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邂逅
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新たに加えられた『影』の任務は、少なからず梟を困惑させた。
それまで梟の日課は、午前中は予定がなく、午後は一人の基礎鍛錬、近衛との手合わせ、夕食後の皇宮の警邏が入っていた。
扇屋での昼夜が逆転した生活で、日が高く昇ってから活動を始めることに慣れてはいたが、本来梟は朝型だ。一人で森を駆け木に登り枝の間を飛び移る基礎鍛錬は、できれば気温が低く空気の澄んだ早朝に済ませたかった。しかし、遅くまで公務を行う蜻蛉に合わせて就寝し――その欲望を受けとめさせられると、とてもではないが早起きして駆け回るのは無理だった。
午前中に予定を入れられないのも同じ理由だ。自分だけならまだしも、相手のある用事だと迷惑を掛けることになってしまう。実際何度かそういう事態に陥ったため、不本意ながら午前中は自由時間となっており、梟は体調に合わせて鍛錬をしたり、皇宮内の図書館に足を運んだりして過ごしていた。
その空き時間を埋めるように、新たな任務は舞い込んだ。
「皇太子殿下の剣術指南? …冗談を言っているのか」
珍しく早い時間に私室に戻ってきた蜻蛉は、明らかに機嫌が良さそうだった。寝室ではなく居間の寝椅子に腰を据え、酒杯を傾けながら告げられた言葉に、飲み始めたばかりなのにもう酔ったのかと梟は眉をひそめる。
「本人たっての強い希望と、テオドールの侍従長から話が来たのだぞ。『あのきれいな人』が師でなければ、剣術は学ばぬと。…そなた、どこで我が皇太子を誑かした」
「誑かしてなど…」
偶然皇太子と会ったことを隠す訳ではないが、あの秘密の薬草園のことは知られたくない。
口籠った梟に揶揄うような笑みを浮かべ、蜻蛉はそれ以上追及してこなかった。おそらくリーフェンシュタール侯爵から、事の次第はすべて報告されており、その上で見逃してくれたのだろう。
一人になれる場所を取り上げらなかったことに、梟は安堵した。しかし同時に、指南役を断る糸口も失ってしまった。
「我が子ながら隅に置けぬやつよ。そなたを見初めたのは目が高いと褒めるところだが、初対面で口づけまで奪うとは」
「人聞きの悪いことを言うな、瞼を舐められただけだ」
「口づけよりなお淫靡な愛撫ではないか。…感じなかったであろうな」
腰を抱き寄せられ、探るように目を覗き込まれる。冗談と思い押し退けようとしたが、囲い込む腕は固くびくともせず、梟は呆れて深くため息をついた。
この男は、国民に熱く支持され、群臣・側仕えの忠誠も厚い名君のはずなのだが、時にあまりに大人気ない言動で梟を困惑させる。馬鹿馬鹿しい問いに答える気にもならないが、偽りを許さない強い眼差しに、その息子も初対面の人間の目を無遠慮に覗き込み、あまつさえ舐める奇矯さを持っていたことを、改めて思い出した。
「…同じだ」
「何が」
「殿下もこうして、珍しい物を見るように私の目を覗き込んでいた」
おかしな親子だ、と続けようとした唇に、口移しで酒を流し込まれる。強い火酒に口腔の粘膜が焼かれ、痺れたような感覚が広がる。こくりと飲み込むと、熱い舌が慰撫するように口蓋を擦り、頬の内側を撫でて、くすぐるように歯列を辿った。与えられた唾液が、強い酒を和らげるように喉をすべり落ちていく。
火酒で味わいの増した口づけをたっぷり堪能すると、蜻蛉は唇を離し、仕上げとばかりに濡れた梟の唇を舐め上げた。深い口づけの淫靡さに潤む青灰色の瞳に見惚れたように、目を離さず頬を撫でてくるのも、あの日の薬草園の少年と同じだ。
「そうして誑かした男たちを天秤にかけ、どちらも手玉に取ろうとしておるのか? そなたの魔性は、捕らえる相手を選ばぬな…」
憎らしいやつよ、と呟いた唇が、何度も瞼を啄む。くすぐったさに首を竦めながらも、何を張り合っているのかと、梟のため息は深くなるばかりだ。
とはいえ、独占欲は見せながらも、雄の顔を剥き出しにして迫ることのない、余裕をたたえた穏やかな蜻蛉と過ごすのは、嫌ではなかった。扇屋から拉致され、皇帝代理人として模擬試合に出ていた頃、悪霊憑きの部屋で襲われる前までの蜻蛉が思い出されるからだ。
あの頃の蜻蛉は、梟にとって、皇帝に近い地位にあることを窺わせる、謎の多い騎士だった。
皮肉気で傲慢な物言いはするが、突然皇宮に滞在することになった梟を気遣い、その生活に支障がないようにあらゆる点で細やかな配慮も見せた。部屋の設えや梟の食事、衣服にまで口出ししてくるのには閉口したが、美丈夫ではあるものの無骨そうな男が、思いがけず洗練された好みを持っていることを意外に思ったものだ。
多忙そうなのに試合がある日は必ず同行し、ない日も一度は顔を出して梟の様子を確認するなど、皇帝の命を受けてのこととはいえ、職務に忠実な仕事ぶりは梟も認めていた。
実際は、皇帝に近い騎士ではなく皇帝本人であり、蜻蛉の多忙さがどれほどのものかを知る今は、よくもあれだけ時間を作って、飛鷲宮から遠く離れた兵舎に顔を出していたものだと思う。おそらく、侍従に相当無理を言って調整させたのだろう。
今だからわかることと、――わからないことがある。
どうして今は、あの頃のように近すぎず遠くもない、痛みのない関係を保てないのだろう。
皇帝という至高の地位にあるが、蜻蛉は立場に驕って人を見下す男ではない。むしろ気さくで、堅い場でなければ群臣や侍従と気安い会話を楽しんでいる。皇帝ではなく蜻蛉の身分で街に出れば、平民とも親しく話をし、偉ぶるところは一切ない。あの頃は梟にも、同様に接していた。
『影』となって以来、蜻蛉は可能な限り梟をすぐ側に置き、会話をするにも触れながら、口づけをしながらということが多かった。侍従の目があっても、それは変わらない。
街で平民と話をする時のように、自分にも接してほしいのだと、梟は言いたかった。出会った頃のように、傲慢な皮肉屋で、しかし細かな気遣いのできる成熟した大人の男として、同じ男であり剣士である梟に接してほしかった。
今この時、酒を飲んでいることもあり蜻蛉の口調は朗らかで、梟の警戒を煽るような様子はない。それでも蜻蛉の態度は、あの頃のものとは異なっていた。『影』として梟を皇宮に留めておきながら、その扱いは、まるで――。
この問いの答えが、自身を追い詰めるかもしれないとわかっていた。それでも、あの日から気に掛かっていることを確かめる機会を、見ないふりでやり過ごすことはできなかった。
「…リーフェンシュタール侯爵は…、私を知っているのか。かつて神聖騎士であったことを」
「扇屋にいるそなたを見つけたのは、あれの飼い犬だ。当てがあって出向いたわけでなく、偶然だったらしいが。…何か言われたか」
「…よく眠れない理由があるのかと」
「あやつめ…」
蜻蛉は忌々しそうに眉を寄せたが、それも一瞬だった。
「気にするな。あれは、その件で余の弱みを握ったとほくそ笑む、人の悪い男だ」
軽く肩を竦めると、一口酒を含む。
同い年の従兄とは、気安い間柄なのだろう。他言を憚る妄執の標的、背に傷を負う元神聖騎士の捜索を任せられる程度には。
「その弱みに思い掛けず出会い、揶揄わずにおれなかったのだろうよ」
愛おしそうに髪を撫でられ、切り揃えた毛先の下に覗く首筋をくすぐられる。梟はひくりと身を竦めたが、告げられた言葉にただ俯くしかなかった。
(弱み…)
侯爵は、梟の過去を知っていた。
扇屋に身を潜めていた時、梟は一部でその主の愛人と誤解されていた。皇宮に拉致された当初、蜻蛉に娼館の犬と何度も罵られたが、その噂を蜻蛉の耳に入れたのは侯爵以外に考えられず、あの薬草園での奇妙なやり取りも納得できた。
やはり、蜻蛉との夜を仄めかされていたのだ。
ごく身近な、隠しようのない側仕え以外の人間に蜻蛉との関係を知られている事実は、いたたまれなさと同時に、強い後ろめたさを生んだ。
『光』である皇帝が抱える汚濁をすべて飲み込み処理するのが、『影』の役目だと梟は思っている。皇宮警備は勿論のこと、蜻蛉が望めば、国内外の要人暗殺などの汚れ仕事も請け負うつもりでいた。蜻蛉の抱える闇を和らげることができるならと、義務のように強いられる夜伽も受け入れた。
すべては、皇帝に光の当たる輝かしい王道を進んでもらうため。
その『光』に弱みなどあってはならないのに、『影』である自分がそう捉えられているという事実に、梟は打ちのめされた。
しかし、置かれている状況を鑑みれば、そう思われても仕方がなかった。
梟が担当するのは夜の警邏だけで、これまで『影』らしい仕事は何もしていない。だから国賓を迎え皇宮警備の見直しをする機会があった時は、ようやくそれらしい仕事を任されたと心が晴れた。
事前に何度も下見を重ね、屋根裏部屋も含めた皇宮の構造をすべて頭に入れて当日に備えていたのに、前夜執拗に蹂躙された梟は、寝台から起き上がることができなかった。暴力のような男の欲望のために、数週間を掛けて準備したすべてを無駄にされ、込み上げる悔しさと無力感に苛まれた。
そして何より梟を傷つけたのは、『影』の存在意義を確認する場を奪われ沈む梟に、何を気に病むのかわからない、という反応を蜻蛉が見せたことだった。愕然とする梟を宥めるように、甘い言葉を掛けてくる男が信じられなかった。
『影』の仕事をせずただ伽を務めるなど、まるで男妾ではないか。
そう詰ろうとして、――梟の中に不安とも疑いともつかぬものが、波紋のように広がった。
寝台の外で共に過ごす短い時間のうち、蜻蛉が梟に『影』に相応しい話をすることがあっただろうか。
その日をどのように過ごしたか、楽しいと感じることはあったか、興味を持つものはあったか。
訊ねられるのは、ごく私的なことばかりで、『影』として報告を求められたこともない。梟の方から、鍛錬や警邏の途中で気が付いたことを伝えることもあるが、耳を傾け頷きながらも、夜着の上から背の傷をなぞったり額に口づけたり、梟にしか興味がないような態度を取られ、胸の中にもやもやと蟠る何かが積み重なるのを感じるだけだった。
(まるで、ではなく、男妾そのものではないか…)
あの国賓を迎えた日以来、その思いは梟の中に燻り、じくじくと矜持を苛んだ。
そして今、侯爵に蜻蛉の男妾として値踏みされたことを知り、蜻蛉の口から弱みと断言されて、膨れ上がる後ろめたさに、居場所を失ったような気がした。皇帝の名声に瑕をつける弱みなど、あってはならないのに。
(蜻蛉は『影』が必要だから、私を皇宮に置いているのではないのか…?)
そうでないなら、弱みとなり『光』を貶める男妾に過ぎないのなら、――皇宮での存在意義は何もない。
そうではないと言ってほしい。
かつて神聖騎士だった腕を買い、『影』としたのだと。国情が安定していて必要ないだけで、その時が来たら血を浴び泥をかぶるような汚れ仕事も任せると。想像も及ばない重圧の中、日々の公務を全うする皇帝の一助となっていると。
男妾などという卑しい者を手に入れるために、賢帝の顔を脱ぎ捨てて、闇夜に丸腰の相手を斬りつけるような真似をしたなどと、『影』の――梟の拠り所、礎である『光』が言わないでほしい。
梟は、テーブルに置かれたまま触れもしなかった杯に手を伸ばした。これまで酒に溺れる者の心を慮ったことはなかったが、初めて酔いの中に逃げ込みたいと思った。
飲みなれない酒は、あくまで苦かった。
それまで梟の日課は、午前中は予定がなく、午後は一人の基礎鍛錬、近衛との手合わせ、夕食後の皇宮の警邏が入っていた。
扇屋での昼夜が逆転した生活で、日が高く昇ってから活動を始めることに慣れてはいたが、本来梟は朝型だ。一人で森を駆け木に登り枝の間を飛び移る基礎鍛錬は、できれば気温が低く空気の澄んだ早朝に済ませたかった。しかし、遅くまで公務を行う蜻蛉に合わせて就寝し――その欲望を受けとめさせられると、とてもではないが早起きして駆け回るのは無理だった。
午前中に予定を入れられないのも同じ理由だ。自分だけならまだしも、相手のある用事だと迷惑を掛けることになってしまう。実際何度かそういう事態に陥ったため、不本意ながら午前中は自由時間となっており、梟は体調に合わせて鍛錬をしたり、皇宮内の図書館に足を運んだりして過ごしていた。
その空き時間を埋めるように、新たな任務は舞い込んだ。
「皇太子殿下の剣術指南? …冗談を言っているのか」
珍しく早い時間に私室に戻ってきた蜻蛉は、明らかに機嫌が良さそうだった。寝室ではなく居間の寝椅子に腰を据え、酒杯を傾けながら告げられた言葉に、飲み始めたばかりなのにもう酔ったのかと梟は眉をひそめる。
「本人たっての強い希望と、テオドールの侍従長から話が来たのだぞ。『あのきれいな人』が師でなければ、剣術は学ばぬと。…そなた、どこで我が皇太子を誑かした」
「誑かしてなど…」
偶然皇太子と会ったことを隠す訳ではないが、あの秘密の薬草園のことは知られたくない。
口籠った梟に揶揄うような笑みを浮かべ、蜻蛉はそれ以上追及してこなかった。おそらくリーフェンシュタール侯爵から、事の次第はすべて報告されており、その上で見逃してくれたのだろう。
一人になれる場所を取り上げらなかったことに、梟は安堵した。しかし同時に、指南役を断る糸口も失ってしまった。
「我が子ながら隅に置けぬやつよ。そなたを見初めたのは目が高いと褒めるところだが、初対面で口づけまで奪うとは」
「人聞きの悪いことを言うな、瞼を舐められただけだ」
「口づけよりなお淫靡な愛撫ではないか。…感じなかったであろうな」
腰を抱き寄せられ、探るように目を覗き込まれる。冗談と思い押し退けようとしたが、囲い込む腕は固くびくともせず、梟は呆れて深くため息をついた。
この男は、国民に熱く支持され、群臣・側仕えの忠誠も厚い名君のはずなのだが、時にあまりに大人気ない言動で梟を困惑させる。馬鹿馬鹿しい問いに答える気にもならないが、偽りを許さない強い眼差しに、その息子も初対面の人間の目を無遠慮に覗き込み、あまつさえ舐める奇矯さを持っていたことを、改めて思い出した。
「…同じだ」
「何が」
「殿下もこうして、珍しい物を見るように私の目を覗き込んでいた」
おかしな親子だ、と続けようとした唇に、口移しで酒を流し込まれる。強い火酒に口腔の粘膜が焼かれ、痺れたような感覚が広がる。こくりと飲み込むと、熱い舌が慰撫するように口蓋を擦り、頬の内側を撫でて、くすぐるように歯列を辿った。与えられた唾液が、強い酒を和らげるように喉をすべり落ちていく。
火酒で味わいの増した口づけをたっぷり堪能すると、蜻蛉は唇を離し、仕上げとばかりに濡れた梟の唇を舐め上げた。深い口づけの淫靡さに潤む青灰色の瞳に見惚れたように、目を離さず頬を撫でてくるのも、あの日の薬草園の少年と同じだ。
「そうして誑かした男たちを天秤にかけ、どちらも手玉に取ろうとしておるのか? そなたの魔性は、捕らえる相手を選ばぬな…」
憎らしいやつよ、と呟いた唇が、何度も瞼を啄む。くすぐったさに首を竦めながらも、何を張り合っているのかと、梟のため息は深くなるばかりだ。
とはいえ、独占欲は見せながらも、雄の顔を剥き出しにして迫ることのない、余裕をたたえた穏やかな蜻蛉と過ごすのは、嫌ではなかった。扇屋から拉致され、皇帝代理人として模擬試合に出ていた頃、悪霊憑きの部屋で襲われる前までの蜻蛉が思い出されるからだ。
あの頃の蜻蛉は、梟にとって、皇帝に近い地位にあることを窺わせる、謎の多い騎士だった。
皮肉気で傲慢な物言いはするが、突然皇宮に滞在することになった梟を気遣い、その生活に支障がないようにあらゆる点で細やかな配慮も見せた。部屋の設えや梟の食事、衣服にまで口出ししてくるのには閉口したが、美丈夫ではあるものの無骨そうな男が、思いがけず洗練された好みを持っていることを意外に思ったものだ。
多忙そうなのに試合がある日は必ず同行し、ない日も一度は顔を出して梟の様子を確認するなど、皇帝の命を受けてのこととはいえ、職務に忠実な仕事ぶりは梟も認めていた。
実際は、皇帝に近い騎士ではなく皇帝本人であり、蜻蛉の多忙さがどれほどのものかを知る今は、よくもあれだけ時間を作って、飛鷲宮から遠く離れた兵舎に顔を出していたものだと思う。おそらく、侍従に相当無理を言って調整させたのだろう。
今だからわかることと、――わからないことがある。
どうして今は、あの頃のように近すぎず遠くもない、痛みのない関係を保てないのだろう。
皇帝という至高の地位にあるが、蜻蛉は立場に驕って人を見下す男ではない。むしろ気さくで、堅い場でなければ群臣や侍従と気安い会話を楽しんでいる。皇帝ではなく蜻蛉の身分で街に出れば、平民とも親しく話をし、偉ぶるところは一切ない。あの頃は梟にも、同様に接していた。
『影』となって以来、蜻蛉は可能な限り梟をすぐ側に置き、会話をするにも触れながら、口づけをしながらということが多かった。侍従の目があっても、それは変わらない。
街で平民と話をする時のように、自分にも接してほしいのだと、梟は言いたかった。出会った頃のように、傲慢な皮肉屋で、しかし細かな気遣いのできる成熟した大人の男として、同じ男であり剣士である梟に接してほしかった。
今この時、酒を飲んでいることもあり蜻蛉の口調は朗らかで、梟の警戒を煽るような様子はない。それでも蜻蛉の態度は、あの頃のものとは異なっていた。『影』として梟を皇宮に留めておきながら、その扱いは、まるで――。
この問いの答えが、自身を追い詰めるかもしれないとわかっていた。それでも、あの日から気に掛かっていることを確かめる機会を、見ないふりでやり過ごすことはできなかった。
「…リーフェンシュタール侯爵は…、私を知っているのか。かつて神聖騎士であったことを」
「扇屋にいるそなたを見つけたのは、あれの飼い犬だ。当てがあって出向いたわけでなく、偶然だったらしいが。…何か言われたか」
「…よく眠れない理由があるのかと」
「あやつめ…」
蜻蛉は忌々しそうに眉を寄せたが、それも一瞬だった。
「気にするな。あれは、その件で余の弱みを握ったとほくそ笑む、人の悪い男だ」
軽く肩を竦めると、一口酒を含む。
同い年の従兄とは、気安い間柄なのだろう。他言を憚る妄執の標的、背に傷を負う元神聖騎士の捜索を任せられる程度には。
「その弱みに思い掛けず出会い、揶揄わずにおれなかったのだろうよ」
愛おしそうに髪を撫でられ、切り揃えた毛先の下に覗く首筋をくすぐられる。梟はひくりと身を竦めたが、告げられた言葉にただ俯くしかなかった。
(弱み…)
侯爵は、梟の過去を知っていた。
扇屋に身を潜めていた時、梟は一部でその主の愛人と誤解されていた。皇宮に拉致された当初、蜻蛉に娼館の犬と何度も罵られたが、その噂を蜻蛉の耳に入れたのは侯爵以外に考えられず、あの薬草園での奇妙なやり取りも納得できた。
やはり、蜻蛉との夜を仄めかされていたのだ。
ごく身近な、隠しようのない側仕え以外の人間に蜻蛉との関係を知られている事実は、いたたまれなさと同時に、強い後ろめたさを生んだ。
『光』である皇帝が抱える汚濁をすべて飲み込み処理するのが、『影』の役目だと梟は思っている。皇宮警備は勿論のこと、蜻蛉が望めば、国内外の要人暗殺などの汚れ仕事も請け負うつもりでいた。蜻蛉の抱える闇を和らげることができるならと、義務のように強いられる夜伽も受け入れた。
すべては、皇帝に光の当たる輝かしい王道を進んでもらうため。
その『光』に弱みなどあってはならないのに、『影』である自分がそう捉えられているという事実に、梟は打ちのめされた。
しかし、置かれている状況を鑑みれば、そう思われても仕方がなかった。
梟が担当するのは夜の警邏だけで、これまで『影』らしい仕事は何もしていない。だから国賓を迎え皇宮警備の見直しをする機会があった時は、ようやくそれらしい仕事を任されたと心が晴れた。
事前に何度も下見を重ね、屋根裏部屋も含めた皇宮の構造をすべて頭に入れて当日に備えていたのに、前夜執拗に蹂躙された梟は、寝台から起き上がることができなかった。暴力のような男の欲望のために、数週間を掛けて準備したすべてを無駄にされ、込み上げる悔しさと無力感に苛まれた。
そして何より梟を傷つけたのは、『影』の存在意義を確認する場を奪われ沈む梟に、何を気に病むのかわからない、という反応を蜻蛉が見せたことだった。愕然とする梟を宥めるように、甘い言葉を掛けてくる男が信じられなかった。
『影』の仕事をせずただ伽を務めるなど、まるで男妾ではないか。
そう詰ろうとして、――梟の中に不安とも疑いともつかぬものが、波紋のように広がった。
寝台の外で共に過ごす短い時間のうち、蜻蛉が梟に『影』に相応しい話をすることがあっただろうか。
その日をどのように過ごしたか、楽しいと感じることはあったか、興味を持つものはあったか。
訊ねられるのは、ごく私的なことばかりで、『影』として報告を求められたこともない。梟の方から、鍛錬や警邏の途中で気が付いたことを伝えることもあるが、耳を傾け頷きながらも、夜着の上から背の傷をなぞったり額に口づけたり、梟にしか興味がないような態度を取られ、胸の中にもやもやと蟠る何かが積み重なるのを感じるだけだった。
(まるで、ではなく、男妾そのものではないか…)
あの国賓を迎えた日以来、その思いは梟の中に燻り、じくじくと矜持を苛んだ。
そして今、侯爵に蜻蛉の男妾として値踏みされたことを知り、蜻蛉の口から弱みと断言されて、膨れ上がる後ろめたさに、居場所を失ったような気がした。皇帝の名声に瑕をつける弱みなど、あってはならないのに。
(蜻蛉は『影』が必要だから、私を皇宮に置いているのではないのか…?)
そうでないなら、弱みとなり『光』を貶める男妾に過ぎないのなら、――皇宮での存在意義は何もない。
そうではないと言ってほしい。
かつて神聖騎士だった腕を買い、『影』としたのだと。国情が安定していて必要ないだけで、その時が来たら血を浴び泥をかぶるような汚れ仕事も任せると。想像も及ばない重圧の中、日々の公務を全うする皇帝の一助となっていると。
男妾などという卑しい者を手に入れるために、賢帝の顔を脱ぎ捨てて、闇夜に丸腰の相手を斬りつけるような真似をしたなどと、『影』の――梟の拠り所、礎である『光』が言わないでほしい。
梟は、テーブルに置かれたまま触れもしなかった杯に手を伸ばした。これまで酒に溺れる者の心を慮ったことはなかったが、初めて酔いの中に逃げ込みたいと思った。
飲みなれない酒は、あくまで苦かった。
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