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そのろく
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クレープを食べ終えると、二人はどちらからともなく、自然と駐車場に向かって歩き出していた。
(タピオカって、あんな感じなんだ)
ドリンク自体は、普通のいちごミルクだった。
その底に、アクセントとして何粒かタピオカが沈み込んでいる。
意外にもちもちとした食感に、また機会があったらタピオカ入りのものが飲みたいと思うのだが、横に並び立つおそらく甘いものが苦手なのであろう男は、果たして次も付き合ってくれるのだろうか。
最後までストローで吸いきれず、コップの底に何粒か残したまま捨ててしまったのを勿体なかったなと後悔しながら、咲里は黙々と薄暗い立体駐車場の中を進んでいく男に、手を引かれながら歩いていく。
男が口を開くそぶりはない。
薄暗い誘導灯の灯りだけが、男の無表情を微かに照らし出していた。
平然としている男を見ながら、何も気付かれていないのだと、咲里は内心ほっとする。
(この人には、心配をかけたくない)
いじめられているのだという事実を、この男にだけは知られたくなかった。
やがて、見慣れた一台の黒のクーペの前で、男は足を止めた。
促されるままに助手席に座りこめば、男もすぐに運転席に乗り込む。
座席をまたぐようにして紙袋を後部座席に置くと、男は運転席に座り前を向いたまま、エンジンをかけることもなく、しばし黙り込んでいた。すんすんと無心で鼻を鳴らす男は、何かの匂いを嗅いでいるかのようにも見える。
シートベルトを締めようとしていた腕が、思わず止まった。
「あの」
どうかしたんですかと、声をかけようとして。
「……不愉快だ」
男の口から不意に飛び出した地を這うような声に、咲里はたまらず悲鳴をあげそうになる。それまで頑なに咲里を見ようとしなかった男が、ようやく咲里に視線を向けた。
男の目に浮かんでいたのは、明確な怒りだった。
男の顔を見つめたまま固まってしまった咲里を、男はじっと不機嫌そうに睨みつけていく。
一体、何がそんなに不愉快だというのか。
初めて男から向けられる明確な負の感情に、咲里はばくばくとうるさいほどに心臓が鼓動を早めていくのを実感していた。足元から、血の気が引いていく。
怒らせてしまった。自分のせいで。この男は、咲里に対し怒っている。
甘いものがそんなに苦手だったのだろうか。それとも、咲里がはしゃぎすぎてしまったから?
男の腰が、運転席から浮き上がる。
どうしたのかと固まる咲里の腕から鞄を奪うと、男は乱雑に後部座席にそれを放り込んだ。そのまま咲里の座る助手席のレバーを倒されてしまえば、半ば車の中に寝そべるような形になってしまい、握りしめ、すがるものもなく、咲里はただ胸の前で両手を握りしめ、覆い被さってくる黒い影を怯えながら見守ることしかできない。
「……あの女」
咲里の頭の横に両腕を付き、覆い被さってくる男の口が、不意にそんな言葉をこぼす。
ぎらぎらと、暗闇の中で黒い目が輝きを増した。
「あんたの、何」
「……あの女、って」
「さっき話してた。……誰だ」
殺意すらも帯びていそうな鋭い声に、咲里はびくりと肩を震わせる。
まさか、咲里がいじめられていることに気付いたのか。
だが、それにしてはどうも様子がおかしい。
じっと、食い入るように咲里の表情を伺う男は、やはり咲里に対し何かしら怒りを抱いているらしかった。
「た、ただの、クラス……、メイト。……が、学校、の」
「学校」という単語に、男の纏う怒気が一層強くなる。
何がそんなに気にくわないのか、全くもって判別が出来ない。
何が言いたいのかと問いかけようとして、男の舌が咲里の唇を舐め上げる。
ぶるりと、体に震えが走った。咄嗟に逃げようと首を捻った咲里を逃すまいと、男は片方の腕で咲里の顔を固定した。頬を押さえ、咲里の足の間に片方の膝を挟み込み、男は執拗に咲里の口を舌先でまさぐる。
「まっ――」
男の攻勢が緩んだ一瞬の隙をつき、「待って」と制止を呼びかけようとした。
けれど、男は聞く耳を持たない。枷を解かれた野生の獣のように、開かれた咲里の口の隙間を舌で割り開き、奥へ奥へと入り込もうとする。
唇と唇が完全に触れ合うのを自覚した瞬間、咲里ははじめて、今自分はキスをされているのだという事実に気が付いた。
けれどどうして、キスをされているのだろう。
混乱と酸欠からまとまらない意識が、咲里をますますおかしくさせる。
男はじっと目を開き、咲里の一挙一動をその瞳の奥に焼き付けようとしているようだった。
物騒な男の眼差しから逃れるように目を閉ざせば、より一層口付けの感触に頭の中が支配されていく。
口蓋を舐め上げ、歯列をなぞり、逃げようともがく咲里の舌に自身のそれを絡め、男は無遠慮に咲里の口の中を嬲る。
誘導灯の薄暗い灯りだけが、真っ暗な車内を照らし出していた。
「……あんたから、他の奴の匂いがする」
そんな言葉を残し、男は名残惜しげに口付けを中断した。
透明な糸が引くのを呆然と眺めていれば、流れるような動作で男は咲里の首筋に顔を埋める。嚙みつかれ、舌先で下から上になぞり上げられれば、喉元を悲鳴がついて出た。
「ひ、ぅ……っ」
「……臭う」
言いながら、男は首筋に口付けを落としていく。
臭うなどと言われても、咲里にはさっぱり分からない。けれど、嗅覚が敏感な男には明確に認識できたのだろう。
ぶつぶつと同じことを呟きながら、男は無心で咲里の肌を貪っていた。
制止のつもりで、苦し紛れに男の頭を引き剥がそうとするのだが、男は決して止まらなかった。それどころか触れられて嬉しいとばかりに、攻勢を強めていく。
男の息が直接肌を掠める感触に、咲里の体にぶるりと震えが走った。
ブラウスのボタンに手をかけ器用に外していき、男は咲里の肩を露出させる。
「……あんたは、俺のご主人なんだ」
別れ際に上野が服の上から触れていた、今はむき出しになった咲里の肩に甘噛みを施しながら、男は唸るようにして低い声を吐く。生暖かい吐息と触れる感触に、咲里は羞恥に悶えていた。こんなこと、誰にもされたことがない。
主人だのと言われても、私はあなたのご主人様じゃない。
あなたも、私の犬じゃない。
犬に舐められるのと眼前の男に触れられるのとでは、大きく事情が違う。こんな風に触れられた時どうすればいいのか、咲里は何も知らない。
けれど無知なりに、これ以上はまずいのではないかと、咲里は漠然とした危機感を覚えていた。
「あんたに触れるのは、俺だけでいい」
くんくんと咲里の肌に鼻を寄せ、執拗に体臭を確認しては、ようやく気が済んだのか。男は、心底満足気に嗤う。男が初めて見せた明確な悦びに、咲里は呆気にとられていた。
ぜえはあと胸で息をしながら、頭上で艶やかに微笑む男をただ見守ることしかできない。
「あんたも、そう思うだろ?」
否定したら何か恐ろしいことが起こりそうな気がして、咲里は自身の首筋から顔を上げ静かに笑む男に、ぶんぶんと激しく首を縦に振った。
この男は自分を咲里の犬だというが、こんな恐ろしい飼い犬がいてたまるか。くろはもっと物静かで大人しかったのにと、咲里は今は亡き愛犬に思いを馳せる。
「こ、これ以上は、……やめて、……ください」
再度口付けを落とそうとしてきた男を怯えながら必死に制止すれば、男は渋々咲里の上から退いた。無理矢理組み敷いてきたくせに、そういうところは従順なのかと、咲里は釈然としないままゆっくりと体を起こしていく。
座席を戻し、シャツのボタンを締めながら、咲里は静かにため息を吐く。
横に腰掛け、頬を赤らめた咲里を見つめる男の眼差しは、不気味なほどに柔らかかった。
(……帰ったら、すぐ、お風呂、入ろう)
今すぐに、全てを洗い流してしまいたかった。
瞳を閉ざせば、まざまざと男に触れられていた感触を思い出してしまい、咲里は男の視線から逃れるようにしてシートベルトに手をかける。
帰り道、咲里は一切口をきかなかった。というより、あんなことがあった手前、何を話せばいいのかが分からなかった。
これまで味わったことがない種類の羞恥と困惑が、咲里の思考を迷走させている。
黙って窓の外に広がる夕焼けを見守りながら、咲里は深々と本日何度目になるか分からない溜息を吐く。
元より男の方から咲里に声をかけてくることはほとんどないので、咲里が黙ってしまえば車内は不気味なほどの沈黙に満たされた。
それでも無表情の中に上機嫌をにじませている男は、一切機嫌を損ねる様子もなく、ただ咲里と同じ空気を吸えるだけで満足とばかりに嬉々としている。
なんだか自分だけが恥ずかしがっているように思えて、家に着いてからも、咲里は男を意図的に視界の外に追いやっていた。
「……お風呂、入って、きます」
そそくさと自分の部屋から着替えを持ち出すと、そのまま男を無視して脱衣所へと逃げ込む。一人になれば、ようやく咲里は少しばかり落ち着きを取り戻すことが出来た。
一体、あれはなんだったのだろうかと、扉に背を預けたまましばし考え込んでしまう。
あの男は、咲里から他の人間の臭いがするのが気にくわないと言っていた。
それは、つまり――
(……嫉妬?)
そんなまさかと、ますます赤くなった頬をごまかすように、咲里は首を激しく横に振る。思い上がりも甚だしい。そもそも、相手は女だったわけであるし。
(あの人、女の人には困ってないだろうし)
さっきだって、別に咲里と一線を越えようとしたわけではない。
あれはどちらかというと、マーキングのように思えた。
気にくわない臭いを打ち消す、ただそれだけの接触行為。
あの男は嗅覚が敏感なようだったし、単に横にいる人間から、嗅ぎ慣れない臭いがするのが嫌だっただけだろう。
だから決して、嫉妬や所有欲の類ではない。無理矢理自分を納得させると、咲里はそそくさと服を洗濯機に放り込み、勢いよくシャワーのノズルを捻った。
無心で温水を頭の上から被っていると、精神は次第に平常心を取り戻していく。
(あれは、悪い夢。私の妄想、……ただの幻)
ここから上がったら、全部なかったことにしていつも通りに接しよう。
普段通りにご飯を食べて、別々の場所で寝る。あの男はただの保護者で、同居人。
何もなかった。私は何も覚えていない。何も見ていないし、何も聞いていない。
そう思い込めそうになった瞬間、背後でがらりと、嫌な音がした。
「――ずっと、思っていたんだが」
無防備にさらされた背に、開かれた扉の隙間から吹き込む冷気が突き刺さる。
今最も聞きたくなかった声に、体は石になってしまったかのように動くことを忘れていた。叫ぶことも出来ず、ただ立ち尽くすことしかできない。
シャワーから降り注ぐ湯が肌を刺激し、一層咲里の焦燥を駆り立てていく。
どうすればいい。こういうときは、どんな対応が正しい?
「あんたはすぐに、他の奴の臭いをつけて帰ってくる。『学校』とかいう場所に行った日は、余計そうだ。……あんたは、俺だけのご主人なのに」
浴室の扉を開け、咲里の背に話しかける男の声はいつも通り淡々としている。
ただ純然たる事実として、語っているだけ。
しかして諭すような声は、咲里の頭の中を滑っては消えていく。
ぺたりと、背後で湿った足音がした。
男の話を聴くどころではない。あんなことがあった手前、肌を見られたという衝撃。他でもない同居人の男に、無遠慮に踏み込まれたという現実。
シャワーから降り注ぐ微かな水にすら、窒息してしまいそうだった。
今すぐに、出て行ってくれと言わなければ。
この男は、咲里の言うことなら大人しく聞いてくれる。
それは身をもって分かっていた。けれど、動けない。
息苦しさに、溺れてしまいそうだった。
「……ずっと、あんたを洗ってやりたいと思ってた」
咲里の体に、背後から男の腕が絡まりつく。
平坦な声の中に微かな悦びと執着心を覗かせ、男は満足そうに咲里の首筋に顔をうずめこんでいる。
むき出しの肌に、じっとりと濡れたシャツが張り付く感触がした。
男が着衣の状態であったことがこの現状においては唯一の救いではあったが、それでも状況は決していいとは言えない。
男が何を喋っているのか、内容が一切頭に入ってこない。声が、喉に絡みつく。拒絶の言葉を吐き出そうとして、どうしても何も話すことが出来なかった。全身が、かたかたと震えている。震える咲里を落ち着かせようとして、少女を抱く腕に力が込められる。それがより一層、咲里の喉元を締め上げていった。
(タピオカって、あんな感じなんだ)
ドリンク自体は、普通のいちごミルクだった。
その底に、アクセントとして何粒かタピオカが沈み込んでいる。
意外にもちもちとした食感に、また機会があったらタピオカ入りのものが飲みたいと思うのだが、横に並び立つおそらく甘いものが苦手なのであろう男は、果たして次も付き合ってくれるのだろうか。
最後までストローで吸いきれず、コップの底に何粒か残したまま捨ててしまったのを勿体なかったなと後悔しながら、咲里は黙々と薄暗い立体駐車場の中を進んでいく男に、手を引かれながら歩いていく。
男が口を開くそぶりはない。
薄暗い誘導灯の灯りだけが、男の無表情を微かに照らし出していた。
平然としている男を見ながら、何も気付かれていないのだと、咲里は内心ほっとする。
(この人には、心配をかけたくない)
いじめられているのだという事実を、この男にだけは知られたくなかった。
やがて、見慣れた一台の黒のクーペの前で、男は足を止めた。
促されるままに助手席に座りこめば、男もすぐに運転席に乗り込む。
座席をまたぐようにして紙袋を後部座席に置くと、男は運転席に座り前を向いたまま、エンジンをかけることもなく、しばし黙り込んでいた。すんすんと無心で鼻を鳴らす男は、何かの匂いを嗅いでいるかのようにも見える。
シートベルトを締めようとしていた腕が、思わず止まった。
「あの」
どうかしたんですかと、声をかけようとして。
「……不愉快だ」
男の口から不意に飛び出した地を這うような声に、咲里はたまらず悲鳴をあげそうになる。それまで頑なに咲里を見ようとしなかった男が、ようやく咲里に視線を向けた。
男の目に浮かんでいたのは、明確な怒りだった。
男の顔を見つめたまま固まってしまった咲里を、男はじっと不機嫌そうに睨みつけていく。
一体、何がそんなに不愉快だというのか。
初めて男から向けられる明確な負の感情に、咲里はばくばくとうるさいほどに心臓が鼓動を早めていくのを実感していた。足元から、血の気が引いていく。
怒らせてしまった。自分のせいで。この男は、咲里に対し怒っている。
甘いものがそんなに苦手だったのだろうか。それとも、咲里がはしゃぎすぎてしまったから?
男の腰が、運転席から浮き上がる。
どうしたのかと固まる咲里の腕から鞄を奪うと、男は乱雑に後部座席にそれを放り込んだ。そのまま咲里の座る助手席のレバーを倒されてしまえば、半ば車の中に寝そべるような形になってしまい、握りしめ、すがるものもなく、咲里はただ胸の前で両手を握りしめ、覆い被さってくる黒い影を怯えながら見守ることしかできない。
「……あの女」
咲里の頭の横に両腕を付き、覆い被さってくる男の口が、不意にそんな言葉をこぼす。
ぎらぎらと、暗闇の中で黒い目が輝きを増した。
「あんたの、何」
「……あの女、って」
「さっき話してた。……誰だ」
殺意すらも帯びていそうな鋭い声に、咲里はびくりと肩を震わせる。
まさか、咲里がいじめられていることに気付いたのか。
だが、それにしてはどうも様子がおかしい。
じっと、食い入るように咲里の表情を伺う男は、やはり咲里に対し何かしら怒りを抱いているらしかった。
「た、ただの、クラス……、メイト。……が、学校、の」
「学校」という単語に、男の纏う怒気が一層強くなる。
何がそんなに気にくわないのか、全くもって判別が出来ない。
何が言いたいのかと問いかけようとして、男の舌が咲里の唇を舐め上げる。
ぶるりと、体に震えが走った。咄嗟に逃げようと首を捻った咲里を逃すまいと、男は片方の腕で咲里の顔を固定した。頬を押さえ、咲里の足の間に片方の膝を挟み込み、男は執拗に咲里の口を舌先でまさぐる。
「まっ――」
男の攻勢が緩んだ一瞬の隙をつき、「待って」と制止を呼びかけようとした。
けれど、男は聞く耳を持たない。枷を解かれた野生の獣のように、開かれた咲里の口の隙間を舌で割り開き、奥へ奥へと入り込もうとする。
唇と唇が完全に触れ合うのを自覚した瞬間、咲里ははじめて、今自分はキスをされているのだという事実に気が付いた。
けれどどうして、キスをされているのだろう。
混乱と酸欠からまとまらない意識が、咲里をますますおかしくさせる。
男はじっと目を開き、咲里の一挙一動をその瞳の奥に焼き付けようとしているようだった。
物騒な男の眼差しから逃れるように目を閉ざせば、より一層口付けの感触に頭の中が支配されていく。
口蓋を舐め上げ、歯列をなぞり、逃げようともがく咲里の舌に自身のそれを絡め、男は無遠慮に咲里の口の中を嬲る。
誘導灯の薄暗い灯りだけが、真っ暗な車内を照らし出していた。
「……あんたから、他の奴の匂いがする」
そんな言葉を残し、男は名残惜しげに口付けを中断した。
透明な糸が引くのを呆然と眺めていれば、流れるような動作で男は咲里の首筋に顔を埋める。嚙みつかれ、舌先で下から上になぞり上げられれば、喉元を悲鳴がついて出た。
「ひ、ぅ……っ」
「……臭う」
言いながら、男は首筋に口付けを落としていく。
臭うなどと言われても、咲里にはさっぱり分からない。けれど、嗅覚が敏感な男には明確に認識できたのだろう。
ぶつぶつと同じことを呟きながら、男は無心で咲里の肌を貪っていた。
制止のつもりで、苦し紛れに男の頭を引き剥がそうとするのだが、男は決して止まらなかった。それどころか触れられて嬉しいとばかりに、攻勢を強めていく。
男の息が直接肌を掠める感触に、咲里の体にぶるりと震えが走った。
ブラウスのボタンに手をかけ器用に外していき、男は咲里の肩を露出させる。
「……あんたは、俺のご主人なんだ」
別れ際に上野が服の上から触れていた、今はむき出しになった咲里の肩に甘噛みを施しながら、男は唸るようにして低い声を吐く。生暖かい吐息と触れる感触に、咲里は羞恥に悶えていた。こんなこと、誰にもされたことがない。
主人だのと言われても、私はあなたのご主人様じゃない。
あなたも、私の犬じゃない。
犬に舐められるのと眼前の男に触れられるのとでは、大きく事情が違う。こんな風に触れられた時どうすればいいのか、咲里は何も知らない。
けれど無知なりに、これ以上はまずいのではないかと、咲里は漠然とした危機感を覚えていた。
「あんたに触れるのは、俺だけでいい」
くんくんと咲里の肌に鼻を寄せ、執拗に体臭を確認しては、ようやく気が済んだのか。男は、心底満足気に嗤う。男が初めて見せた明確な悦びに、咲里は呆気にとられていた。
ぜえはあと胸で息をしながら、頭上で艶やかに微笑む男をただ見守ることしかできない。
「あんたも、そう思うだろ?」
否定したら何か恐ろしいことが起こりそうな気がして、咲里は自身の首筋から顔を上げ静かに笑む男に、ぶんぶんと激しく首を縦に振った。
この男は自分を咲里の犬だというが、こんな恐ろしい飼い犬がいてたまるか。くろはもっと物静かで大人しかったのにと、咲里は今は亡き愛犬に思いを馳せる。
「こ、これ以上は、……やめて、……ください」
再度口付けを落とそうとしてきた男を怯えながら必死に制止すれば、男は渋々咲里の上から退いた。無理矢理組み敷いてきたくせに、そういうところは従順なのかと、咲里は釈然としないままゆっくりと体を起こしていく。
座席を戻し、シャツのボタンを締めながら、咲里は静かにため息を吐く。
横に腰掛け、頬を赤らめた咲里を見つめる男の眼差しは、不気味なほどに柔らかかった。
(……帰ったら、すぐ、お風呂、入ろう)
今すぐに、全てを洗い流してしまいたかった。
瞳を閉ざせば、まざまざと男に触れられていた感触を思い出してしまい、咲里は男の視線から逃れるようにしてシートベルトに手をかける。
帰り道、咲里は一切口をきかなかった。というより、あんなことがあった手前、何を話せばいいのかが分からなかった。
これまで味わったことがない種類の羞恥と困惑が、咲里の思考を迷走させている。
黙って窓の外に広がる夕焼けを見守りながら、咲里は深々と本日何度目になるか分からない溜息を吐く。
元より男の方から咲里に声をかけてくることはほとんどないので、咲里が黙ってしまえば車内は不気味なほどの沈黙に満たされた。
それでも無表情の中に上機嫌をにじませている男は、一切機嫌を損ねる様子もなく、ただ咲里と同じ空気を吸えるだけで満足とばかりに嬉々としている。
なんだか自分だけが恥ずかしがっているように思えて、家に着いてからも、咲里は男を意図的に視界の外に追いやっていた。
「……お風呂、入って、きます」
そそくさと自分の部屋から着替えを持ち出すと、そのまま男を無視して脱衣所へと逃げ込む。一人になれば、ようやく咲里は少しばかり落ち着きを取り戻すことが出来た。
一体、あれはなんだったのだろうかと、扉に背を預けたまましばし考え込んでしまう。
あの男は、咲里から他の人間の臭いがするのが気にくわないと言っていた。
それは、つまり――
(……嫉妬?)
そんなまさかと、ますます赤くなった頬をごまかすように、咲里は首を激しく横に振る。思い上がりも甚だしい。そもそも、相手は女だったわけであるし。
(あの人、女の人には困ってないだろうし)
さっきだって、別に咲里と一線を越えようとしたわけではない。
あれはどちらかというと、マーキングのように思えた。
気にくわない臭いを打ち消す、ただそれだけの接触行為。
あの男は嗅覚が敏感なようだったし、単に横にいる人間から、嗅ぎ慣れない臭いがするのが嫌だっただけだろう。
だから決して、嫉妬や所有欲の類ではない。無理矢理自分を納得させると、咲里はそそくさと服を洗濯機に放り込み、勢いよくシャワーのノズルを捻った。
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何もなかった。私は何も覚えていない。何も見ていないし、何も聞いていない。
そう思い込めそうになった瞬間、背後でがらりと、嫌な音がした。
「――ずっと、思っていたんだが」
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今最も聞きたくなかった声に、体は石になってしまったかのように動くことを忘れていた。叫ぶことも出来ず、ただ立ち尽くすことしかできない。
シャワーから降り注ぐ湯が肌を刺激し、一層咲里の焦燥を駆り立てていく。
どうすればいい。こういうときは、どんな対応が正しい?
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ただ純然たる事実として、語っているだけ。
しかして諭すような声は、咲里の頭の中を滑っては消えていく。
ぺたりと、背後で湿った足音がした。
男の話を聴くどころではない。あんなことがあった手前、肌を見られたという衝撃。他でもない同居人の男に、無遠慮に踏み込まれたという現実。
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「……ずっと、あんたを洗ってやりたいと思ってた」
咲里の体に、背後から男の腕が絡まりつく。
平坦な声の中に微かな悦びと執着心を覗かせ、男は満足そうに咲里の首筋に顔をうずめこんでいる。
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