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邂逅
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珍しく自ら酒に口を付けた梟は、しかし一杯を飲み終えたところで蜻蛉に杯を奪われた。
「どうした、…酔いたのか」
「…私にそんな夜があっては、おかしいか」
誰のせいで、酔いに逃げたくなるほどのやりきれなさに追いやられたと思っているのか。
いつも通りに答えたつもりだったが、微かに詰る口調になっていたのかもしれない。顎を掴まれ、探るように見つめてくる視線を、梟は心に固く蓋をしたまま受けとめた。
「…ならば、余が酔わせてやる」
あとは口移しで強い火酒を流し込まれた。そのまま舌を絡められ、口腔をゆったりと弄られた後、蜻蛉の口内に舌を引き込まれて吸われ、甘噛みされる。長く執拗な口づけに、飲み込みきれない唾液が口の端から溢れた。
口づけの合間、懐深く抱き込まれたまま二口、三口と与えられ、お決まりの会話が繰り返される。
梟の一日を把握することと、梟に対する執着を示すことに、蜻蛉は言葉を惜しまない。掛けられる言葉にいつものように短く答え、注がれる眼差しを受けとめ、背の傷痕を撫でられ首筋を愛撫されるうちに、酒に弱い梟はふわふわとした酔いの中、蜻蛉に寄り掛かるように体を預け、水底に沈む木の葉のように眠りに落ちていった。
こうなってしまうと、普段眠りが浅いにもかかわらず、多少のことでは朝まで目が覚めない。もちろん皇帝の寝室への呼び出しにも応じられなくなるわけで、そもそも元神聖騎士の梟に飲酒の習慣はないが、蜻蛉は梟の部屋に酒を置くことを禁じていた。
「…火酒を用意したのもそなたの策略か、ヘルムート」
「畏れながら、お飲ませになったのは陛下でございますよ」
普段は勧めても酒に手をつけることは殆どない梟が、強い酒を呷ることもできず猫のように舐める様は、ぎこちないがゆえに色っぽく、酔うならば己が手で酔わせたくなった。一瞬物言いたげな顔をした気がしたが、すぐにいつもの紙のような無表情に戻ってしまい、些細なことを問い詰めるよりも、滅多にない酔態を愛でたいという思いが勝ったのだ。
直前までの話題は、テオドールの剣術指南と、悪趣味な従兄に揶揄われたという他愛のないもので、特に怪しむこともない。
髪や顔を撫でられる程度の軽い触れ合いにはようやく慣れ、一々体をびくつかせることのなくなった梟だが、意識のある時に、抱き込まれた胸にしどけなく凭れ、頬を寄せて懐くことは残念ながらまだない。いつになったらそこまで慣れてくれるのかと、生硬な想い人の物慣れなさに嘆息しながら、蜻蛉は心ゆくまで腕の中の愛しい者に手を這わせ、髪にも顔にも口づけを降らせる。
失われた三年を補うのに、例え一日中手の届くところに梟を置き、公務の合間に触れ合うことができたとしても、到底足りるとは思えなかった。ましてや、平日は夜しか二人で過ごす時間が取れない今、同じ長椅子に座り、常にその体温を感じられる距離でともに過ごすのは、最低限必要な一日の癒しだった。
そうしながら想いの丈を伝えることで、蜻蛉の一日には真の意味で夜の帳が降りて来る。
毎夜寝台の中でも外でも愛を囁き、その言葉を受けとめさせているが、それを咀嚼し真に意味を理解するには初心すぎるようで、何を言われても梟が照れたり喜んだりすることはなかった。真摯な想いも甘い睦言も、その心を波立たせ、硬い美貌をゆるませることはできない。
手には入れたが、梟は難攻不落の要塞のようだ。これほどの寵愛を注がれても、無垢であるがゆえの真白の魔性で翻弄してくる以外、靡く気配が一向にない。色事の坩堝である花街で三年を暮らしていながら、まったく染まらずにいた手強さが愛おしくもあり憎らしくもあり、恋情は募るばかりだった。
梟に対する雄の衝動は尽きないが、一方で蜻蛉は梟の健やかな寝顔にすこぶる弱い。まだ想いを告げる前、いまだ梟に変態の所業と恨まれている最初の情交は、慎ましくも艶かしい梟の酔態と寝顔に煽られてのことだったが、互いの肌が馴染むほど夜を重ねた今、安らかな寝顔は守るべきものであり、乱すものではなくなった。
それを知るヘルムートは、敢えて葡萄酒ではなく火酒を用意したのだろう。梟が口にすることがあれば確実に酔わせ、皇帝の魔の手が届かない眠りへと誘うように。
「そなた、梟に甘いのではないか」
「大切な主の御心を慮るのは、侍従の大切な役目にございます。また事前に御憂慮の芽を摘むのも」
暗に仄めかされたのは、しばらく前に梟を抱き潰した夜のことだ。
あのあと数日、梟は無理強いされたことに機嫌を損ねるのではなく、いつもに増して口数少なく沈み込み、機嫌を取ろうとする蜻蛉にも侍従たちの気遣いにも反応が乏しかった。以来主思いの梟の侍従たちは、二度と同じことをしてくれるなと、畏れ多くもレーニシュ帝国皇帝に対して予防線を張ってくるようになったのだ。
(見上げた忠義者、と褒めるべきなのであろうが…)
あの日は、後ろを口で愛でると決めていた。
梟は不浄の場所と忌避するが、蜻蛉にしてみれば、己を受け入れる健気で可愛い花筒であり、他の場所と同じように――それ以上に丹念に唇と舌で愛するのは、当然のことだった。
それに梟はそこを口淫で責められるのに弱く、舌を挿し入れれば、あっという間に取り澄ました神聖騎士の顔が剥がれ落ち、幼く素直で柔らかい部分が露出する。この上なく乱れる淫奔さと、稚く初々しい媚態の落差は、蜻蛉の劣情を激しく煽ってやまない。
そして、梟が何よりも嫌がる行為と知りながら、それでも時に強いるのは、自身の欲望もあるが、実のところ試し――追い詰める意味合いの方が強かった。
それほど矜持を踏みにじられるという行為を、どこまで梟は許すのか。――心を閉ざしたまま耐えるのか。
側にいると誓約し、皇宮での生活に慣れても、梟は変わらず硬くその心を鎧っている。側仕えの親愛と忠誠を戸惑いながらも受け入れ、誠実さゆえに同じものを差し出そうとしているが、信頼を寄せるヘルムートにも心の内を吐露することはない。
閨で理不尽と感じられる行為に晒された時だけ、凍りついた青灰色の瞳は揺らぎ、罅が入りそうに軋む。あと少しで溢れそうになる、鏡の奥に隠れたものこそが、蜻蛉が真に手に入れたいものだった。
――それは気まぐれな天の施し。
扇屋の主の言葉が甦る。
梟は天の生き物――かつて花街に実在したという名妓『天女』と同じ性を持つと語った男は、他者の思惑からどこまでも自由な『天女』に手を伸ばす愚を、蜻蛉に説いた。傷つけずに愛でることができないなら、互いの傷が浅いうちに手を離すのが肝要だとも。
意味のない、愚かな忠告だった。
手を離せる程度の想いなら、はじめから欲していない。嫌がる梟を押さえ付けてでも、その瞳を軋ませてでも欲しいのは、己に向けられる梟の心だ。蜻蛉へと伸ばされるその腕に包まれたいと願うことが、それほど大それたことなのか。
梟を欲するように、梟に欲しがられたいと望むのは、身の程知らずな願いなのか。
「テオドールの稽古には、マティアスとマルガレーテも呼べ。剣は持たせず、ただ同じ場で遊ばせてやればいい。あの子らも梟に懐くはずだ」
胸に凭れ掛かる温かい重みを心地良く感じながら、梟を起こさないように蜻蛉は低く命じた。
皇太子の剣術指南という公の場に出る仕事を午前中に入れたことに、侍従たちの作意を感じたが、何も言わずに蜻蛉は認めていた。作意――午前中の予定の妨げとならないように夜の営みを控えよ、という小賢しい戒めだ。
(よかろう、子供たちの楽しみを奪うことはしまい)
一蹴するのは簡単だが、ここは侍従たちの意を汲んでやろうと思う。
梟を皇宮に繋ぎとめる枷は、多ければ多いほどいい。殊に、幼い子供の持つ磁力は絶大だ。皇太子の立場を自覚し始めたテオドールは、年のわりにしっかりしているが、双子はまだまだ無邪気であどけなく、朝食を子供たちとの時間に充てている蜻蛉の日々の癒しとなっている。
あの子たちなら、神聖騎士の鎧の下に隠れた無垢で可愛らしい素顔に気づき、梟を気に入るだろう。梟も、子供を相手とすることに最初は戸惑うかもしれないが、その人柄で側仕えの心を掌握したように、子供たちとも上手くやるだろう。
蜻蛉が閨で梟を追い詰め、鎧を引き剥がそうとする一方で、あの子たちが、その小さな手で鏡の向こうの梟を引っ張り出すかもしれない。大人にはない、無垢な子供の力を借りてでも厚く張った梟の氷を解かし、丸裸の心をすくい上げて見せつけたかった。
背を斬りつけてまで愛を乞う者はここにいるのだと。
『心無し』の『天女』を落籍し我が物としようとした者は、その愛を得られずに絶望し愛する者を嬲り殺したという。
梟が『心無し』――一切の欲も感情も持たない者だとは思わない。そのような者が、あの一癖も二癖もある扇屋の主に家族のような情を抱かせ、側仕えたちの親愛と忠誠を得て、皇帝たる蜻蛉の心を奪えるわけがない。
しかし皇宮に迎えて以来、梟は何かを欲することも、感情を高ぶらせることもなかった。
いつも端然と静かな佇まいで、蜻蛉に対して素っ気ない姿を見ると、数年前、待ち焦がれた神殿での面会が思い出されてならない。あの頃とは違い、毎日顔を見て言葉を交わし、あまつさえ腕に抱いて、妙なる嬌声を引き出し奏でているにもかかわらず。
何度顔を合わせても、顔も名も覚えてもらえず、鏡のような瞳に想いを跳ね返されていたあの頃と比べて、何を得たのだろうか。対面で会話をしながら、氷の壁越しのようだと感じていたあの頃と。
この腕に捕らえて約一年。
考え得る、想いを伝える術のすべてを費やしても、氷の美貌から微笑み一つ得ることはできない。
梟は、自身を求める蜻蛉を拒まないが、受け入れることもない。望まれたものを与えるだけだ。――過去の『天女』たちと同様に。
(だから何だというのか。梟は我が手中にある)
扇屋の主の戯言など気にならない。
梟が『天女』であろうがなかろうが関係ない。
逃げるつもりなら脚を斬り、羽を持つならもぐだけのこと。誓約、帝都に作らせた扇屋、側仕えたち、リーフェンシュタール侯爵の手の内にある『花』、そして子供たち。
梟を皇宮に留める枷は、幾重にも仕掛けられている。
そうして雁字搦めにしてもなお、蜻蛉の焦燥を駆り立てるのは、梟の執着の無さだった。
それまでの人生とはまったく異なる環境に連れてこられ、傅かれ愛される日々を、梟は戸惑いながらも淡々と受け入れている。どんな贅沢も許しているのに、何も望まず何も喜ばず、生家との縁を絶たれ扇屋から遠ざけられても、手酷く抱かれる時以外に悲しみを見せることもない。
一日を終え梟が皇帝の寝室で蜻蛉を待つのは、そこが帰る場所だからではなく、日課に組み込まれているからに過ぎない。折檻するように抱き何度も教え込んで以降、梟はその言葉を口にすることはなくなったが、今も梟にとって「帰宅」する場所は扇屋であり、蜻蛉の腕の中ではない。
梟は蜻蛉に、皇宮での生活に、――生きる上で必要なすべてに、執着らしきものを見せたことがなかった。唯一それらしいものを感じるのは、剣士としての矜持に対してだけで、その崇高さは愛おしいと同時に苦々しく、蜻蛉の焦燥を和らげる助けにはならない。
もうすっかり眠り込んでいる梟を起こさないように、そっと抱き上げると、腕の中の寝顔を愛おしく見つめながら蜻蛉は寝室へ向かった。
神聖騎士の鎧も、蜻蛉との夜を前に生じる緊張も取り払われた寝顔は、素の梟を無防備に晒す唯一の窓だ。しかしその瞳は眠りに閉ざされ、蜻蛉を映すことはない。
『影』――最愛の伴侶を毎夜腕に抱いて眠り、その存在の確かさと温もりに安心しても、蜻蛉の抱える妄執を払うには程遠い。梟の執着を自分に向けさせ、その愛を手に入れるまで、蜻蛉が真に満たされることはない。
『天女』の性など、引き剥がすしかなかった。
「どうした、…酔いたのか」
「…私にそんな夜があっては、おかしいか」
誰のせいで、酔いに逃げたくなるほどのやりきれなさに追いやられたと思っているのか。
いつも通りに答えたつもりだったが、微かに詰る口調になっていたのかもしれない。顎を掴まれ、探るように見つめてくる視線を、梟は心に固く蓋をしたまま受けとめた。
「…ならば、余が酔わせてやる」
あとは口移しで強い火酒を流し込まれた。そのまま舌を絡められ、口腔をゆったりと弄られた後、蜻蛉の口内に舌を引き込まれて吸われ、甘噛みされる。長く執拗な口づけに、飲み込みきれない唾液が口の端から溢れた。
口づけの合間、懐深く抱き込まれたまま二口、三口と与えられ、お決まりの会話が繰り返される。
梟の一日を把握することと、梟に対する執着を示すことに、蜻蛉は言葉を惜しまない。掛けられる言葉にいつものように短く答え、注がれる眼差しを受けとめ、背の傷痕を撫でられ首筋を愛撫されるうちに、酒に弱い梟はふわふわとした酔いの中、蜻蛉に寄り掛かるように体を預け、水底に沈む木の葉のように眠りに落ちていった。
こうなってしまうと、普段眠りが浅いにもかかわらず、多少のことでは朝まで目が覚めない。もちろん皇帝の寝室への呼び出しにも応じられなくなるわけで、そもそも元神聖騎士の梟に飲酒の習慣はないが、蜻蛉は梟の部屋に酒を置くことを禁じていた。
「…火酒を用意したのもそなたの策略か、ヘルムート」
「畏れながら、お飲ませになったのは陛下でございますよ」
普段は勧めても酒に手をつけることは殆どない梟が、強い酒を呷ることもできず猫のように舐める様は、ぎこちないがゆえに色っぽく、酔うならば己が手で酔わせたくなった。一瞬物言いたげな顔をした気がしたが、すぐにいつもの紙のような無表情に戻ってしまい、些細なことを問い詰めるよりも、滅多にない酔態を愛でたいという思いが勝ったのだ。
直前までの話題は、テオドールの剣術指南と、悪趣味な従兄に揶揄われたという他愛のないもので、特に怪しむこともない。
髪や顔を撫でられる程度の軽い触れ合いにはようやく慣れ、一々体をびくつかせることのなくなった梟だが、意識のある時に、抱き込まれた胸にしどけなく凭れ、頬を寄せて懐くことは残念ながらまだない。いつになったらそこまで慣れてくれるのかと、生硬な想い人の物慣れなさに嘆息しながら、蜻蛉は心ゆくまで腕の中の愛しい者に手を這わせ、髪にも顔にも口づけを降らせる。
失われた三年を補うのに、例え一日中手の届くところに梟を置き、公務の合間に触れ合うことができたとしても、到底足りるとは思えなかった。ましてや、平日は夜しか二人で過ごす時間が取れない今、同じ長椅子に座り、常にその体温を感じられる距離でともに過ごすのは、最低限必要な一日の癒しだった。
そうしながら想いの丈を伝えることで、蜻蛉の一日には真の意味で夜の帳が降りて来る。
毎夜寝台の中でも外でも愛を囁き、その言葉を受けとめさせているが、それを咀嚼し真に意味を理解するには初心すぎるようで、何を言われても梟が照れたり喜んだりすることはなかった。真摯な想いも甘い睦言も、その心を波立たせ、硬い美貌をゆるませることはできない。
手には入れたが、梟は難攻不落の要塞のようだ。これほどの寵愛を注がれても、無垢であるがゆえの真白の魔性で翻弄してくる以外、靡く気配が一向にない。色事の坩堝である花街で三年を暮らしていながら、まったく染まらずにいた手強さが愛おしくもあり憎らしくもあり、恋情は募るばかりだった。
梟に対する雄の衝動は尽きないが、一方で蜻蛉は梟の健やかな寝顔にすこぶる弱い。まだ想いを告げる前、いまだ梟に変態の所業と恨まれている最初の情交は、慎ましくも艶かしい梟の酔態と寝顔に煽られてのことだったが、互いの肌が馴染むほど夜を重ねた今、安らかな寝顔は守るべきものであり、乱すものではなくなった。
それを知るヘルムートは、敢えて葡萄酒ではなく火酒を用意したのだろう。梟が口にすることがあれば確実に酔わせ、皇帝の魔の手が届かない眠りへと誘うように。
「そなた、梟に甘いのではないか」
「大切な主の御心を慮るのは、侍従の大切な役目にございます。また事前に御憂慮の芽を摘むのも」
暗に仄めかされたのは、しばらく前に梟を抱き潰した夜のことだ。
あのあと数日、梟は無理強いされたことに機嫌を損ねるのではなく、いつもに増して口数少なく沈み込み、機嫌を取ろうとする蜻蛉にも侍従たちの気遣いにも反応が乏しかった。以来主思いの梟の侍従たちは、二度と同じことをしてくれるなと、畏れ多くもレーニシュ帝国皇帝に対して予防線を張ってくるようになったのだ。
(見上げた忠義者、と褒めるべきなのであろうが…)
あの日は、後ろを口で愛でると決めていた。
梟は不浄の場所と忌避するが、蜻蛉にしてみれば、己を受け入れる健気で可愛い花筒であり、他の場所と同じように――それ以上に丹念に唇と舌で愛するのは、当然のことだった。
それに梟はそこを口淫で責められるのに弱く、舌を挿し入れれば、あっという間に取り澄ました神聖騎士の顔が剥がれ落ち、幼く素直で柔らかい部分が露出する。この上なく乱れる淫奔さと、稚く初々しい媚態の落差は、蜻蛉の劣情を激しく煽ってやまない。
そして、梟が何よりも嫌がる行為と知りながら、それでも時に強いるのは、自身の欲望もあるが、実のところ試し――追い詰める意味合いの方が強かった。
それほど矜持を踏みにじられるという行為を、どこまで梟は許すのか。――心を閉ざしたまま耐えるのか。
側にいると誓約し、皇宮での生活に慣れても、梟は変わらず硬くその心を鎧っている。側仕えの親愛と忠誠を戸惑いながらも受け入れ、誠実さゆえに同じものを差し出そうとしているが、信頼を寄せるヘルムートにも心の内を吐露することはない。
閨で理不尽と感じられる行為に晒された時だけ、凍りついた青灰色の瞳は揺らぎ、罅が入りそうに軋む。あと少しで溢れそうになる、鏡の奥に隠れたものこそが、蜻蛉が真に手に入れたいものだった。
――それは気まぐれな天の施し。
扇屋の主の言葉が甦る。
梟は天の生き物――かつて花街に実在したという名妓『天女』と同じ性を持つと語った男は、他者の思惑からどこまでも自由な『天女』に手を伸ばす愚を、蜻蛉に説いた。傷つけずに愛でることができないなら、互いの傷が浅いうちに手を離すのが肝要だとも。
意味のない、愚かな忠告だった。
手を離せる程度の想いなら、はじめから欲していない。嫌がる梟を押さえ付けてでも、その瞳を軋ませてでも欲しいのは、己に向けられる梟の心だ。蜻蛉へと伸ばされるその腕に包まれたいと願うことが、それほど大それたことなのか。
梟を欲するように、梟に欲しがられたいと望むのは、身の程知らずな願いなのか。
「テオドールの稽古には、マティアスとマルガレーテも呼べ。剣は持たせず、ただ同じ場で遊ばせてやればいい。あの子らも梟に懐くはずだ」
胸に凭れ掛かる温かい重みを心地良く感じながら、梟を起こさないように蜻蛉は低く命じた。
皇太子の剣術指南という公の場に出る仕事を午前中に入れたことに、侍従たちの作意を感じたが、何も言わずに蜻蛉は認めていた。作意――午前中の予定の妨げとならないように夜の営みを控えよ、という小賢しい戒めだ。
(よかろう、子供たちの楽しみを奪うことはしまい)
一蹴するのは簡単だが、ここは侍従たちの意を汲んでやろうと思う。
梟を皇宮に繋ぎとめる枷は、多ければ多いほどいい。殊に、幼い子供の持つ磁力は絶大だ。皇太子の立場を自覚し始めたテオドールは、年のわりにしっかりしているが、双子はまだまだ無邪気であどけなく、朝食を子供たちとの時間に充てている蜻蛉の日々の癒しとなっている。
あの子たちなら、神聖騎士の鎧の下に隠れた無垢で可愛らしい素顔に気づき、梟を気に入るだろう。梟も、子供を相手とすることに最初は戸惑うかもしれないが、その人柄で側仕えの心を掌握したように、子供たちとも上手くやるだろう。
蜻蛉が閨で梟を追い詰め、鎧を引き剥がそうとする一方で、あの子たちが、その小さな手で鏡の向こうの梟を引っ張り出すかもしれない。大人にはない、無垢な子供の力を借りてでも厚く張った梟の氷を解かし、丸裸の心をすくい上げて見せつけたかった。
背を斬りつけてまで愛を乞う者はここにいるのだと。
『心無し』の『天女』を落籍し我が物としようとした者は、その愛を得られずに絶望し愛する者を嬲り殺したという。
梟が『心無し』――一切の欲も感情も持たない者だとは思わない。そのような者が、あの一癖も二癖もある扇屋の主に家族のような情を抱かせ、側仕えたちの親愛と忠誠を得て、皇帝たる蜻蛉の心を奪えるわけがない。
しかし皇宮に迎えて以来、梟は何かを欲することも、感情を高ぶらせることもなかった。
いつも端然と静かな佇まいで、蜻蛉に対して素っ気ない姿を見ると、数年前、待ち焦がれた神殿での面会が思い出されてならない。あの頃とは違い、毎日顔を見て言葉を交わし、あまつさえ腕に抱いて、妙なる嬌声を引き出し奏でているにもかかわらず。
何度顔を合わせても、顔も名も覚えてもらえず、鏡のような瞳に想いを跳ね返されていたあの頃と比べて、何を得たのだろうか。対面で会話をしながら、氷の壁越しのようだと感じていたあの頃と。
この腕に捕らえて約一年。
考え得る、想いを伝える術のすべてを費やしても、氷の美貌から微笑み一つ得ることはできない。
梟は、自身を求める蜻蛉を拒まないが、受け入れることもない。望まれたものを与えるだけだ。――過去の『天女』たちと同様に。
(だから何だというのか。梟は我が手中にある)
扇屋の主の戯言など気にならない。
梟が『天女』であろうがなかろうが関係ない。
逃げるつもりなら脚を斬り、羽を持つならもぐだけのこと。誓約、帝都に作らせた扇屋、側仕えたち、リーフェンシュタール侯爵の手の内にある『花』、そして子供たち。
梟を皇宮に留める枷は、幾重にも仕掛けられている。
そうして雁字搦めにしてもなお、蜻蛉の焦燥を駆り立てるのは、梟の執着の無さだった。
それまでの人生とはまったく異なる環境に連れてこられ、傅かれ愛される日々を、梟は戸惑いながらも淡々と受け入れている。どんな贅沢も許しているのに、何も望まず何も喜ばず、生家との縁を絶たれ扇屋から遠ざけられても、手酷く抱かれる時以外に悲しみを見せることもない。
一日を終え梟が皇帝の寝室で蜻蛉を待つのは、そこが帰る場所だからではなく、日課に組み込まれているからに過ぎない。折檻するように抱き何度も教え込んで以降、梟はその言葉を口にすることはなくなったが、今も梟にとって「帰宅」する場所は扇屋であり、蜻蛉の腕の中ではない。
梟は蜻蛉に、皇宮での生活に、――生きる上で必要なすべてに、執着らしきものを見せたことがなかった。唯一それらしいものを感じるのは、剣士としての矜持に対してだけで、その崇高さは愛おしいと同時に苦々しく、蜻蛉の焦燥を和らげる助けにはならない。
もうすっかり眠り込んでいる梟を起こさないように、そっと抱き上げると、腕の中の寝顔を愛おしく見つめながら蜻蛉は寝室へ向かった。
神聖騎士の鎧も、蜻蛉との夜を前に生じる緊張も取り払われた寝顔は、素の梟を無防備に晒す唯一の窓だ。しかしその瞳は眠りに閉ざされ、蜻蛉を映すことはない。
『影』――最愛の伴侶を毎夜腕に抱いて眠り、その存在の確かさと温もりに安心しても、蜻蛉の抱える妄執を払うには程遠い。梟の執着を自分に向けさせ、その愛を手に入れるまで、蜻蛉が真に満たされることはない。
『天女』の性など、引き剥がすしかなかった。
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