えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(そのよん)

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 気怠い体を動かし、ゆっくりと瞼を押し上げていく。
 薄暗い部屋の中でそのまま呆然と天蓋を見上げ、咲里はしばし静止した。

(ここ、は)

 時計の秒針の音をどこか遠くで聞きながら、咲里は思案する。
 どうして今、寝室のベッドの上にいるのだろうか。頭を動かしてみても、隣にくろの姿はない。
 確か、くろと昼食を摂っていたはずだ。それから――

 何があったのかを思い出した瞬間、咲里は勢い良く体を起こしていた。
 瞬間、腰を鈍い痛みが襲う。ソファーで散々貪られた後、そういえば寝室でも何度か抱かれたような気がする。限界を迎え途切れてしまった意識の狭間、ただくろの「すまない」という言葉だけが、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 体は綺麗に清められ、ご丁寧にパジャマに着替えさせてもくれたようだ。
 色々と任せきりになっている状態に、何度目になるか分からない申し訳なさを感じたところで、不意にサイドテーブルに、何やら紙切れが置かれていることに気が付く。
 中央に、簡素な字で「悪かった」とだけ書かれた、名刺サイズの白い紙。
 それを手に取ったのち、咲里はこの紙を残したであろう男の姿を求めてきょろきょろと周囲を見渡してみた。
 
「くろ……?」

 呼びかけても、反応はない。
 しばらく待ってみたところで、犬は主人の呼びかけに応じようとはしなかった。

 こうしてベッドの上でひとりきりでいると、一週間前のことを思い出す。
 忽然と姿を消した後、男は主人を害するものに価値などないとばかりに、咲里の通う学校を消し炭にしてしまった。あんたには俺だけがいればいい、あんたが望むなら、誰だって殺してやる。そんな、呪いの言葉を吐き出しながら。

 けれど、今回は誰かを殺しに行ったということはないだろう。
 泣き叫ぶ咲里に、くろはもう誰も殺さないと約束してくれた。
 第一、ここ最近はずっと家にこもっていたのだ。
 くろが報復行為に走るようなことを、誰かにされた覚えはない。
 
 咲里の前に姿を見せないのは、単純に無理をさせてしまったと、くろなりに咲里を抱き潰してしまったことに関して申し訳なさを感じているからだろう。そう考える方が、まだ素直に納得できた。

(……私は別に、気にしてないのに。……我慢させちゃってたのは、私の方なんだし)

 くろが罪悪感を覚える必要はない。
 何度も言うように、行為自体が嫌なわけではないのだ。
 問題は、咲里が羞恥心を完全に克服できていないこと。
 それと、純粋な体力の問題だ。
 羞恥心の方は気合でなんとかなるかもしれないが、体力は……。

(……ランニング、始めようかな)

 ずっと家に篭っているのも問題があるし、そろそろ前向きに行動を起こしてみるべきなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、咲里はくろの残したメモを置き、ゆっくりと立ちあがった。
 窓の外が明るかったのでてっきり昼寝程度で済んだのかと思っていたが、時計の時刻を見て驚きを覚える。どうやら、丸々一晩眠ってしまっていたらしい。どうりで怠さはあるが、体の調子がそこまで悪くないはずである。

 とりあえず、何か腹に入れておこうと、咲里は鈍く痛む腰をさすりながら、リビングへと続く階段を降りていった。
 もしかしたら、くろがいるかもしれない。
 そんな淡い期待を込めながらリビングへと続く扉を開けてみるのだが、部屋の中には男の姿はなかった。ただ窓の外から聞こえてくる蝉の音と、時計の秒針だけが咲里の耳を刺す。
 部屋の中をしばし見渡していると、代わりとばかりに、食卓の上に咲里のために準備されたのであろう、ラップに覆われた一人分の昼食が置かれていることに気が付いた。
 置き手紙のようなものは、特に用意されていない。

 勝手に食べてしまってもいいのだろうかと、きょろきょろと周囲を見渡してみるが、生憎くろが姿を見せる兆しはなかった。
 
 ラップの上から手をかざしてみれば、まだほのかに暖かい。
 つい先ほどまでくろがここにいたのであろうという事実に、咲里は静かに溜息を吐いた。
 わざわざそこまでさせてしまったことに罪悪感を感じながら、手早く昼食を済ませ、食器類を片付ける。
 まさかキッチンに立つ機会がこのタイミングで訪れるとは思わなかったと思いながら、咲里は久しぶりに自分の手で食器を洗えているという事実に、密かな感動を覚えていた。

 もしかすると、咲里が家事をするのを阻止しようと、突然くろが現れるのではないかということを少しだけ期待していたのだが、そんなそぶりは微塵もない。

 二度と帰ってこないということはないと思うが、家事ができる喜びが半分、くろはどこに行ってしまったのだろうかという不安が半分といった心境だ。

(でも……。くろがいない今だからこそ、今まで先延ばしにしていたことを色々と片付ける、絶好の機会なのかもしれない)

 別にやましいことをしようというわけではない。
 具体的にいうと、しばらく足を踏み入れていなかった自室の掃除がしたい。
 ただ、それだけのことである。

 この一週間、咲里はただ無為に時間を浪費してきた。
 基本的に、寝室とリビングとの往復を繰り返しただけ。
 体調がすぐれなかったというのは大いにあるが、そういった点を加味しても、些かくろの優しさに甘えすぎていた。

 どのみち、くろが自ら姿を現そうという意思を見せない限り、たかが人間風情の咲里個人には探しようがないのだ。

(……よし)

 そうと決まれば、行動あるのみ。
 蛇口を閉め、食器についた水滴を拭き取りながら、咲里はそんなことを考えていた。

 最後の食器を棚の中にしまうと、階段を登り、久方ぶりに寝室の隣にある小さな自室の扉を開ける。
 恐る恐る室内に足を踏み入れれば、見なれた質素な部屋が咲里の瞳に映りこんだ。
 そういえば、最初男が家に来た当初は、この部屋をシェルター代わりにしていたんだっけ。あの頃はまさか、男の正体が死んだ愛犬だっただなんて、微塵も思いもしなかったわけだが。

 そんなことを考えていると、咲里の視界に部屋の隅に置かれたクッションが飛び込んできた。犬の毛と、微かな血痕の付着した茶色いクッション。かつて、くろがただの犬だった時に、寝床として利用していた代物だ。
 人の姿を取るようになった男にとって、今ではもはや不要なものなのだろうが。

(これは、置いておこう)

 汚れてはいても、咲里にとってはかけがえのない思い出の品だ。
 
 今日の片付けの本題はこちらではなく、と、咲里はその真横に視線を動かす。
 そこには一週間前の状態のまま置き去りにされ、微かにほこりをかぶった通学鞄が置かれていた。
 こちらこそ、真に紛れもなく今の咲里にとっては不要なものだ。 
 ちらちらと、視界の隅にクローゼットにかけられた制服のスカートがちらつく。

 何も考えなくていいというのなら、真っ先に学校の痕跡となるものは処分してしまいたいというのが、咲里の嘘偽りない本心だった。

 けれど、今日の機会を逃せば、いつまでもズルズルと放置してしまいそうだった。
 触れることが恐ろしいからと、臭いものに蓋をするかのように。
 だがしかし。
 そろそろ、ある程度は身の回りを整理すべき時期が訪れているのかもしれないと、咲里は覚悟を決め、勢い良く通学鞄のジッパーを開けた。
 
(あ)

 瞬間視界に飛び込んできたのものに、咲里は心の中で間抜けな声を漏らす。
 教科書やプリント類の間に挟まり、それはひっそりと鞄の片隅に佇んでいた。

(……本、返しに行くの忘れてた)

 咲里は以前、よく地域の図書館から本を借りていた。
 色々あってすっかり忘れていたが、そういえば一冊本を借りたままだったことを思い出す。
 思いもよらぬ伏兵に、咲里は深々と溜息を吐いた。
 本自体は、いたって普通の恋愛ものの小説なのだが。

(うっかりしてた……。これ、返しに行かないと……。返却期限、多分過ぎてるよね……?)

 本に挟まっていた返却期日が記された紙を確認し、またしても落ち込んでしまう。
 咲里の近所にある図書館の貸し出し期限は、二週間。とうの昔に過ぎ去った返却期日に、咲里は乾いた笑みをこぼすしかなかった。
 片付け云々以前に、早急に返却しに行かなければ。

(……でも、これは逆にチャンスなのかも)

 図書館に行けば雑誌がある。インターネットの繋がった、パソコンが使える。それすなわち、咲里の求めていた世間一般のカップルに関する情報が、色々と入手できるということに他ならない。
 
 気付いた瞬間、俄然前向きな気持ちになってきた。
 そうと決まれば、くろが戻ってこないうちに手早く出かけてきてしまうに限る。
 ――外出、しよう。

 手早く着替えを済ませ、肩がけのトートバッグに本を入れ、咲里は自室の扉を開けた。恐る恐る周囲を見回してみるが、相変わらずくろが姿を現す素振りはない。
 ゆっくりと玄関へと向かって階段を下りていく途中、バクバクと、無意識に心臓が鼓動を早めていった。
 ただ少し歩いて、本を返して、ついでに調べ物をするだけ。
 それだけのことなのに、くろに黙ってという一点が、無性に咲里の罪悪感を刺激していた。

(……別に、やましいことがあるわけでは、ないんだけど)

 とにかく、早く用事を済ませてしまおうと、咲里は勇気を振り絞って玄関の扉に手をかけた。

 瞬間ゾッと、正体不明の冷気が背筋を駆け抜けていく感覚があった。
 全身の血の気が引いていき、視界が重圧に揺らぐ。
 夏だというのに冷え切っていく空気とは反対に、咲里の体だけが次第に熱を帯びたものに侵食されていく。
 咲里のちょうど真後ろ。
 先ほどまで誰もいなかったはずの空間に、探し求めていたはずの男の姿があった。

 咲里の胸の下に両腕を回し、くろは緩やかに咲里の体を背後から拘束していた。
 男の黒髪が、ちくちくと咲里の首筋を刺激する。ぐりぐりと懇願するかのように咲里の首筋に数度額を押し付けたのち、くろはゆっくりと顔を上げた。
 
「あんたが、そこまで怒ってるとは思わなかった」
 
 沈黙ののち零された言葉は、不機嫌さを隠しもしない。
 別に怒ってはいない。咲里よりもよほど、くろの方が怒っているように見えた。
 周囲を満たす空気はひたすらに冷ややかで、だからこそくろの体から伝わる熱を一層意識させられてしまう。
 とにかく誤解を解かなければと、息苦しさから逃れるように軽く身じろぎをすれば、くろの拘束が強まった。
 反論を吐き出すのを阻止するかのような行動に、咲里は押し黙ることしか出来なかった。
 
「無理をさせた自覚はある。あんたを一人にしたのも、……悪かった。……あれは、あんたの傍にいると、自制心がなくなりそうだっただけで、……他意はない。あんたを不安にさせたなら、悪かった。――だがな」

 何か、重大な勘違いが発生している気がする。

「だからって、俺を捨てることはないんじゃないか」

 地を這うような声で恨みがましく吐き出しながら、くろは咲里の体を玄関の壁に押し付けた。前からも後ろからも逃げ道をふさがれ、咲里はしどろもどろになりながら口を開く。

「す、捨てない……! あの、す、捨てない、から……!!」

「だが、あんたは一人で出かけようとした。俺を置いて、どこへ行く気なんだ。俺のことは、もう必要ないのか」

「そう、いうことじゃ、なく、て……!!」

「……だったら、どういうことなんだ」

 一切後ろめたいことはしていないはずなのに、くろの物言いのせいで浮気を責め立てられているような気分になってしまう。
 心なしか、咲里に触れるてのひらの感触が、次第に肌をまさぐるようなものになっている気がした。
 間男がいるのかとでも言いたげな言動に、怒ればいいのか笑えばいいのか、それとも泣けばいいのか、もう訳がわからない。

「わ、私はただ、と、図書館に、本を返しに、行きたかった、だけ、で……! な、なにも、や、やましいことなんて……!」

 ほんの少しだけ、あります。
 そんなことは口が裂けても言えないので、咲里は小動物のように震えながら、背後に佇むくろの機嫌が直ることを祈るしか出来なかった。

「……ちょっと、出かけようと思っただけで……。近くだし、くろが戻ってくる前に、帰ってこようと、思ってて。だから、その、くろに怒ってるとか、不満があるとか、そういうこと、じゃ、ない、…………です」

 しばしの、沈黙があった。
 くろの身動きが、ぴたりと止まる。周囲を満たしていた冷気が、次第に収まっていく感覚があった。
 恐る恐る背後を伺いみれば、いつもと変わらぬ無表情を浮かべるくろと、視線がかち合う。

「わかった。俺も一緒に行く」
 
「えっ」

 想定外の言葉に、不自然に目が泳ぐ。
 一緒に行くのは別に構わないのだが、そうなると、くろの目の前であんなことやこんなことが書いてある雑誌類を見る羽目になるわけで。 

「だ、だだだ、大丈夫!! ひ、ひひひひ、一人でも、大丈夫です!! だから、あの、くろは、ゆっくりしていてくれれば」

「……やましいことは、ないんだろう?」

「そ、れは……、あの」

「あんたを、一人には出来ない」

 そう力強く言い切られてしまえば、返す言葉はないわけで。
 ――一体くろの中で、咲里はどういう認識なのだろうか。
 一応飼い主のはずなのだが、そう自称するには些か頼りにされていないような気がする。

(わ、私……。そんなに、危なっかしいかな)

 非力な自覚はある。くろが過保護なことも、重々理解していたつもりだったのだが。
 まさか、一人で外を出歩かせても貰えないとは思わなかった。

「咲里」

 一人頭を抱える咲里を尻目に、くろは淡々と先ほど咲里が開けようとしていた玄関の扉を開く。

「出掛けるんだろう」

 真夏の太陽光に照らされたくろの横顔をどこか呆然と見上げながら、咲里は幾分か横暴になった愛犬に対し、こくりと、なさけなく頷きを返した。


 
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