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萌芽
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梟をテオドールの剣術指南役とした当初、蜻蛉は子供たちに言い含めたことがあった。
「梟は、天の生き物だと言う者がいる」
朝食の席で父帝から厳かに言い渡された子供たちは、その重々しい調子にフォークを置き、椅子の上で姿勢を正した。
「天の生き物って?」
「翼があるの?」
「そう、翼を持っているらしい。普段は隠していて、天に帰る時だけ現れるのだと」
父帝の答えに、子供たちの顔が一気に輝く。あの『きれいな人』は、きれいで強いだけではなく、翼も持っているかもしれないなんて!
テオドールなどは、道理で父上が負けるわけだ、と一人真顔で納得している。
「翼を見られたり、天の生き物であると知られたら、天に帰らねばならぬらしい。だからそなたたちも、決して梟に天の世界のことを聞いたり、怪しんだりしてはならぬぞ。ただ天に帰ることのないように、梟を見張っていてほしいのだ」
そなたたちにも父にも、あれは大切な者だからな、と付け加えられ、与えられた任務の重要さに、子供たちは真剣な顔でぶんぶんと音がするほど頷いた。こうして子供たちが懐く下地を整えて、あとはあの世間ずれしていない実直な元神聖騎士が、子供たちと付き合う術を見つければいい。子供たちを梟を皇宮に繋ぎ止める新たな枷とする、蜻蛉の計画は、それで達成されるはずだった。
実際、その目論見は上手くいっているように見える。側仕えの報告によれは、三兄妹はそれぞれ梟が大のお気に入りで、稽古の日を楽しみにしているという。そして梟も、蜻蛉の想定を斜め方向に上回り、子供たちを大切にしてくれている。愚直に心を傾けすぎていると言ってもいい。
梟は、神聖騎士として偏った世界に生きていたとはいえ、立派な成人であり、人の生死に関わる厳しいものも含め、一般の平民なら触れることなく一生を終えるような多くの経験を重ねている。俗世については疎いことも多いが、扇屋での三年間で多少身の処し方を学んだようで、四角四面のお堅い聖職者の価値観を押し付けてくることもない。
優れた平衡感覚を持つ至極真っ当な常識人の梟だが、一方で信じられないほど抜け落ちている感覚がある。他人から寄せられる好意への、異常なまでの無自覚と無関心だ。
これほど蜻蛉の子供たちに慕われながら、過去に神殿に来る子供たちに好かれたことはなく、三兄妹は特別なのだと認識している。稽古の見学に関係のない女官たちが群がり歓声を上げるのも、これまで女性には遠巻きにされるばかりで、宮廷人は好奇心が異常なのだと思い込んでいた。
その勘違いを知った時、偉大なるレーニシュ帝国皇帝もその有能なる侍従たちも、唖然としてしばらくは言葉もなかった。
神殿に集う子供たちも女たちも、神聖騎士の神々しい美貌に畏怖すら感じ尻込みし、本心では側に寄りたいのに近づけないだけだったに違いない。三兄妹は皇子皇女という生まれと育ちが、美貌の人を前に生じる遠慮を育まなかっただけなのだ。宮廷で華やかな恋愛絵巻を日常的に目にする女官たちも、さすがに面と向かって梟に粉をかける度胸はないにしろ、その凛々しさを称賛することにためらいはない。
稽古に群がる女官については、ヘルムートから報告を受けて即座に見物を禁止していた。表向きは皇太子の集中力が削がれるという理由だったが、梟に秋波を送る忌々しい女たちを追い払うのが真の目的であることは言うまでもない。
それほど自身について無頓着な梟だが、この場合無頓着とは、自分に一切の価値を認めていないということだ。その認識と子供たちが梟に抱く憧憬の落差が、時に一悶着を引き起こす。
その日、梟を痛烈な悔悟に追いやり、周囲の人々を深い困惑に陥れた事件も、そうして発生した。
稽古の後の恒例となったマルガレーテの芸術活動で、諦めの境地で大人しく人形の役に徹する梟に、その髪に丁寧に櫛を通しながら、小さな皇女はうっとりと呟いた。
「キラキラして本当にきれい…。わたしの髪も、ふくろうみたいだったらよかったのに」
白金色の髪を熱烈に褒め讃えるマルガレーテに、その豊かな黒い巻毛を好ましく思いながら、何故自分の髪に執心するのかと梟はわずかに首を傾げる。
「マルガレーテ様の御髪も、いずれこのような色になりますよ」
「本当?!」
「ええ。年配の方をご覧になったことはございませんか、見事な白髪をお持ちの方を」
「…しらが?」
皇女だけではなく、助手を務める女官たちも控える侍従たちも、一様に動きを止めた。信じ難いことを聞いた、もしくは何か聞き間違えた、一同がそのような顔で梟を見つめる中、マルガレーテがおそるおそる問い質す。
「ふくろう、この髪を、白髪だと思っているの…?」
「白い髪に、白髪以外の呼び方がございますか?」
その後のことは、ちょっとした修羅場だった。
信じ難いほど美意識に欠け自らの備える美に無頓着な梟に、その美の崇拝者であるマルガレーテは衝撃のあまり泣き出した。嗚咽の中繰り返される言い分は梟を責めるものであり、理解できないまでも自分が幼い皇女を泣かせてしまった事実に梟は狼狽し、さらにマルガレーテの怒りと無念に火をつける一言を口走ってしまったのだ。
「私の髪の色に咎があれば、お好みの色をお教えください。すぐにでも染めてまいります」
マルガレーテの泣き声は二段階ほど大きくなり、皇女を取り囲み慰める女官たちから非難の眼差しを向けられた梟は、罪悪感に責め苛まれながら口を閉ざした。ヘルムートも咎める目付きでこちらを見ていることに気づき、今は何を言っても失言になることを悟ったからだ。
(私は…何ということを…)
小さなマルガレーテを泣かせてしまった己の罪深さに、梟の思考は完全に停止した。見えているはずの景色も、聞こえているはずの音も、世界からすべてが消失していく。
ヘルムートに自室へ戻るように促されるまで、梟は虚無の中に立ち尽くしていた。案ずるように肩に手を掛けられ、ようやく我に返ると、即座に行動する。許しを乞う前にまず己を罰さなければ生きている資格もないと断じ、自室に戻ることなく昼食も摂らず、そのまま皇宮内の礼拝堂に籠った。午後の予定をすべて取り止めて、懺悔の祈りを捧げ続けたのだ。
昼に続き夜も食事を摂ろうとせず、冷たい石の床に跪き一心に祈り続ける梟の姿に、ヘルムートを始めとする梟付きの侍従たちはただ困惑した。
(子供がヘソを曲げて泣いたくらいでそのように懺悔していては、世の親たちは一生神殿から出てくることはできませんよ…)
あまりに悲壮な面持ちで、元神聖騎士なだけあり祈る姿は真摯で気高かったため、食事を断られても祈祷所から引きずり出すことは憚られた。しかし夜通し祈り続けるつもりと知り、それで気が済むならと見守っていたもののさすがにやりすぎだと判断したヘルムートは、祈りを続ける梟の側に進み出た。
「梟様、神に懺悔をする前に、マルガレーテ様のお父君に一言あってもよろしいのではないですか」
びくりと身を震わせ、ヘルムートを見上げる梟の顔は青ざめ、痛々しい。力なく立ち上がり、処刑場に連行される罪人のように私室へ戻る梟を気遣い、時折振り返りつつ、その原因はあまりに取るに足らないことだけに、先導するヘルムートはつい半眼になってしまう。
それでも、他愛のないことが原因とはいえ、かつてなく弱り切っている主を前に、侍従の手腕が問われる局面である。あらゆる面で心を配り、害するものがあれば、何が相手でも守り通さねばならない。
万が一にも陛下が手を出されようとしたら、今宵は身を挺してでも梟様をお守りせねば、と武術の心得もある忠実な侍従長は、決意を新たにした。
(陛下にはくれぐれも無体な真似はせず、子育ての初歩をお教えしつつ、お慰めすることに努めていただくよう進言せねば)
今の不安定で弱々しい梟を、伴侶を溺愛する皇帝がこれ以上傷つけることはないとは思うが、念には念を入れておきたい。
ヘルムートは近衛との連携と陣形を確認すべく、梟の私室への道々、一人やきもきと黙考を続けた。
事情を聞かされ早めに内宮の私室に戻ってきていた蜻蛉は、皇帝の寝室を訪れた梟のあまりに憔悴した姿に、深く嘆息した。
少しでも慈悲の心を持つ者なら、この梟を目にして、黙って通り過ぎることなどできまい。傍らに寄り添い、肩を抱いて思いつく限りの慰めの言葉を掛けようとするだろう。
それほど今宵の梟は頼りなく見え、その身に備える張りつめた弦のような勁さも感じられない。いつもの凛とした佇まいからあまりにかけ離れた、弱々しく打ち萎れた姿は儚く、目を離したらすぐに掻き消えてしまいそうだ。
そんな有り様でも、品のある美貌は少しも損なわれておらず、常にはない翳を帯びて妖しさまで漂わせている。剣術指南に赴く梟にはヘルムートと近衛を付け、衆目から守るように言い付けているが、この窶れて艶を増している梟を目にした者はいないか、後で彼らに確かめなければならない。
(まったく人騒がせな…。子供相手なら問題なかろうと思えば、何をさせても心配事を増やしてくれるものよ。泣かせた相手はけろりとしているというのに)
大泣きしたマルガレーテは、その場で梟の髪は白髪ではなく白金色といい、大変珍しく美しいことを強く主張し、その上で髪と肌の手入れを丁寧に行うこと、マルガレーテがいいと言うまで髪を伸ばすことを梟に誓わせたという。
転んでもただでは起きない我が子の資質を頼もしいと思う一方で、その頼もしく一筋縄ではいかない少女の涙に振り回され打ちのめされている梟がおかしいやら、子供にも真剣に向き合いそれゆえに傷つく純粋さが愛おしいやら、蜻蛉は掛ける言葉に迷っていた。
その沈黙をどう解釈したのか、梟は長椅子に座る蜻蛉の前に跪き、深く頭を垂れた。
「私は大変な罪を犯してしまった…。懺悔だけでは到底足りないとわかっている。どうか気の済むまで罰してほしい」
「顔を上げよ。…ああ、そんな泣きそうな顔をするな、心臓に悪い」
腕を引っ張り隣に座らせ、宥めるように抱き寄せながら頭を撫でてやる。罰を受ける覚悟でいる梟は、何をされても抗うつもりはないらしく、触れられても身を固くすることもない。殉教者のような潔さで、ただじっと科刑を待っている。
「そなたが外見の美醜で人を判じる者ではないと知っているが、この麗しい顔にも髪にも、一片の価値も見出していないのは問題があると心得よ。そなたの目は節穴なのか。どうしたらこの髪を白髪などと…」
マルガレーテが称賛してやまない美しい髪に指を差し入れ、梳き上げてやりながら、ふと疑問が浮かぶ。これまで、日を受けて輝く白金の髪を讃える者はいなかったのだろうか。これほど誰の目にも明らかで、わかりやすい美点もないだろうに。
蜻蛉の問いを察したわけではないだろうが、梟はまだ罪への怯えを滲ませる声で答えた。
「…戦場で敵となった者からは、『白鬼』と呼ばれていた」
「この皇宮に、そなたの敵はおらぬ。そなたはあの気位の高いマルガレーテのお気に入りなのだぞ。あの子を泣かせぬためにも、己の価値を理解しその身を大事にせよ」
皇女の名を出され、抱き込まれた腕の中で梟はしがみつくように蜻蛉の夜着を握り締めると、その額を蜻蛉の胸にそっと押し付けた。
甘えるような仕草に、胃のあたりを搾られるような痛みを感じたが、この行為が甘えから来るものではなく、恐れにも似た悔悟から生じたものだと知る以上、込み上げる愛しさのまま押し倒すこともできない。愛する者から与えられる物狂おしい拷問に、蜻蛉はただ耐えるしかなかった。
マルガレーテを泣かせたのも、蜻蛉がこうして愛情を試されるのも、すべては梟の無垢さから生じる無自覚と無関心のせいだ。美点であるはずのものが害をなす時点で、それはもう魔性以外の何物でもなく、親子して振り回されている事実に蜻蛉は頭が痛い。
恋を知らず、愛し合い情を交わす悦びも知らず生きてきた梟を、強姦という最悪の形で体から手に入れたツケが、今頃回ってきたのかもしれなかった。
梟は今、時を止めたところから生き直しているように見える。神殿に入り閉ざされた世界で凍りついていたものが、三兄妹と交わることで解け始め動き出しているのか、このところ梟は少しずつ頑なさが取れてきている。相変わらずの無表情ではあるが、皇帝の寝室でもただ緊張に身を固くするだけではなくなった。――寝台の中ではこれまで通りだが。
蜻蛉との会話も、以前は素っ気なく一言二言で答えていたところを、楽しかったことを問われればしばらく考え、具体的な出来事を話すようになった。そのすべてが子供たちに関することなのは、計画通りであるとはいえ、これまでも梟の視野を広げようと皇宮での生活に心を砕いてきた蜻蛉は、徒労感にいささか落胆せざるを得ない。
精神年齢も言動も幼いとは思わないが、諸刃の剣のような梟のあやうい純粋さは、子供の持つもののそれだ。同じ純粋さを持つ子供たちと触れ合うことで、これまでは神聖騎士の鎧で跳ね返してきた己に寄せられる好意に気づき、それを返す術を身につけていくのかもしれない。そして人と真に交わることを学べば、五年も前から愛を乞い続ける者と、深い執着へと歪に育ったその苦しみに気づくかもしれなかった。
(そうして神聖騎士から脱皮するまで、この魔性に振り回されねばならぬのか…)
手に入れてもうすぐ一年、毎夜あれほど言葉と態度で愛を告げてきたのに、その心に染み入ったのは最近始まった子供たちとの無邪気な触れ合いであることに、蜻蛉は抱き締めた体に凭れるように脱力する。その重みを受けとめた梟は、反省の言葉を促されていると思ったらしく、小さく呟いた。
「…すまない…」
「謝ってほしいのは、別のことなのだがな…」
寝台で泣かせ追い詰めるこれまでのやり方に手詰まり感がある今、寝台ではひたすら甘やかしながら、しばらくは子供たちに任せて梟の成長を見守るのが上策と言えるだろう。
子供は三人、継室を取るつもりはない以上、子が増えることもないと思っていたが、手強い想い人とともに大きな子供も得た気分だった。まさか、剣技場で地に膝をつき見上げた冷たい白金の神聖騎士が、これほど無垢であやうい内面を隠し持っていたとは。
(もしも知っていたら…扇屋から攫った後すぐ閉じ込めて、誰にも見せず風にも当てず、幼子にするように愛で育んだものを)
大人しく腕の中に収まる梟の背を、「そなたには何の罪もないのだ」とやさしく言い聞かせながら、蜻蛉は何度も撫でてやった。
そう、清く正しく生きてきた梟に罪はない。――その魔性を罪と呼ばないならば。ただ周囲が勝手に惑わされ、執着を深めているだけだ。
時を巻き戻した妖しい夢想の甘美さに、ともすれば耽溺しそうになる自分を、蜻蛉は抑えようと努めた。人見知りの子供のような梟を、何一つ傷つけるもののないやさしい檻に閉じ込め、自分一人だけを見つめさせる日々――抗い難く魅力的な誘惑を呼び起こす魔性であっても、梟に罪はないのだ。
溢れそうになる昏い欲望を押さえ付け、それを実現する機会はもうないであろうことを、蜻蛉は安堵し、そして惜しんだ。
「梟は、天の生き物だと言う者がいる」
朝食の席で父帝から厳かに言い渡された子供たちは、その重々しい調子にフォークを置き、椅子の上で姿勢を正した。
「天の生き物って?」
「翼があるの?」
「そう、翼を持っているらしい。普段は隠していて、天に帰る時だけ現れるのだと」
父帝の答えに、子供たちの顔が一気に輝く。あの『きれいな人』は、きれいで強いだけではなく、翼も持っているかもしれないなんて!
テオドールなどは、道理で父上が負けるわけだ、と一人真顔で納得している。
「翼を見られたり、天の生き物であると知られたら、天に帰らねばならぬらしい。だからそなたたちも、決して梟に天の世界のことを聞いたり、怪しんだりしてはならぬぞ。ただ天に帰ることのないように、梟を見張っていてほしいのだ」
そなたたちにも父にも、あれは大切な者だからな、と付け加えられ、与えられた任務の重要さに、子供たちは真剣な顔でぶんぶんと音がするほど頷いた。こうして子供たちが懐く下地を整えて、あとはあの世間ずれしていない実直な元神聖騎士が、子供たちと付き合う術を見つければいい。子供たちを梟を皇宮に繋ぎ止める新たな枷とする、蜻蛉の計画は、それで達成されるはずだった。
実際、その目論見は上手くいっているように見える。側仕えの報告によれは、三兄妹はそれぞれ梟が大のお気に入りで、稽古の日を楽しみにしているという。そして梟も、蜻蛉の想定を斜め方向に上回り、子供たちを大切にしてくれている。愚直に心を傾けすぎていると言ってもいい。
梟は、神聖騎士として偏った世界に生きていたとはいえ、立派な成人であり、人の生死に関わる厳しいものも含め、一般の平民なら触れることなく一生を終えるような多くの経験を重ねている。俗世については疎いことも多いが、扇屋での三年間で多少身の処し方を学んだようで、四角四面のお堅い聖職者の価値観を押し付けてくることもない。
優れた平衡感覚を持つ至極真っ当な常識人の梟だが、一方で信じられないほど抜け落ちている感覚がある。他人から寄せられる好意への、異常なまでの無自覚と無関心だ。
これほど蜻蛉の子供たちに慕われながら、過去に神殿に来る子供たちに好かれたことはなく、三兄妹は特別なのだと認識している。稽古の見学に関係のない女官たちが群がり歓声を上げるのも、これまで女性には遠巻きにされるばかりで、宮廷人は好奇心が異常なのだと思い込んでいた。
その勘違いを知った時、偉大なるレーニシュ帝国皇帝もその有能なる侍従たちも、唖然としてしばらくは言葉もなかった。
神殿に集う子供たちも女たちも、神聖騎士の神々しい美貌に畏怖すら感じ尻込みし、本心では側に寄りたいのに近づけないだけだったに違いない。三兄妹は皇子皇女という生まれと育ちが、美貌の人を前に生じる遠慮を育まなかっただけなのだ。宮廷で華やかな恋愛絵巻を日常的に目にする女官たちも、さすがに面と向かって梟に粉をかける度胸はないにしろ、その凛々しさを称賛することにためらいはない。
稽古に群がる女官については、ヘルムートから報告を受けて即座に見物を禁止していた。表向きは皇太子の集中力が削がれるという理由だったが、梟に秋波を送る忌々しい女たちを追い払うのが真の目的であることは言うまでもない。
それほど自身について無頓着な梟だが、この場合無頓着とは、自分に一切の価値を認めていないということだ。その認識と子供たちが梟に抱く憧憬の落差が、時に一悶着を引き起こす。
その日、梟を痛烈な悔悟に追いやり、周囲の人々を深い困惑に陥れた事件も、そうして発生した。
稽古の後の恒例となったマルガレーテの芸術活動で、諦めの境地で大人しく人形の役に徹する梟に、その髪に丁寧に櫛を通しながら、小さな皇女はうっとりと呟いた。
「キラキラして本当にきれい…。わたしの髪も、ふくろうみたいだったらよかったのに」
白金色の髪を熱烈に褒め讃えるマルガレーテに、その豊かな黒い巻毛を好ましく思いながら、何故自分の髪に執心するのかと梟はわずかに首を傾げる。
「マルガレーテ様の御髪も、いずれこのような色になりますよ」
「本当?!」
「ええ。年配の方をご覧になったことはございませんか、見事な白髪をお持ちの方を」
「…しらが?」
皇女だけではなく、助手を務める女官たちも控える侍従たちも、一様に動きを止めた。信じ難いことを聞いた、もしくは何か聞き間違えた、一同がそのような顔で梟を見つめる中、マルガレーテがおそるおそる問い質す。
「ふくろう、この髪を、白髪だと思っているの…?」
「白い髪に、白髪以外の呼び方がございますか?」
その後のことは、ちょっとした修羅場だった。
信じ難いほど美意識に欠け自らの備える美に無頓着な梟に、その美の崇拝者であるマルガレーテは衝撃のあまり泣き出した。嗚咽の中繰り返される言い分は梟を責めるものであり、理解できないまでも自分が幼い皇女を泣かせてしまった事実に梟は狼狽し、さらにマルガレーテの怒りと無念に火をつける一言を口走ってしまったのだ。
「私の髪の色に咎があれば、お好みの色をお教えください。すぐにでも染めてまいります」
マルガレーテの泣き声は二段階ほど大きくなり、皇女を取り囲み慰める女官たちから非難の眼差しを向けられた梟は、罪悪感に責め苛まれながら口を閉ざした。ヘルムートも咎める目付きでこちらを見ていることに気づき、今は何を言っても失言になることを悟ったからだ。
(私は…何ということを…)
小さなマルガレーテを泣かせてしまった己の罪深さに、梟の思考は完全に停止した。見えているはずの景色も、聞こえているはずの音も、世界からすべてが消失していく。
ヘルムートに自室へ戻るように促されるまで、梟は虚無の中に立ち尽くしていた。案ずるように肩に手を掛けられ、ようやく我に返ると、即座に行動する。許しを乞う前にまず己を罰さなければ生きている資格もないと断じ、自室に戻ることなく昼食も摂らず、そのまま皇宮内の礼拝堂に籠った。午後の予定をすべて取り止めて、懺悔の祈りを捧げ続けたのだ。
昼に続き夜も食事を摂ろうとせず、冷たい石の床に跪き一心に祈り続ける梟の姿に、ヘルムートを始めとする梟付きの侍従たちはただ困惑した。
(子供がヘソを曲げて泣いたくらいでそのように懺悔していては、世の親たちは一生神殿から出てくることはできませんよ…)
あまりに悲壮な面持ちで、元神聖騎士なだけあり祈る姿は真摯で気高かったため、食事を断られても祈祷所から引きずり出すことは憚られた。しかし夜通し祈り続けるつもりと知り、それで気が済むならと見守っていたもののさすがにやりすぎだと判断したヘルムートは、祈りを続ける梟の側に進み出た。
「梟様、神に懺悔をする前に、マルガレーテ様のお父君に一言あってもよろしいのではないですか」
びくりと身を震わせ、ヘルムートを見上げる梟の顔は青ざめ、痛々しい。力なく立ち上がり、処刑場に連行される罪人のように私室へ戻る梟を気遣い、時折振り返りつつ、その原因はあまりに取るに足らないことだけに、先導するヘルムートはつい半眼になってしまう。
それでも、他愛のないことが原因とはいえ、かつてなく弱り切っている主を前に、侍従の手腕が問われる局面である。あらゆる面で心を配り、害するものがあれば、何が相手でも守り通さねばならない。
万が一にも陛下が手を出されようとしたら、今宵は身を挺してでも梟様をお守りせねば、と武術の心得もある忠実な侍従長は、決意を新たにした。
(陛下にはくれぐれも無体な真似はせず、子育ての初歩をお教えしつつ、お慰めすることに努めていただくよう進言せねば)
今の不安定で弱々しい梟を、伴侶を溺愛する皇帝がこれ以上傷つけることはないとは思うが、念には念を入れておきたい。
ヘルムートは近衛との連携と陣形を確認すべく、梟の私室への道々、一人やきもきと黙考を続けた。
事情を聞かされ早めに内宮の私室に戻ってきていた蜻蛉は、皇帝の寝室を訪れた梟のあまりに憔悴した姿に、深く嘆息した。
少しでも慈悲の心を持つ者なら、この梟を目にして、黙って通り過ぎることなどできまい。傍らに寄り添い、肩を抱いて思いつく限りの慰めの言葉を掛けようとするだろう。
それほど今宵の梟は頼りなく見え、その身に備える張りつめた弦のような勁さも感じられない。いつもの凛とした佇まいからあまりにかけ離れた、弱々しく打ち萎れた姿は儚く、目を離したらすぐに掻き消えてしまいそうだ。
そんな有り様でも、品のある美貌は少しも損なわれておらず、常にはない翳を帯びて妖しさまで漂わせている。剣術指南に赴く梟にはヘルムートと近衛を付け、衆目から守るように言い付けているが、この窶れて艶を増している梟を目にした者はいないか、後で彼らに確かめなければならない。
(まったく人騒がせな…。子供相手なら問題なかろうと思えば、何をさせても心配事を増やしてくれるものよ。泣かせた相手はけろりとしているというのに)
大泣きしたマルガレーテは、その場で梟の髪は白髪ではなく白金色といい、大変珍しく美しいことを強く主張し、その上で髪と肌の手入れを丁寧に行うこと、マルガレーテがいいと言うまで髪を伸ばすことを梟に誓わせたという。
転んでもただでは起きない我が子の資質を頼もしいと思う一方で、その頼もしく一筋縄ではいかない少女の涙に振り回され打ちのめされている梟がおかしいやら、子供にも真剣に向き合いそれゆえに傷つく純粋さが愛おしいやら、蜻蛉は掛ける言葉に迷っていた。
その沈黙をどう解釈したのか、梟は長椅子に座る蜻蛉の前に跪き、深く頭を垂れた。
「私は大変な罪を犯してしまった…。懺悔だけでは到底足りないとわかっている。どうか気の済むまで罰してほしい」
「顔を上げよ。…ああ、そんな泣きそうな顔をするな、心臓に悪い」
腕を引っ張り隣に座らせ、宥めるように抱き寄せながら頭を撫でてやる。罰を受ける覚悟でいる梟は、何をされても抗うつもりはないらしく、触れられても身を固くすることもない。殉教者のような潔さで、ただじっと科刑を待っている。
「そなたが外見の美醜で人を判じる者ではないと知っているが、この麗しい顔にも髪にも、一片の価値も見出していないのは問題があると心得よ。そなたの目は節穴なのか。どうしたらこの髪を白髪などと…」
マルガレーテが称賛してやまない美しい髪に指を差し入れ、梳き上げてやりながら、ふと疑問が浮かぶ。これまで、日を受けて輝く白金の髪を讃える者はいなかったのだろうか。これほど誰の目にも明らかで、わかりやすい美点もないだろうに。
蜻蛉の問いを察したわけではないだろうが、梟はまだ罪への怯えを滲ませる声で答えた。
「…戦場で敵となった者からは、『白鬼』と呼ばれていた」
「この皇宮に、そなたの敵はおらぬ。そなたはあの気位の高いマルガレーテのお気に入りなのだぞ。あの子を泣かせぬためにも、己の価値を理解しその身を大事にせよ」
皇女の名を出され、抱き込まれた腕の中で梟はしがみつくように蜻蛉の夜着を握り締めると、その額を蜻蛉の胸にそっと押し付けた。
甘えるような仕草に、胃のあたりを搾られるような痛みを感じたが、この行為が甘えから来るものではなく、恐れにも似た悔悟から生じたものだと知る以上、込み上げる愛しさのまま押し倒すこともできない。愛する者から与えられる物狂おしい拷問に、蜻蛉はただ耐えるしかなかった。
マルガレーテを泣かせたのも、蜻蛉がこうして愛情を試されるのも、すべては梟の無垢さから生じる無自覚と無関心のせいだ。美点であるはずのものが害をなす時点で、それはもう魔性以外の何物でもなく、親子して振り回されている事実に蜻蛉は頭が痛い。
恋を知らず、愛し合い情を交わす悦びも知らず生きてきた梟を、強姦という最悪の形で体から手に入れたツケが、今頃回ってきたのかもしれなかった。
梟は今、時を止めたところから生き直しているように見える。神殿に入り閉ざされた世界で凍りついていたものが、三兄妹と交わることで解け始め動き出しているのか、このところ梟は少しずつ頑なさが取れてきている。相変わらずの無表情ではあるが、皇帝の寝室でもただ緊張に身を固くするだけではなくなった。――寝台の中ではこれまで通りだが。
蜻蛉との会話も、以前は素っ気なく一言二言で答えていたところを、楽しかったことを問われればしばらく考え、具体的な出来事を話すようになった。そのすべてが子供たちに関することなのは、計画通りであるとはいえ、これまでも梟の視野を広げようと皇宮での生活に心を砕いてきた蜻蛉は、徒労感にいささか落胆せざるを得ない。
精神年齢も言動も幼いとは思わないが、諸刃の剣のような梟のあやうい純粋さは、子供の持つもののそれだ。同じ純粋さを持つ子供たちと触れ合うことで、これまでは神聖騎士の鎧で跳ね返してきた己に寄せられる好意に気づき、それを返す術を身につけていくのかもしれない。そして人と真に交わることを学べば、五年も前から愛を乞い続ける者と、深い執着へと歪に育ったその苦しみに気づくかもしれなかった。
(そうして神聖騎士から脱皮するまで、この魔性に振り回されねばならぬのか…)
手に入れてもうすぐ一年、毎夜あれほど言葉と態度で愛を告げてきたのに、その心に染み入ったのは最近始まった子供たちとの無邪気な触れ合いであることに、蜻蛉は抱き締めた体に凭れるように脱力する。その重みを受けとめた梟は、反省の言葉を促されていると思ったらしく、小さく呟いた。
「…すまない…」
「謝ってほしいのは、別のことなのだがな…」
寝台で泣かせ追い詰めるこれまでのやり方に手詰まり感がある今、寝台ではひたすら甘やかしながら、しばらくは子供たちに任せて梟の成長を見守るのが上策と言えるだろう。
子供は三人、継室を取るつもりはない以上、子が増えることもないと思っていたが、手強い想い人とともに大きな子供も得た気分だった。まさか、剣技場で地に膝をつき見上げた冷たい白金の神聖騎士が、これほど無垢であやうい内面を隠し持っていたとは。
(もしも知っていたら…扇屋から攫った後すぐ閉じ込めて、誰にも見せず風にも当てず、幼子にするように愛で育んだものを)
大人しく腕の中に収まる梟の背を、「そなたには何の罪もないのだ」とやさしく言い聞かせながら、蜻蛉は何度も撫でてやった。
そう、清く正しく生きてきた梟に罪はない。――その魔性を罪と呼ばないならば。ただ周囲が勝手に惑わされ、執着を深めているだけだ。
時を巻き戻した妖しい夢想の甘美さに、ともすれば耽溺しそうになる自分を、蜻蛉は抑えようと努めた。人見知りの子供のような梟を、何一つ傷つけるもののないやさしい檻に閉じ込め、自分一人だけを見つめさせる日々――抗い難く魅力的な誘惑を呼び起こす魔性であっても、梟に罪はないのだ。
溢れそうになる昏い欲望を押さえ付け、それを実現する機会はもうないであろうことを、蜻蛉は安堵し、そして惜しんだ。
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・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜
・話の流れが遅い
・作者が話の進行悩み過ぎてる
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別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
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