えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(そのいち)

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 長く降り続いた雨は止み、雲ひとつない軽快な晴空の広がる七月の半ば。
 窓の外を見れば、じりじりとした太陽の光が世界を微かに歪め始めている。
 そんな世界から隔絶された、冷房の行き届いた部屋の中。
 もはや慣れた様子で縮こまってソファーに座り、篠塚咲里は小さく溜息を吐いた。

 梅雨は明け、世間を賑わせたあの学校の爆発事故から、一週間が経った。
 あれほど騒ぎ立て、毎日のように記者会見と事件のあらましを放送していたのが嘘のように、一連の事件はすっかり世間から忘れ去られようとしていた。
 ニュース番組の代わりに、テレビでは梅雨明けらしく夏休みの旅行スポットを紹介する特番が多く流れ始め、今も画面の中では今年出来たばかりだというレジャー施設のレポートが放送されている。

 すっかり夏へ向かって前向きに進んでいこうとする世界とは反対に、咲里はちらりと気取られないようにして背後を省みた。
 視線の先、キッチンの奥。そこには手慣れた様子で菜箸を使いボールに入った卵をかき混ぜる、無表情ながら、しかして上機嫌さを醸し出すくろの姿があった。黒いTシャツの上に白のカーディガンを羽織った男は、咲里の視線に気がつくと腕を止め、微かに眼を見開き、首をかしげてみせる。

「どうかしたのか」

「な、……なんでもないです!」

 それなりに時間が経つというのに、未だに整った顔立ちの男と同じ空間にいるという現実は、咲里を困惑させる。それがたとえ、死んだ愛犬のかりそめの姿だったとしても。
 動揺をごまかすようにして顔の前で必死に手を振り、ぎこちない笑みを浮かべれば、くろは再び咲里に背を向け昼食の準備を再開した。

(……何やってるんだろう)

 現実から眼を背けるようにしてじっとテレビの画面に視線を向けながら、咲里は再び溜息を吐いた。
 くろは、咲里の世話を焼きたがる。気遣われること。それ自体は心地がいいし、くろが気分良く過ごせているのなら咲里も嬉しい。だがしかし、ものには限度というものがある。
 何をわがままなと思われるかもしれないが、そも咲里は誰かに尽くされることに慣れていない。
 優しくされるのは嬉しい。だがそれ以上に、何もしていないという罪悪感がちくちくと咲里の胸を刺す。だから、気持ち良く家事をしてくれているところ大変申し訳ないのだが、咲里は言わねばならない。

 私だって、ほんの少しくらいは役に立ちたい。くろのために、何かしたい。
 だからせめて、週末くらいは家事をさせて欲しい。
 そんなことを言おうとして怖気付いてしまうというのを、この一週間、咲里はひたすらに繰り返し続けていた。
 こんな風に悩んでいる原因はそれだけではないのだが、今はそれは置いておくとして。

(こんなことを思うのは、傲慢……なのかな)

 ソファーの上で膝を抱え、窓から燦々と差し込む夏の日差しとは反対にうじうじと縮こまりながら、咲里は何度目になるか分からない溜息をこぼす。
 
(でも、今のままじゃ私はただのお荷物だし、……ちょっとくらい頼ってくれても)

「咲里」

「ひっ!?」

 急に頭上から聞こえた声に、咲里はとっさに顔を上げる。
 視線の先、ソファーの背もたれ越しに、見慣れた無表情を晒す愛犬の姿があった。

「昼食、準備出来た。……驚かせたか」

 口から飛び出しそうに心拍数を増す心臓を必死に落ち着かせながら、咲里はどこか不安気にこちらを覗き込んでくるくろに対し、ぎこちない笑みを浮かべる。

「あ、えっと……。ご、ごめんね。ちょっと、考え事、……してて」

 ご飯、準備してくれてありがとう。
 そう言葉を掛け立ち上がろうとして、突如頬に伸ばされた腕に咲里は閉口し、身動きを止めた。
 咲里の頬を片手で軽く押さえ、額に自身の額を押し当て、至近距離で咲里の瞳を射抜き、くろはしょげた様子で口を開く。
 突然の接触に、咲里の思考は完全に停止していた。互いに体を重ねた以上、この程度の触れ合いなんてこともない戯れでしかないはずなのに、色恋沙汰に免疫のない頭は急激に熱を帯び始める。
 近い。近すぎる。なんて心臓に悪いのだろうと、咲里はしばし固まってしまう。
 
「……何か、気に触ることをしたか」

 そんな主人の様子に気付いているのか、いないのか。
 くろは淡々と、揺れる咲里の瞳を見つめたまま心情を吐露していく。
 違う。そう否定の言葉を返したいのに、動き方を忘れたかのように体は微塵も言うことを聞いてはくれなかった。ただ黒い目を見つめたまま、咲里は静かに息を呑んだ。
 
「あんた、ここ最近何か悩んでいるだろう」

 くろの口から出た言葉に、どきりとする。
 前にも思ったことなのだが、くろは聡い。咲里が鈍すぎるだけなのかもしれないが、くろは咲里以上に咲里の心を見抜いている節がある。
 普段必要最低限の言葉しか吐き出さないからこそ、くろの言葉はどこまでも直球だ。咲里のようにうじうじと悩んだり、誤魔化したりはしない。
 嘘をつかず、誤魔化さず、気持ちをそのままぶつけてくるくろだからこそ、咲里はこうして心を許すことができている。

(……私も、ちゃんと言葉にしよう)

 その実直さに、きちんと報いれるように。

「気に食わないところがあるなら、すぐ直す。だから」

「……くろが、悪いわけじゃないの」

 頬に添えられた手に宥めるように触れ、咲里は静かに心情を吐露していく。

「食べながら、話してもいい?」

 浮かべられた笑みに、ぎこちなさはない。
 無言で頷きを返し、くろは名残惜しげに屈めていた背を伸ばした。

 食卓に向かい合って座り、咲里は静かに両手を合わせる。

「……いただきます」

 今日の昼食は、出し巻き卵に、ナスとピーマンと豚肉のピリ辛炒め。
 匂いだけで涎がこぼれそうになるのを必死に抑え、咲里は箸を炒め物へ伸ばした。
 
「美味いか」

 こくこくと無言で頷けば、くろは満足気に破顔する。
 静かに微笑みながら、身を乗り出し、咲里を眺めているくろを見ていると、なんだか餌付けされているような気分になってしまう。
 実際、男と出会ってから少し太ったような気がする。くろ曰く、「あんたは痩せすぎだ。もう少し食ったほうがいい」とのことだが、曲がりなりにも年頃の身としては、少しばかり体重が気になってしまう。

(確かに、肉付きがない自覚はあるけど)

 主に、胸周辺が。

 浮かんだ雑念をぶんぶんと頭を動かし振り払うと、咲里は食事に意識を集中させた。
 視線を向ければ、くろも茶碗片手にもりもりと白米とだし巻きを貪り始めている。
 それから、時計の秒針と、テレビから聞こえる賑やかな雑音を背景に、二人はしばし無言で食事を貪っていた。

 食べながら話をすると言ったくせに、咲里が口を開いたのは、茶碗が完全に空になってからのこと。
 音を立てないよう慎重に茶碗と箸をテーブルに置くと、咲里は恐る恐る口を開く。

「……あのね」

 咲里の視線を受けて、くろもゆっくりと茶碗を食卓の上に置いた。
 膝の上できつく両手を握りしめ、咲里はゆっくりと言葉を吐き出していく。

「くろが料理とか、洗濯とか、私を気遣ってくれてるのは、とっても嬉しいの。今日のご飯も、とっても美味しいし、くろが悪いとかじゃなくて。……単なる私の、エゴなんだけど」

 そこで一度、言葉を切った。くろはただ黙って、咲里の話に耳を傾けてくれている。
 そんな他愛のないことに、安堵する。

「……何もしないのは、落ち着かなくて。だから、少しくらい、家事をさせて欲しいかな……、なんて」

「……あんたは、何もしなくていい」

 返されたお決まりの言葉に、下を向き、腿の上で握りしめた両手を見つめたまま、咲里は嘆息する。

「……っ、確かに、私はお荷物だけど」

「違う。あんたは、お荷物なんかじゃない。……あんたはただ、傍にいてくれればいい。俺にはそれで十分だ」

「で、でも、私も、ちょっとくらい、くろに何かしてあげたくて」

 ぴくりと、くろの眉が微かに上下した。

「りょ、料理とか、あんまり上手くないけど、つ、作って、あげたくて……。迷惑じゃ――」

 ガタンと、最後まで言い切るのを待たずに、くろが勢い良く椅子から立ち上がる。

「迷惑じゃない」

 どこか興奮気味に咲里を射抜く黒い目に、しばしたじろいでしまう。
 咲里の困惑を悟ってか、くろは軽く咳払いをすると、ゆっくり椅子に座り直した。

「……すまない」

(今のは……、喜んでくれたのかな)

 立ち上がってまで否定してくれたくろの勢いに、咲里はそんなことを思う。だったら、勇気を出して口にした甲斐があるというものだ。
 
「負担じゃないか」

「料理するの、好きだから」

 無言で首を横に振ったのち、咲里は軽く微笑んでみせる。
 くろが戻ってくるまで、咲里は大方の家事は一人でこなしていた。だから、負担になんか思うわけがない。
 
「……たまに、なら」

 咲里の向かいの席に腰掛けているくろは、腕を組み、しばしふてくされたように黙り込んでいたが、どこか複雑そうな顔でそんな言葉を吐き出した。

 案外簡単に首を縦に振ってくれたくろに、咲里は安堵の息を吐く。もう少し渋られると思っていたのだが、どうも自分のために咲里が何かしようとしている、という状況に、くろは極端に弱いらしい。

 本当は、もう少し家事の権利を取り戻したいのだが、やりたいと言っている相手からむやみに取り上げてしまうのも、それはそれで申し訳ない。
 だから、このあたりが互いの妥協点だ。

(……よし)

 決意を固めるようにして、咲里は頭の中で声を上げる。
 これにて、第一関門は突破した。
 しかし、まだ重大な問題が残っている。
 二人で暮らしていく上で、避けては通れない、咲里を最も悩ませていた問題が。

「それで、あの、もう一つ、相談が、……あって」

 急に歯切れが悪くなった咲里を、くろは不安気に射抜いている。

「っ……、……の、……こと、……なんだけど」

 漏れ出た声は、蚊の囁きのようだった。
 ムッと、微かにくろの眉根が寄る。
 男の反応に、やっぱり言わなければよかったと後悔が押し寄せてくるのだが、ここまで来たのなら問題は全て解決してしまいたい。
 それに、この機会を逃してしまえば、ズルズルといいように流されてしまうのは目に見えている。
 だから、言う。ものすごく恥ずかしいが、言わねばならない。

「咲里……?」

 流石に声にならずに掻き消えた吐息の音までは聞き取れなかったらしいくろが、訝し気に咲里に視線を送る。

「あ、あの、あれの、こと、なんですけど」

「……あれ?」

「だから、っ……! ……っ、え、……えっちの! 頻度のことで、相談が……っ!!」

 そこまで言うのが限界だった。
 机に頭を打ち付け、耳まで赤く染めたまま、咲里は顔を上げることもできずにじっと黙り込んでしまう。
 くろの反応を伺うのが、心底恐ろしくて仕方なかった。

 夜の生活、性交渉、エッチ、交尾、セックス。
 言い方は色々あるが、要するにそういうことである。
 
 なぜ今更そんな話をするのかと言えば、話は一週間前に遡る。男の正体を知り、それでも共に歩んでいくと決めた、爆発事故のあった日の翌日。
 タイミングがよかったというべきか、悪かったというべきか。遠回しに言うと、女の子の日。端的に言ってしまえば、生理がきた。
 次回があるのかと怯える咲里に応えるようにして訪れたそれにより、この一週間は特に何の進展もない日々が続いていた。

 だがしかし、いつまでも先延ばしにできる問題でもない。
 始まった日から一週間、いままでなあなあにしてきたが、ついにタイムリミットが来てしまった。
 こういうことは今決めておかないと、たぶん一生後悔する。

 そんなこんなで、意を決して口にしてみたのだが。

(やっぱり無理……っ! そ、そもそも頻度って何!? 世間一般のこ、恋人? 夫婦? ってどういう感じで、そういうことを決めてるんだろう……。ていうか、思い切って切り出したけど、ど、ど、どうしたらいいの!? 嫌がってると思われた!? ……っ、べ、別にするのが嫌とか、そういうことじゃなくて、ただ毎日は、ちょっと、勘弁してほしいっていうか、っ……! ……もう、だめ。今すぐに、死にたい)

 大暴走を始める脳内とは反対に、ぷるぷると小刻みに震えたまま動けずにいると、落ち着き払った低音が咲里の耳を刺した。

「あんたはどうしたい」

 気遣うような声色に、咲里は恐る恐る体を起こしていく。
 机の上で腕を組み、微かにこちらに身を乗り出してくる男の顔に揶揄するようなものはなく、いたって真摯に咲里の相談に付き合おうとしてくれているようだった。

「嫌なら、無理にはしない。あんたに、嫌われたくはない」

 咲里を落ち着かせるように微かにはにかんでみせる男に、安堵する。

「……嫌っていうわけじゃ、ないの。……ただ」

「ただ?」

「……ちょっと、怖くて」

 行為自体が嫌なわけじゃない。
 ただ、ああも情熱的に求められることに、どう対処すればいいか気持ちの整理がついていないだけ。
 あとは単純に、体力的な問題だ。

「あの、……ま、毎日は、嫌です」

「ああ」

 その答えは想定済みだとばかりに、くろが静かに頷きを返す。

(ど、どれくらいが一般的かとか、そういうのはよく分からないけど)

「……月に一回くらい、なら」

 精神的に、耐えられそうな気がする。
 言葉の先を紡ごうとして、視界の先に飛び込んできたものにぞっとした。

「そうか」

 声も表情も、普段と変わらぬ無表情。
 それどころか、咲里を案じる素振りすら見られるのだが。
 言動と纏う空気が、完全に乖離していた。
 一週間前に犬の姿をした男を見たとき纏っていた、黒い瘴気。それが、人の姿をしたくろの体から滲み出している。
 たまらず悲鳴を上げそうになるが、どうも別に怒っている、というわけではなさそうだ。
 あの日の状況と今を照らし合わせるに、何かを必死に抑えている、という方が正確なのかもしれない。もしくは、悪い意味で興奮しているか。

「……やっぱり、二週間」

 さすがに一ヶ月は酷だったかと、恐る恐る間隔を短くしてみる。
 すると、くろの体から滲み出ていた瘴気が少しばかり薄くなっていった。それでも、完全に消えたわけではない。

「い、一週間……に、一回、くらい、なら」

 もう一度、間隔を短くしてみる。
 すると、ようやく妥協できる頻度になったのか。

「わかった」

 ゆっくりと、くろの周りを覆い尽くしていた黒い靄が引いていった。それでも完全には消えず、残り香のようにくろの周囲を漂う瘴気に、咲里はゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 
「どうかしたのか」

「な、なんでもない」

 何が何だかという様子で眉をしかめてみせるくろに、咲里は咄嗟に否定の言葉を返す。
 くろの反応を見るに、どうやら無自覚らしい。
 
(……は、反応が、分かりやすいのは、ありがたい、けど)

 ちょっとばかり、今のは心臓に悪かった。
 人前で、くろの神経を刺激するような言動は慎んだ方が良さそうだ。何がスイッチになるかは、正直まだよく分からないところではあるのだが。

(……私を尊重してくれてるみたいだけど、本音はどれくらいの頻度が、いいのかな)
  
 くろは足を組み平然としているが、一週間でも正直、靄の状態を見るには不満そうだ。
 聞いてみたいような、けれどやっぱり知りたくないような。

 結論が出ないまま、くろは空になった食器を手に立ち上がってしまう。

「片付けはやっておく。あんたは、のんびりしていてくれ」

 そんなお決まりの言葉を並べ立て、くろは咲里が手を出す暇も与えず、足早にキッチンへと向かって行ってしまった。
 渋々いつものようにソファーで膝を抱え、咲里はちらりとテレビを見ているふりをして、キッチンに立つくろの様子を伺った。

 くろは基本的に感情をまっすぐに吐き出してくれるので、そういう意味では分りやすい男ではあるのだが、黙っていると本当に何を考えているのか分からなくなる。

 今だって、そうだ。無言で皿を洗っているくろの横顔からは、何一つ読み取ることができない。
 怒ってはいない。そう信じたいのだが。

(……やっぱり、ちょっと怒らせちゃったかな)

 そんな堂々巡りを繰り返しながら、咲里は小さく溜息を吐いた。
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