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邂逅
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その日、レーニシュ帝国の首都ベルンは晴れ渡り、白光に輝く青空はどこまでも澄みきっていた。
五十年前の大火で焼失した帝都の街並みは、周到な都市計画の下に整備され、帝都を囲む城壁内は、放射状の大路と、それらを繋ぐ何本もの環状路が巡らされている。建築法の改正により、大火後の建造物は石造りであることが義務化され、以降帝都では大規模な火災は起きていない。
細い脇道はさすがに土がむき出しになっているが、主要路は石畳で舗装され、路の端には排水溝も備えられている。主要路の下には、下水道も整備されているという話だった。ベルンの発展を見越し、人口増加に備えて設置されたというが、この国の為政者の慧眼には目を瞠るものがある。その計画を夢物語に終わらせず、実行に移せる指導力と財力も。
何もかも整えられた街だ、というのがランドルフォの印象だった。母国アバーテとは、何もかも違う、と。
アバーテ王国は、数百の島から成る島嶼国家だ。首都がある本島は代々王家によって治められ、長い年月をかけて周辺諸島を併合していく形で、現在の海洋王国が成立している。使用する言語こそ同一だが、各島の方言も強く、土着の固有文化も大切にされている。多様な文化と歴史を持つ人々を一つの国の民としてまとめるのは至難の業であり、アバーテでは各島に施政官を置き、最低限必要な共通の法律で束ねてきた。
その「最低限必要な共通の法律」がそろそろ限界に来ている、というのが、王家とその群臣に留まらず、各島の施政官――その多くは、代々その島を治めてきた有力者――の共通の意見であり、喫緊の課題だった。造船、操船の技術が向上し、各島の往来が活発になるにつれ、細かな決まりの違いが交易の妨げとなることが増えたのだ。
ただ妨げとなるだけならまだしも、それが遺恨となり、島同士の対立にまで発展する事例が出てしまい、各島の施政官も本島の管理官たちも、そして国王も重い腰を上げざるを得なかった。これを機に、本格的な法整備に着手しなければならない。
その点で、アバーテには都合の良い友好国があった。緻密な法体系を基盤とする法制を持つ大陸の大国、レーニシュ帝国である。
良く言えば鷹揚で大らか、悪く言えば大雑把な国民性を持つアバーテ人にとって、レーニシュに対する印象は、お堅く融通が利かない、といったものだ。そこを枉げて教えを乞い、母国の法の手本とさせてもらおうという魂胆だった。
大陸に野心のないアバーテと、内政に重点を置くレーニシュの間に敵対する要素はなく、双方とも国情は落ち着いている。アバーテの学術研究団派遣を、現皇帝は快諾した。自身も法学者である皇帝アルフレート三世はさらに、滞在中あらゆる便宜を図り貴国の法整備の助力を惜しまない、と書き添えてきた。学術研究団の代表として王太子が派遣されることを鑑みても、懇篤な返書だった。法学者として、一国の法制が成立する過程に興味があるのだろう。
大国の余裕とはこういうものか、とランドルフォは目の前に広がる壮麗な皇宮を仰ぎ見た。
今回の派遣に際し、レーニシュはアバーテに対し、何の要求も条件も付けなかった。学術研究団の構成も、護衛の人数も。王太子も含め、全員が大使館に滞在することになっているが、その警備には帝国騎士団を一個小隊派遣するという申し出まであった。
王太子の長期滞在――大学に籍を置く予定であるため留学といってよいが、受け入れ国として重責を担うにもかかわらず、レーニシュに恩着せがましい素振りはなかった。――今のところは。
おそらくこの先も、この程度のことでアバーテに無理を言ったり、見返りを求めるようなことはないだろう。それこそが、文明国を自負する大国の余裕なのだ。
その国の主、周辺諸国にその名を轟かせる『大陸の黒き鷲』――皇帝アルフレート三世は、法学者という文人の側面と、剣術好きという武人の側面を併せ持ち、国民に熱狂的に支持される名君だった。
大変な美丈夫で、隣国の王女を皇后に迎えるまでは、数々の美姫と浮名を流していたという。父帝の夭逝に伴い即位し、結婚した後は、善き帝、善き夫、善き父として、国民の手本と憧れとなり、市井のおかみたちの決まり文句にもなっている。
曰く、「心の旦那に陛下を持てば、うちのボンクラも花が咲いて見えるってもんさ」。
皇太子である長子、その弟妹である双子を儲け、皇后は六年前に崩御していた。国内の有力貴族も、そして勿論周辺諸国の王家も、継室として娘を皇宮に送ろうとしたが、アルフレート三世はすべて断っていた。亡き皇后を弔う気持ちに区切りがつかないのと、幼い子供たちの心を慮ってのことだという。
一人の皇后を一途に想い、早くに母親を失った子供たちの心の傷を憂う。その姿勢がまた女性たちの心を掴んでおり、巷での評判は高かった。
しかし果たして、それほどまでに完璧な人間が、この世にいるものだろうか。
賢帝と名高かった父を持ち、大陸一の版図を誇る大国の頂点として常に重圧に晒されてなお、私生活でも聖人君子のように過ごせるものだろうか。
レーニシュとは異なり、至聖神教を国教に定めず、四人までの妻帯を許す文化を持つアバーテに生まれ育ったランドルフォには、継室を迎えようとしないアルフレート三世を理解できない。大切な人を亡くしても、その悲しみを慰めてくれる、美しく可愛らしい女性は沢山いるではないか。皇帝という地位にあれば、継室に迎えなくても、愛妾としていくらでも美姫を侍らせることができるはずだ。
(――もしかして、公にできない秘密の恋人でもいるのだろうか)
その想像は、ランドルフォの中に小気味よくすとんと落ち着いた。そうでもなければ、アルフレート三世という人物は木石でできており、生々しい血は流れていないに違いない。
そう思いつつ、この世には誰も代わりにはならない人がいることを、ランドルフォは知っていた。
今日のような快晴の日、大空から突如舞い降りた白い鳥。
あの大きな翼に守られ、迫りくる敵が次々と薙ぎ払われていくのを目の当たりにした時、心の中に唯一無二の至高の座が生まれた。ランドルフォの心の王国、その二つ並ぶ玉座の片割れに座るべき人を見つけたのだ。
五年前突然アバーテを去り、レーニシュに赴任したという情報を得て以来、その人の消息は途絶えていた。あの強く美しい人が不慮の死を遂げるわけがないと地道に捜索を続けさせ、ようやく手掛かりを掴んだのが、レーニシュの帝都ベルンだった。皇帝の近衛を決める剣技会に、よく似た人物が皇帝代理人として出場していたという。
あの人だ。ランドルフォは確信した。
皇帝代理人を名乗るに値する、剣術の達人。――あの人は、ベルンにいる。
ベルンに行く理由を探していた矢先に持ち上がった今回の学術研究団派遣は、まさに渡りに船だった。留学生という気軽な身分で、ベルンに長期滞在できる。学業優先という大義名分の下、煩わしい公務も軽減される。
学業や友好国の視察に手を抜く気はないが、見聞を広めるという名目で市中を巡り、あの人を探すことは許されるだろう。皇帝代理人を務めていたならば、帝国騎士団にいるのかもしれない。帝国騎士団に近づく手立てを講じる必要もあった。
母国の父も、異論はないはずだ。
その前に、まずはこの国での地歩を固めるための第一歩――皇帝の謁見に臨まなければならない。
案内された広間の中央まで進み、ランドルフォは膝をつき頭を垂れた。
豪奢な礼装に身を包んだ長身の美丈夫が、居並ぶ群臣の奥、玉座から立ち上がって、こちらに近づいてくる。二つ名の由来でもある黒髪黒眼の持ち主は、穏やかな笑みをたたえながらランドルフォに向かって両手を広げた。
「ようこそレーニシュへ、ランドルフォ王太子」
五十年前の大火で焼失した帝都の街並みは、周到な都市計画の下に整備され、帝都を囲む城壁内は、放射状の大路と、それらを繋ぐ何本もの環状路が巡らされている。建築法の改正により、大火後の建造物は石造りであることが義務化され、以降帝都では大規模な火災は起きていない。
細い脇道はさすがに土がむき出しになっているが、主要路は石畳で舗装され、路の端には排水溝も備えられている。主要路の下には、下水道も整備されているという話だった。ベルンの発展を見越し、人口増加に備えて設置されたというが、この国の為政者の慧眼には目を瞠るものがある。その計画を夢物語に終わらせず、実行に移せる指導力と財力も。
何もかも整えられた街だ、というのがランドルフォの印象だった。母国アバーテとは、何もかも違う、と。
アバーテ王国は、数百の島から成る島嶼国家だ。首都がある本島は代々王家によって治められ、長い年月をかけて周辺諸島を併合していく形で、現在の海洋王国が成立している。使用する言語こそ同一だが、各島の方言も強く、土着の固有文化も大切にされている。多様な文化と歴史を持つ人々を一つの国の民としてまとめるのは至難の業であり、アバーテでは各島に施政官を置き、最低限必要な共通の法律で束ねてきた。
その「最低限必要な共通の法律」がそろそろ限界に来ている、というのが、王家とその群臣に留まらず、各島の施政官――その多くは、代々その島を治めてきた有力者――の共通の意見であり、喫緊の課題だった。造船、操船の技術が向上し、各島の往来が活発になるにつれ、細かな決まりの違いが交易の妨げとなることが増えたのだ。
ただ妨げとなるだけならまだしも、それが遺恨となり、島同士の対立にまで発展する事例が出てしまい、各島の施政官も本島の管理官たちも、そして国王も重い腰を上げざるを得なかった。これを機に、本格的な法整備に着手しなければならない。
その点で、アバーテには都合の良い友好国があった。緻密な法体系を基盤とする法制を持つ大陸の大国、レーニシュ帝国である。
良く言えば鷹揚で大らか、悪く言えば大雑把な国民性を持つアバーテ人にとって、レーニシュに対する印象は、お堅く融通が利かない、といったものだ。そこを枉げて教えを乞い、母国の法の手本とさせてもらおうという魂胆だった。
大陸に野心のないアバーテと、内政に重点を置くレーニシュの間に敵対する要素はなく、双方とも国情は落ち着いている。アバーテの学術研究団派遣を、現皇帝は快諾した。自身も法学者である皇帝アルフレート三世はさらに、滞在中あらゆる便宜を図り貴国の法整備の助力を惜しまない、と書き添えてきた。学術研究団の代表として王太子が派遣されることを鑑みても、懇篤な返書だった。法学者として、一国の法制が成立する過程に興味があるのだろう。
大国の余裕とはこういうものか、とランドルフォは目の前に広がる壮麗な皇宮を仰ぎ見た。
今回の派遣に際し、レーニシュはアバーテに対し、何の要求も条件も付けなかった。学術研究団の構成も、護衛の人数も。王太子も含め、全員が大使館に滞在することになっているが、その警備には帝国騎士団を一個小隊派遣するという申し出まであった。
王太子の長期滞在――大学に籍を置く予定であるため留学といってよいが、受け入れ国として重責を担うにもかかわらず、レーニシュに恩着せがましい素振りはなかった。――今のところは。
おそらくこの先も、この程度のことでアバーテに無理を言ったり、見返りを求めるようなことはないだろう。それこそが、文明国を自負する大国の余裕なのだ。
その国の主、周辺諸国にその名を轟かせる『大陸の黒き鷲』――皇帝アルフレート三世は、法学者という文人の側面と、剣術好きという武人の側面を併せ持ち、国民に熱狂的に支持される名君だった。
大変な美丈夫で、隣国の王女を皇后に迎えるまでは、数々の美姫と浮名を流していたという。父帝の夭逝に伴い即位し、結婚した後は、善き帝、善き夫、善き父として、国民の手本と憧れとなり、市井のおかみたちの決まり文句にもなっている。
曰く、「心の旦那に陛下を持てば、うちのボンクラも花が咲いて見えるってもんさ」。
皇太子である長子、その弟妹である双子を儲け、皇后は六年前に崩御していた。国内の有力貴族も、そして勿論周辺諸国の王家も、継室として娘を皇宮に送ろうとしたが、アルフレート三世はすべて断っていた。亡き皇后を弔う気持ちに区切りがつかないのと、幼い子供たちの心を慮ってのことだという。
一人の皇后を一途に想い、早くに母親を失った子供たちの心の傷を憂う。その姿勢がまた女性たちの心を掴んでおり、巷での評判は高かった。
しかし果たして、それほどまでに完璧な人間が、この世にいるものだろうか。
賢帝と名高かった父を持ち、大陸一の版図を誇る大国の頂点として常に重圧に晒されてなお、私生活でも聖人君子のように過ごせるものだろうか。
レーニシュとは異なり、至聖神教を国教に定めず、四人までの妻帯を許す文化を持つアバーテに生まれ育ったランドルフォには、継室を迎えようとしないアルフレート三世を理解できない。大切な人を亡くしても、その悲しみを慰めてくれる、美しく可愛らしい女性は沢山いるではないか。皇帝という地位にあれば、継室に迎えなくても、愛妾としていくらでも美姫を侍らせることができるはずだ。
(――もしかして、公にできない秘密の恋人でもいるのだろうか)
その想像は、ランドルフォの中に小気味よくすとんと落ち着いた。そうでもなければ、アルフレート三世という人物は木石でできており、生々しい血は流れていないに違いない。
そう思いつつ、この世には誰も代わりにはならない人がいることを、ランドルフォは知っていた。
今日のような快晴の日、大空から突如舞い降りた白い鳥。
あの大きな翼に守られ、迫りくる敵が次々と薙ぎ払われていくのを目の当たりにした時、心の中に唯一無二の至高の座が生まれた。ランドルフォの心の王国、その二つ並ぶ玉座の片割れに座るべき人を見つけたのだ。
五年前突然アバーテを去り、レーニシュに赴任したという情報を得て以来、その人の消息は途絶えていた。あの強く美しい人が不慮の死を遂げるわけがないと地道に捜索を続けさせ、ようやく手掛かりを掴んだのが、レーニシュの帝都ベルンだった。皇帝の近衛を決める剣技会に、よく似た人物が皇帝代理人として出場していたという。
あの人だ。ランドルフォは確信した。
皇帝代理人を名乗るに値する、剣術の達人。――あの人は、ベルンにいる。
ベルンに行く理由を探していた矢先に持ち上がった今回の学術研究団派遣は、まさに渡りに船だった。留学生という気軽な身分で、ベルンに長期滞在できる。学業優先という大義名分の下、煩わしい公務も軽減される。
学業や友好国の視察に手を抜く気はないが、見聞を広めるという名目で市中を巡り、あの人を探すことは許されるだろう。皇帝代理人を務めていたならば、帝国騎士団にいるのかもしれない。帝国騎士団に近づく手立てを講じる必要もあった。
母国の父も、異論はないはずだ。
その前に、まずはこの国での地歩を固めるための第一歩――皇帝の謁見に臨まなければならない。
案内された広間の中央まで進み、ランドルフォは膝をつき頭を垂れた。
豪奢な礼装に身を包んだ長身の美丈夫が、居並ぶ群臣の奥、玉座から立ち上がって、こちらに近づいてくる。二つ名の由来でもある黒髪黒眼の持ち主は、穏やかな笑みをたたえながらランドルフォに向かって両手を広げた。
「ようこそレーニシュへ、ランドルフォ王太子」
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