天上の梟

音羽夏生

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邂逅

(3)

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 広大な皇宮の敷地は、政庁が並び皇帝が公務を執り行う外宮と、皇族の居住区である内宮に分かれている。皇帝の執務室を擁し公式行事の舞台でもある飛鷲宮の前には、大運河を備えた整形式庭園が広がり、その壮麗な眺めは訪れた者を感嘆させ、帝国の威光を知らしめていた。
 他にも、代々の皇后が情熱を注ぎ新種の作出にも励んだ薔薇園、一見自然の草原に見えるのどかな野草園があり、奥には森林が広がっている。それ以外にも、厨房の近くには貴人の目に触れることのない菜園、果樹園、薬草園などが並び、皇家の食の一端を担っていた。皇宮の厨人たちがそれらの区画を管理しており、彼らは皇宮で調達できる食料はすべて把握していたが、すべての薬草園を把握しているわけではなかった。

 ふと時間が空いた時、梟は皇宮の森の奥にある、忘れられた薬草園を訪れることが多かった。
 朽ちた煉瓦壁に囲まれたそこを見つけたのは、森での鍛錬の途中だった。隣接する小屋は屋根が落ちてしまっており、どれほどの長い年月ここが打ち捨てられたままであるかを物語っていたが、薬草園にいくつか置かれた石の縁台ベンチはしっかりした造りで使用するのに問題はなく、煉瓦の壁を背に休息を取るにはうってつけの場所だった。

 蜻蛉が梟に付けた侍従たちは、侍従長のヘルムートを筆頭に、温かな心遣いと親愛を込めた忠誠を捧げ、手厚く梟に仕えてくれている。しかし、神殿に入る以前から身の回りのことは自分でできるように育てられた梟に、彼らの仕事ぶりは時に窮屈に感じられた。
 特に自室で物思いに沈もうものなら、侍従の中で一番年若いエルマーなどは、梟を球戯室に連れ出そうとしたり、庭園から季節の花々を取り寄せ大きな生け花を飾ったり、厨房から菓子職人とっておきの新作を皇帝に献上する前に持ち出して勧めてきたりする。その好意と心遣いはありがたく、うれしかったが、梟に必要なのは気晴らしではなく、一人静かに何も考えずに――もしくは考えに耽る時間だった。
 偶然見つけたこの朽ちた薬草園は、侍従たちもその存在を知らないようで、ここに逃れれば一人の時間を満喫することができた。また、蜻蛉のせいで縮められた睡眠時間を補う午睡に、最適の場所でもあった。

 その日も梟は、侍従の目を盗んで薬草園を訪れていた。
 昼食の後、穏やかな薄曇りで柔らかな日差しが降り注ぐ中、いつもの縁台に腰を落ち着けると、いくらも経たずに睡魔がやって来る。蜻蛉は昨夜も静かに眠ることを許してくれず、全身を覆う怠さと睡眠不足を抱えた梟は、その誘惑に抗えなかった。
 野生化し伸び放題のローズマリーが風に揺られ、鼻先を抜ける爽やかな香りに包まれながらうとうとするのはこの上なく心地よく、自室で侍従に気遣われながら午睡を取るより、よほど心が和らいだ。時折聞こえる小鳥の鳴き声も子守歌にしかならず、梟の眠りを妨げるものはここには何もない。

 誰も訪れる者のない、梟だけの秘密の場所――。その油断が、ほんの一眠りのつもりでいた午睡を、思いの外深いものにしていたらしい。
 朽ちた壁の内側、薬草園の中で、軽やかな足音がした。そこまで近づかれるまで人の気配に気づけなかったのは、完全に失態だった。

 身なりの良い子供が、薬草園の真ん中に立ち、興味深そうに見回している。
 供は一人。入口に立ってその少年を見守る男は同様に身なりがよく、明らかに高位の貴族とわかる風格を備えている。どこか蜻蛉にも通じる――今は少年に従っているが、本来は人を従えるのに慣れた男に見えた。
 少年は、薬草園の隅で座ったまま動かずにいる梟に気が付くと、じっと見つめたのち、供の男に声を掛けた。

「リーフェンシュタール侯、あのきれいな人は誰?」
「陛下の剣の一人ですよ、殿下」

 この会話だけで、二人の素性を知るには十分だった。
 リーフェンシュタール侯爵マクシミリアン。帝国最大の領地を持つ有力貴族にして、皇帝と同い年の従兄。先帝の姉を母に持つ血筋の良さに加え、明晰な頭脳で幼馴染である皇帝の信頼も厚く、未来の宰相と噂される男だ。
 そしてその高貴な人物を供にするのは、テオドール皇太子。今年八歳になる皇帝アルフレート三世の嫡子であり、二つ違いの双子の皇子皇女の兄でもあった。
 他に人の気配はなく、この高貴な二人は気ままなお忍びの散歩を楽しんでいるようだ。皇宮の警備は厳しいとはいえ、次代の皇帝が不用心なことだと梟は案じたが、皇太子は侯爵を伴い、警戒することなく近づいてくる。梟は素早く縁台から下り、顔を伏せて地に膝をついた。
 それが気に入らなかったのか、皇太子は少しばかり尖った声で命じてくる。

「顔を見せて」
「殿下の仰せである。おもてを上げよ」

 皇宮ではなるべく人に顔を見られたくなく、警備の際の移動も廊下を使わず屋外を移動している梟だったが、皇太子の命令を拒むことはできない。
 黙したまま顔を上げると、皇太子はすぐ目の前までやって来て、梟と視線を合わせた。逸らすことも無礼に思われ、結果的に少年の顔をじっくり観察することになってしまう。

 黒い髪に黒い瞳。幼いながらも強い輝きを秘めた眼差しには、情のこわさが窺える。命じることに慣れた口調は、我を通すことに一切のためらいがない。見知らぬ大人に臆する様子も見せない、無邪気さとは異なる肝の据わり方は、天性のものだろうか。無遠慮に人の目を覗き込むところまでが同じ、さすが親子だ、と変なところで梟は感心していた。
 外見も中身も、小さな蜻蛉そのものの少年は、梟の青灰色の瞳を飽かず見つめながら、口を開いた。

「あなたは強いの?」
「直答を許す、答えよ」

 あまりに真っ直ぐで単純な問いに、梟は虚を突かれた。
 かつて神聖騎士団筆頭騎士を務めていた梟に、最強の賛辞を捧げる者はいても、そのような問いを投げ掛ける者は誰もいなかった。梟自身、己の強さを他と比較したことはない。戦場でそのような序列に意味はなく、標的とする敵を屠ることだけが、神聖騎士の存在意義だった。
 その戦場を十年以上生き延びて、命冥加で運が強いことにかけては最強かもしれないと、同じ日に神殿に入った同志と笑い合った。当時も今も、自身の評価はその程度だ。

 その梟に、強いのかと問う少年に、羨望にも似た眩しさを感じる。
 剣を持つ者に、このように素直に強さを問い、その価値を問う。人を殺めるという血の側面を知らない者だけが持つ、無邪気な好奇心と理想の騎士像に対する純粋な憧憬のなせる業だ。それが偶像に過ぎなくても、この年齢の少年が抱くには自然な感情であり、おそらくは偉大な父帝への尊敬と憧れでもあろうことは想像に難くない。
 微笑ましい、と梟は思った。彼の望む答えがどのようなものか量るべきもないが、可能な限り誠実に答えたい。

「皇宮で帯剣を許された身でございます。どのような事態であろうとも御身をお守りいたします」
「どのような事態でもって…例えば謀反が起きても?」

 年に見合わぬ人を食った問い返しに、思わず破顔した。皇家の教育方針は一体どうなっているのかと、かつて皇帝の教育係だったというヘルムートにぜひ訊ねてみたいものだ。
 破顔といっても、一般には微笑という程度の表情筋の動きだったが、それでも微かに笑顔にはなったらしい。何故か惚けたようにこちらを凝視している皇太子に噛んで含めるように、梟は答えた。

「畏れながら殿下、そのような仮定は不敬にございますが、不忠の輩を前に陛下の剣は折れることはございません」
「…絶対に?」
「陛下の剣に、二言はございません」

 穏やかに断言すると、皇太子は納得したように頷いた。そのまま言葉を続けようとしたが、風に流されて皇太子を探す人々の気配と馬の嘶きが届き、可愛らしく口を尖らせる。彼の冒険は、今日はここまでということらしい。
 渋々来た道を戻ろうして、しかしすぐに身を翻し小さな両手で梟の頬を包むと、皇太子は驚きに身動きできずにいる梟の顔を間近に覗き込んだ。

「その目、凍った湖みたいな目。舐めたらとけるかな」
「は…」

 何を言われたのか理解できず、問い返そうとした梟の目に、小さな舌が触れた。反射的に目を閉じて、実際に舐められたのは瞼だったが、突飛な行動に、どう反応したらよいのかわからない。
 神殿に入りすぐ騎士見習いとなった梟には、身近で子供の生態を観察する機会がなく、瞼に感じる生温かい感触にも頬を包む手の体温にも戸惑うばかりだ。

(子供は突飛なことを思いつくものだな…)

 これまでも、愛想の無さに皮肉を込めて氷のようだと言われたことはあるが、その目を舐めようとした者はいない。
 子供の発想に半ば呆れ、半ば感心する。その子供の父親も、ふと夜中に目覚めた際、隣に眠る梟の姿に安堵し、その瞼に口づけるのが常だったが、眠りの中にいる梟は知る由もなかった。

 戸惑いながらも、小さな体を突き放すこともできず、跪いたままその場に固まってしまったことが奏功し、結果的にどうにか不敬と咎められる事態は避けられたようだ。
 実際に興味の対象に触れ、満足したらしい皇太子は、梟の頬をそっと一撫ですると身を離した。

「…冷たくない。人間だった」

 つまらなそうな安心したような声音で呟き、少年はくるりと身を翻すと、振り返りもせず侍従が呼ぶ声の方へ駆けて行った。あとには、リーフェンシュタール侯爵と梟だけが残された。

 声もなく見送った梟に、事の次第を冷静に傍観していた侯爵が淡々と告げる。

「殿下は貴殿をお気に召されたようだ」
「申し訳ございません。まさかこのようなところに、殿下がお運びになるとは思わず…」
「気にしなくていい。今日は特別の自由時間だったのだ、殿下がここにいらっしゃることはもうないだろう。それに貴殿が、いつどこで何をしていても、咎める者は誰もいない」

 梟はいつも、近衛の平服に黒鷲を象った胸章を身につけている。黒鷲の胸章は所属や階級ではなく、「そこにいない者」を指し、勅命で動く者を意味するという。これをつけていれば、皇宮のどこにいても何をしていても誰何されることはなく、『四神の近衛』や蜻蛉が身分を隠して動く時に使用されている。
 素性を明かせない梟にもありがたいもので、侯爵もその意味を知っているようだった。顔を伏せ畏まる梟に、侯爵は大きな歩幅でゆったりと近づくと、その顎をすくい、真上から探るような眼差しで射竦めた。

「このようなところで眠り込むとは――夜、よく眠れない理由でもあるのかな」

 持ち上げた顎を撫で擦るように指を這わされる。愛撫を匂わせるような指の動きにぞくりとし、梟は添えられた手を振り払った。さきほど頰を包んだ小さな手の温もりとは真逆の、冷たい指先だった。
 鋭く見上げる梟に臆することなく注がれる、値踏みするような、何かと比べるような執拗な視線。同じように強い眼差しでも、熱を孕む蜻蛉のそれとは異なり、刃を仕込んだような冷徹さが潜む。
 そのような目を向けられる心当たりは、一つしかない。

(もしや、この男、私を知っている…?)

 皇帝の『影』である梟の存在は公には秘されており、直接仕える侍従と近衛しか知らないはずだった。警備で外に出る時も、梟は近衛の一員としてではなく、衆目に触れないように単独で行動している。万一誰かに見つかっても、黒鷲の胸章が梟を守り、梟はただの「そこにいない者」であるはずだった。

 しかしリーフェンシュタール侯爵は、皇帝の側近中の側近と言われており、帝国の諜報機関を束ねる官を務めている。蜻蛉がどのような手を使って、扇屋に身を潜めていた梟を探し出したのか不明だが、この男が関わっていた可能性はないとは言えなかった。
 そして、一介の騎士崩れが皇帝の『影』となっていることを知っており、それを心良く思っていない可能性も。

 言葉も指先も、蜻蛉との夜を仄めかされているように感じ、身を固くする梟に、侯爵はふっと目元を和らげた。

「午睡の邪魔をしてすまなかった。今夜はゆっくり寝むといい」

 返事を待たず、侯爵は皇太子を追うように来た道を戻り始める。侍従たちと合流し、愛馬の手綱を受け取りながら、今会ったばかりの青年の姿を思い浮かべていた。

 白金の髪と、テオドール皇太子曰く「凍った湖みたいな」青灰色の瞳。
 目を奪われるほどの美貌ではあるが、意外にも面影は重ならなかった。

「同じ色彩の持ち主ではあるが…兄とは似ていないな」

 侯爵の呟きは風に流され、周囲の侍従たちの耳に留まることはなかったが、その風の行く先、朽ちた薬草園に取り残された梟にも届くことはなかった。
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