天上の梟

音羽夏生

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萌芽

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 その発言に、皇帝の居間にいる全員が絶句し、凍り付いた。
 皇帝の最愛の伴侶――『影』である梟は、公務を終え私室に戻って来た蜻蛉を迎えると、おもむろに切り出したのだ。体に違和感があるから医師に診てもらいたい、それまで寝室を分けてほしい、と。

 普段通りの氷の無表情だが、その利き手は不安を表すように胸に当てられており、蜻蛉はそれだけで言葉を失う。
 腰を抱いて梟を長椅子に座らせ、ヘルムートを呼び付ける。梟の体調管理は侍従の最優先事項であり、感情を表に出さない主の顔色を読むのに長けた侍従長が、わずかな異変でも見逃すことはないと思われたが、このところ気に留め、経過を観察していることはあったのか。あったなら、何故報告しなかったのか。
 鋭く詰問する蜻蛉に、ヘルムートが陳謝する前に取り成したのは梟だった。

「違和感はあるが、体調は悪くない。食事も摂れているし、鍛錬に参加しても問題はなかった。ちゃんと眠れているのは…知っているだろう」
「さてな。何度言い聞かせてもそなたは夜が明ける前に自室に下がってしまうゆえ、しかとはわからぬ」

 後朝を拒まれる日々の恨みを口にする蜻蛉に、今ここで蒸し返す話ではないだろう、と本人を除くその場の全員が呆れる中、まったく意に介さず、蜻蛉は検分するように梟の顔に指を滑らせる。

「確かに隈もなく、顔色も肌艶も良いようだな。しかし自覚症状があるなら、何故なにゆえすぐにヘルムートに言わぬ。――今すぐ医師を呼べ」
「だからっ、…今診てもらうのは、困る…」
「何故だ。早いに越したことはあるまい」
「…一昨日の痕を、見られたくない…」

 侍従たちに聞かれたくない梟の声は徐々に小さくなっていったが、有能な侍従長が主の声を聴き逃すわけもない。
 皇帝の度を越した独占欲のせいで、大切な主の情事の事後の世話も、入浴の世話も許されていない稀有な侍従であるヘルムートは、一度を除き主の裸体を見たことはない。しかし、その白い肌のあちこちに、常に皇帝の執着が情痕となって残されていることは、容易に想像できた。
 貴族に生まれながら傅かれて育つことはなく、平民と同じ羞恥心と慎み深さを備えている主は、その痕を見られることに酷く抵抗を感じている。それゆえの、この言葉なのだろう。

(だからといって医師に診せるのを遅らせるなど、御身第一にお考えいただかねば困る)

 表には出さない侍従の静かな憤りを敏感に察知したのか、言い訳をするように、梟は胸の中心に手を当てて自身の感じる違和感を説明する。

「剣術指南の時だけ、このあたりを掴まれるような感覚がある。痛みではなくて、掴まれるとしか言いようがない…。不快ではないが、これまで経験したことのない感覚だし、そうなる理由がわからないから…少し不安になった」
「剣術指南の…?」

 皇太子の稽古において梟が担う役割は、指導とたまに行う演舞だ。それと、その後の三兄妹の子守と。
 激しい運動を伴うようなことは何もなく、もちろん負傷する危険もない。体に不調を来す要因は見当たらず、蜻蛉は怪訝に思いながら促した。

「具体的に、どのような時に感じるのだ」
「殿下方に抱きつかれた時は、必ずそうなる。特に、走って来られて腰に抱きつかれた時は。腰と胸が、何らかの神経で繋がっているのかと思ったが、自分で触ってみても何ともなかった。――蜻蛉、試してみてもいいか」
「試す?」
「腰のあたりに、抱きついてもらえないだろうか」

 そう言って目の前に立った梟に、蜻蛉は察した。
 不安気にこちらを見つめてくる想い人は、その身に隠し持つ無垢という名の刃で、蜻蛉に斬り付け、侍従を薙ぎ払おうとしている。自身の健康不安にまで話を飛躍させ、皆を巻き込むあたり、かつてない大技だ。
 そうと知りながら、その刃の前に首を差し出す己も度し難い、と蜻蛉は自嘲する。抱き締めてほしいと願われたことはかつてなく、艶めいた意図はないとわかっていても、誘惑を拒むことはできなかった。長椅子に座ったまま脚の間に梟を引き寄せると、望まれるままその細腰を抱き締める。
 このような状況でも、胸が甘く疼く。度し難い、と蜻蛉は再び内心で呟いた。

「…頭を撫でてもいいか?」
「好きにせよ…」

 子供との触れ合い方を知らない梟は、当初、三兄妹に戯れつかれ求められた際、手を繋いでいいのか、頭を撫でていいのか、一々女官に確認を取っていたと報告を受けている。高貴な子供相手の気遣いというより、それが正しい対応なのかを確認しているようだったと。
 この確認も、それと同じなのだろう。愛する者に触れてよいかと聞かれ、断る男がいるはずもないという自明の理すら理解していない初心さに、神聖騎士の鎧の厚みを思い知らされる。

 許可を得て伸ばされた手が、蜻蛉の頭を撫でる。最初は表面を撫でるだけだった指が、やがて髪の間に差し込まれ、頭皮を擽るように髪を梳き上げる動きに変わる。
 寝台に入る前、長椅子で毎夜施す穏やかな愛撫を真似ているのだと気づき、蜻蛉はぞわりと総毛立つ感覚を味わう。何も知らず、誰にも触れられることなく真っ白だった梟の、無意識の内に染み込むほど己の愛撫が馴染んでいることへ、身震いするほどの悦びが込み上げる。

 それと同時に、寝台で我を忘れるほど追い詰められた梟の、切ない悲鳴と惑乱した指先の感触が甦る。快感を逃すように縋りつかれ、頭を抱き締められた時の官能が立ち上り、蜻蛉は妖しい動きを繰り返す指を掴もうとした。
 しかしその手は素っ気なく離れ、べりっと音がしそうな勢いで体を引き剥がされた。

「蜻蛉は違うようだ。殿下方と同じように頭も撫でてみたが、何も感じない」 

 残酷なまでにいつも通りの抑揚のない声音に、侍従たちはいたたまれなさのあまり、つい俯く。梟を除くその場の誰もが、樹の皮を剥ぐように身を離された滑稽な男が、この国の皇帝である事実を一瞬でもいいから忘れたいと願った。
 しかし梟は、追い討ちの手綱を緩めることはなかった。

「条件が違うのか、相手が悪いのか…。すみませんがヘルムート、私に抱」
「畏れながら梟様、私も命は惜しゅうございます。不用意なお言葉で、側仕えを危険に晒すのはお控え願います」

 梟の頼みは、言い終わる前に硬い声で遮られ、鋭く断られた。
 温厚なヘルムートらしからぬ冷たい剣幕に、やはり不躾で無礼な頼みだったかと梟は反省する。そう思えばこそ、今日まで誰にも相談できず、違和感が生じる条件を突き止めることもできなかったのだ。
 その不躾で無礼なことを、蜻蛉にはためらいもなく頼めるのは、普段それ以上に不躾で無礼なことを強いられているからに他ならない。蜻蛉には大抵の無体を働いても許される、と梟は本気で思っていた。

 しかしそれはもちろん梟の論理であり、皇帝が納得しているとは限らない。
 申し訳なさそうに見つめてくるが、何が悪かったのか絶対にわかっていない梟と、剃刀のような皇帝の視線に、込み上げる理不尽さを飲み下しながら、ヘルムートは探偵よろしく主の『違和感』を突き止める。

「梟様、今日『違和感』をお感じになったのは、例えばテオドール様から頬に口づけを受けられた時、「今日も会えてうれしい」とマティアス様がお膝の上ではにかまれた時、マルガレーテ様に抱っこをせがまれた時ではございませんか」 
「そう、そうです。どうしてわかったのですか」

 驚きに声を弾ませる梟に、しかし侍従は答えず、それ以上言葉を費やすことなく皇帝に事実を報告する。

「――陛下」
「…医師はもうよい。梟にはよく言い聞かせておく」

 立ち上がった蜻蛉に腰を取られ、ここしばらく囚われていた気鬱の原因が気に掛かる梟は、寝室へ促されながらも侍従を振り返る。

「あの、ヘルムート、どうして…」
「余が教えてやる。そなたは病などではないことも、――よく覚えねばならぬこともな」

(今宵どのような目に遭われても、すべて自業自得というものですよ…)

 皇帝に伴われ寝室へ向かう梟を、時に生贄台に連れて行かれる子羊のように見送るヘルムートだったが、今宵だけは少々意地悪な気持ちになる。以降、間違っても体の不調を侍従に隠すまいと誓うまで、陛下にはよくよく言い聞かせていただきたいものだ、と。
 謂れのない皇帝の嫉妬で、冷ややかに首筋を撫でられたのだ。ささやかな意趣返しは許されるだろう。

 それにしても、とヘルムートはさきほどから心に蟠る思いに捉われる。
 愛おしいという、様々な愛の形の発露として初歩的な感情ですら、神聖騎士には許されないものなのだろうか。禁欲と節制の対象には、他者への思いやりに満ちた、汚れのない愛情も含まれるのか。禁じられたところで、自然に湧き出でる感情の発育を、とどめることは難しいように思われるのだが。
 それとも――梟だけが、そのような不自然な状況に置かれ、人としてどこか欠けたまま、今まで過ごしてきたのだろうか。
 執着を持たず、自尊感情も乏しく、小さき者への素朴な愛情すらも育てられぬまま。

 今ようやく、子供に対する愛おしいという感情を抱き、自覚し始めた梟は、情緒の発達という点で子供とさして変わらないのかもしれない。
 皇家の三兄妹に振り回される姿は見ていて微笑ましいが、梟は子守ではない。皇帝の『影』――その著しい寵愛の対象なのだ。注がれるのは、純粋であたたかな思慕ではなく、溶けた岩のように熱くドロドロした情念だ。

 出来たばかりの拙い器で、皇帝の屈折した、底のない激しい情愛の一欠片ひとかけらでも受けとめ、理解できているのだろうか。――何一つわからないまま、耐え忍べばいつかは過ぎる嵐と、思ってはいないだろうか。
 その問いの答えには、不穏な行く先しか見えなかった。
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