで。あんたは、俺のものだ。

 思い返せば初めてくろに中に注がれた時、そんなことを言われたような気がする。

(「俺のもの」って、まさか)

 ――あの時からくろにとって、咲里は妻という認識だった?

 だとしたら、さっきまでの悩みは一体。
 まさかそんなはずはと、咲里は震える声でくろに確認を求めた。

「あの……。こ、今回の、旅行の目的って、もしかして最初から、これが」

「あぁ。……驚かせたくて、黙っていた」

「今日は抱かないって、言ってたのも……」

「……あんたを抱き潰したら、連れてきた意味がない。……今までちゃんと式を挙げていなかったのは、……悪かったと思っている。だが、俺にも心構えというか、タイミングが――咲里!?」

 気が抜けた瞬間、限界まで高ぶった感情が完全に決壊した。
 その場で腰を抜かし、ドレスのスカートに顔を伏せ、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる。どうして自分が今泣いているのか。そんな単純なことでさえ分からなくなる。
 情けないやら嬉しいやら、様々な感情がごちゃまぜになっていた。

「なにか、気に触ったか」

 こんな時にも咲里を気遣おうとするくろの優しさが、胸に痛い。
 そんなことを考えているとますます感情が高ぶってしまい、咲里はくろの胸にすがりついたまま、ボロボロと泣き続けた。
 そんな咲里の背を、くろは困惑気味に撫でていた。

「あんたに泣かれるのは、……困る。その……。迷惑、だったか」

「迷惑じゃ、ない……、っ!」

 言うと同時に顔を上げる。
 勢いのまま、咲里はくろの首筋に腕を回した。
 体重を掛け、くろの胸の上に乗り上げるような形で、くろを押し倒す。
 それはさながら、くろの正体を思い知らされた日の再現のようだった。

(あの時は、くろのこと、……少し怖いと思ったんだっけ)

 けれど、今は違う。

(怖いなんて、思うわけがない)

 床板の上に倒れ込んだくろの首筋に顔を埋め、咲里は数度深呼吸を繰り返す。
 背を抱き、なだめるようにして撫でる腕に、咲里は次第に落ち着きを取り戻していった。瞬間途方もない喜びに、全身が支配されていく。

 おとぎ話はいつだって、愛し合う二人が結ばれて幕を閉じる。そんなハッピーエンドの先には、一体何があるのだろう。
 
「私は、今でも綺麗じゃないし、すぐに泣くし、怒るし、それに、いつかは、……っ、おばあさんに、なっちゃうけど。……それでも、いい、ですか」

「ああ」

 鼻声交じりの囁きに、くろは淡々と――けれど、確かな肯定を返す。
 
「どんな姿だろうと、あんたは、あんただ。俺は、あんたの望みを叶えるために、ここにいる。……それに、前にも言っただろう」

 不自然に区切られた言葉に、咲里は恐る恐る顔を上げていく。
 瞬間くろの手のひらが、咲里の頬を掴んだ。

「――あんたのことは、死んでも離さない」

 淀んだ黒い瞳の中に、怯む咲里の姿を捕らえて。
 黒い狗(いぬ)が、狡猾に嗤(わら)う。
 微睡みの中確かに滲む物騒な色に、咲里はゾクゾクとした興奮を覚えた。

 頬を赤く染めたまま無言で頷きを返せば、眼下の男は満足気に破顔する。

 本来なら、咲里はもう少し危機感を抱くべきなのかもしれない。
 九条の言葉を信じ、くろから離れるべきなのかもしれない。
 けれどくろを縛り続けたいと願ったのは、他でもない咲里自身だ。

 だから、後戻りはしない。
 誰に何と言われようが、絶対に。

「咲里」

 一面に広がるひまわり畑に囲まれた、微かな木洩れ日だけが差し込む薄暗い教会の中で。引き寄せられるままに、咲里はくろと口付けを交わす。

 長い夢を、見ている。
 覚めることのない、幸福な夢を。

「愛してる」

 降り続けていた、雨が止んだ。





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