后狩り

音羽夏生

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後朝

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──母が泣いている。

 気丈で朗らかな母が泣いているところなど、これまで見たことがなかった。
 貴族の娘でありながらかどわかしに遭い、奴隷として売られ異国の後宮へ納められた。思いがけず父帝の寵愛を得て三人の子を儲け、第一の寵妃と傅かれても、奴隷の身分に変わりはなく、自身が望んだ境遇では決してない。
 それでも下を向くことなく、自らを憐れむことなく、置かれた場所で堂々と今の地位を築いた母が、はらはらと声もなく涙を零している。幼い弟妹が、自分たちも泣き出しそうになりながらまとわりつき、懸命に慰めようとしているが、奏功する気配はない。
 思えば母は、不思議な人だった。
 貴族とはいえ女人が受ける教育は、語学や音楽、加えて家政に関することが精々であるのに、男性貴族に比肩するほど──もしくはそれ以上に博識なのである。その薫陶を受けて育ったエーヴェルトに、学舎に通い始めた頃、教授たちはみな一様に驚いたものだった。一体どこで、すでに初等教育を終えられたのか、と。
 神様が授けてくださったの、というのが母の口癖だった。身に付けた教養も品位ある立ち居振る舞いも自尊心も、光の神のお導きがあり、自分はそれに従っただけなのだと。
 母はいつも微笑んでこう言った。「光の慈悲と恩寵がなければ、一人で立つことも、笑うこともできなかったでしょう」
 母の故国ミレニオは、大陸の多くの国が国教とする一神教の守護国で、母も改宗はしていない。
 武力を盾に数々の国を併呑して膨張を続けてきた北海帝国は、宗教に寛容な政策を取っており、国教は始祖の地で生まれた多神教だが、後宮の妃たちもそれぞれ自分の信仰を通すことを許されている。縋る神まで奪われては、過酷な後宮での日々を生き抜くことはできない──彼女たちの寄る辺ない立場と悲憤が、わずかな慈悲を引き出したのである。
 今も故国の国教を信仰する母から聞く、光の神という曖昧な言葉には違和感があった。その一神教の神には、別の名があるからだ。
 光の神とは、神に匹敵するほど尊く大切な人のことなのではないかと、エーヴェルトは思っていた。そして密かに、その心当たりもあった。

「神が喪われた……」

 とうとう一緒に泣き始めた弟妹を女官とともに下がらせ、傍らに座って背をさすると、母はぼそりと呟いた。その声は、父帝の御前で歌曲を披露する時の美声とはかけ離れてしゃがれ、老婆のようだ。
 涙に濡れた目は真っ赤だが虚ろで、何も見ていないのは明白である。確かに目の前で息をしているのに、その心を死神が運び去ろうとしているかのようで、エーヴェルトは思わず母の手首を強く握り締めた。
 多少なりと痛みを感じているはずなのに、外からの刺激など受け入れる余地もないのか、母は何の反応も返さない。幽鬼じみた佇まいで、かすかな声で、内なる感情が溢れるままに垂れ流す。

「──違う、殺してしまった。私が、光の御方を……私の神を……!」

 物騒な囁きは、血を吐くような悲痛な告白だった。
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