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梟付き侍従最年少のエルマーは、年が近いこともあり、日中は可能な限り梟に付き従い、その行動をつぶさに記録し報告する職務を担っていた。とはいえ、元神聖騎士の梟が本気を出せば、侍従を振り切るのは勿論、皇宮を出奔し再び姿をくらませることすらも容易い。皇帝の安寧は――内宮の平和は、梟が立てた誓約のみで成り立っていると言っても過言ではない。
梟の献身に対する信頼を証立てる意味もあり、本心はさておき、皇帝は梟に監視を付けることをしなかった。梟は一人で過ごす時間を大切にしており、また無理強いして監視を付けたところで、赤子の手を捻るように振り切られることは自明だったからだ。悪霊騒ぎの後は、例外的に常時医師と侍従の目があったが、それも一月の間だけだった。皇宮を梟にとって居心地の良い場所に整えるのは、皇帝および侍従一同の最重要かつ最優先命題の一つとして、常に心得られている。
今日こうしてエルマーが梟に付き従うことができるのも、ひとえに梟が拒んでいないからに過ぎない。生花や珍しい菓子で梟の私室の空気を和らげ、明るいものにしようと努める心遣いに梟が気づいており、感謝していることの表れとも言える。
まったく我が儘を言わず、素直で手の掛からない主ではあるが、反面頑固で一度臍を曲げたら、相手が皇帝であっても絶対に折れない。――という新たな事実が、つい最近判明していた。
忍耐強く我を通すこともない主が臍を曲げたのは初めてであり、その原因となったのは皇帝であることが、目下侍従たちの頭痛の種だった。至高の主たちは今、一方通行の冷戦状態なのだ。
皇帝の閨での一言が梟の逆鱗に触れたようなのだが、主たちが同衾している間、侍従は皇帝の寝室への入室を禁じられている。二人の間にどんなやり取りがあったのかは推し量るしかないが、推し量るまでもなく、皇帝がその初心な伴侶に極めて破廉恥な睦言を囁いたのだろう、というのが、皇帝付き梟付きを問わず、侍従たちの一致した見解だった。
そのような経緯があり、元より厚い忠誠を捧げている梟付きの侍従たちは、その総意として梟の側に付き、怒りがなるべく早く収まるように心を砕いていた。
(これほど物静かで己というものを表に出すことのない御方を、どうしたらここまで怒らせることができるのだろう)
前を行く背中を見つめながら去来するのは、侍従一同が抱える疑問だ。
これまで幾度も非道な仕打ちを受け、そのたびに深く傷ついても、梟は悲嘆を諦念で押し包み耐えるばかりで、皇帝に逆らうことはなかった。今回も積極的に逆らっているわけではないのだが、皇帝に対し大変に気分を害しているという意思表示を、皇帝には勿論、侍従に対しても日々怠らない。
しかし、その様すら可愛くてならないと、皇帝が目を細めて受け入れてしまっている。その悪びれず余裕をたたえた態度がまた梟の機嫌を逆撫ですることになり、一方的な冷戦が終結する気配はなかった。
(それなのに、約束したからと毎朝庭園まで足を運ばれるんだからな…)
変わった色の薔薇二枝を譲ってもらう代わりに、毎日薔薇を届けると皇帝に約束したのだという。
盛大に機嫌を損ねているにもかかわらず、梟は毎朝皇帝のために花を摘みに出掛けている。現在進行形で立腹している相手に対し、約束したからとはいえそんな健気な真似ができてしまうあたり、その生真面目さは皇帝を喜ばせる方向にしか作用していない。
時に侍従をも巻き込む暴力ともなる梟の無垢さだが、悪意を育む余地を持たないそれに救われている局面も多いことを、陛下はもっと自覚してくださらねば、とエルマーは――梟付き侍従一同は、心密かに不満に思っていた。
いくら変わった花色とはいえ、この世に存在する薔薇だ。レーニシュ帝国の皇帝たるもの、条件など付けず、抱えきれないほどの花束を贈って――もしくはそれこそ毎日一輪ずつ贈って、愛する人の心を和ませればいいのに。
梟の部屋に運ばれた薔薇が散るまで世話をしたのはエルマーだが、確かに珍しい花色で、花に詳しいエルマーも初めて見るものだった。特に花好きというわけでもない梟がご執心とのことで、散った花弁を一枚一枚、色落ちしないように風通しのよい日陰で乾かし、薔薇の精油を振りかけ、中が透かし見えるレースの匂い袋に仕立てた。枕元に置いて、淡い香りとともに淡い色の薔薇の名残を楽しんでもらえたら、と思い立ってのことだった。
姿を変えてもその色合いを保つ銀青の薔薇の匂い袋に、梟は顔をほころばせて丁寧に感謝を伝えてきた。そんな小さなことで、ほんの短い時間ではあるが、氷の美貌は柔らかくほどける。その些細な心遣いの匙加減が、残念なことに皇帝にはわからないらしい。
たった二枝で梟の心を動かし和ませた銀青の薔薇。皇宮の薔薇園にはないその薔薇を、どうにかして手に入れ植えることはできないかと、エルマーは伝手を辿っていた。何も欲しがることのない無欲な主が心惹かれた物は、可能な限り側に揃えたい。寡黙な美貌の人の微笑みを見たいと願うのは、皇帝一人だけではないのだ。
そのお気に入りの薔薇の対価として、皇帝に毎日届けられるはずの庭園の薔薇は、しかしまだ開花時期を迎えていなかった。あの銀青の薔薇は、特殊な環境下で早く咲くように管理されていたらしく、地植えはこれから季節を迎える。梟は毎日庭園のあちこちから旬の花を摘み、薔薇の季節までの埋め合わせをしているわけだが、何故か蕾がつき始めたばかりの薔薇園にも通うようになった。
そのお供として、エルマーは水筒と軽食の入った手籠と折り畳みの腰掛けを持ち、梟は画帳と画材の入った鞄を手に、今日も薔薇園の門をくぐった。
「梟様、どちらに設置いたしましょう」
「昨日と同じ株の前にお願いします」
敷布を広げて手籠を置くと、目的の株の前に折り畳みの腰掛けを設置する。礼を言って座る梟の顔に日が当たらないように帽子のつばの角度を調整し、エルマーは「では、のちほどお迎えに参ります」と礼をして薔薇園を後にした。
梟の集中を妨げることは、影のように控える侍従であっても許されることではない。固く口止めされているが、梟が自ら行動することは決して邪魔をせず、全侍従の知識と技量を総動員して補佐するように皇帝から厳命されている。
広い薔薇園で一人になり、梟は早速鉛筆を鞄から取り出した。
薔薇を摘みに来て、まだその季節ではないことをようやく思い出し、自分がどれほど生家から隔たってしまったのか、梟は改めて思い知らされていた。薔薇を作り育てる家に生まれながら、その開花期すらも忘れてしまっていたのだ。
そのことに堪えようのない寂寥と喪失を感じながらも、こうしてまた薔薇の季節を待ち侘びることのできる今を、梟はうれしく思っていた。
薔薇を思えば、父と兄を思い出す。あの儚くもやさしい日々の思い出に浸ることができる。もしまだ神聖騎士団に籍を置いていたら、日々は血と剣で塗り潰され、花の季節に思いを巡らせることなどなかったに違いない。
だからといって、あの極めて破廉恥で意地悪な変態に感謝することには、当然ならない。あの恥知らずに感謝するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
せっかく若葉の緑も瑞々しい薔薇園まで足を運んだのに、知らず眉が寄ってしまっているのを感じ、梟は意識して呼吸を整えながら眉間を揉んだ。
薔薇を摘むことになって初めて、梟はその茎が枝と呼ばれるに相応しい硬さを持つことを知った。棘の付き方や多寡も種類よって異なることも知らなかったが、何より目を引かれたのは、その葉の多様さだ。
円に近いほど丸いもの、先端に向けて細くなるもの、照りのあるもの、新葉が真っ赤なものと、種類によって実に様々だ。エルマーによれば、季節によって葉の形が変わるとのことだった。
そうした違いを仔細に観察し、画帳の上に記録していく。毎日少しずつ進めている作業は、開花したら花の形の記録も取ることになる。広大な薔薇園に植えられた薔薇の種類は百を超えるそうで、この試みがいつ終わるのか、梟にもわからなかった。ただこうして一人自然と向き合い、小さな発見を小さな喜びに換えて積み重ねる時間は、豊かで贅沢なものだと思っている。静かな環境で興味を持ったことに没頭するのは、大使付き武官だった頃、帝国図書館に通っていた時以来だ。
あの頃梟の日々は、大使の警護、鍛練、読書、そしてごく微量の社交で構成されていた。
与えられた任務と、思い掛けず手に入った余暇を存分に注ぎ込み耽溺した図書館での時間を掬った後の、残滓。その僅かな機会であの変態に目を付けられ、神聖騎士の地位も父から与えられた名も失うことになったのだと思うと、最善とは何か、という哲学的に難解な命題が目の前を塞ぐように横たわってくる。
――これまで私は寛大過ぎたのでしょうか。
怒りという感情が久しぶりに動き、普段の無表情が石のようになってしまった梟がぽつりと洩らしたのは十日前。
かつてない非常事態に、ヘルムートは即座に応じた。
「どうぞご存分に、お気の済むまで陛下にお怒りをお示しください。我ら侍従は皆、梟様のお味方でございます」
子供の頃から皇帝をよく知る侍従長の言葉は心強い。頼もしい味方を得て、梟はためらうことなく蜻蛉を無視することにした。そもそも皇帝の寝室で過ごす以外、二人の時間はなかったのだ。梟が出向かなければ、顔を合わせる機会もない。
懸念されるのは、あの忌々しい薬を使われることだったが、ヘルムートはどんな手を使っても阻止してみせると断言してくれた。長年皇家に使える侍従長には、皇宮内を自在に行き来し監視する『目』と『手』があるらしく、梟の私室に体の自由を奪う秘薬が焚かれることはなかった。おかげで、心置きなく穏やかな夜を過ごし、静かな眠りを満喫していたのだ。――あの意地悪で恥知らずな変態が、正々堂々正面突破で夜這いを掛けてくるまでは。
まったく忍んでいないことといい、連日続くことといい、その行動は、夜這いというよりむしろ日課と呼ぶに相応しい習慣に落ち着きつつあった。
(厚顔無恥な上に図々しいにもほどがある…っ)
湧き上がる怒りに再び心を乱された梟は、そのことにまた腹を立てながら、手元に集中することを諦めた。昨日の続きで細部を仕上げていた手を止めると、画帳から顔を上げる。ついでに鉛筆を置き、さきほどから感じていた視線の主をさりげなく確認した。
薔薇園は外宮の敷地にあり、各政庁に勤める者や公用で訪れる者も入園することができる。ただし建物から少し離れており、また花の季節には早いため、今ここを訪れる者は殆どいない。
遠方から仕事で訪れた役人が、故郷への土産話のために皇宮のあちこちを見て回っているのだろうか。そのような印象を抱かせるうだつの上がらない初老の男が、こちらにゆっくりと近づきつつあることに梟は気がついていた。
「今度はわしに気を散らすのか」
まだ距離はあるのに、男は梟の意識が自分に向けられたことを敏感に察知したらしい。
「対象としたものから気を逸らしていては、いくら眺めてもその本質は掴めんぞ」
初対面と思われるーー少なくとも皇宮で見掛けたことのないその男は、何故か不機嫌そうだった。
挨拶もなく突然掛けられた言葉は、梟をしばらく観察した後にその行動を非難するものであり、また何か揶揄しているようにも取れる。口調も刺々しく、もしかしたら以前どこかで会っているのかもしれない、と梟は内心で警戒を怠らないまま沈黙を守った。
俗世にまったく興味を持たず、初対面と思っていた男に出会い頭に拉致されたことがある以上、自分の記憶はあてにならない。平坦だと思っていた過去に変態が潜む落とし穴を仕掛けられ、今も捕らわれたままの梟は、そう自戒していた。
無言の拒絶を意に介することもなく、男はずかずかと近寄ってくる。武器は帯びておらず、体の動きも訓練された者のそれではない。機嫌は悪そうだが、害意は感じない。
腰の剣に手を掛けることなく、相手の出方を窺う梟のすぐ横に立つと、男は無遠慮に画帳を覗き込んだ。
「思った通り、ただ形をなぞっただけの陳腐な絵だ。一欠片の叙情も色気もない。薔薇を図解しているだけだ」
それ見たことかと言わんばかりにつけつけと放言され、ああ、と梟は得心する。
コンラート神官の助手として祭儀の手伝いをしていた頃、このような人物を見たことがあった。常に不機嫌そうで口が悪く、周囲から煙たがられてはいるが、人が悪いわけではない。誰にでもそういう対応が常であり、そういう言い方しかできないというだけなのだ。人格者のコンラート神官はいつもにこやかに対応していたが、彼ほどの徳を積んでいない上に口下手な梟は、相手の気が済むまで黙って付き合う以外の術を持たない。
ただこの場合、男の酷評は、梟の目的を適切に言い表していた。
「その評価は幸いです。私は絵を描いているのではなく、薔薇の記録を取っているので」
「ふん、描こうとしたところで描けまいよ。その虚のような目のままでは。――一口、齧られてしまったと言っていたな。十年以上経っても、その心の欠けた穴を埋める物は現れなかったかね」
『おじさんも、心を食べられてしまったの?』
記憶が――曖昧な時期がある。
悪霊祓いの前後の、ところどころ――ずっと側についていてくれたハインツが、所用で出掛けて不在の間。
あの頃、梟は騎士見習いの日課を免除され、離れでの療養を命じられていた。自分の身に何が起きたのか、定かにはわからないまま。
「貴方は…」
「一体何なんだ、あんたは。一度大画廊でぼーっとしてるところを見掛けて、その場で素描したものと昔描いた絵を比べて、あんただと確信した。次の日から皇宮に通って探したのに、誰に聞いてもあんたを知らんという。こんな派手な見掛けの兄ちゃん、よほど慎重に隠さない限り目立って仕方ないだろうにな」
憤然と捲し立てられた内容は、男が梟の子供の頃を知っており、何故か今まで探し続けてきたことを物語っていた。そして皇宮における、梟の存在の不自然さに気づいていることも。
「毎日大画廊で張っていたのに、あれからまったく姿を見せん。ようやく掴んだ手掛かりを失った憂さ晴らしで、ここまで薔薇を盗みに来てみれば、あれだけ探したあんたが呑気に写生なんぞに興じとる」
やっとれんわ、と吐き捨てるように毒づかれても、梟には返す言葉がない。
(あの時の、あの人は、幻ではなかったのか…)
現実と幻の境界が曖昧だった頃の、霞のように朧な残像が、記憶の底からゆらゆらと甦る。
この覇気と毒気に満ちた人物が、あの時の、抜け殻のようだった『おじさん』なのだろうか。礼拝堂の石段に腰掛け、ぼんやりとハインツの帰りを待つ子供の隣に座り、同じように茫洋と視線を彷徨わせていた。
(…そうだ、悪霊の話をした)
それまでは影が薄く、口数も少なく反応の乏しかった『おじさん』に、急に睨むような力強さで凝視されて、怖いと思ったことを思い出した。
あれから何年経ったのか。経る年月は梟を子供から大人に変え、男の顔に深い皺に刻んでいた。しかしぎらついたその眼差しは鉤爪のように、今も変わらず梟を捉えている。
悪霊の話は個人的なことであり、しかも十年以上前に正式な神殿の処置を受け、祓われた。すでに終わったことであり、その証拠に、厳格さで知られる神聖騎士の審査にも通った。今も追跡される要素はない。
男の目的がわからず、梟は立ち上がった。過去を知っており、現在の自分を探していたのなら、それは娼館の用心棒ではなく元神聖騎士に用があるということだ。
身構える梟に、男は静かに、答えられない問いを投げ掛けた。
「まだ腰に剣を差しているな。――この国にとって、一体何者なんだ、あんたは」
梟の献身に対する信頼を証立てる意味もあり、本心はさておき、皇帝は梟に監視を付けることをしなかった。梟は一人で過ごす時間を大切にしており、また無理強いして監視を付けたところで、赤子の手を捻るように振り切られることは自明だったからだ。悪霊騒ぎの後は、例外的に常時医師と侍従の目があったが、それも一月の間だけだった。皇宮を梟にとって居心地の良い場所に整えるのは、皇帝および侍従一同の最重要かつ最優先命題の一つとして、常に心得られている。
今日こうしてエルマーが梟に付き従うことができるのも、ひとえに梟が拒んでいないからに過ぎない。生花や珍しい菓子で梟の私室の空気を和らげ、明るいものにしようと努める心遣いに梟が気づいており、感謝していることの表れとも言える。
まったく我が儘を言わず、素直で手の掛からない主ではあるが、反面頑固で一度臍を曲げたら、相手が皇帝であっても絶対に折れない。――という新たな事実が、つい最近判明していた。
忍耐強く我を通すこともない主が臍を曲げたのは初めてであり、その原因となったのは皇帝であることが、目下侍従たちの頭痛の種だった。至高の主たちは今、一方通行の冷戦状態なのだ。
皇帝の閨での一言が梟の逆鱗に触れたようなのだが、主たちが同衾している間、侍従は皇帝の寝室への入室を禁じられている。二人の間にどんなやり取りがあったのかは推し量るしかないが、推し量るまでもなく、皇帝がその初心な伴侶に極めて破廉恥な睦言を囁いたのだろう、というのが、皇帝付き梟付きを問わず、侍従たちの一致した見解だった。
そのような経緯があり、元より厚い忠誠を捧げている梟付きの侍従たちは、その総意として梟の側に付き、怒りがなるべく早く収まるように心を砕いていた。
(これほど物静かで己というものを表に出すことのない御方を、どうしたらここまで怒らせることができるのだろう)
前を行く背中を見つめながら去来するのは、侍従一同が抱える疑問だ。
これまで幾度も非道な仕打ちを受け、そのたびに深く傷ついても、梟は悲嘆を諦念で押し包み耐えるばかりで、皇帝に逆らうことはなかった。今回も積極的に逆らっているわけではないのだが、皇帝に対し大変に気分を害しているという意思表示を、皇帝には勿論、侍従に対しても日々怠らない。
しかし、その様すら可愛くてならないと、皇帝が目を細めて受け入れてしまっている。その悪びれず余裕をたたえた態度がまた梟の機嫌を逆撫ですることになり、一方的な冷戦が終結する気配はなかった。
(それなのに、約束したからと毎朝庭園まで足を運ばれるんだからな…)
変わった色の薔薇二枝を譲ってもらう代わりに、毎日薔薇を届けると皇帝に約束したのだという。
盛大に機嫌を損ねているにもかかわらず、梟は毎朝皇帝のために花を摘みに出掛けている。現在進行形で立腹している相手に対し、約束したからとはいえそんな健気な真似ができてしまうあたり、その生真面目さは皇帝を喜ばせる方向にしか作用していない。
時に侍従をも巻き込む暴力ともなる梟の無垢さだが、悪意を育む余地を持たないそれに救われている局面も多いことを、陛下はもっと自覚してくださらねば、とエルマーは――梟付き侍従一同は、心密かに不満に思っていた。
いくら変わった花色とはいえ、この世に存在する薔薇だ。レーニシュ帝国の皇帝たるもの、条件など付けず、抱えきれないほどの花束を贈って――もしくはそれこそ毎日一輪ずつ贈って、愛する人の心を和ませればいいのに。
梟の部屋に運ばれた薔薇が散るまで世話をしたのはエルマーだが、確かに珍しい花色で、花に詳しいエルマーも初めて見るものだった。特に花好きというわけでもない梟がご執心とのことで、散った花弁を一枚一枚、色落ちしないように風通しのよい日陰で乾かし、薔薇の精油を振りかけ、中が透かし見えるレースの匂い袋に仕立てた。枕元に置いて、淡い香りとともに淡い色の薔薇の名残を楽しんでもらえたら、と思い立ってのことだった。
姿を変えてもその色合いを保つ銀青の薔薇の匂い袋に、梟は顔をほころばせて丁寧に感謝を伝えてきた。そんな小さなことで、ほんの短い時間ではあるが、氷の美貌は柔らかくほどける。その些細な心遣いの匙加減が、残念なことに皇帝にはわからないらしい。
たった二枝で梟の心を動かし和ませた銀青の薔薇。皇宮の薔薇園にはないその薔薇を、どうにかして手に入れ植えることはできないかと、エルマーは伝手を辿っていた。何も欲しがることのない無欲な主が心惹かれた物は、可能な限り側に揃えたい。寡黙な美貌の人の微笑みを見たいと願うのは、皇帝一人だけではないのだ。
そのお気に入りの薔薇の対価として、皇帝に毎日届けられるはずの庭園の薔薇は、しかしまだ開花時期を迎えていなかった。あの銀青の薔薇は、特殊な環境下で早く咲くように管理されていたらしく、地植えはこれから季節を迎える。梟は毎日庭園のあちこちから旬の花を摘み、薔薇の季節までの埋め合わせをしているわけだが、何故か蕾がつき始めたばかりの薔薇園にも通うようになった。
そのお供として、エルマーは水筒と軽食の入った手籠と折り畳みの腰掛けを持ち、梟は画帳と画材の入った鞄を手に、今日も薔薇園の門をくぐった。
「梟様、どちらに設置いたしましょう」
「昨日と同じ株の前にお願いします」
敷布を広げて手籠を置くと、目的の株の前に折り畳みの腰掛けを設置する。礼を言って座る梟の顔に日が当たらないように帽子のつばの角度を調整し、エルマーは「では、のちほどお迎えに参ります」と礼をして薔薇園を後にした。
梟の集中を妨げることは、影のように控える侍従であっても許されることではない。固く口止めされているが、梟が自ら行動することは決して邪魔をせず、全侍従の知識と技量を総動員して補佐するように皇帝から厳命されている。
広い薔薇園で一人になり、梟は早速鉛筆を鞄から取り出した。
薔薇を摘みに来て、まだその季節ではないことをようやく思い出し、自分がどれほど生家から隔たってしまったのか、梟は改めて思い知らされていた。薔薇を作り育てる家に生まれながら、その開花期すらも忘れてしまっていたのだ。
そのことに堪えようのない寂寥と喪失を感じながらも、こうしてまた薔薇の季節を待ち侘びることのできる今を、梟はうれしく思っていた。
薔薇を思えば、父と兄を思い出す。あの儚くもやさしい日々の思い出に浸ることができる。もしまだ神聖騎士団に籍を置いていたら、日々は血と剣で塗り潰され、花の季節に思いを巡らせることなどなかったに違いない。
だからといって、あの極めて破廉恥で意地悪な変態に感謝することには、当然ならない。あの恥知らずに感謝するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
せっかく若葉の緑も瑞々しい薔薇園まで足を運んだのに、知らず眉が寄ってしまっているのを感じ、梟は意識して呼吸を整えながら眉間を揉んだ。
薔薇を摘むことになって初めて、梟はその茎が枝と呼ばれるに相応しい硬さを持つことを知った。棘の付き方や多寡も種類よって異なることも知らなかったが、何より目を引かれたのは、その葉の多様さだ。
円に近いほど丸いもの、先端に向けて細くなるもの、照りのあるもの、新葉が真っ赤なものと、種類によって実に様々だ。エルマーによれば、季節によって葉の形が変わるとのことだった。
そうした違いを仔細に観察し、画帳の上に記録していく。毎日少しずつ進めている作業は、開花したら花の形の記録も取ることになる。広大な薔薇園に植えられた薔薇の種類は百を超えるそうで、この試みがいつ終わるのか、梟にもわからなかった。ただこうして一人自然と向き合い、小さな発見を小さな喜びに換えて積み重ねる時間は、豊かで贅沢なものだと思っている。静かな環境で興味を持ったことに没頭するのは、大使付き武官だった頃、帝国図書館に通っていた時以来だ。
あの頃梟の日々は、大使の警護、鍛練、読書、そしてごく微量の社交で構成されていた。
与えられた任務と、思い掛けず手に入った余暇を存分に注ぎ込み耽溺した図書館での時間を掬った後の、残滓。その僅かな機会であの変態に目を付けられ、神聖騎士の地位も父から与えられた名も失うことになったのだと思うと、最善とは何か、という哲学的に難解な命題が目の前を塞ぐように横たわってくる。
――これまで私は寛大過ぎたのでしょうか。
怒りという感情が久しぶりに動き、普段の無表情が石のようになってしまった梟がぽつりと洩らしたのは十日前。
かつてない非常事態に、ヘルムートは即座に応じた。
「どうぞご存分に、お気の済むまで陛下にお怒りをお示しください。我ら侍従は皆、梟様のお味方でございます」
子供の頃から皇帝をよく知る侍従長の言葉は心強い。頼もしい味方を得て、梟はためらうことなく蜻蛉を無視することにした。そもそも皇帝の寝室で過ごす以外、二人の時間はなかったのだ。梟が出向かなければ、顔を合わせる機会もない。
懸念されるのは、あの忌々しい薬を使われることだったが、ヘルムートはどんな手を使っても阻止してみせると断言してくれた。長年皇家に使える侍従長には、皇宮内を自在に行き来し監視する『目』と『手』があるらしく、梟の私室に体の自由を奪う秘薬が焚かれることはなかった。おかげで、心置きなく穏やかな夜を過ごし、静かな眠りを満喫していたのだ。――あの意地悪で恥知らずな変態が、正々堂々正面突破で夜這いを掛けてくるまでは。
まったく忍んでいないことといい、連日続くことといい、その行動は、夜這いというよりむしろ日課と呼ぶに相応しい習慣に落ち着きつつあった。
(厚顔無恥な上に図々しいにもほどがある…っ)
湧き上がる怒りに再び心を乱された梟は、そのことにまた腹を立てながら、手元に集中することを諦めた。昨日の続きで細部を仕上げていた手を止めると、画帳から顔を上げる。ついでに鉛筆を置き、さきほどから感じていた視線の主をさりげなく確認した。
薔薇園は外宮の敷地にあり、各政庁に勤める者や公用で訪れる者も入園することができる。ただし建物から少し離れており、また花の季節には早いため、今ここを訪れる者は殆どいない。
遠方から仕事で訪れた役人が、故郷への土産話のために皇宮のあちこちを見て回っているのだろうか。そのような印象を抱かせるうだつの上がらない初老の男が、こちらにゆっくりと近づきつつあることに梟は気がついていた。
「今度はわしに気を散らすのか」
まだ距離はあるのに、男は梟の意識が自分に向けられたことを敏感に察知したらしい。
「対象としたものから気を逸らしていては、いくら眺めてもその本質は掴めんぞ」
初対面と思われるーー少なくとも皇宮で見掛けたことのないその男は、何故か不機嫌そうだった。
挨拶もなく突然掛けられた言葉は、梟をしばらく観察した後にその行動を非難するものであり、また何か揶揄しているようにも取れる。口調も刺々しく、もしかしたら以前どこかで会っているのかもしれない、と梟は内心で警戒を怠らないまま沈黙を守った。
俗世にまったく興味を持たず、初対面と思っていた男に出会い頭に拉致されたことがある以上、自分の記憶はあてにならない。平坦だと思っていた過去に変態が潜む落とし穴を仕掛けられ、今も捕らわれたままの梟は、そう自戒していた。
無言の拒絶を意に介することもなく、男はずかずかと近寄ってくる。武器は帯びておらず、体の動きも訓練された者のそれではない。機嫌は悪そうだが、害意は感じない。
腰の剣に手を掛けることなく、相手の出方を窺う梟のすぐ横に立つと、男は無遠慮に画帳を覗き込んだ。
「思った通り、ただ形をなぞっただけの陳腐な絵だ。一欠片の叙情も色気もない。薔薇を図解しているだけだ」
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ただこの場合、男の酷評は、梟の目的を適切に言い表していた。
「その評価は幸いです。私は絵を描いているのではなく、薔薇の記録を取っているので」
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『おじさんも、心を食べられてしまったの?』
記憶が――曖昧な時期がある。
悪霊祓いの前後の、ところどころ――ずっと側についていてくれたハインツが、所用で出掛けて不在の間。
あの頃、梟は騎士見習いの日課を免除され、離れでの療養を命じられていた。自分の身に何が起きたのか、定かにはわからないまま。
「貴方は…」
「一体何なんだ、あんたは。一度大画廊でぼーっとしてるところを見掛けて、その場で素描したものと昔描いた絵を比べて、あんただと確信した。次の日から皇宮に通って探したのに、誰に聞いてもあんたを知らんという。こんな派手な見掛けの兄ちゃん、よほど慎重に隠さない限り目立って仕方ないだろうにな」
憤然と捲し立てられた内容は、男が梟の子供の頃を知っており、何故か今まで探し続けてきたことを物語っていた。そして皇宮における、梟の存在の不自然さに気づいていることも。
「毎日大画廊で張っていたのに、あれからまったく姿を見せん。ようやく掴んだ手掛かりを失った憂さ晴らしで、ここまで薔薇を盗みに来てみれば、あれだけ探したあんたが呑気に写生なんぞに興じとる」
やっとれんわ、と吐き捨てるように毒づかれても、梟には返す言葉がない。
(あの時の、あの人は、幻ではなかったのか…)
現実と幻の境界が曖昧だった頃の、霞のように朧な残像が、記憶の底からゆらゆらと甦る。
この覇気と毒気に満ちた人物が、あの時の、抜け殻のようだった『おじさん』なのだろうか。礼拝堂の石段に腰掛け、ぼんやりとハインツの帰りを待つ子供の隣に座り、同じように茫洋と視線を彷徨わせていた。
(…そうだ、悪霊の話をした)
それまでは影が薄く、口数も少なく反応の乏しかった『おじさん』に、急に睨むような力強さで凝視されて、怖いと思ったことを思い出した。
あれから何年経ったのか。経る年月は梟を子供から大人に変え、男の顔に深い皺に刻んでいた。しかしぎらついたその眼差しは鉤爪のように、今も変わらず梟を捉えている。
悪霊の話は個人的なことであり、しかも十年以上前に正式な神殿の処置を受け、祓われた。すでに終わったことであり、その証拠に、厳格さで知られる神聖騎士の審査にも通った。今も追跡される要素はない。
男の目的がわからず、梟は立ち上がった。過去を知っており、現在の自分を探していたのなら、それは娼館の用心棒ではなく元神聖騎士に用があるということだ。
身構える梟に、男は静かに、答えられない問いを投げ掛けた。
「まだ腰に剣を差しているな。――この国にとって、一体何者なんだ、あんたは」
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そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
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