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再会
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レーニシュ帝国は、広く優秀な人材を募るため、家柄や身分に関係なく誰でも受験できる、公平な官僚登用試験を採用している。帝国中から集められた秀才揃いの官僚がひしめく外宮の政庁では、門閥貴族だからというだけでは役職を持つことはできない。貴族が国政の場で力を持ちたければ、試験に合格することは必要不可欠であり、一族から官僚を出すことは家運と名誉を懸けた一大事だった。
並大抵の努力では超難関試験に通ることはできず、社交期以外は自領に引っ込み領地経営に専念するしかない貴族が多い中、悠々と首席合格を果たし、その血筋の良さにより絡みつくやっかみも涼しい顔で振り払ってきた選良中の選良、リーフェンシュタール侯爵マクシミリアンは、顔には出さず辟易していた。
飛鷲宮の皇帝の執務室に呼び出されて、はや小半時。
部屋の主は珍しく行儀悪く頬杖をつき、呼び出しておきながら物思いにでも耽っているようで、入室時の挨拶以外口を利かない。幼馴染であり悪友でもある従兄に気を許している証とも言えるが、いつまでも付き合えるほどマクシミリアンも暇ではない。週末しか自領の屋敷に帰ることができない多忙な公安庁の長としては、休息日を明日に控え、仕事が終わり次第帰宅したいという事情もある。
「――陛下」
痺れを切らし呼び掛けても、反応はない。聞こえるように嘆息しながら、マクシミリアンは口調を幼馴染のそれに改めた。
「私も待たせている者がいる身なのでね、用がないなら帰ってもいいかな」
わざわざ呼び出したのだから、それは困るのだろう。ようやくこちらに視線を向けた相手に、駄目押しするように告げる。
「用件が、恋人が可愛すぎてつらい、などという戯言なら聞きたくないんだが」
「つらい程度であれば、このように気を取られたりはせぬ」
憮然と返されたのは、聞きようによっては強烈な惚気だ。
「あれの本質は恐ろしいほどの無垢だ。どこまでも真っ白で、何物にも染まろうとせぬ。愛しくてたまらぬが、反面心底憎らしい。余をこれほど搔き乱す者など、過去にはユリウス、今は梟しかおらぬ」
(…結局、後にも先にもただ一人ということではないか)
今度は明らかな惚気だ。
このまま延々と恨み節のような惚気を聞かされるよりは、と仕方なくマクシミリアンは従弟の愚痴を引き取ってやった。
「…可愛い可愛いと、生まれ持った愛らしさをただ愛でて慈しんで、真っ直ぐ育てたようだよ。光り輝く天使のような子だったと」
マクシミリアンには、皇帝の密命を受け、個人として請け負っている任務がある。毎週末、自領といっても本宅のある父祖伝来の所領ではなく、数年前に手に入れたベルンシュタイン伯爵ツィンナー家の邸宅に帰るのも、そのためだった。
「罪作りな…忌々しい育て方をしてくれたものよ」
呟かれた言葉は、ツィンナー家の当主に向けられたものだ。
ツィンナー家――代々薔薇の育種で知られた、花の一族。梟がかつて捨てた名は、ユリウス・ツィンナー。幼い梟を、光り輝く天使のような子供を、寄付金も払わず神殿に捨てた家の名だ。
寄付金もなく最低年齢で子供を神殿に入れれば、その子は神官見習いではなく、命を軽く扱われる騎士見習いにされる。それを知らなかったわけではないだろう。天使のように愛らしい子が、男ばかりの騎士団に入れられたらどのような目に遭わされるか、まったく想像しなかったわけではあるまい。
そのような過酷な運命を用意していたなら、ただ愛し慈しむばかりの育て方をするべきではなかった。その素直な性根が軋み歪もうとも、人を疑い、身を守る術を教え込むべきだった。
悪霊に怯え錯乱した愛しい者の姿を思い出すたび、怒りと悔恨がアルフレートの心を重く塗り潰す。怒りの矛先は、悪霊の姿で幼い梟を脅かした者たちと、その餌食にしかなりえぬように梟を育て、捨てたツィンナー家。悔恨は、梟の魂に刺さったままの棘に一年も気づくことができなかった自身へのものだ。
ツィンナー家は今、マクシミリアンの預かりとなり、その命運はアルフレートが握っている。元はと言えば四年前、負傷した神聖騎士ユリウスが皇宮から姿を消した時、その行く先として疑い見張るために、マクシミリアンに命じて手に入れた。梟を側に置く今は、万が一にも逃がさないための人質として。
梟はそのことを知らない。生家の名誉を守るため、と家族に連絡することもなく、神聖騎士ユリウスは死んだものとして――梟として生きている。
今も寝言で名を呼ぶほど慕う家族と、秘密裏に合わせてやることもできるのにそうしないのは、梟からひたむきな愛情を寄せられていることへの嫉妬もあるが、それゆえに梟を手元に捕らえておくための最強の切り札と認識しているからだ。
ユリウスに会って、焦がれるということがどういうことかを知った。
梟を知って、愛するということがどういうことかを思い知らされた。
甘く蕩けるような喜びに震え、引きずり倒し踏みにじりたくなる残虐な支配欲に振り回される。愛する家族から引き離し、その家族を人質として手中に収め、何年も飼い殺しにしている。
誓約への信頼の証として、皇宮の外に出る梟に供を付けないのも上辺だけだ。梟が皇宮に戻るまで、帝都の城壁にある九つの門には厳しい検問が敷かれ、時に物流が滞る事態となっているが、万が一にも梟を逃さないための方策だ。非常時のような厳戒態勢を解除するつもりはない。
綺麗事などではない。狂気の沙汰だ。
隣国の第一王女として生まれ育ち、皇后となるべく嫁いできた亡き妻は、共に帝国を支え繁栄の礎となる同志だった。聡明で誇り高く、己の責務をよく知り全うして亡くなった彼女には、今も感謝と敬意、そして親愛の情を抱いている。しかし梟に向かって迸る、溶けた岩のような感情は一欠片も生じなかった。
皇帝と皇后、その名でしか呼び合うことのない関係のままこの世を去った彼女と異なり、梟とは互いに仮の名で呼び合っている。身分を隠し帝国騎士に混じって剣の腕を磨き、神聖騎士団の筆頭騎士に挑んだ一人の男としての名を呼ぶ、最愛の伴侶。その真の名を奪い、結果的に梟という仮の名を持つ者として生まれ変わらせたのが自分であることに、アルフレートは昏い喜びを抱いていた。
(梟は余のものだ)
自分以外から与えられたものなど、名も傷も、すべて剥ぎ取ってやりたい。
誰にも頼らず、身を丸めて内に抱えた傷の痛みに耐えてきた梟を、そのままにしておくことなどできない。――触れることのできない傷を、鏡のような瞳の奥に隠し持つなど、許すことはできない。今も囚われたままの過去の傷を取り除き、二度と知らないところで傷つくことのないように、持てる力のすべてで守る。梟の『光』である者の特権だ。
梟を傷つけていいのも奪ってもいいのも自分だけなのだという、確信に満ちた身勝手な独占欲。それを愛情の一部と呼んでいいとは、さしものアルフレートも思っていなかった。
「それで、何かわかったか」
梟に刺さったままの棘を抜くために、マクシミリアンに命じていたことがある。
あれから一月、今日呼び出したのも報告を聞くためだ。しかし諜報を司る公安庁の長は、悪びれることもなく肩を竦めた。
「何度も言っているが、教団内ならまだしも、神聖騎士団の内部に食い込むのは至難の業だ。表に出てくるのは総長と一部の騎士だけで、その内情はまったく不明。過去にも何度か密偵を潜り込ませようとしたが、生きて戻った者はいない。一月やそこらでどうにかなることではない」
「神聖騎士団ではない。その前に所属していた騎士団でのことを知る者を探せ」
「目ぼしい者はみなその騎士団を離れ――もしくは十年前に宿舎で死んでいる。表向きは病死だが、不審死だったようだ。ユリウスが騎士見習いから、騎士になった頃に」
「宿舎で…?」
至聖神教に所属する騎士団は、最高格の神聖騎士団を頂点にいくつもあるが、平時の宿舎での共同生活はどの騎士団でも変わらない。具合が悪い者が出ると、すぐに別棟に隔離されることになっている。伝染性の病であった場合、同じ屋根の下で起居していては、騎士団瓦解のきっかけとなりかねないからだ。死に至るような病に罹った者なら、尚更だった。
つまり、宿舎での病死など、通常はあり得ない。
「もう少し時間が欲しい。今、騎士団を離れた関係者を洗っている」
「長くは待てぬぞ」
「御意」
畏まり腰を折るマクシミリアンは、切れ者の公安庁長官の顔をしていた。
固く閉ざされた、謎多き神聖騎士団。自国出身の神官を送り込める教皇庁よりもよほど手強い、最強の獲物なのだろう。その筆頭騎士を務めた梟が、かつて在籍していた騎士団での不可解な死。そして、悪霊。
梟が皇帝の『影』でなければ、過酷な拷問にかけてでも情報を取ろうとするに違いない。牽制するように、アルフレートは改めて釘を刺した。
「余に断りなく、あれに接触することは許さぬぞ」
「薬草園でのことは偶然だと、何度も言っただろう。――今日、扇屋から戻るそうだな。最終試験というわけかな」
「…何のことだ」
「外に出しても問題ないか、完全に復調したのか、今夜確認するつもりなのだろう? 無茶は禁物だよ、アル」
「余計な世話だ」
今ではもう呼ぶ者も殆どいない愛称で自分を呼ぶ従兄は、傑出して優秀な男で頼りになるのだが、人の悪さも抜きん出ている。この一月、悪霊の記憶を呼び覚まさないように医師から夜の営みを止められていたことを、どこからか聞きつけ揶揄っているのだ。
梟の捕縛を命じた相手だけに、長年抱える妄執も知られてしまっている。隠すのも今更か、とアルフレートは開き直った。若かりし頃、身分を隠して街に繰り出し、落胤騒ぎに繋がるような羽目こそ外さなかったものの、共に色々と悪い遊びをした仲なのだ。
「一年間毎日愛していると繰り返して、思いつくすべての手を尽くして愛でて、それでも通じぬ難物が相手なのだ。慎重にもなれば、滅茶苦茶にしてやりたくもなる」
「それも程度というものがあるだろう。――確かに、泣かせてみたくなる風情ではあったが」
薬草園でのことを思い出しているのだろう。マクシミリアンは、数分にも満たない梟との出会いの印象を、身も蓋もなく描写してみせた。
「あの取り付く島もない、素っ気なく慇懃無礼な態度。美しく高貴で懐く素振りも見せないが、蠱惑的な猫のような――。大国の皇帝を落とすには、甘えた媚態より冷たい氷の壁が有効だったか」
「媚態なら――」
十分過ぎるほど堪能している、と答えかけて、アルフレートは言葉を切った。いくら気心の知れた悪友であろうと、愛する者の閨での艶姿を教えてやる義理はない。あの、頭の芯が痺れるような快楽を与えてくれる、毒のような体の奥の、柔らかく蕩けた熱い感触も。
毎夜同じ寝台で、健やかな寝息を確認してから、その瞼に口づけて眠りに落ちる。一月も手を出さずにいたことなど、これまでなかった。昨夜一晩扇屋に預け、何事もなく戻ってきたら、今宵一月ぶりにそのなめらかな肌を味わうことになる。根本的な解決には至っていなくても、とりあえずの日常が戻ってきた証として。
(色々と貸しが溜まっておるな…どうして可愛がってくれようか)
一年を掛けて懇ろに、どれだけ嫌がろうとアルフレートの手管には逆らえず、泣きながらこの手に墜ちてくる素直で淫らな体に作りかえた。閨の梟は、男に愛玩されるためだけに存在するような、感じやすく艶かしい生き物だ。
決して小柄ではなく上背はそれなりにあるのに、武人である近衛は勿論のこと、同じような背格好の侍従と比べても華奢に見える。背後から挑む時、逃げることを許さず腰骨を掴む手が回ってしまうほどその腰は細く、長大な雄を受け入れ震える尻は、両の手のひらに収まってしまいそうに引き締まって小さい。かといってひ弱な印象はなく、筋肉も脂肪も、余計なものを一切削ぎ落とした固く張りのある体は、研ぎ澄まされた名刀の刀身のようだ。
快楽に汗ばんだ梟の裸体は、刀身の持つ鈍い光ではなく、真珠のように艶かしい燐光を放っているように見えた。北方の王族の血を引く亡命貴族を祖母に持つ梟は、他に類を見ない独特の白い肌を持っている。レーニシュの民にも白い肌を持つ者は多いが、それは牛乳のように、煮詰めれば乳脂色になるような白だ。
対して梟の肌は、東方の白磁の白。壺一つが荘園一つに値するほど珍重される白磁は、たとえ煮詰めても変わることなく保たれる、頑なな孤高の白と言える。それはただ冷たいだけではなく、深い淵のように見る者を引き込み、吸い寄せる妖しさを帯びている。所有を巡って争いが起き、いくつもの命が奪われた名品のような肌に火を点し、快楽の色に染め上げるあの愉悦――。
その硬く脆い体に、頑なに快楽を厭う神聖騎士の心を宿し、喜悦に震える肉体の弱さを嘆きながら蜻蛉の望むままに嬌声を上げ、その罪深さに懊悩する。
あれほど肉の悦びに溺れておきながら濁ることのない、白磁にも通じる梟の気高さを見せられるたび、穢してやりたいという獣の欲望が湧き上がるのだ。
「――アル、無駄に色気を振りまかないでくれないか。当てられてのぼせそうなんだが」
「…まだいたのか」
あやうい夢想を破る、揶揄う口調の苦言。
アルフレートはじろりと声の主を見遣る。皇帝の一瞥程度で怯むような可愛気などあるはずもない従兄は、臆することなく口の端を吊り上げた。
「畏れ多くも皇帝陛下におかせられては、御気色悪しく拝せられ、卑小なる臣は宸襟を安んじ奉る術もなく、ただただ御稜威が満ちるのを待つばかりでございます」
「…無礼なやつ、余の威光は常に遍く国に満ちておる」
仰々しい言い草だが、つまりは「色ボケが過ぎて情緒が不安定になっているようだから、気を遣って付き合ってやっている。感謝しろ」ということだ。
完璧な外面の良さに対し、性根は複雑骨折している男だからこそ、公安庁長官などという陰険な役職が務まるのだ、と公私に亘ってこき使っておきながら、アルフレートは内心で毒づいた。
従弟が何を思っているかなどお見通しのマクシミリアンは、涼しい顔で自身の用件を切り出す。
「侍従長には話しておいたが、きっと気に入るだろうと思って薔薇を二種持参した」
手を打つと、優美な細身の花瓶を持った侍従が隣室から現れた。大輪の薔薇一輪と、房咲きの薔薇一枝が生けられている。
侍従は静かに皇帝の執務机に花瓶を置くと、深々と一礼し音もなく退室した。
「ツィンナー家前当主の最高傑作と、現当主の最新作だ。どちらも特殊な花色を持つせいで病虫害に弱く、屋根の下で管理しなければ咲かせることはできないらしい。気難しい花だが、皇宮の庭師ならどうにか機嫌を取るだろう。銘は――」
続く言葉に、その珍しい花色にも興味を示さなかったアルフレートは一瞬目を瞠り、ふん、と頷いた。
「侯爵の厚意、ありがたく受け取ろう」
「今夜の枕元に置いたらどうかと思うんだが」
さりげなく付け足された言葉にマクシミリアンの意図するところを知り、その悪趣味さに、さしものアルフレートも呆れた。この悪友は、昔から気に入ったものの愛で方が一筋縄ではなく屈折しているのだ。しかし今回の提案は――悪くない。
ツィンナーの薔薇が見ている中で梟を抱け、とマクシミリアンは唆しているのだ。花の一族が捨てた子供が皇帝の伴侶となり、滴るように熟し美しく育ったことを、そうとは知らせず見せつけるように。そして、今も慕う家族の育てた花に恥ずかしい姿を見られ、恥じらい乱れる梟を堪能するために。
そのために、計ったかのように今日この日に、薔薇を用意させたのだろう。いつもながら用意周到で、実に人の悪い男だ。
自身の企みを気に入っているのだろう。マクシミリアンは喉奥で小さく笑うと、器用に片目を瞑ってみせた。
「面白い趣向だと思うよ。男の手で花開き咲き誇る姿を、父兄に参観してもらうというのは」
並大抵の努力では超難関試験に通ることはできず、社交期以外は自領に引っ込み領地経営に専念するしかない貴族が多い中、悠々と首席合格を果たし、その血筋の良さにより絡みつくやっかみも涼しい顔で振り払ってきた選良中の選良、リーフェンシュタール侯爵マクシミリアンは、顔には出さず辟易していた。
飛鷲宮の皇帝の執務室に呼び出されて、はや小半時。
部屋の主は珍しく行儀悪く頬杖をつき、呼び出しておきながら物思いにでも耽っているようで、入室時の挨拶以外口を利かない。幼馴染であり悪友でもある従兄に気を許している証とも言えるが、いつまでも付き合えるほどマクシミリアンも暇ではない。週末しか自領の屋敷に帰ることができない多忙な公安庁の長としては、休息日を明日に控え、仕事が終わり次第帰宅したいという事情もある。
「――陛下」
痺れを切らし呼び掛けても、反応はない。聞こえるように嘆息しながら、マクシミリアンは口調を幼馴染のそれに改めた。
「私も待たせている者がいる身なのでね、用がないなら帰ってもいいかな」
わざわざ呼び出したのだから、それは困るのだろう。ようやくこちらに視線を向けた相手に、駄目押しするように告げる。
「用件が、恋人が可愛すぎてつらい、などという戯言なら聞きたくないんだが」
「つらい程度であれば、このように気を取られたりはせぬ」
憮然と返されたのは、聞きようによっては強烈な惚気だ。
「あれの本質は恐ろしいほどの無垢だ。どこまでも真っ白で、何物にも染まろうとせぬ。愛しくてたまらぬが、反面心底憎らしい。余をこれほど搔き乱す者など、過去にはユリウス、今は梟しかおらぬ」
(…結局、後にも先にもただ一人ということではないか)
今度は明らかな惚気だ。
このまま延々と恨み節のような惚気を聞かされるよりは、と仕方なくマクシミリアンは従弟の愚痴を引き取ってやった。
「…可愛い可愛いと、生まれ持った愛らしさをただ愛でて慈しんで、真っ直ぐ育てたようだよ。光り輝く天使のような子だったと」
マクシミリアンには、皇帝の密命を受け、個人として請け負っている任務がある。毎週末、自領といっても本宅のある父祖伝来の所領ではなく、数年前に手に入れたベルンシュタイン伯爵ツィンナー家の邸宅に帰るのも、そのためだった。
「罪作りな…忌々しい育て方をしてくれたものよ」
呟かれた言葉は、ツィンナー家の当主に向けられたものだ。
ツィンナー家――代々薔薇の育種で知られた、花の一族。梟がかつて捨てた名は、ユリウス・ツィンナー。幼い梟を、光り輝く天使のような子供を、寄付金も払わず神殿に捨てた家の名だ。
寄付金もなく最低年齢で子供を神殿に入れれば、その子は神官見習いではなく、命を軽く扱われる騎士見習いにされる。それを知らなかったわけではないだろう。天使のように愛らしい子が、男ばかりの騎士団に入れられたらどのような目に遭わされるか、まったく想像しなかったわけではあるまい。
そのような過酷な運命を用意していたなら、ただ愛し慈しむばかりの育て方をするべきではなかった。その素直な性根が軋み歪もうとも、人を疑い、身を守る術を教え込むべきだった。
悪霊に怯え錯乱した愛しい者の姿を思い出すたび、怒りと悔恨がアルフレートの心を重く塗り潰す。怒りの矛先は、悪霊の姿で幼い梟を脅かした者たちと、その餌食にしかなりえぬように梟を育て、捨てたツィンナー家。悔恨は、梟の魂に刺さったままの棘に一年も気づくことができなかった自身へのものだ。
ツィンナー家は今、マクシミリアンの預かりとなり、その命運はアルフレートが握っている。元はと言えば四年前、負傷した神聖騎士ユリウスが皇宮から姿を消した時、その行く先として疑い見張るために、マクシミリアンに命じて手に入れた。梟を側に置く今は、万が一にも逃がさないための人質として。
梟はそのことを知らない。生家の名誉を守るため、と家族に連絡することもなく、神聖騎士ユリウスは死んだものとして――梟として生きている。
今も寝言で名を呼ぶほど慕う家族と、秘密裏に合わせてやることもできるのにそうしないのは、梟からひたむきな愛情を寄せられていることへの嫉妬もあるが、それゆえに梟を手元に捕らえておくための最強の切り札と認識しているからだ。
ユリウスに会って、焦がれるということがどういうことかを知った。
梟を知って、愛するということがどういうことかを思い知らされた。
甘く蕩けるような喜びに震え、引きずり倒し踏みにじりたくなる残虐な支配欲に振り回される。愛する家族から引き離し、その家族を人質として手中に収め、何年も飼い殺しにしている。
誓約への信頼の証として、皇宮の外に出る梟に供を付けないのも上辺だけだ。梟が皇宮に戻るまで、帝都の城壁にある九つの門には厳しい検問が敷かれ、時に物流が滞る事態となっているが、万が一にも梟を逃さないための方策だ。非常時のような厳戒態勢を解除するつもりはない。
綺麗事などではない。狂気の沙汰だ。
隣国の第一王女として生まれ育ち、皇后となるべく嫁いできた亡き妻は、共に帝国を支え繁栄の礎となる同志だった。聡明で誇り高く、己の責務をよく知り全うして亡くなった彼女には、今も感謝と敬意、そして親愛の情を抱いている。しかし梟に向かって迸る、溶けた岩のような感情は一欠片も生じなかった。
皇帝と皇后、その名でしか呼び合うことのない関係のままこの世を去った彼女と異なり、梟とは互いに仮の名で呼び合っている。身分を隠し帝国騎士に混じって剣の腕を磨き、神聖騎士団の筆頭騎士に挑んだ一人の男としての名を呼ぶ、最愛の伴侶。その真の名を奪い、結果的に梟という仮の名を持つ者として生まれ変わらせたのが自分であることに、アルフレートは昏い喜びを抱いていた。
(梟は余のものだ)
自分以外から与えられたものなど、名も傷も、すべて剥ぎ取ってやりたい。
誰にも頼らず、身を丸めて内に抱えた傷の痛みに耐えてきた梟を、そのままにしておくことなどできない。――触れることのできない傷を、鏡のような瞳の奥に隠し持つなど、許すことはできない。今も囚われたままの過去の傷を取り除き、二度と知らないところで傷つくことのないように、持てる力のすべてで守る。梟の『光』である者の特権だ。
梟を傷つけていいのも奪ってもいいのも自分だけなのだという、確信に満ちた身勝手な独占欲。それを愛情の一部と呼んでいいとは、さしものアルフレートも思っていなかった。
「それで、何かわかったか」
梟に刺さったままの棘を抜くために、マクシミリアンに命じていたことがある。
あれから一月、今日呼び出したのも報告を聞くためだ。しかし諜報を司る公安庁の長は、悪びれることもなく肩を竦めた。
「何度も言っているが、教団内ならまだしも、神聖騎士団の内部に食い込むのは至難の業だ。表に出てくるのは総長と一部の騎士だけで、その内情はまったく不明。過去にも何度か密偵を潜り込ませようとしたが、生きて戻った者はいない。一月やそこらでどうにかなることではない」
「神聖騎士団ではない。その前に所属していた騎士団でのことを知る者を探せ」
「目ぼしい者はみなその騎士団を離れ――もしくは十年前に宿舎で死んでいる。表向きは病死だが、不審死だったようだ。ユリウスが騎士見習いから、騎士になった頃に」
「宿舎で…?」
至聖神教に所属する騎士団は、最高格の神聖騎士団を頂点にいくつもあるが、平時の宿舎での共同生活はどの騎士団でも変わらない。具合が悪い者が出ると、すぐに別棟に隔離されることになっている。伝染性の病であった場合、同じ屋根の下で起居していては、騎士団瓦解のきっかけとなりかねないからだ。死に至るような病に罹った者なら、尚更だった。
つまり、宿舎での病死など、通常はあり得ない。
「もう少し時間が欲しい。今、騎士団を離れた関係者を洗っている」
「長くは待てぬぞ」
「御意」
畏まり腰を折るマクシミリアンは、切れ者の公安庁長官の顔をしていた。
固く閉ざされた、謎多き神聖騎士団。自国出身の神官を送り込める教皇庁よりもよほど手強い、最強の獲物なのだろう。その筆頭騎士を務めた梟が、かつて在籍していた騎士団での不可解な死。そして、悪霊。
梟が皇帝の『影』でなければ、過酷な拷問にかけてでも情報を取ろうとするに違いない。牽制するように、アルフレートは改めて釘を刺した。
「余に断りなく、あれに接触することは許さぬぞ」
「薬草園でのことは偶然だと、何度も言っただろう。――今日、扇屋から戻るそうだな。最終試験というわけかな」
「…何のことだ」
「外に出しても問題ないか、完全に復調したのか、今夜確認するつもりなのだろう? 無茶は禁物だよ、アル」
「余計な世話だ」
今ではもう呼ぶ者も殆どいない愛称で自分を呼ぶ従兄は、傑出して優秀な男で頼りになるのだが、人の悪さも抜きん出ている。この一月、悪霊の記憶を呼び覚まさないように医師から夜の営みを止められていたことを、どこからか聞きつけ揶揄っているのだ。
梟の捕縛を命じた相手だけに、長年抱える妄執も知られてしまっている。隠すのも今更か、とアルフレートは開き直った。若かりし頃、身分を隠して街に繰り出し、落胤騒ぎに繋がるような羽目こそ外さなかったものの、共に色々と悪い遊びをした仲なのだ。
「一年間毎日愛していると繰り返して、思いつくすべての手を尽くして愛でて、それでも通じぬ難物が相手なのだ。慎重にもなれば、滅茶苦茶にしてやりたくもなる」
「それも程度というものがあるだろう。――確かに、泣かせてみたくなる風情ではあったが」
薬草園でのことを思い出しているのだろう。マクシミリアンは、数分にも満たない梟との出会いの印象を、身も蓋もなく描写してみせた。
「あの取り付く島もない、素っ気なく慇懃無礼な態度。美しく高貴で懐く素振りも見せないが、蠱惑的な猫のような――。大国の皇帝を落とすには、甘えた媚態より冷たい氷の壁が有効だったか」
「媚態なら――」
十分過ぎるほど堪能している、と答えかけて、アルフレートは言葉を切った。いくら気心の知れた悪友であろうと、愛する者の閨での艶姿を教えてやる義理はない。あの、頭の芯が痺れるような快楽を与えてくれる、毒のような体の奥の、柔らかく蕩けた熱い感触も。
毎夜同じ寝台で、健やかな寝息を確認してから、その瞼に口づけて眠りに落ちる。一月も手を出さずにいたことなど、これまでなかった。昨夜一晩扇屋に預け、何事もなく戻ってきたら、今宵一月ぶりにそのなめらかな肌を味わうことになる。根本的な解決には至っていなくても、とりあえずの日常が戻ってきた証として。
(色々と貸しが溜まっておるな…どうして可愛がってくれようか)
一年を掛けて懇ろに、どれだけ嫌がろうとアルフレートの手管には逆らえず、泣きながらこの手に墜ちてくる素直で淫らな体に作りかえた。閨の梟は、男に愛玩されるためだけに存在するような、感じやすく艶かしい生き物だ。
決して小柄ではなく上背はそれなりにあるのに、武人である近衛は勿論のこと、同じような背格好の侍従と比べても華奢に見える。背後から挑む時、逃げることを許さず腰骨を掴む手が回ってしまうほどその腰は細く、長大な雄を受け入れ震える尻は、両の手のひらに収まってしまいそうに引き締まって小さい。かといってひ弱な印象はなく、筋肉も脂肪も、余計なものを一切削ぎ落とした固く張りのある体は、研ぎ澄まされた名刀の刀身のようだ。
快楽に汗ばんだ梟の裸体は、刀身の持つ鈍い光ではなく、真珠のように艶かしい燐光を放っているように見えた。北方の王族の血を引く亡命貴族を祖母に持つ梟は、他に類を見ない独特の白い肌を持っている。レーニシュの民にも白い肌を持つ者は多いが、それは牛乳のように、煮詰めれば乳脂色になるような白だ。
対して梟の肌は、東方の白磁の白。壺一つが荘園一つに値するほど珍重される白磁は、たとえ煮詰めても変わることなく保たれる、頑なな孤高の白と言える。それはただ冷たいだけではなく、深い淵のように見る者を引き込み、吸い寄せる妖しさを帯びている。所有を巡って争いが起き、いくつもの命が奪われた名品のような肌に火を点し、快楽の色に染め上げるあの愉悦――。
その硬く脆い体に、頑なに快楽を厭う神聖騎士の心を宿し、喜悦に震える肉体の弱さを嘆きながら蜻蛉の望むままに嬌声を上げ、その罪深さに懊悩する。
あれほど肉の悦びに溺れておきながら濁ることのない、白磁にも通じる梟の気高さを見せられるたび、穢してやりたいという獣の欲望が湧き上がるのだ。
「――アル、無駄に色気を振りまかないでくれないか。当てられてのぼせそうなんだが」
「…まだいたのか」
あやうい夢想を破る、揶揄う口調の苦言。
アルフレートはじろりと声の主を見遣る。皇帝の一瞥程度で怯むような可愛気などあるはずもない従兄は、臆することなく口の端を吊り上げた。
「畏れ多くも皇帝陛下におかせられては、御気色悪しく拝せられ、卑小なる臣は宸襟を安んじ奉る術もなく、ただただ御稜威が満ちるのを待つばかりでございます」
「…無礼なやつ、余の威光は常に遍く国に満ちておる」
仰々しい言い草だが、つまりは「色ボケが過ぎて情緒が不安定になっているようだから、気を遣って付き合ってやっている。感謝しろ」ということだ。
完璧な外面の良さに対し、性根は複雑骨折している男だからこそ、公安庁長官などという陰険な役職が務まるのだ、と公私に亘ってこき使っておきながら、アルフレートは内心で毒づいた。
従弟が何を思っているかなどお見通しのマクシミリアンは、涼しい顔で自身の用件を切り出す。
「侍従長には話しておいたが、きっと気に入るだろうと思って薔薇を二種持参した」
手を打つと、優美な細身の花瓶を持った侍従が隣室から現れた。大輪の薔薇一輪と、房咲きの薔薇一枝が生けられている。
侍従は静かに皇帝の執務机に花瓶を置くと、深々と一礼し音もなく退室した。
「ツィンナー家前当主の最高傑作と、現当主の最新作だ。どちらも特殊な花色を持つせいで病虫害に弱く、屋根の下で管理しなければ咲かせることはできないらしい。気難しい花だが、皇宮の庭師ならどうにか機嫌を取るだろう。銘は――」
続く言葉に、その珍しい花色にも興味を示さなかったアルフレートは一瞬目を瞠り、ふん、と頷いた。
「侯爵の厚意、ありがたく受け取ろう」
「今夜の枕元に置いたらどうかと思うんだが」
さりげなく付け足された言葉にマクシミリアンの意図するところを知り、その悪趣味さに、さしものアルフレートも呆れた。この悪友は、昔から気に入ったものの愛で方が一筋縄ではなく屈折しているのだ。しかし今回の提案は――悪くない。
ツィンナーの薔薇が見ている中で梟を抱け、とマクシミリアンは唆しているのだ。花の一族が捨てた子供が皇帝の伴侶となり、滴るように熟し美しく育ったことを、そうとは知らせず見せつけるように。そして、今も慕う家族の育てた花に恥ずかしい姿を見られ、恥じらい乱れる梟を堪能するために。
そのために、計ったかのように今日この日に、薔薇を用意させたのだろう。いつもながら用意周到で、実に人の悪い男だ。
自身の企みを気に入っているのだろう。マクシミリアンは喉奥で小さく笑うと、器用に片目を瞑ってみせた。
「面白い趣向だと思うよ。男の手で花開き咲き誇る姿を、父兄に参観してもらうというのは」
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