えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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そのさん

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 名も知らぬ男と一緒に食卓を囲み、トーストを齧りながら、咲里の頭の中は眼前で黙々とトーストを咀嚼する男のことでいっぱいになっていた。
 咲里に危害を加えることもなく、愛おしむように抱きしめて眠り、こうして給仕までしてくれるからには養ってくれるのは確かなようだが、一体この男は何者なのだろうか。
 車を持っているということは、それを維持し続けるだけの金銭的余裕はあるというわけで。

(仕事、何してるんだろう)

 金曜日の、時刻は朝の9時。
 葬儀でごたつくだろうと昨日に続き今日も学校を休むと既に学校には連絡してあるので、咲里が家にいるのは何らおかしなことではないのだが、普通の成人男性なら今頃仕事に行っているべきなのではないだろうか。
 時計の針だけが響き渡る静かな部屋の中、咲里は一向に外に出ようとしない男の顔を凝視した。相変わらず、端正な顔立ちだ。どこか細身ながらも野性味を感じさせるくっきりとした目鼻立ちからは、さぞ男がモテるであろうことが推測される。
 ちらりとシャツの間から覗く胸板は、細いながらも筋肉質であり、それなりにきたえているであろうことも伺えた。
 
(ホスト……とか?)

 整った顔立ち、朝に家を出る必要がなく、若いながらも車を維持し、咲里を養っていくに困らないだけの金銭的余裕があることを鑑みれば、それが一番妥当な線かもしれない。

(でも、もしかしたら、今日はたまたま休みなだけかも)

 眼前の男のことが、考えれば考えるほど分からなくなる。
 言葉数も少なく、咲里が尋ねなければ本当に最低限のことしか口にしてくれない。

「あの」

 ここは素直に尋ねておいたほうがいいと、咲里はトーストを食べ終わると同時に口を開いた。

「お、お仕事は、何を……?」

 一足早くトーストを食べ終え、コーヒーを飲んでいた男がマグカップから口を離す。
 じっと、咲里を見る眼光のいつも以上の鋭さに、もしかして触れてはいけなかっただろうかと、咲里は急いで発言を撤回した。

「あ、いえ、あの、ただ、一緒に暮らすなら、一応聞いておきたかったっていうか。……あの、うちは、裕福なわけじゃない、し、貯金とか、そんなに、ないから。……あ、で、でも詮索されたくなかった、のなら――」

「金が、欲しいのか?」

 特に気分を損ねたわけでもなく、男は淡々と咲里に視線を送る。
 欲しいか欲しくないかで言えば、当然欲しい。だが、今は男の仕事を尋ねたかったわけであって、その回答は少しずれていやしないかと、咲里は足元を這い上がってくる言い知れぬ不気味さに、無意識に息を呑む。

「いくら欲しい」

 男は机の上に腕を乗せ、顎の下で腕を組む。真っ黒な瞳が、まっすぐに咲里を射抜いていた。
 そんなこと、急に言われても困る。
 何も言葉を返すことが出来ずにいると、男は何を思ったか無言でリビングの戸を開け、出て行ってしまった。
 怒らせてしまったかと、座ったまましばし咲里は動くことが出来なかった。
 だが、それから5分ほどで、男は再びリビングへと戻ってきた。
 どこから持ってきたのか、ひと一人がすっぽりと入りそうな大きさの、黒のボストンバッグを持って。

 なんですか、それ。
 尋ねようとして、出来なかった。
 もしかして、あの中に詰められて、そのまま売られるのだろうか。
 怒らせてしまったから? やっぱり、最初から咲里を使って金を稼ぐのが目的だったのか。

 無表情のまま、男が無造作に机の上にボストンバッグを置く。
 どんと、軽い衝撃音がした。中に、何か入っているようだ。

(し、死体、とか……?)

 中に何かが入っているということは、今すぐには殺されずにすみそうだが、次はお前がこうなる番だ、俺を怒らせたらどうなるか思い知れという、無言のアピールなのだろうか。
 怯えのあまり動くことが出来ずにいる咲里を尻目に、男は勢いよく、無言でボストンバッグのチャックを開けた。咄嗟に、咲里は目を閉じる。
 
「足りるか」

 淡々とこぼす男の声に、咲里の頭を疑問符が支配していく。
 恐る恐る瞼を押し上げていけば、咲里の視界に飛び込んできたのは、ボストンバッグいっぱいに詰められた札束だった。

「ひっ……!?」

 悲鳴を上げ、動揺のあまりガタンと椅子が音を立てる。
 怖い。こんな大金、生まれてから一度も見たことがない。
 一生食うに困らないであろう一万円札の山が、手を伸ばせば触れられる場所にあった。
 一体いくらあるのだろう。そもそも、これは本物なのか?
 5分足らずの時間で、この男は一体何をしたのだろう。こんな大金、一瞬で用意できるものではないはずだ。そもそも、咲里ごときにこんな大金をあっさり差し出してしまっていいものなのか。この程度、眼前の男にとってははした金だとでもいうのか。
 ぐるぐると、恐怖と混乱が咲里の全身を駆け巡っていく。
 あまりの吐き気と目眩に、気を抜けばその場で気絶してしまいそうだった。
 
「どうした。……足りないのか」
 
 咲里が全く動けずにいるのを、そんな風に受け取ったらしい。
 足りないも何も、十分すぎる。こんなにいらない。受け取れない。
 ぶるぶると首を横に振れば、では何が不満なのかと、男は余計眉間にしわを寄せていく。
 
(この人、絶対カタギじゃない)

 仕事は何をしているのかという咲里の問いに答えなかったのは、きっと言えないような闇の仕事をしているからだ。そして、この男はきっとそれなりの地位にいる。
 男が直接動かなくても、下々の人間が勝手に金を持ってくる。
 指先ひとつで人を殺せる。この男は、きっとそういう人種なのだ。
 ばくばくと、心臓がうるさいほどに鼓動を早めていた。
 恐ろしい。恐怖のあまり、心臓が押しつぶされてしまいそうだった。

「い、いりません」

 下を向き、膝の上できつく腕を握りしめ、咲里は男の顔を見ないようにした。
 視線を合わせたが最後、本気で殺されると思った。

「こんなに、いらない……です」

「……そうか」

 一拍の沈黙の後、どこか残念そうにそう告げて、男はボストンバッグを机の下に置いた。
 足元に大金を置いているというのに、男は平然としている。
 咲里の向かいの席に座り、足を組み、その上で腕を組んだ状態で、男は不服げに咲里に尋ねた。

「じゃあ、何が欲しい。俺は、あんたの望みを叶えてやりたい。そのために、ここにいる。……なあ、何が欲しい? 何なら満足してくれる?」

 一瞬で大金を用意できる男なのだ。
 きっと、咲里がどんな無理難題を吹っかけようが叶えてみせることだろう。
 だが、咲里に対し真摯に尽くしたところで何の意味がある。
 理由の分からない好意ほど、恐ろしいものはない。 
 下を向いたまま、咲里はごくりと息を呑む。

「……な、にも」

 願いなら、ある。くろを返して欲しい。生き返らせて欲しい。
 けれど、それは無理だから。――だから、何もいらない。ただ静かに生きられるなら、咲里はそれだけで充分だった。

「そうか」

 無表情のまま、やはりどこか残念そうな声で。
 男が口を閉ざしてしまえば、二人の間には沈黙が訪れる。時計の秒針と甲高い耳鳴りに居心地の悪さを覚え、テレビの電源をつけようと考えたところで、男が再度声を上げた。

「俺は、あんたのためならなんでもする」

 なんでもだなんて、そんなに軽率に口にするものではない。

「……なんでも、いいんですか」

「ああ」

 下を向いたままぼそぼそと確認すれば、男は満足そうにその瞳を細めてみせる。
 なんでもいいと言ったのはこの男だ。ならば。
 
「……じゃあ、私を、ひとりに、して」

「……分かった」

 一瞬の沈黙の後。男は渋々、咲里の願いを了承した。
 それきり喋らなくなった男に顔を上げれば、男はいつの間にかリビングから姿を消していた。それこそ最初から、存在しなかったかのように。
 けれど、机の下には大金の入った黒いバッグが置かれたままだ。
 いらないと拒絶したのにもかかわらず、こんな場所に放置されているということは、やはりこんなはした金を失ったところで痛くも痒くもない、ということらしい。

 しばし、咲里は放心していた。ようやく訪れた一人きりの時間に、ほぅと息を吐けば、ようやく自分が生きているという実感が得られた気がした。
 だが、気を紛らわすためにテレビの電源をつけてみたところで、少しも心象は変わらない。

(これ、どうしたらいいんだろう)

 朝のニュースをBGMにしながら足元のボストンバッグに視線を落とし、咲里は深々と溜息を吐く。
 とりあえず、危害を加えられる心配はないようだが、あまりの事態に心が伴っていなかった。悪い夢でも見ている気分だ。おもむろに腰を上げ、一階の窓から庭を見れば、昨晩男に乗せられた黒のクーペが目に飛び込んでくる。

(……夢じゃないんだ)

 なんだか大変なことになってしまった。
 がらりとそのまま窓を開け、庭に出る。昨晩の雨で、地面はじっとりと湿っていた。見上げた先の空は未だ暗く、もしかしたら今夜あたりまた降り出すのかもしれない。濡れた土を踏みしめ歩き、咲里は庭の隅に作った簡素なくろの墓の前で腰を下ろした。
 目を閉じ、手を合わせ、この土の下で眠っているくろに、心の中で話しかけてみる。
 新しく保護者が来てくれたはいいものの、どうも普通ではない。
 一体どうすればいいのか。
 そんなことを思ったところで、土の下で眠るくろが答えてくれるわけもなく。

(おやすみ、くろ)

 最後に心の中でそう話しかけ、咲里は重い腰を上げた。

 男が再び姿を現したのは、時計がちょうど昼の12時を指した瞬間だった。

「何が食べたい」

 ボストンバッグに手を触れず、けれど目を離すのはなんだか物騒な気がして、リビングでぼうっとテレビを眺めていた咲里は、突如背後から聞こえた低音に大きく体を震わせた。驚きのあまり、心臓が口から飛び出してしまうところだった。
 振り返った場所にあったのは、昨日初めて目にした時と同じ、黒のスーツに身を包んだ男の姿だった。一体いつの間に身だしなみを整えていたのだろうか。そもそも、この数時間どこにいたのか。

(たぶん、聞いちゃだめな気がする)
 
 きっと闇の仕事に行っていたのだろう。だとすれば、そこは咲里が立ち入ってはいけない領域だ。浮かび上がった野暮な疑問に無理やり蓋をし、咲里は背後で亡霊のように佇んでいる男に改めて向き直った。

「あの、お昼は私が、作りますから」
 
「必要ない。あんたは、何もしなくていい」

 どこか威圧的に上から見下ろされれば、咲里は黙って頷くことしか出来ない。
 ちょうど背後では、中華料理店を訪れた芸能人たちの食レポが流れていた。

「何が食べたい」

「……じゃあ、炒飯を」

 再度同じことを問うてきた男にテレビの受け売りをすると、男は満足気に頷き、キッチンへと足を運んだ。朝と同じような光景をソファーの背もたれ越しに眺めながら、咲里は小さく声を上げる。

「あの、このお金は、どうしたら……」

「あんたのものだ。好きにすればいい」

 咲里の問いに、男は心底興味なさげな返事を返す。
 本当にいいのかと再度視線を向ければ、男はほとんど空だったはずの冷蔵庫から次々と食材を取り出していた。
 うちの冷蔵庫は、一体いつから四次元ポケットになったのだろうか。
 突如として出現した現金の山といい、なかったはずの食パンが急に出てきたり、今だってそうだ。男の行っていることにはあまりに現実味がなく、咲里はたまらず馬鹿げたことを質問していた。
 
「あなたは、魔法使いか、何か、なんですか……?」

「違う」

 咲里の問いを否定はしたが笑うことはせず、相変わらず男は淡々としている。
 だから、だろうか。

「俺は、あんたの犬だ」

 一瞬、何を言われているのか理解出来なかった。
 犬という単語に、先日死んでしまったばかりの愛犬の姿が脳裏をよぎるが、咲里はそれを無理やり振り払うと、ふてくされるようにソファーの隅に置かれていたクッションを胸に抱き、頭を埋めた。
 死んでしまったものは、二度と生き返らないのだから。
 悔い、悲しんだところで、くろはもう戻ってこない。

(……やっぱり、変な人)

 入れ替わるようにやってきた名も知らぬ男の姿を脳裏に思い描き、咲里はぐりぐりと強くクッションに頭を押し付けた。
 
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