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後日談
えみりちゃんといぬ(そのろく)
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ぶるりと、不意に背を嫌な空気が襲う。
トートバッグの紐を強く握りしめ、咲里は咄嗟に振り返った。
けれど――
振り返った先。
そこには、咲里がくぐったガラス扉の向こう、どこか気落ちした様子で休憩スペースへと戻っていくくろの姿があるだけだった。
(気の、せい……?)
ふるふると頭を数度振り、咲里は再び扉に背を向ける。
図書館の中には、想定していたよりは人の姿があった。
椅子に座って新聞を読む老人、雑誌コーナーの前で週刊誌を吟味している大学生らしき男性。視線をもう少し奥へと向ければ、児童書コーナーで紙芝居の朗読会が行われている光景が飛び込んでくる。
児童書コーナーの一角は靴を脱いで上がるようになっており、そこには母親の膝に抱かれ、司書の話に耳を傾けるたくさんの小さな子供達の姿があった。
真っ直ぐにカウンターへと向かう足を止め、咲里はしばしその様を眺めていた。
本当に小さい頃。
咲里もあの子供達のように母親に連れられて、図書館を訪れたことがある。
それこそ、両親の仲がまだ良好だった、そんな遠い昔の話ではあるが。
思い出に浸ったところで時間は巻き戻らず、一度起こったことは決してなかったことにはならない。
父は去り、母は死んだ。正確には、咲里が殺した。
主人の願いを聞き届けた、咲里の従順な飼い犬が。
そのことに罪悪感を覚えはすれど、今更後悔はしていない。
遠い過去の薄れた美しい思い出ではなく、咲里は今、愛し愛されたものを選んだ。
ただ、それだけの話なのだから。
(でも……、子供……)
子供達から視線を逸らし、咲里はじっと自身の腹部を軽く撫でた。
くろは何も言わないが、普通あれだけ行為を重ねれば、出来てしまってもおかしくはない。――いや、そもそも。
(……出来るものなの?)
人間の男の姿をしていようと、くろは人ではない。そもそも、生者ですらない。
咲里のために蘇ってきた犬の亡霊、怨霊、妖怪、人智を超えたなにか。
そんな人の常識では測れない存在との間に、命は宿るものなのだろうか。
心の中で問いかけてみたところで誰も答えてはくれず、ただ虚しい沈黙が落ちるだけだ。子供達の笑い声をどこか遠くで聞きながら、咲里はふるふると首を横にふる。
足を動かし、子供達に背を向け、足早にカウンターへと向かっていく。
ああ、でも。
あの男との、間にならば――
(……何、考えて)
真っ赤になった頬を、トートバッグの紐を握るのとは反対の腕でベシベシと叩く。
受付待ちの人々の列に並びながら、咲里の頭は次第に暴走を極めていった。
(そもそも、出来ると決まったわけじゃ。……第一、私なんかにまともな子育てができるわけないし――。……くろは、どう思うんだろう)
嫌がりは、しないと思う。
自惚れでもなんでもなく、咲里のために「誰だって殺してやる」「死んでも離さない」と明言するような男なのだ。くろは言った。あんたの願いは、俺が叶えると。
それはつまり――
(作ろうと思えば、作れるって事?)
「お次の方、どうぞ」
「え!? あ、はい!!」
考えを中断するようにして回ってきた順番に、咲里は勢い良く顔を上げる。
そのまま大急ぎで返却手続きを済ませ、咲里は深々と溜息を吐いた。
(……このことに関して考えるのは、やめよう)
咲里一人が唸ったところで、答えは出ない。
ならば、悩むだけ無駄なことだ。
あとでくろ本人に聞くのが、一番手っ取り早い。
(え、で、でも、なんて切り出せば……)
性交渉の頻度を切り出した時に比べれば幾分マシなような気がするが、だとしてもどう言えば。
(ストレートに、子供って出来るの? とか……? 無理無理無理……、そ、それじゃあ、まるで私が欲しがってるみたいじゃ……。嫌ではない……けど……、でも、私にも心の準備をさせて欲しいというか)
考えないようにしようと決めたそばから、思考は堂々巡りを繰り返す。
くろがいつも以上にスキンシップを取ってくるせいで、咲里の脳内まで過剰にお花畑になってしまった。
そんな責任転嫁をしながら、咲里はひとまず蔵書検索用のパソコンはどこだったかと視線を巡らせる。
と、ある一点で視線が止まった。
図書館の最奥部。その壁際に、画用紙で作られた手作り感に溢れる大きなポスターが貼られていた。「夏の妖怪大特集!!」と書かれた黒いポスターの下には、大きなテーブルが置かれ、その上には数冊の本が無造作に並べ立てられていた。
恋愛雑誌よりも恋人たちの惚気話よりも何よりも、一番今の咲里に必要なのはこういった部類の書籍なのではないか。
ごくりと息を呑み、咲里は恐る恐るポスターの元へと足を進める。
軽くなったトートバッグの紐を強く握りしめ、咲里はじっと食い入るようにしてテーブルの上に並べられた本に視線を這わせていく。
妖怪だの幽霊だの、こういった話題には真っ先に子供達が食いつきそうなものだが、夏休み前の平日とあって小・中学生の姿はなく、小さな子供たちはお話会に夢中でこちらなど眼中にない。
図書館の片隅に、人の気配は微塵もなかった。
河童、吸血鬼、番町皿屋敷、猫又、フランケンシュタインの怪物。
一部、モンスターと妖怪が混ざっているような気がしなくはなかったが、様々な人外の魔が描かれた本たちの表紙の一部。咲里は不意に、犬の姿を見つけた。
「日本の妖怪大図鑑」と書かれたその本を手に取り、咲里はパラパラとおもむろにページをめくる。
(……あった)
たぶん表紙に描かれていたものはこれだろうと、咲里は本を捲る腕を止めた。禍々しい黒い瘴気を纏う黒犬のイラストとともに、これまた恐ろしいフォントで妖怪の名が記されている。
(「犬神」……?)
書かれていた化生の名は、「犬神」。
咲里は一人、その場に立ったまま本文に目を通していく。
【犬神】
四国周辺で多く見られる、式神の一種。
その作り方には諸説あるが、一般的には餓死寸前の犬を頭だけ出し地面に埋め、その眼前にご馳走を置く。しかし、地面に埋められているため犬は食べることができない。
こうして犬の感情の全てを頭に集中させたのち、首を切って殺すことで、その霊魂を式神として使役することが可能になる、と言われている。
犬神を使役する家系は「犬神憑き」と呼ばれており、現在でも四国地方を中心に忌み嫌われ、多くは差別の対象となっている。
犬神は主人の願いを叶え、使い切れぬほどの富、ありとあらゆる名声を主人に与えるが、最期には必ず――
必ず――
そこまで読み進めたところで、瞬間視界に黒いノイズのようなものが走った。
ズズッ、ズッ、……ズッ。
そんな、頭の中を羽虫が這い回るかのような音が響いたのち、アナログテレビの砂嵐のような不気味な映像が、頭の中をかき乱していく。
それでもなんとか先を読み進めようと、咲里は視線を動かしていく。
けれど――
読もうとするそばから、文章が黒い墨のようなもので塗りつぶされていった。
咲里の意思に反し、勝手に。それこそ、呪いのように。
ゾッと背筋を、冷たい息のようなものが駆け抜けていく。
どこまでも重圧的で粘着質な、そんなおぞましい気配が。
「っ……!!」
耐えきれず、咄嗟に咲里は本から手を離してしまった。
バタンという音を立て、開かれたまま下を向く形で、勢い良く本が地面に落下する。
『必ず、■■■■幸■■■。』
最後に視界に飛び込んできたのは、そんな意図的に一部を塗りつぶされた一文だった。
「幸」の一文字だけを残し、咲里の前から真実を覆い隠そうとする。
「くろ……?」
そこから先は読むなと、そう明確に訴えかけられているような気がした。
そんなに、詮索されるのが嫌だったのか。
確かに、コソコソ嗅ぎまわるような真似をしたのは悪かったとは思っている。
けれど、なぜ。一体何が、くろをそこまでさせる。
そんなにも、知られるとまずい情報なのか。
ちょうどその時。怯える咲里をさらに追い詰めるようにして、遠くから靴音が近付いてくる気配がした。
視線を上げるのが、酷く恐ろしかった。
「あの」
びくりと、反射的に肩が震える。
けれど――
「本、落としたよ。大丈夫?」
顔を上げた先にいたのは、人の良さそうな男性だった。
くろでは、ない。
そのことに、少なからず安堵している自分がいた。
「あ、えっと、だ、大丈夫……です。ちょっと、その、手が、滑って」
男から本を受け取りながら、咲里はぎこちない笑みを零す。
年は三十代、だろうか。半袖のTシャツに、黒いスラックス。
たれがちの目にお人好しな笑みを浮かべ、男は首の裏を掻いている。
悪意の全く込められていない純朴な男の微笑みが、咲里にはひどく眩しかった。
「なら、よかった」
「あの、……ありがとうございました。人を待たせてしまっているので、あの、私はこれで……」
こんな人の良さそうな男とは、出来る限り関わらないほうがいい。
それが互いのためだと、咲里は本を置いて立ち去ろうとした。
「待って」
けれど、咲里の手を掴み、男は咲里をその場に引き留めようとする。
「あ、……ごめん。でも……、この機会を逃したら、もう君とは話せないかもしれないから」
呑気な男の顔が、瞬間真剣な色を帯び始める。
けれど、驚きに目を見開けば、男はゆっくりと咲里の手を解放した。
悪い人ではなさそうだが、一体咲里に何の用があるというのか。
「……急に変なことを言ってごめんね。実は僕、こういうもので」
ごそごそと、男はズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。
渋々名刺を受け取る。男の肩書きを認識した瞬間、咲里は戦慄した。
「九条正孝(くじょうまさたか)。……そこに書いてある通り、週刊誌の記者をやってる」
どうしてこんな平日の昼間に、働き盛りの男が私服で図書館にいるのか。
真面目に考えてみれば、そもそもおかしかったのだ。
――そう簡単に幸せになれるほど、世の中甘くは出来ていない。
いつだったかは忘れてしまったが、かつてどこかで、そんな言葉を聞いたことがある。
他人の命を、――幸福を犠牲にして、自分だけがのうのうと幸せに生きていく。
そんな虫のいい話、この世にあるはずがない。
そんな基本的なことを、近頃の咲里はすっかり忘れていた。
大きな事故があった。けれど、咲里は一人生き残ってしまった。
たまたま、学校を休んでいたから。
けれど、本当は偶然なんかじゃない。
真実あれは事故などではなく、主人の意思を組み咲里の犬が行った、意図的な報復――殺戮行為だ。
そんなたった一人生き残った人間に対して、周囲が好奇の目を向けないわけがなかった。
心臓が、不気味に鼓動を早めていく。
足元から、バラバラと何かが崩れ落ちていくような気がした。
そんな咲里の不安を真っ向から打ち砕くようにして、九条は気遣うようなそぶりを見せる。
「誤解しないでほしい。何も僕は、君を責めに来たわけじゃない。ただ僕は、君が……心配で」
「しん……ぱい……?」
「ああ。うちの編集部は、もう一週間も前だし、事故は事故でそれ以上でも以下でもないって言ってる。……だからこれは、自己判断で僕が勝手にやっていることだ。……僕はその、おかしな奴だと思われるかもしれないけど、その……。『見える』んだ。……昔から、なんだけど」
何を言っているのか、理解できなかった。
「一週間前の事故の中継、あっただろう? あれ、僕も編集部で見ていたんだ。……それで、事故現場に……、何かが『いた』ような気がしたんだ。人間じゃない、何か……もっと、恐ろしいものが」
けれど、話を聞くうちに、理解してしまった。
「周りは誰も真剣に取り合ってくれなかったし、気のせいかもしれないと思った。……でもやっぱり、放っておいちゃいけないと思ったんだ。……だから、独断で調査を進めて。それで、君に行き着いた。今なら確信できるよ。……さっきから君と一緒にいる、あの男。……あれは、人間じゃない。君は何か、よくないものに憑かれてる」
この九条という男は、くろの正体に気が付いてしまっている。
100パーセントの善意で、咲里とくろを引き離そうとしている。
くろの正体を知った時よりも何よりも、咲里には九条というこの男のほうが何倍も恐ろしい存在に思えてならなかった。
「一刻も早く、あの男から離れたほうがいい。じゃないと大変なことに」
「……あなたが何を言っているのか、私には分かりません」
「嘘じゃないんだ!! 彼は本当に……っ!! ……君だって、本当は気付いているんじゃないのか!? だからこんな――」
「放っておいてください! あなたには……!! あなたには関係ない!!」
震える体を無理矢理動かし、咲里は一刻も早く九条から離れようと駆け足で図書館の扉をくぐる。
後ろを振り返る勇気は、なかった。
トートバッグの紐を強く握りしめ、咲里は咄嗟に振り返った。
けれど――
振り返った先。
そこには、咲里がくぐったガラス扉の向こう、どこか気落ちした様子で休憩スペースへと戻っていくくろの姿があるだけだった。
(気の、せい……?)
ふるふると頭を数度振り、咲里は再び扉に背を向ける。
図書館の中には、想定していたよりは人の姿があった。
椅子に座って新聞を読む老人、雑誌コーナーの前で週刊誌を吟味している大学生らしき男性。視線をもう少し奥へと向ければ、児童書コーナーで紙芝居の朗読会が行われている光景が飛び込んでくる。
児童書コーナーの一角は靴を脱いで上がるようになっており、そこには母親の膝に抱かれ、司書の話に耳を傾けるたくさんの小さな子供達の姿があった。
真っ直ぐにカウンターへと向かう足を止め、咲里はしばしその様を眺めていた。
本当に小さい頃。
咲里もあの子供達のように母親に連れられて、図書館を訪れたことがある。
それこそ、両親の仲がまだ良好だった、そんな遠い昔の話ではあるが。
思い出に浸ったところで時間は巻き戻らず、一度起こったことは決してなかったことにはならない。
父は去り、母は死んだ。正確には、咲里が殺した。
主人の願いを聞き届けた、咲里の従順な飼い犬が。
そのことに罪悪感を覚えはすれど、今更後悔はしていない。
遠い過去の薄れた美しい思い出ではなく、咲里は今、愛し愛されたものを選んだ。
ただ、それだけの話なのだから。
(でも……、子供……)
子供達から視線を逸らし、咲里はじっと自身の腹部を軽く撫でた。
くろは何も言わないが、普通あれだけ行為を重ねれば、出来てしまってもおかしくはない。――いや、そもそも。
(……出来るものなの?)
人間の男の姿をしていようと、くろは人ではない。そもそも、生者ですらない。
咲里のために蘇ってきた犬の亡霊、怨霊、妖怪、人智を超えたなにか。
そんな人の常識では測れない存在との間に、命は宿るものなのだろうか。
心の中で問いかけてみたところで誰も答えてはくれず、ただ虚しい沈黙が落ちるだけだ。子供達の笑い声をどこか遠くで聞きながら、咲里はふるふると首を横にふる。
足を動かし、子供達に背を向け、足早にカウンターへと向かっていく。
ああ、でも。
あの男との、間にならば――
(……何、考えて)
真っ赤になった頬を、トートバッグの紐を握るのとは反対の腕でベシベシと叩く。
受付待ちの人々の列に並びながら、咲里の頭は次第に暴走を極めていった。
(そもそも、出来ると決まったわけじゃ。……第一、私なんかにまともな子育てができるわけないし――。……くろは、どう思うんだろう)
嫌がりは、しないと思う。
自惚れでもなんでもなく、咲里のために「誰だって殺してやる」「死んでも離さない」と明言するような男なのだ。くろは言った。あんたの願いは、俺が叶えると。
それはつまり――
(作ろうと思えば、作れるって事?)
「お次の方、どうぞ」
「え!? あ、はい!!」
考えを中断するようにして回ってきた順番に、咲里は勢い良く顔を上げる。
そのまま大急ぎで返却手続きを済ませ、咲里は深々と溜息を吐いた。
(……このことに関して考えるのは、やめよう)
咲里一人が唸ったところで、答えは出ない。
ならば、悩むだけ無駄なことだ。
あとでくろ本人に聞くのが、一番手っ取り早い。
(え、で、でも、なんて切り出せば……)
性交渉の頻度を切り出した時に比べれば幾分マシなような気がするが、だとしてもどう言えば。
(ストレートに、子供って出来るの? とか……? 無理無理無理……、そ、それじゃあ、まるで私が欲しがってるみたいじゃ……。嫌ではない……けど……、でも、私にも心の準備をさせて欲しいというか)
考えないようにしようと決めたそばから、思考は堂々巡りを繰り返す。
くろがいつも以上にスキンシップを取ってくるせいで、咲里の脳内まで過剰にお花畑になってしまった。
そんな責任転嫁をしながら、咲里はひとまず蔵書検索用のパソコンはどこだったかと視線を巡らせる。
と、ある一点で視線が止まった。
図書館の最奥部。その壁際に、画用紙で作られた手作り感に溢れる大きなポスターが貼られていた。「夏の妖怪大特集!!」と書かれた黒いポスターの下には、大きなテーブルが置かれ、その上には数冊の本が無造作に並べ立てられていた。
恋愛雑誌よりも恋人たちの惚気話よりも何よりも、一番今の咲里に必要なのはこういった部類の書籍なのではないか。
ごくりと息を呑み、咲里は恐る恐るポスターの元へと足を進める。
軽くなったトートバッグの紐を強く握りしめ、咲里はじっと食い入るようにしてテーブルの上に並べられた本に視線を這わせていく。
妖怪だの幽霊だの、こういった話題には真っ先に子供達が食いつきそうなものだが、夏休み前の平日とあって小・中学生の姿はなく、小さな子供たちはお話会に夢中でこちらなど眼中にない。
図書館の片隅に、人の気配は微塵もなかった。
河童、吸血鬼、番町皿屋敷、猫又、フランケンシュタインの怪物。
一部、モンスターと妖怪が混ざっているような気がしなくはなかったが、様々な人外の魔が描かれた本たちの表紙の一部。咲里は不意に、犬の姿を見つけた。
「日本の妖怪大図鑑」と書かれたその本を手に取り、咲里はパラパラとおもむろにページをめくる。
(……あった)
たぶん表紙に描かれていたものはこれだろうと、咲里は本を捲る腕を止めた。禍々しい黒い瘴気を纏う黒犬のイラストとともに、これまた恐ろしいフォントで妖怪の名が記されている。
(「犬神」……?)
書かれていた化生の名は、「犬神」。
咲里は一人、その場に立ったまま本文に目を通していく。
【犬神】
四国周辺で多く見られる、式神の一種。
その作り方には諸説あるが、一般的には餓死寸前の犬を頭だけ出し地面に埋め、その眼前にご馳走を置く。しかし、地面に埋められているため犬は食べることができない。
こうして犬の感情の全てを頭に集中させたのち、首を切って殺すことで、その霊魂を式神として使役することが可能になる、と言われている。
犬神を使役する家系は「犬神憑き」と呼ばれており、現在でも四国地方を中心に忌み嫌われ、多くは差別の対象となっている。
犬神は主人の願いを叶え、使い切れぬほどの富、ありとあらゆる名声を主人に与えるが、最期には必ず――
必ず――
そこまで読み進めたところで、瞬間視界に黒いノイズのようなものが走った。
ズズッ、ズッ、……ズッ。
そんな、頭の中を羽虫が這い回るかのような音が響いたのち、アナログテレビの砂嵐のような不気味な映像が、頭の中をかき乱していく。
それでもなんとか先を読み進めようと、咲里は視線を動かしていく。
けれど――
読もうとするそばから、文章が黒い墨のようなもので塗りつぶされていった。
咲里の意思に反し、勝手に。それこそ、呪いのように。
ゾッと背筋を、冷たい息のようなものが駆け抜けていく。
どこまでも重圧的で粘着質な、そんなおぞましい気配が。
「っ……!!」
耐えきれず、咄嗟に咲里は本から手を離してしまった。
バタンという音を立て、開かれたまま下を向く形で、勢い良く本が地面に落下する。
『必ず、■■■■幸■■■。』
最後に視界に飛び込んできたのは、そんな意図的に一部を塗りつぶされた一文だった。
「幸」の一文字だけを残し、咲里の前から真実を覆い隠そうとする。
「くろ……?」
そこから先は読むなと、そう明確に訴えかけられているような気がした。
そんなに、詮索されるのが嫌だったのか。
確かに、コソコソ嗅ぎまわるような真似をしたのは悪かったとは思っている。
けれど、なぜ。一体何が、くろをそこまでさせる。
そんなにも、知られるとまずい情報なのか。
ちょうどその時。怯える咲里をさらに追い詰めるようにして、遠くから靴音が近付いてくる気配がした。
視線を上げるのが、酷く恐ろしかった。
「あの」
びくりと、反射的に肩が震える。
けれど――
「本、落としたよ。大丈夫?」
顔を上げた先にいたのは、人の良さそうな男性だった。
くろでは、ない。
そのことに、少なからず安堵している自分がいた。
「あ、えっと、だ、大丈夫……です。ちょっと、その、手が、滑って」
男から本を受け取りながら、咲里はぎこちない笑みを零す。
年は三十代、だろうか。半袖のTシャツに、黒いスラックス。
たれがちの目にお人好しな笑みを浮かべ、男は首の裏を掻いている。
悪意の全く込められていない純朴な男の微笑みが、咲里にはひどく眩しかった。
「なら、よかった」
「あの、……ありがとうございました。人を待たせてしまっているので、あの、私はこれで……」
こんな人の良さそうな男とは、出来る限り関わらないほうがいい。
それが互いのためだと、咲里は本を置いて立ち去ろうとした。
「待って」
けれど、咲里の手を掴み、男は咲里をその場に引き留めようとする。
「あ、……ごめん。でも……、この機会を逃したら、もう君とは話せないかもしれないから」
呑気な男の顔が、瞬間真剣な色を帯び始める。
けれど、驚きに目を見開けば、男はゆっくりと咲里の手を解放した。
悪い人ではなさそうだが、一体咲里に何の用があるというのか。
「……急に変なことを言ってごめんね。実は僕、こういうもので」
ごそごそと、男はズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。
渋々名刺を受け取る。男の肩書きを認識した瞬間、咲里は戦慄した。
「九条正孝(くじょうまさたか)。……そこに書いてある通り、週刊誌の記者をやってる」
どうしてこんな平日の昼間に、働き盛りの男が私服で図書館にいるのか。
真面目に考えてみれば、そもそもおかしかったのだ。
――そう簡単に幸せになれるほど、世の中甘くは出来ていない。
いつだったかは忘れてしまったが、かつてどこかで、そんな言葉を聞いたことがある。
他人の命を、――幸福を犠牲にして、自分だけがのうのうと幸せに生きていく。
そんな虫のいい話、この世にあるはずがない。
そんな基本的なことを、近頃の咲里はすっかり忘れていた。
大きな事故があった。けれど、咲里は一人生き残ってしまった。
たまたま、学校を休んでいたから。
けれど、本当は偶然なんかじゃない。
真実あれは事故などではなく、主人の意思を組み咲里の犬が行った、意図的な報復――殺戮行為だ。
そんなたった一人生き残った人間に対して、周囲が好奇の目を向けないわけがなかった。
心臓が、不気味に鼓動を早めていく。
足元から、バラバラと何かが崩れ落ちていくような気がした。
そんな咲里の不安を真っ向から打ち砕くようにして、九条は気遣うようなそぶりを見せる。
「誤解しないでほしい。何も僕は、君を責めに来たわけじゃない。ただ僕は、君が……心配で」
「しん……ぱい……?」
「ああ。うちの編集部は、もう一週間も前だし、事故は事故でそれ以上でも以下でもないって言ってる。……だからこれは、自己判断で僕が勝手にやっていることだ。……僕はその、おかしな奴だと思われるかもしれないけど、その……。『見える』んだ。……昔から、なんだけど」
何を言っているのか、理解できなかった。
「一週間前の事故の中継、あっただろう? あれ、僕も編集部で見ていたんだ。……それで、事故現場に……、何かが『いた』ような気がしたんだ。人間じゃない、何か……もっと、恐ろしいものが」
けれど、話を聞くうちに、理解してしまった。
「周りは誰も真剣に取り合ってくれなかったし、気のせいかもしれないと思った。……でもやっぱり、放っておいちゃいけないと思ったんだ。……だから、独断で調査を進めて。それで、君に行き着いた。今なら確信できるよ。……さっきから君と一緒にいる、あの男。……あれは、人間じゃない。君は何か、よくないものに憑かれてる」
この九条という男は、くろの正体に気が付いてしまっている。
100パーセントの善意で、咲里とくろを引き離そうとしている。
くろの正体を知った時よりも何よりも、咲里には九条というこの男のほうが何倍も恐ろしい存在に思えてならなかった。
「一刻も早く、あの男から離れたほうがいい。じゃないと大変なことに」
「……あなたが何を言っているのか、私には分かりません」
「嘘じゃないんだ!! 彼は本当に……っ!! ……君だって、本当は気付いているんじゃないのか!? だからこんな――」
「放っておいてください! あなたには……!! あなたには関係ない!!」
震える体を無理矢理動かし、咲里は一刻も早く九条から離れようと駆け足で図書館の扉をくぐる。
後ろを振り返る勇気は、なかった。
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さとみは、住んでいるマンションから15分ほどの商店街にあるフラワー・ショップで働いていた。
その日も、さとみはいつものように、ベランダの鉢に咲く花たちに霧吹きで水を与えていた。 花びらや葉に水玉がうかぶ。そこまでは、いつもとなにも変わらなかった。
だが、そのとき、さとみは水玉のひとつひとつが無規律に跳ね始めていくのを眼にした。水玉はそしてしだいにひとつとなっていき、自ら明滅をくり返しながらビリヤードほどの大きさになった。そして、ひと際光耀いたと思うと、音もなく消え失せたのだった。
オーナーが外出したフラワー・ショップで、陳列された店内の様々な花たちに鼻を近づけたり指先で触れたりしながら眺めた。
と、そのとき、
「花はいいですね。心が洗われる」
すぐ横合いから声がした。
さとみが顔を向けると、ひとりの男が立っていた。その男がいつ店内入ってきたのか、隣にいたことさえ、さとみは気づかなかった。
そして男は、
「都立江東病院の医師で、桐生と申します」
そう名乗ったのだった。
滝沢とさとみ。まったく面識のないふたり。そのふたりの周りで、現実とは思えない恐ろしい出来事が起きていく。そして、ふたりは出会う。そのふたりの前に現れた桐生とは、いったい何者なのだろうか……。
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