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そのいち
しおりを挟む――その日、篠塚咲里は犬を拾った。
学校からの帰り道。
豪雨の中傘をさし、うつむき加減に歩いていたところ、家の前で薄汚いダンボールを見つけた。
雨のなか異臭を放つそれに、咲里はそっと眉をしかめる。
また新手の嫌がらせだろうかと、脳裏をいじめっ子の姿がよぎった。
頬に出来た真新しい傷を傘をさすのと反対の指でなぞりながら、中身はどうせゴミか何かだろうとその場を通り過ぎようとして。
がさがさと、耳障りな音を立てて箱が揺れた。
ごうごうという雨が傘を打つ音の間、けれど確かに聞こえた物音に、咲里は咄嗟に足を止める。
傘をさしたまま道路の隅に恐る恐るしゃがみ込み、じっと箱を見据える。
雨が、降っていた。じゃばじゃばという音を立てて、排水溝に水が吸い込まれていく。
しばらく眺めていても、ダンボールは動かなかった。
見間違いかと腰を上げたところで、再度ダンボールが蠢きを見せる。
時間が、止まったかのように思えた。
周囲に人の姿はいない。こんな大雨なのだ。皆さっさと家に帰ってしまったに違いない。
どうするべきかと立ち止まっていたところ、またしても箱が揺れた。
一体なんなんだと、決意を固め、咲里は再びダンボールの前にしゃがみこむ。
傘をさしているのと反対の腕で、つまむようにして閉ざされていたダンボールの蓋に触れる。じっとりと、水を含みふやけきった、ぶよぶよとした気味の悪い感触。
ごくりと息を呑み、咲里はそっと箱の蓋を開けた。
最初に鼻をついたのは、芳醇な血の芳香。
傘を、水が滴り落ちていく。スカートの裾が、跳ね返った雨水に濡れていた。
中に入っていたのは、犬だった。
やせ細った黒い犬。犬種は柴犬だろうか。前にテレビで、こんな犬を見たことがある気がする。
だが、咲里は犬に詳しくない。
箱の中に埋まっている犬が黒いことくらいしか、分からない。
しかし、全身を覆う体毛が血でうっすらと赤くにじんでいることだけは、漂う血の匂いから判別できた。
しかもよく見れば、片耳がない。犬とは、本来このような生き物ではなかったはずだ。
きっと、酷く虐待された上で捨てられたのだろう。
力なく横たわった黒い犬。
きっと放っておけば、この犬はそのうち死ぬ。
そう遠くないうちに、もしかすると明日にでも。
「……なんで、うちの前にいるの」
呟きは、雨音の間に消えていく。
咲里は、自分のことで精一杯だった。
捨てられた犬の面倒を見てやれるほど、心に余裕はない。
そのまま犬を見捨てて家の中に入ろうとして。
けれど、出来なかった。
嫌だったのだ。自分の家の前で、無残に死なれるのが。
咄嗟に駆け寄り、傘を庭に投げ捨て、箱を胸に抱え込めば、全身がじっとりと気味の悪い湿り気に侵されていく。
急いで風呂に抱え込み、血を洗い流し、清潔なタオルで全身を包み込んでやる。
最寄りの獣医なんて知らない。犬の治療法も知らない。
ただ思いつく限りのことは実践したつもりだった。
とにかく衛生状態を良くして、血を止めなければ。
咄嗟の看護が正しかったのか、咲里の思いが通じたのか。
その日、犬は死ななかった。
よっぽど人間に恨みがあるのだろう。
意識を取り戻してしばらくの間、犬は咲里を威嚇し続けた。
寝そべったまま低いうなり声をあげる犬に、咲里はびくびくしていたのだが、流石に空腹だったのだろう。二日経てば、犬は渋々ながら咲里の出す食事に口をつけるようになった。
威嚇音を出すこともやめ、犬は過度に干渉しようとしない咲里に、次第に気を許すようになっていた。
「……ただいま」
学校を終え、玄関を開けても迎えに来てくれるわけではない。
けれど、自室の扉を開ければ、部屋の隅にじっと黙って寝そべっている黒い獣の姿がある。それは咲里を一瞥し、すぐに顔を逸らしてしまう。だが、最初に比べれば一人と一匹の関係は順調に改善しつつあった。
拒まれてはいない。そのことに、咲里は次第に安心感をおぼえるようになっていた。
最初、咲里は犬をすぐに追い出すつもりだった。
怪我が治れば、ここでわざわざ犬を養ってやる必要もない。
もとは狼なのだ。野生でも十分生きていけるだろう。
そう思っていたのに。
「くろ」
犬が家にやってきてから一週間ほど経った頃。
咲里は気まぐれにも、そんな風に犬を呼び始めた。
黒い体毛だから、「くろ」。そんな単純なネーミングセンスだ。
その頃には、当初の警戒っぷりが嘘のように、くろは咲里に気を許すようになっていた。戯れに頭を撫でてやれば、嬉しそうに眼を細める。
初めて、咲里は誰かに受け容れてもらえたような気がしていた。相手はたかが犬でしかないのに。だが一度思ってしまえば、もう無下に追い出すことも出来なくなっていた。
二週間が経過する頃には、くろと名付けられた片耳の犬は咲里を玄関に出迎えるようになった。
嬉しそうに吠えることはない。もとより、くろは静かな犬だった。ただ静かに玄関に寝そべり、咲里がドアを開けると同時に顔を上げる。すり寄るように咲里の足に頬ずりをしては、撫でてくれと言わんばかりに尻尾を振るさまに、咲里はほっと胸をなでおろした。
「ただいま、くろ」
学校でどれだけいじめられたって、何も辛くない。
どれほどの傷をつけられようが、耐えられる。
促されるままに頭を撫でてやれば、犬は心底幸福そうに瞳を細めてみせる。
くんくんと媚びた声を上げる生き物は、酷く単純だった。
助けられたから、危害を加えられないから、生きていくために咲里に尻尾を振っている。分かっていても、咲里は嬉しかった。
家に帰れば、何かが自分を待っている。
それだけで、どんな地獄だろうが生きていけるような気がしていた。
三週間が経過する頃には、一人と一匹は同じ寝床で眠るようになっていた。抱き枕のようにくろの体を抱き込めば、心地の良い眠りが咲里を夢の世界へと誘って行く。
くろもそれを拒みはしなかった。ただ大人しく、咲里の腕の中に収まっては心地良さげに喉を鳴らす。
本当に、本当に、幸せだったのだ。
だが、幸福な生活は唐突に終わりを告げる。
「お前さ、何やってるわけ?」
くろとの生活が始まってちょうど一ヶ月。
母が、帰って来た。何人目になるか分からない、新しい恋人を連れて。
けばけばしい服をまとった女からは、気持ちが悪くなるほどの香水の匂いがする。
酒とたばこの匂いが、咲里の幸福を壊そうとしていた。
「ここ、アタシの家だって分かってるよね? それ、なに?」
顎でくろを指し、女はいびつに笑む。
リビングの真ん中で母を威嚇するくろの体に抱きつき、必死になだめながら、咲里は怯えた目で母の顔を凝視していた。
それが、どうもよくなかったらしい。
「ずいぶん反抗的な顔するようになったじゃん。……アタシがいないときにそんなもん拾ってさ。……何様のつもりなんだよ!? ぁあ!?」
逆上した女が、咲里の顔を力強く蹴り、床に踏み倒す。
瞬間、抑えていたくろが咲里の手から解放された。
主人に暴行を振るった女に対し、黒犬は容赦なく牙を剥く。
咲里を踏みつける足に噛み付けば、女は耳障りの悪い悲鳴を上げた。
床の上に倒れ込んだ女に、くろは容赦がなかった。髪を食いちぎり、殺気に満ちた目で女を襲う黒い犬は、紛れもなく野生の獣だった。
そのままなすすべもなく、咲里は寝転がったまま飼い犬の暴挙を眺めていた。
咄嗟のことでどうすればいいのか分からなかった、というのはもちろんあるが、どうせならこのままあの女を食い殺してくれはしないだろうか、などという物騒な考えが頭をよぎってしまう。
だってそうだろう。もう怯えるのは嫌だ。家でも学校でも辛い思いをして、ようやく休める場所ができたというのに、この女はそれを壊そうとしているのだ。
私は悪くない。悪くなんて、ない。
――そんなことを、考えてしまった罰だろうか。
ごんと、嫌な音がした。
誰かが、何かを、殴った。
そんなこと、考えるまでもなかった。
それまでニヤニヤと事の成り行きを眺めていた女の恋人が、金属バットでくろを殴ったのだ。キャンというか細い悲鳴を上げ、くろが吹き飛んでいった。
悲鳴が上がる。けれど、男の暴挙は止まらなかった。
いやだ、やめて、ゆるして。
そんな咲里の悲鳴、誰も聞いてくれやしない。
床の上に力なく倒れた一匹の犬を、怒りに心を支配された大人が二人がかりで踏みたおし、殴り殺していく。
動かなくなれば今度は咲里に好き勝手に暴行を振るい、荒らすだけ荒らして家を立ち去る。
――やっぱり、神様は無慈悲だった。
動かなくなったくろの元に、床を這い進みながら歩み寄り、咲里はバカみたいに泣いた。
誰も咲里を救ってくれなんかしない。やっと手に入れた小さな幸せだって、こんなにも簡単に踏みにじられてしまう。
全身が、酷く傷んだ。けれど、もうどうだってよかった。
「くろ……っ、くろ……っ」
咲里に初めて懐いてくれた、片耳の黒い犬。
その亡骸を抱きしめたまま、咲里はしばらく動くことができなかった。
やっと現実と向き合うことができたのは、2日後のこと。
咲里は泣きながら、くろを家の庭に埋めた。
本気で、咲里は母と男の死を願った。
くろが味わった雪辱以上に無様に死ねばいい。バラバラに引きちぎられて、全身の血を抜かれて、この世の苦痛という苦痛をすべて味わい尽くして死ぬべきだ。
この願いを叶えてくれるのなら、なんだっていい。灰色の空の下、咲里は淀んだ笑みを浮かべる。誰でもいいから、あいつらを殺して欲しかった。
……だから、だろうか。
神様は無情でも、地獄の悪魔は咲里の願いを叶えてくれた。
もしかすると、死んだくろが願いを叶えてくれたのかもしれない。
くろを埋めた翌日、母と、その恋人だった男が死んだ。
事故、だったらしい。酷い雨の日に二人して川の中に車ごと突っ込み、死んだ。
初めてくろと会った日と同じ土砂降りの雨の中、警官がそんな吉報を咲里に届けてくれた。
嬉しかった。けれど、気分は完全には晴れてくれない。
くろは死んだ。
死んでしまった生き物は、二度と生き返ることがない。
「ねえ、あの子どうなるのかしらね」
「引き取り手はいるのかね」
「俺はごめんだぜ。あんなブスじゃ勃たねえし」
「俺も無理。素の顔は悪くないかもしれないけど、あんなに傷だらけじゃあ、なあ?」
葬儀を終えた咲里の中を、そんな心ない言葉が埋め尽くしていく。
あいつらは死んだが、誰も咲里を受け入れようなんて思わない。
父親は、母を見限って出て行ったきり行方不明。
母方の親戚は元から母と仲が悪く、咲里のことも疎ましく思っている。
この世界のどこにも、自分の居場所なんてない。
雨が、降っていた。くろと初めて出会った日と同じ、土砂降りの大雨が。
(……くろに、会いたい)
ぎゅっと正座した膝の上で腕を握りしめながら、咲里はそんなことを思った。
あの片耳の犬だけが、咲里の心を癒してくれた。
どうしても、くろに会いたかった。今ならもう、邪魔者もいない。
ふたりきりで、暮らせるのに。
「あんた、篠塚、……咲里?」
葬儀を終え、参列者たちに混ざりながら葬儀場から出たところで、咲里は一人の男から声を掛けられた。
全身黒のスーツで身を包んだ、黒い髪の男だった。歳はおそらく、二十代後半。
こんな男、参列者にいただろうかと思いながら、咲里は黙って傘をさしながら男の顔を見上げる。
ぶっきらぼうな口調にふさわしく、表情もない。
ぞっとするほどに美しい無表情が、頭上から咲里を見下していた。
男の黒い目が、咲里と視線がかち合った瞬間物騒な色を帯びるのを認識した瞬間、咲里は咄嗟に男から視線を逸らす。
「そ、ですけど、……なに、か」
ぼそぼそと、か細い声が口からこぼれ出る。
自分を抱きしめるようにして強く片腕で肩を掴んでみたところで、少しも気は晴れなかった。
だが、微かな咲里の声を明瞭に聞き取ったらしい青年は、そうか、と無表情ながらどこか満足げにうなずいてみせる。
なんなんだろう、この人は。
お金をせびりにでも来たのだろうか。だったら残念ながら、的外れだ。
お金ならありません、そう言って立ち去ろうとしたところで、眼前の男の手が咲里に向けて伸ばされる。
そこらじゅうで、雨の匂いがした。太陽は微塵も姿を見せず、ただ薄暗い空だけが咲里の頭上に広がっている。
一体何のつもりかと尋ねる間もなく、男の手が咲里の頬に触れ、顔に刻まれた傷をなぞり上げていった。ゆっくりと、その存在を確かめるようにして。
「今日から、俺があんたの面倒を見る」
そう言って、男は静かに嗤(わら)った。
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