えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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じゅういち

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「あんたは俺を求めた。俺は、そんなあんたに応えたいと思った。あんたを一人にしておけなかった。離れたくなかった。ずっと傍にいたかった。最初に言っただろう。……俺は、あんたの望みを叶えるために、ここにいる」

 座り込み、その場から動けずされるがままになっているのをいいことに、男は咲里の制服の上着に手を掛けた。ぱさりと、男の手により上着が床に落とされる。
 本気で理解に苦しんでいるのだろう。何の反応も見せない咲里に、くろは小さく首をかしげていた。その小綺麗な顔に、微かな不安を滲ませて。

「怒っているのか。あんたが買ってくれた服を、着ていないから」

 何と場違いなことを聞くのだろうかと、咲里は慌てたように視線を泳がせるスーツ姿の男を見守り続けた。どんな言葉を掛ければいいのか、全くもって見当がつかなかった。

「仕方なかった。……汚したく、なかったから」

「違、う」

「だったら何が気にくわない」

 舌打ちと共に、男の額が咲里の額と合わせられる。咲里を抱きしめるのとは反対の腕で顎を掴み上げ固定したまま、至近距離で咲里を射抜く眼差しには、不安交じりに明確な苛立ちがにじんでいた。

「あんたは学校が好きじゃなかった。俺も、学校が嫌いだった。あんたは優しいから、なかなか言葉にしないだろう? ああ、そうだ。俺には分かってる。あんたはずっと、学校に行きたくないと思っていた。だから、消した。……当然だとは思わないか? あの場所は、俺からあんたを奪う。いつも思っていた。どうして俺を置いていく? 出かけるたびに、どうして俺以外の匂いを纏って帰ってくる? 一体何人の人間があんたの体に触れている? 俺はあんたと離れるのを毎日毎日我慢していたのに、こんなにも、好きなのに、不公平だとは思わないか? 俺以外の誰かとあんたが接触する瞬間を考えるだけで、気が狂いそうになる。なあ、咲里。……あんたに触れていいのは、俺だけだ。あんたは俺のことだけ考えていればいい。俺には、あんたしかいない。あんたにも俺しかいない。それでいいだろう? あんたの望みは俺が叶える。気にくわない奴は、誰だって殺してやる。死んでも離さない。あんたは、……咲里は、俺だけのご主人なんだ。……これまでも、これからも」

 朗々と熱情を吐き出しながら、男は咲里を拘束する腕を強めていく。シャツ越しに掴まれた腕から滲む男の熱が、じんわりと咲里を侵食していった。
 物静かな愛犬が、物分かりのいい顔の裏でまさかそんなことを考えていただなんて思いもよらず、咲里は面食らってしまう。
 凶悪な想いの濁流に、押しつぶされてしまいそうだった。
 けれど、男の独白を聴き終わった時、咲里の中にくすぶっていた恐れは洗い流されていた。ただ後悔だけが底なしの水底に残され、ぎりぎりと咲里を搦め捕り、締め上げていく。

 あの時、くろを拾ったりしなければ。咲里と、出会わなければ。そうすれば、この男がこんな風に狂うことはなかった。
 そのことに、どうしようもない罪悪感を覚えた。

(私の、せいだ)

 咲里が、くろを、おかしくした。
 一匹の犬の生を狂わせた。無駄な延命措置の末、無残に殴り蹴り殺され、その果てにたどりついた末路がこれなのか。唯一咲里を受け入れてくれた存在に、なんという仕打ちをしてしまったのか。怨霊と成り果てたくろの腕の中で、咲里は生きた心地がしなかった。

(私が、くろを、拾ったから)

 咲里が、くろを不幸にした。怨霊になんかしてしまった。
 息が詰まる。視界がぐらぐらと揺れていた。それなのに、咲里の背を撫でるくろの腕は優しい。微塵も後悔などしておらず、男の胸中に残るのは、ただ主人に尽くしたことに対する法悦だけだ。

「……ああ」

 くろはいいことを思いついたとでも言いたげに、笑みを強める。
 見上げた先の黒い目が物騒な光を宿すのを、咲里は見逃さなかった。

「やっぱり、あんたの身内も殺そう。葬式の時、よこしまな目であんたを見てた。あんたは優しいから、何も言わなかった。だから、見逃してやった。でもあんた、親戚のこと、好きじゃないだろう。……だったら」

「もういい!」

 突然の大声に、くろが苦しげに眉を顰めた。
 それをいいことに、男の胸にすがりつき、咲里はただふるふると首を何度も横に振る。

「もう、いいの。もう、殺さなくていい。お願い。もういい、もう、いいから。……十分、だから」

「だが」

「――じゃないと! ……あなたのことを、っ、嫌いに、っ、なる……っ、!」

 ただ男の暴走を止めなければと、咲里はそれだけを考えていた。
 しかし、滑稽なほどに歪められたくろの顔に、また傷付けてしまったのかと咲里は深い深い後悔の念に苛まれていく。この男は、咲里のために冥界から戻ってきた。そうさせるだけの執念が、男にはあった。くろからしてみれば、咲里に嫌われる以上に恐ろしいことなど存在しないのだろう。
 咲里の憶測を肯定するかのように、心臓を直接捻り潰されたような顔をして、男はすがるように咲里の首筋に顔を埋めた。

「……分かった」

 ぐりぐりと、何度も咲里に頬擦りを繰り返し、くろは気弱に息を吐く。これまでの威勢が嘘のように縮こまるくろの姿はどこか滑稽で、咲里は慰めるようにして男の胸に体を預けた。 
 そうしてやれば、幾分か男は冷静さを取り戻したようだった。咲里の背を撫で、くろはほっと溜息を吐く。

(全部、私の、せい)

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 どうして、誰も幸せに出来ない。
 たった一匹の大切な存在でさえ、不幸のどん底に堕としてしまった。

「ごめん、なさい」

「何故、あんたが謝る」

 無意識に漏れ出た謝罪の念に、くろは明確に眉をしかめて見せた。
 咲里の顔を覗き込み、犬はじっと主人の真意を見抜こうとする。

「だっ、て、私は、あなたに、こんなこと、……くろを、不幸に――。私が、あなたを、拾ったり、しなければ――」

 咲里の言葉を遮るようにして、くろは咲里の唇を塞ぐ。
 咲里の後悔も、迷いも、吐き出される震えた息も、命すらも飲み込むようにして、くろはゆっくりと口付けを深めていく。
 舌を絡め、口蓋を舐め上げ、こぼれ落ちた唾液をじゅるじゅると音を立てて啜り、飲み干していく。

「そんなこと、……ぁ、言わないで、くれ」

 吐息交じりに漏らされる甘やかな哀願は、咲里の正気を奪っていく。
 咲里がろくに抵抗しないのをいいことに、くろは咲里の口を好きなように嬲っていた。最後に、舌先で名残惜しげに咲里の口の端を舐め上げ、男はぞっとするほどの微笑でもって咲里を捉える。スカートの隙間に筋張った指を這わせ、男は誘うようにして、つうと咲里の内腿を撫であげた。
 昨夜の情事を思い起こさせるような振る舞いに、ぶるりと、生理的な震えが咲里の体を駆け抜けていく。なだれ込むようにして男の腕の中に体を預ければ、くろはくつくつと不気味に喉を震わせた。

「俺は、幸せだよ。あんたの役に立てて。傍にいられて、求められて、嬉しい。信じられない、か……?」

 それは、一種の刷り込みだ。
 自分の命を救い、危害を加えず、世話をしてくれたものに対する依存心。
 馬鹿な犬だと、咲里は自分に傾倒しているくろを見上げたまま固まってしまった。ああ、でも、自分だって大馬鹿だ。それを分かっていて、咲里もくろに依存した。受け入れられたと、愛されたと舞い上がった。
 ああ、でもそうか。愚かなもの同士、お似合いではないかと、咲里は薄暗いキッチンの隅で歪に口角を吊り上げる。小さな家の片隅で、愚かな主従がふたりきり。
 この男は、咲里を絶対に裏切らない。咲里のために戻ってきた、咲里の願いを叶えるためだけに存在している、かわいいかわいい咲里の黒い狗(いぬ)。
 この男は幸福だと、淀みなく笑う。
 だったら、それでいいではないか。
 どんな得体の知れないものに成り果てたとしても、くろはくろなのだ。
 くろが、戻ってきた。ずっと傍にいると誓った。もう、怯えなくていい。

「あんたは、俺をどうしたい。俺はもう用済みか。……俺を、捨てるのか」

「そんなことしない!!」

 威圧交じりに細められた瞳に、咄嗟に咲里は身を乗り出していた。
 ぐるんと、世界が回り始める。次に目を開けた時、くろの胸の上に乗り上げるような形で、咲里はくろを押し倒していた。
 想定外に簡単に倒れこんだ男の胸に腕をつき、微かに上半身を起こしたまま固まる咲里の頬に触れ、反対の腕で真っ白なシャツ越しに咲里の背筋をなぞりながら、男は上機嫌に嗤(わら)う。

「なら、褒めてくれるか」

 こくりと、躊躇いがちに頷きを返す。
 咲里の顎を舌で舐め上げ、くろは狡猾な笑みを返した。
 
「そうか」

 体勢的にも、立場的にも、咲里の方が上のはずだ。
 それなのに、眼下の男には妙な威圧感があった。
 身も心も咲里を捕らえて離さない、賢く大人しい、従順な咲里の犬。

「なあ、咲里。……ご褒美が、欲しい」

 シャツの間から腕を差し入れ、男は片手で軽々と咲里のブラジャーのホックを外した。熱い吐息を吐き出しながら、くろの手のひらが、よこしまに咲里の肌を這う。
 咄嗟に逃げようと腰を引く咲里の体を引き寄せ、ろくな反抗も出来ない主人を雁字搦めに捕らえていく。

「ご、ほう、び」

「ああ」

 押さえつけられた腰の下、咲里の臀部に、ズボン越しにすでに熱を宿し始めている男の怒張が押し当てられる。

「昨日の、続きがしたい」

 咲里の髪に指を絡め、ねっとりと少女の頭を引き寄せ、耳元に息を吹きかける。
 
「咲里の全てを、俺にくれ」

 どうしようもなく求められているという事実に、背を甘美な震えが駆け抜けていく。
 誘うようにしてわざとらしく腰を揺すられれば、子宮の奥が淫らに疼いた。
 じわりとショーツに蜜が滲み出す感覚が、咲里を内側からおかしくさせる。
 羞恥に堪えるようにして、咲里は男の胸の上できつく瞳を閉ざした。

「……ここでは、いや」

 背を這っていた、くろの腕が止まる。

「ちゃんと、ベッドで、して」

 ああ、本当に馬鹿だなぁ。
 くろも、そして何より、咲里自身も。

 相手は人殺しだ。それどころか、人間ですらない。でも、そんなことは別にどうでもいい。咲里はくろを求め、くろも咲里を求めた。だから、これでいい。
 頭上でくろが艶やかに笑む気配を感じながら、咲里はただもたらされるだけの無償の愛に堕ちていった。


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