えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(そのご)

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 冷房の行き届いていた室内から一歩出た瞬間、たちまち世界は一変する。
 勢いを増す蝉の声の狭間、どこからともなく風鈴の音が響く住宅街は、夏休み前の平日の昼さがり、加えてうだるような暑さもあり、全くもって人の気配がない。
 焼け付くような熱気だけが、上からも下からも、じりじりと咲里を包み込んでいた。

 額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐい、閑散とした住宅街の中を歩き始めようとしたところで、不意に太陽から姿を覆い隠すようにして、咲里の上に大きな黒い影が落ちた。
 視線を上げれば、慈しみに満ちた黒い目と視線がかち合う。飾りっ気のない真っ黒な日傘を差し、くろは咲里に合わせるようにして微かに背を屈めていた。
 そんな何気ない気遣いに、じわりと胸の内が温かなもので満たされていく。

「……ありがとう」

 素直に礼を述べれば、くろの無表情に微かな笑みが浮かべられる。
 どういたしましてとでも言いたげな男の様子に、咲里も釣られ笑みを返した。

 人気のない路地を、黒い小さな屋根の下、くろと二人歩いていく。
 こうして人の姿をしたくろと出掛けるのは、くろの服を買いにショッピングモールに行った日以来だった。あの頃はスーツを纏っていたせいもありどうしても非日常感があったものだが、今のくろは、咲里が買ってやった胸元の開いた白いシャツにジーンズを履き、その上に黒のカーディガンを羽織っている。
 その姿は夏の住宅街によく馴染み、咲里の日常の中に違和感なく入り込んできた。

 だからこそ、こうして並んで歩いていると誤解しそうになる。
 横を歩いている人は、咲里と変わらず普通に食事をして、普通に学校を卒業して、普通に仕事をして、普通に趣味があって、普通に暮らしている。そんな風にありふれた人生を歩んできた、いたって普通の、人間の――男の人。

 そんな人と、普通の恋人同士になれたかのような。

「あんた、どんな本を借りてたんだ?」

 咲里の思案を中断させるようにして、唐突にくろが口を開く。咲里を守るようにして車道側を歩く男は、夏の暑さにも全く臆した様子はなく、不気味なほどに平然としていた。
 汗ひとつない涼やかな横顔に、言外に「人ではない」と訴えられているような気がして、咲里は静かに息を呑む。くろが歩くたび、大きな影がゆらりと揺れる。

「咲里?」

「えっ? あ、えっと、……恋愛ものの、小説。王子様とか、お姫様とか。……魔法使いとか、騎士とか。……そういう人たちが出てきて、最後は、思い合う二人が、いつまでも末長く幸せに暮らしました、……っていう。……そんなお話が、……好きだから」

 肩から下げたトートバッグの紐を両手で握りしめながら、咲里はぽつり、ぽつりと言葉を吐き出していく。
 声に出して話していると、自分の趣味がいかに子供っぽいかということをまざまざと認識させられてしまい、咲里は一人下を向き赤面した。

「ご、ごめんね。……なんだか、あんまり面白くない話で」

「どうして。あんたの話を聞くのは、楽しい」

「お、お世辞はいいから……!」

「世辞じゃない。あんたがどういう風に感じて、何を思っているのか。俺はもっと、あんたを理解したい。だから、もっと聞かせてほしい」
 
 以前と比べて、くろは少しばかりよく喋るようになった。
 それは、咲里も同様だろう。
 くろといると、口下手なりに話が続くようになった気がする。
 ショッピングモールに出掛けた頃は、咲里も、くろも、今よりもっと寡黙だった。
 というより、お互いに何を話せばよかったのか、距離感を掴みかねていたのかもしれない。
 思えばくろも咲里も、まだまだ互いに知らないことが多い。
 二人で過ごした時間は、長い人生からすれば瞬きをする一瞬の様なもので、そもそもまだ咲里は、人間の男の姿をしたくろより、普通の犬であったくろといた時間の方が長いのだ。
 けれど、面と向かってそんな話をされるのは、嬉しさよりも恥ずかしさが上回ってしまうわけで。

「どうかしたのか」

「え!? あ、えっと、あの……! ……その服、気に入ってるの!?」

 気を紛らわすようにして、咲里は咄嗟に口を開く。
 長い黒髪に覆われた首筋が、酷く熱を帯びていた。

「あんたがくれたものは、全部気に入ってる」

 突然の話題転換に特に気を悪くしたそぶりも見せず、くろは不思議そうにそんなことを口にした。
 以前から思っていたのだが、くろは咲里のことを必要以上に心配するくせに、自分のことに関しては酷く無頓着だ。いまだってそうだ。咲里の与えるものならと、そんな他愛のない理由でもって、何もかもを受け入れようとする。

 愛されていると言えば聞こえはいいかもしれないが、そこにくろの意思はない。
 主人以外の愛を知らず、だからこそ傾倒する。ただ盲目的に主人に追従する姿は、どこか哀れとすら言えた。

 くろは咲里を幸せにしたいと言うが、咲里はもう少し、くろに自分を大切にして欲しかった。幸せになってほしかった。だからこそ、咲里のことを想うその気持ちのほんの一部でも、自愛してくれたのなら。

「……そういうことじゃ、なくて。……その服、一番着てる日が多い気がして。だから、ちょっと気になって」

「……ああ」

 言われて初めて気が付いたとでも言いたげな声が、くろの喉から漏れ出る。

「……黒色、好きなの?」

「言われてみれば、……落ち着くかもしれないな」

 やはり元が黒犬だから、服も黒い方がしっくりくる、ということなのだろうか。
 そう考えれば、以前制服のようにブラックスーツを着続けていたことにも、理由がつくのかもしれない。

「……誤解しないでほしい。あんたから貰えるものなら、なんだって嬉しい。これはただ、俺の癖みたいなもので、……その、別に、あんたから貰った他の服が気に入らないというわけじゃ――」

 珍しく慌てた様にまくし立てるくろに、たまらず吹き出してしまう。
 そんな咲里を、くろはきょとんと呆気にとられたような顔で凝視したのち、渋い顔になった。
 
「……何か、おかしかったか」

「ううん。そうじゃないの。ただ、くろにもちゃんと好きなものがあるんだって分かって、ちょっと嬉しくなっただけ」

「……俺は、あんたが好きだが」

「……えっと、そうじゃ、なくて」

 まさか伝わっていなかったのかとでも言いたげに目を見開いてみせるくろに、咲里は苦笑する。けれど、なんと説明していいものか分からず、しばし考え込んでしまう。

「くろは、私のことを知りたいって言ってくれるけど、私も……、同じだから。だから、その――」

 くろのことを、もっと知りたい。歩み寄りたい。
 一方的に与えられるだけでなく、咲里からも何かを与えられたのなら。

「傷」

「え……?」

 突然、くろの口からそんな単語が飛び出した。
 何事かと足をおもむろに止めれば、くろも合わせてゆっくりと歩みを止める。
 傘を持つのとは反対の腕が、そっと咲里の頬をなぞった。

「頬の傷、ほとんど見えなくなった」

 そこまでされて初めて、咲里は自分の頬に刻まれていた傷跡を指していたのだということに気が付いた。黒い犬を家の前で拾った日、学校で付けられたものだった。
 あれから一ヶ月以上も経っているのだから、さすがに傷も癒えるというものだ。というより、今くろに指摘されるまで、すっかり傷の事など頭から抜け落ちてしまっていた。

(え、でも、なんで急にそんな話)

 別に、今である必要はないのではないか。
 そんなことを問おうと口を開きかけたところで、それまで足を止めていたくろが急に歩みを再開した。
 置いていかれまいと咲里は咄嗟に口を閉ざし、足に意識を集中させる。

(……いいように、はぐらかされた気がする)

 というか、絶対にそうだ。
 くろの横を並び立ち歩きながら、咲里は横目で涼やかな横顔を盗み見る。
 相変わらずの無表情ではあるが、別に、気分を損ねたというわけではなさそうだった。

(……あんまり自分の事、聞かれたくないのかな)

 無頓着というよりは、むしろ話題にされたくない、それこそ己を嫌悪しているかの様な――。

「ここか」

 再び足を止めたくろに習い、咲里はくろの視線の先を追う。
 飛び込んできた突如住宅街に現れたガラス張りのモダンな建物に、咲里はいつの間にか目的地に到着していたことを理解した。

 一歩自動ドアをくぐれば、心地の良い冷気が咲里の肌を撫でる。
 咲里が目指す地域図書館は、市民会館やホール、会議室が入った3階建ての市民センターの最上部だ。なんでも有名な建築家が手がけたらしい、最近建て替えられたばかりの真新しい建物の中は、休日はさぞ賑わっているのだろうが、この暑さのせいか静寂に満ちている。
 階段を上るたび、二人分の足音だけが心地よく咲里の耳を刺した。
 そのまま階段を上りきったところで、咲里は新しく図書館の入り口横に作られた小さな休憩スペースに、アイスクリームの自販機が増えていることに気が付いた。

 ほんの数分とはいえ太陽に晒された体には、真っ白なアイスの販売機は非常に魅力的に映る。ごくりと、一人ひそかに息を呑む。

「食べたいのか」

「えっ」

 目ざとく咲里の反応を見とがめた男が、どこからともなく財布を取り出す。

「あの……! 大丈夫です! 今回は、その……自分で!!」

 前回もおごってもらって、ここでもご馳走になるわけにはいかないと、咲里はすかさずトートバッグの中を漁るのだが、いくら探したところで財布は見つからなかった。
 それもそのはずだ。

(今日は本を借りないと思ってたから、図書カードごと財布も置いてきたんだった……)

 一人落ち込む咲里が止める暇すら微塵も与えず、くろはそそくさと千円札を自販機に投入した。瞬間、パッとボタンに真っ赤なライトが灯り始める。

「どれがいい」

「……あの、……ごめんね」

「なぜ謝る」

「……だって。……お世話に、なりっぱなしだから」

「気にしなくていい。俺が、あんたに買ってやりたいだけだ」

(……また、そうやって甘やかす) 

 このままでは、ダメになってしまう。
 そう思いはするが、満足そうなくろの笑顔を眺めていると、どうにも何も言えなくなってしまう。くろが笑ってくれるなら、咲里も嬉しい。
 しばし商品を眺めたのち、咲里は躊躇いがちにストロベリーアイスのボタンを押した。咲里がしゃがみこむと同時に、ガゴンという音を立て商品が排出される。
 紙に巻かれたコーンアイスを手に取ると同時に、咲里の頭上で微かな笑い声がした。しゃがんだまま視線を上げれば、珍しく破顔するくろの顔が、瞳の中に飛び込んできた。

「あんた、いちごが好きなんだな」

 静かながらも語調を上げ、そんなことを口にする。
 心の底から幸福だとでも訴える様な、そのあまりに穏やかな微笑みに、咲里は瞬間言葉を失った。
 はくはくと無様に何度も口を動かし、くろの顔を見つめたまま固まってしまう。
 頭から、湯気が出るかと思った。

「咲里、かわいい」

「っ……!! しっ、知りません!」

 逃げるようにして、顔を伏せたまま立ち上がる。
 そのままくろの横を通り過ぎ、咲里は一人、自販機から一番遠い場所にある木製のベンチに腰掛けた。
 ばくばくと高鳴る心臓を落ち着ける様に、数度深呼吸を繰り返す。
 見慣れた顔のはずなのに、やはり何度見ても不意打ちの笑顔だけは慣れない。

(し、心臓に、悪い)

 冷房はきちんと効いているというのに、全身が酷く熱を帯びている。
 これくらいで動揺している場合ではないと思いはすれど、そう簡単に落ち着けるほど、咲里の頭は単純には出来ていないらしかった。

 気をまぎらわす様にしてアイスの包み紙を剥がしていると、隣に誰かが腰掛けてくる気配がした。恐る恐る視線を上げると、微笑みを浮かべるくろと目があう。
 不意に咲里は、その腕に自分の分のアイスが握られていないことに気が付いた。
 前回は咲里と同じいちごクレープを、渋い顔をしながら食べていたが。

「あの、……くろは、食べないの?」

「ああ」

 咲里の手に握られていた、剥ぎ取られたアイスの包み紙をそっと奪い取り、くろは微かに身を乗り出した。咲里の上に、黒い影が落ちる。

「あんたのを少しもらえれば、それでいい」

 どういうことかと、そう咲里が問いかける前に。
 くろの顔が咲里と同じ位置まで下がったかと思えば、咲里の手にしていたアイスに噛り付いていた。咲里よりもひと回り大きい歯型を残し、くろは再び身を起こしていく。
 わなわなと、アイスを握る右腕が小刻みに震えていた。
 そんな咲里の羞恥心を知ってかしらずか、くろは自身の口周りに付着したアイスクリームを舐めとっていく。

「……美味いな」

 アイスの味を指してなのか、それとも――
 蠱惑的に覗く真っ赤な舌先、意味深に投げかけられる視線から逃れる様にして、咲里は無心でアイスを貪った。

(あ、遊ばれてる……、たぶん、ううん。絶対、遊ばれてる……!)

 口の中が、アイスの甘酸っぱさに侵食されていく。
 美味しい。美味しいのだが、完食だけを考えて口を動かしているため、次第に頭が痛くなってくる。
 たまらず口を止めて頭を抑えれば、横に座っていたくろが耐えきれないとばかりに声を上げて笑い始めた。
 そんなくろの様子を呆気に取られ眺めながら、咲里は密かな感動を覚えていた。

(あのくろが、……笑ってる)
 
 以前は「そうか」「ああ」「なぜ」「どうして」といった単語しか口にしようとしなかった希薄さが嘘の様に、今のくろは感情豊かだ。
 咲里はくろに、普通の犬としての幸せを与えてやれなかった。だが今はこうして、人としての平穏を与えてやれている。仮初めの姿での、偽りの幸福かもしれない。
 けれど――
 そのことに、少なからず安堵した。
 至らない飼い主、至らない恋人かもしれない。けれど至らないなりに、くろの横に立つのに相応しい相手になれているのだろうか。

(そうだったら、いいな……)

 そんなことを考えながら、最後に残ったコーンの欠片を嚥下し終えたところで、不意にくろに声を掛けられた。

「咲里」

 再び頭上に影が落ちたかと思えば、次の瞬間咲里はくろに口を舐められていた。
 閉ざされた唇を割り開くようにして執拗になぞり、けれど奥まで踏み込もうとはしない。戯れに咲里を弄んだかと思えば、最後に名残惜しげに口の端を舐め上げ、婉然としてみせる。わざとらしく浮かべられた挑発的な笑みに、卒倒しそうになった。

「付いてた」

「っ~~~~~~!!!」

 内容を理解するのに、しばしの時間を要した。
 単純に、アイスが付着していたので、それを取ってくれたという意味だろうが。

(だ、だからって舐める必要は……!!)
 
 ない。全くもって、一切ない。
 知らせてくれれば、自分で拭いたというのに。
 絶対にわざとだ。咲里が過剰に反応すると分かって、仕組んだことに違いない。

「ほ、……本! 返してきます!!」

「ああ」

 反抗の意思を示そうとくろを置いてそそくさと歩みを進めるが、いくら咲里が早足で歩いたところで、歩幅の広いくろにはすぐ追いつかれてしまう。
 いつも咲里のペースに合わせて、のんびりと歩いてくれているから忘れていたが、相手は咲里よりも背の高い大人の男だった。

「つ……、付いてこないでください!」

「だが」

「ペット禁止……!!」

 咄嗟に、入り口付近の壁に貼られていた、悲しげな顔をする犬のポスターに書かれていた文字を叫ぶ。
 ガーンと、それこそポスターの犬顔負けに、ショッキングな効果音がしそうな顔をして佇むくろに背を向け、咲里は逃げる様にして図書館の自動ドアをくぐった。

(ひ、人のことをからかって……)

 ちょっとばかり、今日のくろは横暴が過ぎるのではないだろうか。

(や、やっぱり全然ちょっとじゃない! 色々頼りきりなのは申し訳ないし、すごく感謝もしてるけど、でも公衆の面前でそういうことするのは……っ!! さ、さすがにちょっと恥ずかしすぎるというか……!! ま、前に……ショッピングセンターで手を繋いだのだって、本当は、死んじゃいそうなくらい恥ずかしくて……!! くろは、その、……悪気はないのかもしれないけど!!)

 赤くなったり青くなったり、あわあわと百面相を繰り返す咲里は、端から見れば随分滑稽かつ不気味だろう。
 男がやってきてから、ずっとそうだ。
 毎日毎日、色んなものが目まぐるしく変化していく。常に下を向いて歩いていたはずの世界は、一度顔を上げてみればこんなにも明るかったのかと、鮮やかな色を帯び、少女の心を嵐の様に翻弄する。
 燻り、朽ち果てようとしていた脳には、男との生活はいささか情報過多だ。
 
 けれど――
 こんな忙しくも平穏な日々が、ずっと、永遠に続いていけばいい。

 そんなことを願いながら、咲里は背後で自動ドアが閉まる音を聞いた。
 ゆっくりとにじり寄ってくる影の様な、微小で、不気味な旋律を。

 
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