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再会
(5)
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椿が場を収めてくれたおかげで、ハインツは梟の四年間を詳細には追及することなく、来週の再会を約束すると静かに扇屋を去った。口下手で嘘を吐くのが不得手な梟は、偽りを言う訳ではなく、しかしすべてを明らかにするでもなく、辻褄の合うようにハインツの問いに答え、あるいは躱してみせる椿の話しぶりに、ただただ感心し感謝するばかりだった。
さすが海千山千の扇屋の主。花街の顔役を務め、あらゆる揉め事を収めてきただけのことはある。
ハインツを見送った後、椿は梟を自分の部屋に連れて行き、氷室からとっておきの氷を持ち出して、泣き腫らした目元を冷やしてくれた。冷たい手拭いをこまめに取り替えてくれながら、「わかってるだろうけどね」と椿が口を開く。
「今日のこと、誰にも言うんじゃないよ」
「わかっている」
「神聖騎士団に戻れるという話だったけど、叶うことなら、戻りたいと思ってるのかい」
「さっきも言った通り、私にその資格はない。それに――」
胸に芽生えた新たな思いは、ハインツと再会しても揺るぎなく、その小さな炎を燃やし続けていた。
幾百の命を奪ってきた梟だからこそ思い至った、これからを生きる幼い命を健やかに育みたいという願い。同じ環境で育ち、戦場で生きてきたハインツならば、理解してもらえるのではないかとも思う。そして、それは騎士の仕事ではないことも。
今回の帰宅では、一月の空白を埋めるだけで時間切れとなり相談できなかったが、帝都の孤児院、救貧院について――幸せではない子供たちの助けとなる手段について、椿の意見を聞きたかった。皇宮へ戻る時間が迫る中、慌しく持ち出すべき話題ではない。じっくり相談に乗ってもらいたいことだと気づき、「また今度話す」と梟は言葉を切った。
「念を押すようだけどね。あのにいさんのことを話すなというのは、帝国と教団の関係云々という政治的な話じゃないよ。単に陛下が過去の男に嫉妬して、面倒なことになるからってこと、わかってるかい」
「過去の男…」
不穏当な言い草に絶句する梟をよそに、椿はつけつけと言い重ねる。
「あんなにボロボロ泣いて、熱烈な抱擁を交わす相手がいるなんて、おまえも隅に置けないよ。そんな男がいると知られたら、またしばらく皇宮から出してもらえないだろ」
「その心配は無用だ。ハインツは、愛人契約の相手だから」
「…愛人契約?」
「怪我をして戦えなくなったら、愛人として養い支え合う騎士の誓約だ」
家族との縁も絶たねばならない神聖騎士が、特別な絆を結べる相手は、互いの人生を預け支え合う愛人だけだ。
勿論そこに性愛は含まれず、自らを犠牲にしても無償の愛を捧げる相手を指す。負傷し戦えなくなった者は、騎士を廃され裏方に回り、騎士団の運営を支えることになるが、怪我が重ければ一生動けなくなることもあり得る。愛人契約は、不安定な余生に対する保険のような互助の約束であり、その重さから誰もが結ぶものではない。
梟にはハインツという片翼がいて、その彼と愛人契約を結び、死が二人を分つまで家族として支え合うことを誓ったのは、自然なことだった。
「だから、勘繰られるようなことは何もないんだ」
「それがどうして『だから』に繋がるのか、どこから突っ込んだらいいのかね…」
心底呆れたという顔で、「とにかく今日のことは口にするんじゃないよ」と更に念を押された。その上何故か蜻蛉宛の手土産と言付けを預かり、目元の腫れが引いた梟は、椿に礼を言って扇屋を出た。
「これで誤魔化されてくれたらいいんだけどねえ」
再び玄関で見送りながらの椿の呟きは、梟には届かない。ハインツとの再会で、頭がいっぱいになっていたのだ。
再びハインツと会えたことは、魂が震えるほどにうれしい。実際さきほどは、ハインツを前にして言葉を紡ごうとする唇がわななき、うまく喋ることができなかった。
一方的に退団届を送って四年、不義理をしたにもかかわらず、ずっと探し続けてくれていた。神聖騎士ではなくなっても、二人を結ぶ絆は切れていなかったことを思うと、せっかく冷やしてもらった瞼がまた熱くなってしまう。立場が逆ならば、自分も死ぬまでハインツを探し続けたことだろう。
何度も夢に見た片翼にまた会うことができるなど、自らその絆を断ち切っただけに、望むことすらできない四年間だった。それをハインツは、軽々と飛び越えてくれたのだ。
しかしハインツが――神聖騎士団が、今も自分を必要としてくれていることは、ありがたいと思う反面、心に重く伸し掛かった。
自分にはもうその資格がないと、ハインツに伝えた。それはどういうことかと、いずれ追及されるだろう。いつか皇宮を辞し、それでも騎士団に戻ることを拒めば、必ず問われる。――何故、どの戒律を破ったのかと。
この身はもう、無垢ではない。
淫欲に穢れ、神に捧げることなどできない罪深い体になってしまった。望んでのことではないとはいえ、蜻蛉の抱える闇を和らげるために、姦淫を受け入れる大罪を犯し続けてきた。そのことで心に傷を重ねていても、それをやめようと思わない自分に――誓約を守り耐えてきた自分に、もう神の刃を名乗る資格はない。
それに、俗世に心を残すものがいくつもできてしまった。椿という大切な人に守られ甘やかされ憩う、扇屋という名の心地よい巣。皇宮には、愛しいという感情を教えてくれた子供たちがいる。そして町には、この手で多少なりとも苦境から救えるかもしれない、まだ見ぬ子供たちも。
(なるべく早く、寝室を分けてもらわなければ)
追い立てられるように、その思いが湧き上がる。閨事は絶えたとはいえ、『影』が皇帝と同じ寝台で眠る理由はない。警護というなら、近衛のように扉の外に立ち不寝番をするのが適当だ。
終わったことではあるが、一月前までは頻繁に体を拓かれ戒律に背いていたのだ。ただ一緒に眠るだけでも、ハインツを前にしたら罪悪感を感じてしまうだろう。昔からハインツに隠し事ができた例はなく、問い質された時、椿のようにうまく答え、もしくは躱せる自信はなかった。
これまでの蜻蛉との関係は――男妾のような境遇は、誰に対しても口にすることを憚られる。ましてや、戒律に背き不道徳に過ごしたこの一年を、神聖騎士であり続けるハインツに告解するなど、とてもできそうにない。隠し事などしたくないが、ハインツには――かつて片翼と認め愛人契約を結んでくれた男だけには、軽蔑され罵倒されたくなかった。ならば、隠し事の種は可能な限り潰すしかない。
椿の機転で、ハインツと会うのは扇屋に限られることになった。週に一度、椿だけではなくハインツにも会える。そう思うだけで、二人の『家族』と会える喜びに胸が甘く疼くが、後ろめたさを抱える以上、ただ素直に喜んでばかりもいられない。
もし立場が逆ならば、梟はどんな手段を使っても、自らの片翼を取り戻そうとするだろう。ハインツが同じ気持ちでいるのなら――蜻蛉に捕らわれ穢された身と知らずに片翼を求めるなら、もし取り戻したとしても、その変わり果て堕落した姿に失望し、慟哭するだろう。
悪霊に憑かれた自分を厭うことなく労り、傷ついた心に寄り添い無償の愛で包んでくれた、やさしく高潔な男。
身勝手な保身とわかっている。それでもハインツを悲嘆に追いやり、そして蔑まれるくらいなら、再び別離に心が引き裂かれても、もう二度と会えない方がましだった。
父と兄との縁が断たれた後の十二年間、同じ日に神殿に入り、同じ騎士団に入れられ、互いを労り庇い合って生きてきた唯一の『家族』。その大切な人との縁を引き千切ったのは、闇のように忍び寄り、四年経った今もこの身を縛る蜻蛉の執着だ。
何度考えても、過去の自分を省みても、自分にそれほどの落ち度はなかったと思うのに、その執着の元凶は梟にあるのだと、蜻蛉は不遜に断じて憚らない。
あの皇宮での闇討ちで梟が失ったものがどれほど大きかったか、蜻蛉は知らない。神聖騎士の地位より、父から授かった名より、唯一残された『家族』へ害が及ばぬように神聖騎士団ごとハインツとの縁を切ることが、どれほど梟の心を無残に切り刻んだのか。
椿に拾われなければ、心身ともに衰弱し路傍の骸となっていたかもしれない。
強い騎士として在り、互いに背を預けて戦うことができれば失われることはない――たとえ負傷しても愛人契約で結ばれた強固な絆は、どちらかが死ぬまで続くはずだった。失われることのない『家族』は、梟が最も欲するものであり、生きていく上での礎でもあったのだ。
その絆を、突然理不尽に引き千切られた虚無は、生家を出て色を失っていた世界で、梟の心を完全に凍らせた。もう誰とも心を交わらせることはしまい、と外を見る瞳を閉ざした。近すぎず遠すぎない距離を保ちながら、さりげなく寄り添い少しずつ氷を解かしてくれた椿がいなかったら、恐らく今も微笑むことすらできなかっただろう。
椿には「小さくも弱くもない」と言い張ったが、つまるところ、自分は弱く小さな子供のままなのだ、と梟は改めて思った。
神聖騎士である以上、その心の弱さを断つために肉親の縁も断たなければならない。しかし、やさしい家族に愛されて幸せに育った十歳の子供は、長じてもその唯一の欲を捨て去ることができなかった。その時点で、そもそも梟には神聖騎士の資格などなかったのだ。
もし誰かに指弾されたら、潔く認め騎士から退き、下働きとしてハインツと騎士団を支えようと思っていた。それと同時に、些細なことだと誰もが気に掛けなくなるように剣技に磨きを掛け、戦場での働きで筆頭騎士の務めを果たすよう心掛けていた。
(それなのに、どうして…)
それほどの努力を重ね共にあることを望んだ、唯一の片翼。それを奪った蜻蛉への献身を、やめようと思えない自分は何者なのだろう。他人事のように、梟は不思議に思った。
(どうして蜻蛉を厭えないのだろう…)
背に斜め十字の大傷をつけ、大事な『家族』を奪い、快楽の下僕に貶め何度も梟の尊厳を踏み躙ってきた男を。
梟の中で『すべて』と位置付ける、生家での十年間。
ただ美しくやさしい時間だけで構成された、宝石のようなあの頃。ハインツや椿とは別の、今ではもう現実感も薄い、甘く儚い花に満ちた世界の住人たちとの絆。その失った『すべて』を守るために、自身を襲った帝国の闇からハインツを遠ざけるために、扇屋に身を潜めて生きていく。
ただそれだけの虚ろで静謐な人生から引き摺り出され、身も心も滅茶苦茶にされて、それでも蜻蛉の側にいると誓約した時、自分を揺り動かした衝動が何だったのか、今でもよくわからない。
『では聞こう、梟の意志とは何か?』
それまで持つことを許されなかった、未来を決める意志を問う、蜻蛉の言葉。
『躾』の後、病的な執着を知らされ竦んだ心を、これまでの人生とは異なる、望む未来を問う言葉に慰撫された。初めての言葉ーー初めての感覚により、一切興味を持てなかった俗世へ向かい何かが動き出した、としか言いようがない。
神聖騎士の誓約という形でなくても、『影』となることを承諾しなければ、あの薬を使い皇宮に縛り付けるつもりでいた、とまるで悪びれず後日蜻蛉が白状したので、結果的に余計な難を避けられたのだとは思う。
あの告白を受けた時の、抗い難く心を引きずられる据わりの悪い感覚が、今皇宮に戻るために歩を進めている理由なのだろう。そしてあの感覚は、数々の酷い仕打ちを受けながらも蜻蛉を厭うことなく、実を結ぶことのない執着から早く解放されるように願い、『影』として献身する日々の源ともなっている気がする。
そもそも梟は、嫌悪や憎しみといった強い感情を抱くのが苦手だ。他者に対し、そこまでの熱量を持つことができないのだ。何度も傷つけられて、それでも蜻蛉を嫌えないのも、ある意味怠惰な性情のせいかもしれない。感情を揺さぶられることも、咀嚼するのに時間が掛かる大きな変化も、得意ではない。
それなのに、良くも悪くも蜻蛉は変化を強いるのだ。静謐な戦いの日々とも、ぬるま湯のように穏やかな花街の日々ともかけ離れた皇宮の生活は、一見単調な繰り返しに見えて、心に波紋を立てる出来事が散りばめられている。
一年余も続いた、悲嘆に蝕まれる蜻蛉との夜。三兄妹と触れ合うことで生じる、抑え難い愛おしさ。侍従や近衛に忠誠を誓われ傅かれる困惑。図書館、大画廊、厨房や庭園で、侍従たちの細やかな心配りに導かれて出会う、新しい知見への驚きと喜び。
それらを日常として受け入れ、まるで皇族のように過ごすことを求められる。過分な部屋も衣服も食事も、何もかも身の丈に合わない贅沢を押し付けられ、可能な限り断っているが、それでも些細な日用品ですら一々高価なものを用意される。
いずれ皇宮を辞し扇屋の用心棒に戻る者に、贅を尽くした皇族の真似のようなことをさせて、蜻蛉は何を得られるというのだろう。
(皇族の真似…蜻蛉は、家族が欲しいのだろうか)
以前も似たようなことを思ったが、やはり無理のある思いつきだ、と梟は即座に一蹴した。
蜻蛉には可愛らしい子供たちがいて、離宮に暮らす母后、皇太后も健在だ。皇后は若くして崩御していたが、気立ての良い、三兄妹を大切にしてくれる女性がいたなら、新たな伴侶として皇室に迎え、家族を増やしていけばいい。娼館の用心棒に皇族の真似事をさせなくても、蜻蛉には家族を手に入れる正当な手段がある。
自分がかつて失った家族と再会し、しかしまた失ってしまうかもしれない状況に置かれて、思考が偏ってしまったようだ。
(今は『宿題』を考えよう)
ハインツとの再会で乱れた心を整理するには、時間と静かな場所が必要だった。これからしばらくの間、空き時間は秘密の薬草園に通おうと思いながら、梟は思考を軌道修正する。
皇宮への帰り道、強く感情を揺さぶられ強張った心をほぐしつつ歩きながら取り組むのに、椿の宿題は適していた。
皇宮に暮らすようになって以来、蜻蛉に毎夜愛していると言わせていたのが自分の見識不足のせいだったことは、心から申し訳なく思っていた。もっと早くに気づき断っていたら、蜻蛉の執着はとうに絶え、今頃は二人とも心穏やかに別の人生を歩んでいたかもしれない。
しかし椿は、応えられなくても蜻蛉の言葉を拒んではいけないという。苦しみを長引かせるだけではと懸念する梟に、「大事なものには優先順位ってもんがあるんだよ」と答えた椿の顔は何故か寂しげで、それ以上何も言えなかった。そもそも色事の経験皆無の自分に、色事を商う店の主の言葉を疑う資格もない。
かつて、望む未来を訊ねてくれた蜻蛉。
兄もハインツも椿も、誰にも聞かれたことのなかったあの問いの答えは、今少しずつ形を取り始めている。扇屋で穏やかに――しかし無為に時を過ごすのではなく、剣を持つ以外にこの身を少しでも役立てる術を、模索し始めている。
その試みは、剣を持つことしか知らなかった梟にとって、心躍るものだ。騎士、用心棒、そして『影』。人を斬る以外の生き方が己にもあるなど、これまで思いもしなかった。
その新たな道を、無理矢理とはいえ新しい世界の扉を開いてくれた蜻蛉とも分かち合いたかったが、それは身勝手な望みというものだろう。蜻蛉の望む言葉を返せない、心の欠けた者が抱くには。
(――蜻蛉の好きなところ)
ふと、時折見せる、包み込むような眼差しが思い浮かんだ。目を細めて見つめてくるあのあたたかな顔は、胸の奥がくすぐられるようで好きだと、梟は思った。あのように慈しみに満ちた顔で、自分も子供たちと接することができたら、と願わずにはいられない。三兄妹にも、これから出会う子供たちにも。
あの黒い瞳のやさしい眼差しに包まれる機会は、この先の未来では減っていくのだろう。蜻蛉の執着が薄れることを望みながら、少し寂しく思う。
蜻蛉の執着が絶える安堵と、失われることへの寂寥。
ハインツに会える喜びと、今を知られたくない怯え。
それらすべてを内包する己の欲深さに気づき、梟は慄いた。こんな身勝手な者に、自分本位な人間に、神聖騎士となる資格は――もうない。
さすが海千山千の扇屋の主。花街の顔役を務め、あらゆる揉め事を収めてきただけのことはある。
ハインツを見送った後、椿は梟を自分の部屋に連れて行き、氷室からとっておきの氷を持ち出して、泣き腫らした目元を冷やしてくれた。冷たい手拭いをこまめに取り替えてくれながら、「わかってるだろうけどね」と椿が口を開く。
「今日のこと、誰にも言うんじゃないよ」
「わかっている」
「神聖騎士団に戻れるという話だったけど、叶うことなら、戻りたいと思ってるのかい」
「さっきも言った通り、私にその資格はない。それに――」
胸に芽生えた新たな思いは、ハインツと再会しても揺るぎなく、その小さな炎を燃やし続けていた。
幾百の命を奪ってきた梟だからこそ思い至った、これからを生きる幼い命を健やかに育みたいという願い。同じ環境で育ち、戦場で生きてきたハインツならば、理解してもらえるのではないかとも思う。そして、それは騎士の仕事ではないことも。
今回の帰宅では、一月の空白を埋めるだけで時間切れとなり相談できなかったが、帝都の孤児院、救貧院について――幸せではない子供たちの助けとなる手段について、椿の意見を聞きたかった。皇宮へ戻る時間が迫る中、慌しく持ち出すべき話題ではない。じっくり相談に乗ってもらいたいことだと気づき、「また今度話す」と梟は言葉を切った。
「念を押すようだけどね。あのにいさんのことを話すなというのは、帝国と教団の関係云々という政治的な話じゃないよ。単に陛下が過去の男に嫉妬して、面倒なことになるからってこと、わかってるかい」
「過去の男…」
不穏当な言い草に絶句する梟をよそに、椿はつけつけと言い重ねる。
「あんなにボロボロ泣いて、熱烈な抱擁を交わす相手がいるなんて、おまえも隅に置けないよ。そんな男がいると知られたら、またしばらく皇宮から出してもらえないだろ」
「その心配は無用だ。ハインツは、愛人契約の相手だから」
「…愛人契約?」
「怪我をして戦えなくなったら、愛人として養い支え合う騎士の誓約だ」
家族との縁も絶たねばならない神聖騎士が、特別な絆を結べる相手は、互いの人生を預け支え合う愛人だけだ。
勿論そこに性愛は含まれず、自らを犠牲にしても無償の愛を捧げる相手を指す。負傷し戦えなくなった者は、騎士を廃され裏方に回り、騎士団の運営を支えることになるが、怪我が重ければ一生動けなくなることもあり得る。愛人契約は、不安定な余生に対する保険のような互助の約束であり、その重さから誰もが結ぶものではない。
梟にはハインツという片翼がいて、その彼と愛人契約を結び、死が二人を分つまで家族として支え合うことを誓ったのは、自然なことだった。
「だから、勘繰られるようなことは何もないんだ」
「それがどうして『だから』に繋がるのか、どこから突っ込んだらいいのかね…」
心底呆れたという顔で、「とにかく今日のことは口にするんじゃないよ」と更に念を押された。その上何故か蜻蛉宛の手土産と言付けを預かり、目元の腫れが引いた梟は、椿に礼を言って扇屋を出た。
「これで誤魔化されてくれたらいいんだけどねえ」
再び玄関で見送りながらの椿の呟きは、梟には届かない。ハインツとの再会で、頭がいっぱいになっていたのだ。
再びハインツと会えたことは、魂が震えるほどにうれしい。実際さきほどは、ハインツを前にして言葉を紡ごうとする唇がわななき、うまく喋ることができなかった。
一方的に退団届を送って四年、不義理をしたにもかかわらず、ずっと探し続けてくれていた。神聖騎士ではなくなっても、二人を結ぶ絆は切れていなかったことを思うと、せっかく冷やしてもらった瞼がまた熱くなってしまう。立場が逆ならば、自分も死ぬまでハインツを探し続けたことだろう。
何度も夢に見た片翼にまた会うことができるなど、自らその絆を断ち切っただけに、望むことすらできない四年間だった。それをハインツは、軽々と飛び越えてくれたのだ。
しかしハインツが――神聖騎士団が、今も自分を必要としてくれていることは、ありがたいと思う反面、心に重く伸し掛かった。
自分にはもうその資格がないと、ハインツに伝えた。それはどういうことかと、いずれ追及されるだろう。いつか皇宮を辞し、それでも騎士団に戻ることを拒めば、必ず問われる。――何故、どの戒律を破ったのかと。
この身はもう、無垢ではない。
淫欲に穢れ、神に捧げることなどできない罪深い体になってしまった。望んでのことではないとはいえ、蜻蛉の抱える闇を和らげるために、姦淫を受け入れる大罪を犯し続けてきた。そのことで心に傷を重ねていても、それをやめようと思わない自分に――誓約を守り耐えてきた自分に、もう神の刃を名乗る資格はない。
それに、俗世に心を残すものがいくつもできてしまった。椿という大切な人に守られ甘やかされ憩う、扇屋という名の心地よい巣。皇宮には、愛しいという感情を教えてくれた子供たちがいる。そして町には、この手で多少なりとも苦境から救えるかもしれない、まだ見ぬ子供たちも。
(なるべく早く、寝室を分けてもらわなければ)
追い立てられるように、その思いが湧き上がる。閨事は絶えたとはいえ、『影』が皇帝と同じ寝台で眠る理由はない。警護というなら、近衛のように扉の外に立ち不寝番をするのが適当だ。
終わったことではあるが、一月前までは頻繁に体を拓かれ戒律に背いていたのだ。ただ一緒に眠るだけでも、ハインツを前にしたら罪悪感を感じてしまうだろう。昔からハインツに隠し事ができた例はなく、問い質された時、椿のようにうまく答え、もしくは躱せる自信はなかった。
これまでの蜻蛉との関係は――男妾のような境遇は、誰に対しても口にすることを憚られる。ましてや、戒律に背き不道徳に過ごしたこの一年を、神聖騎士であり続けるハインツに告解するなど、とてもできそうにない。隠し事などしたくないが、ハインツには――かつて片翼と認め愛人契約を結んでくれた男だけには、軽蔑され罵倒されたくなかった。ならば、隠し事の種は可能な限り潰すしかない。
椿の機転で、ハインツと会うのは扇屋に限られることになった。週に一度、椿だけではなくハインツにも会える。そう思うだけで、二人の『家族』と会える喜びに胸が甘く疼くが、後ろめたさを抱える以上、ただ素直に喜んでばかりもいられない。
もし立場が逆ならば、梟はどんな手段を使っても、自らの片翼を取り戻そうとするだろう。ハインツが同じ気持ちでいるのなら――蜻蛉に捕らわれ穢された身と知らずに片翼を求めるなら、もし取り戻したとしても、その変わり果て堕落した姿に失望し、慟哭するだろう。
悪霊に憑かれた自分を厭うことなく労り、傷ついた心に寄り添い無償の愛で包んでくれた、やさしく高潔な男。
身勝手な保身とわかっている。それでもハインツを悲嘆に追いやり、そして蔑まれるくらいなら、再び別離に心が引き裂かれても、もう二度と会えない方がましだった。
父と兄との縁が断たれた後の十二年間、同じ日に神殿に入り、同じ騎士団に入れられ、互いを労り庇い合って生きてきた唯一の『家族』。その大切な人との縁を引き千切ったのは、闇のように忍び寄り、四年経った今もこの身を縛る蜻蛉の執着だ。
何度考えても、過去の自分を省みても、自分にそれほどの落ち度はなかったと思うのに、その執着の元凶は梟にあるのだと、蜻蛉は不遜に断じて憚らない。
あの皇宮での闇討ちで梟が失ったものがどれほど大きかったか、蜻蛉は知らない。神聖騎士の地位より、父から授かった名より、唯一残された『家族』へ害が及ばぬように神聖騎士団ごとハインツとの縁を切ることが、どれほど梟の心を無残に切り刻んだのか。
椿に拾われなければ、心身ともに衰弱し路傍の骸となっていたかもしれない。
強い騎士として在り、互いに背を預けて戦うことができれば失われることはない――たとえ負傷しても愛人契約で結ばれた強固な絆は、どちらかが死ぬまで続くはずだった。失われることのない『家族』は、梟が最も欲するものであり、生きていく上での礎でもあったのだ。
その絆を、突然理不尽に引き千切られた虚無は、生家を出て色を失っていた世界で、梟の心を完全に凍らせた。もう誰とも心を交わらせることはしまい、と外を見る瞳を閉ざした。近すぎず遠すぎない距離を保ちながら、さりげなく寄り添い少しずつ氷を解かしてくれた椿がいなかったら、恐らく今も微笑むことすらできなかっただろう。
椿には「小さくも弱くもない」と言い張ったが、つまるところ、自分は弱く小さな子供のままなのだ、と梟は改めて思った。
神聖騎士である以上、その心の弱さを断つために肉親の縁も断たなければならない。しかし、やさしい家族に愛されて幸せに育った十歳の子供は、長じてもその唯一の欲を捨て去ることができなかった。その時点で、そもそも梟には神聖騎士の資格などなかったのだ。
もし誰かに指弾されたら、潔く認め騎士から退き、下働きとしてハインツと騎士団を支えようと思っていた。それと同時に、些細なことだと誰もが気に掛けなくなるように剣技に磨きを掛け、戦場での働きで筆頭騎士の務めを果たすよう心掛けていた。
(それなのに、どうして…)
それほどの努力を重ね共にあることを望んだ、唯一の片翼。それを奪った蜻蛉への献身を、やめようと思えない自分は何者なのだろう。他人事のように、梟は不思議に思った。
(どうして蜻蛉を厭えないのだろう…)
背に斜め十字の大傷をつけ、大事な『家族』を奪い、快楽の下僕に貶め何度も梟の尊厳を踏み躙ってきた男を。
梟の中で『すべて』と位置付ける、生家での十年間。
ただ美しくやさしい時間だけで構成された、宝石のようなあの頃。ハインツや椿とは別の、今ではもう現実感も薄い、甘く儚い花に満ちた世界の住人たちとの絆。その失った『すべて』を守るために、自身を襲った帝国の闇からハインツを遠ざけるために、扇屋に身を潜めて生きていく。
ただそれだけの虚ろで静謐な人生から引き摺り出され、身も心も滅茶苦茶にされて、それでも蜻蛉の側にいると誓約した時、自分を揺り動かした衝動が何だったのか、今でもよくわからない。
『では聞こう、梟の意志とは何か?』
それまで持つことを許されなかった、未来を決める意志を問う、蜻蛉の言葉。
『躾』の後、病的な執着を知らされ竦んだ心を、これまでの人生とは異なる、望む未来を問う言葉に慰撫された。初めての言葉ーー初めての感覚により、一切興味を持てなかった俗世へ向かい何かが動き出した、としか言いようがない。
神聖騎士の誓約という形でなくても、『影』となることを承諾しなければ、あの薬を使い皇宮に縛り付けるつもりでいた、とまるで悪びれず後日蜻蛉が白状したので、結果的に余計な難を避けられたのだとは思う。
あの告白を受けた時の、抗い難く心を引きずられる据わりの悪い感覚が、今皇宮に戻るために歩を進めている理由なのだろう。そしてあの感覚は、数々の酷い仕打ちを受けながらも蜻蛉を厭うことなく、実を結ぶことのない執着から早く解放されるように願い、『影』として献身する日々の源ともなっている気がする。
そもそも梟は、嫌悪や憎しみといった強い感情を抱くのが苦手だ。他者に対し、そこまでの熱量を持つことができないのだ。何度も傷つけられて、それでも蜻蛉を嫌えないのも、ある意味怠惰な性情のせいかもしれない。感情を揺さぶられることも、咀嚼するのに時間が掛かる大きな変化も、得意ではない。
それなのに、良くも悪くも蜻蛉は変化を強いるのだ。静謐な戦いの日々とも、ぬるま湯のように穏やかな花街の日々ともかけ離れた皇宮の生活は、一見単調な繰り返しに見えて、心に波紋を立てる出来事が散りばめられている。
一年余も続いた、悲嘆に蝕まれる蜻蛉との夜。三兄妹と触れ合うことで生じる、抑え難い愛おしさ。侍従や近衛に忠誠を誓われ傅かれる困惑。図書館、大画廊、厨房や庭園で、侍従たちの細やかな心配りに導かれて出会う、新しい知見への驚きと喜び。
それらを日常として受け入れ、まるで皇族のように過ごすことを求められる。過分な部屋も衣服も食事も、何もかも身の丈に合わない贅沢を押し付けられ、可能な限り断っているが、それでも些細な日用品ですら一々高価なものを用意される。
いずれ皇宮を辞し扇屋の用心棒に戻る者に、贅を尽くした皇族の真似のようなことをさせて、蜻蛉は何を得られるというのだろう。
(皇族の真似…蜻蛉は、家族が欲しいのだろうか)
以前も似たようなことを思ったが、やはり無理のある思いつきだ、と梟は即座に一蹴した。
蜻蛉には可愛らしい子供たちがいて、離宮に暮らす母后、皇太后も健在だ。皇后は若くして崩御していたが、気立ての良い、三兄妹を大切にしてくれる女性がいたなら、新たな伴侶として皇室に迎え、家族を増やしていけばいい。娼館の用心棒に皇族の真似事をさせなくても、蜻蛉には家族を手に入れる正当な手段がある。
自分がかつて失った家族と再会し、しかしまた失ってしまうかもしれない状況に置かれて、思考が偏ってしまったようだ。
(今は『宿題』を考えよう)
ハインツとの再会で乱れた心を整理するには、時間と静かな場所が必要だった。これからしばらくの間、空き時間は秘密の薬草園に通おうと思いながら、梟は思考を軌道修正する。
皇宮への帰り道、強く感情を揺さぶられ強張った心をほぐしつつ歩きながら取り組むのに、椿の宿題は適していた。
皇宮に暮らすようになって以来、蜻蛉に毎夜愛していると言わせていたのが自分の見識不足のせいだったことは、心から申し訳なく思っていた。もっと早くに気づき断っていたら、蜻蛉の執着はとうに絶え、今頃は二人とも心穏やかに別の人生を歩んでいたかもしれない。
しかし椿は、応えられなくても蜻蛉の言葉を拒んではいけないという。苦しみを長引かせるだけではと懸念する梟に、「大事なものには優先順位ってもんがあるんだよ」と答えた椿の顔は何故か寂しげで、それ以上何も言えなかった。そもそも色事の経験皆無の自分に、色事を商う店の主の言葉を疑う資格もない。
かつて、望む未来を訊ねてくれた蜻蛉。
兄もハインツも椿も、誰にも聞かれたことのなかったあの問いの答えは、今少しずつ形を取り始めている。扇屋で穏やかに――しかし無為に時を過ごすのではなく、剣を持つ以外にこの身を少しでも役立てる術を、模索し始めている。
その試みは、剣を持つことしか知らなかった梟にとって、心躍るものだ。騎士、用心棒、そして『影』。人を斬る以外の生き方が己にもあるなど、これまで思いもしなかった。
その新たな道を、無理矢理とはいえ新しい世界の扉を開いてくれた蜻蛉とも分かち合いたかったが、それは身勝手な望みというものだろう。蜻蛉の望む言葉を返せない、心の欠けた者が抱くには。
(――蜻蛉の好きなところ)
ふと、時折見せる、包み込むような眼差しが思い浮かんだ。目を細めて見つめてくるあのあたたかな顔は、胸の奥がくすぐられるようで好きだと、梟は思った。あのように慈しみに満ちた顔で、自分も子供たちと接することができたら、と願わずにはいられない。三兄妹にも、これから出会う子供たちにも。
あの黒い瞳のやさしい眼差しに包まれる機会は、この先の未来では減っていくのだろう。蜻蛉の執着が薄れることを望みながら、少し寂しく思う。
蜻蛉の執着が絶える安堵と、失われることへの寂寥。
ハインツに会える喜びと、今を知られたくない怯え。
それらすべてを内包する己の欲深さに気づき、梟は慄いた。こんな身勝手な者に、自分本位な人間に、神聖騎士となる資格は――もうない。
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