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傷
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今、目の前を通り過ぎた者に抱く感情に、名前をつけるのは難しい。
それは、ひどく甘やかで単純であり、同時に御し難い暴れ川の奔流のようでもあった。
彼――ユリウスがこちらを認め、顔と名を覚えて、少しでも打ち解けてくれたなら、ここまで凶暴な思いは育たなかったかもしれない。――否、たとえ親しくなっていたとしても、遅かれ早かれ、結論は同じだっただろう。
剣を交わした、あの日。
かつてない好敵手に血を沸騰させ打ち込んだ一撃を、子供の手を捻るように躱し薙ぎ払い、首筋にひたりと細身の刃を突きつけた、白金の残像。
取り落とした剣に手を伸ばすこともできず、地に膝をつき茫然と見上げた逆光の中、あの瞬間ですら、青灰色の瞳は揺らぐことなく、冷たく凍りついたままだった。あの瞳を見た時から身の内に滾る、理性という名の檻に押し込めてもたちまち喰い破るほどの渇望がある限り、今日のこの決断は変わらなかった。
剣技場で初めて見掛けてから、十ヵ月。
生意気な若造という第一印象を裏切り、ユリウスは寡黙で思慮深く、謙虚な人物だった。そして、至聖神教の大使付き武官の任務に必要な最低限の社交以外、外界の一切を遮断していた。
ユリウスを神殿の外に連れ出したければ、模擬試合か剣術指南を申し込むか、彼が護衛する大使を招待する以外の方法はなかった。皇帝の名を使っても、皇帝直属の近衛、帝国最強の騎士四名で構成される『四神の近衛』の名を使っても、二人きりで話のできる場を設けることは叶わなかった。
禁欲と節制を旨とする神聖騎士であると同時に、高位の聖職者でもある相手に、俗世の権力は通用しなかったのだ。
結局、二人きりの逢瀬――向こうはそうは思っていないだろうが――が叶ったのは、皇帝の使いとして仮の身分で赴いた神殿での、ほんの短いひとときだった。神殿の者が気を利かせて応接間に通し、茶菓を饗してくれなかったら、立ち話の数分で切り上げられていたかもしれない。
差し向かいで交わす会話はそれでも短く、ユリウスの態度は常に礼儀正しかったが、こちらに興味がないことが明らかな素っ気ないものだった。帝国騎士の憧れ、最強の称号でもある『四神の近衛』への勧誘に欠片も興味を示さず、俗世とは関わりない身に世辞も社交辞令も不要、と冷たく告げられた。
それでも、正面からユリウスを見つめ、青灰色の瞳が持つ穢れなき透明な美しさに内心息を呑み、穏やかで澄んだ声を聞くことを許される、貴重な時間だった。たとえ毎回、初めて会う者としてよそよそしく挨拶され、その厚く堅固な壁に打ち拉がれても、神殿に通う足を止めることはできなかった。
侍従から面会の承諾を得られたと聞けば、その日から心待ちにし、終わってしまえば、次の機会を心待ちにした。
ユリウスはいつ会っても、何度目の訪問でも、常に端然と美しく、そしてその瞳には何も映していなかった。磨き抜かれた鏡のように相対するものを跳ね返し、任務に関わりのない異分子を自らの内に入れることを、頑なに拒んでいるようだった。
侍従に命じ、様々な口実をつけてもぎ取った逢瀬は、それでも片手で数えられるほどしか実現しなかった。
会えないことでいや増す渇望を持て余しながら、何故ここまで彼が気になるのか、執着するのか、自分でも不思議だった。美の精緻を極めたような美貌の持ち主だが、ユリウスは男だ。若かりし頃、興味本位で男娼を買ったことはあるが、女性と比べて特に勝る快感を得られる体験でもなく、性的嗜好は女性に限られている。
それなのに、あの白金の髪に縁取られた繊細な美貌を目にすると、心臓は落ち着かず、冷たい言葉しか発しない薄桃色の唇が動く様を、永遠に見ていたいと思わされる。
彼が自分の隣に立ち、腕の中に収まって、同じ地平を見てくれたら、どれほど自分は満たされるだろうか――。そう夢想するに至り、ようやく気が付いた。
これは、恋なのだと。
立場や常識が邪魔をして認められなかっただけで、あの剣を交わした日、あの凍てついた瞳に、救いようもないほど心を奪われていたのだと。
しかし現実として、ユリウスは男は勿論、女性との結婚も禁じられた神聖騎士だった。『四神の近衛』筆頭の地位を提示しても見向きもせず、世俗の栄誉に一切の興味を示さない。彼の意志で還俗することはあり得ず、それを強いることは誰にもできなかった。
数ヵ月に一度、やっとの思いで手に入れた逢瀬は、いつも初対面の挨拶から始まり、友人として仲を深めることすらも夢のまた夢だった。皇帝の名で届けた贈り物も、丁重な礼状とともにすべて送り返された。
想いを伝える術は悉く跳ね返され、断たれた。
そうして顧みられぬ月日を重ねる間に、打ち負かされた日に根こそぎ奪われた恋情は、どす黒い執着に育っていった。――身震いするほどの愛欲にも。
あの冷たい氷の美貌は、無垢なる身を男に散らされて、どのように乱れるのだろうか。あの凍てついた瞳は――帝国の最強騎士を下しても凪いだままだった瞳は、快楽に揺らぐことがあるのだろうか。
想像するだけで、生々しい雄の欲望が尽きずこみ上げてくる。
怜悧な眼差しで、近寄る者を悉く切り捨てる麗しい騎士は明日、至聖神教の総本山、聖市ユノーへ帰任する。この顔を、名を、記憶に残すことなく、出会う前と同じ真っさらな有り様で。
帰ってしまえば、この地で出会った人々のことなど、一度も思い出すことなく一生を過ごすのだろう。あの凪いだ湖面のような瞳を、どんな戦場であろうと揺るがせることなく、凍りついた心のまま――凍りついていることに気づくことすらないまま、その命を終えるのだろう。
(――そうはさせてなるものか)
アルフレートは、身を隠していた側廊から静かに歩を進めた。
完全に気配を消し、厚い絨毯の敷かれた皇宮の長廊下を、落ち着いた歩調で前を行くユリウスに忍び寄る。抜き身の剣を両手で構え、大きく踏み込むと音もなく斬り掛かる。
手に、腕に、全身に伝わる、愛する者の肉を斬る衝撃と感触。
よろめきながらも、ユリウスは呻き声一つ上げなかった。
斬られてもなお乱れず、神聖騎士の気品を崩さないその姿に、劣情を煽られるほどの昂奮を覚える。
切り裂かれた純白の制服がみるみる真紅に染まる中、その下に確かに生まれ、生々しく血を流す斜め十字の傷。
湧き上がるのは、穢れなき者に己の印を刻み、我がものとすることへの昏い喜び。
大空へ羽ばたこうとする白い羽をもぎ、血を流し倒れ伏す体に鎖を掛けて、地上に繋ぎ止める愉悦。
罪悪感は、欠片もなかった。
それは、ひどく甘やかで単純であり、同時に御し難い暴れ川の奔流のようでもあった。
彼――ユリウスがこちらを認め、顔と名を覚えて、少しでも打ち解けてくれたなら、ここまで凶暴な思いは育たなかったかもしれない。――否、たとえ親しくなっていたとしても、遅かれ早かれ、結論は同じだっただろう。
剣を交わした、あの日。
かつてない好敵手に血を沸騰させ打ち込んだ一撃を、子供の手を捻るように躱し薙ぎ払い、首筋にひたりと細身の刃を突きつけた、白金の残像。
取り落とした剣に手を伸ばすこともできず、地に膝をつき茫然と見上げた逆光の中、あの瞬間ですら、青灰色の瞳は揺らぐことなく、冷たく凍りついたままだった。あの瞳を見た時から身の内に滾る、理性という名の檻に押し込めてもたちまち喰い破るほどの渇望がある限り、今日のこの決断は変わらなかった。
剣技場で初めて見掛けてから、十ヵ月。
生意気な若造という第一印象を裏切り、ユリウスは寡黙で思慮深く、謙虚な人物だった。そして、至聖神教の大使付き武官の任務に必要な最低限の社交以外、外界の一切を遮断していた。
ユリウスを神殿の外に連れ出したければ、模擬試合か剣術指南を申し込むか、彼が護衛する大使を招待する以外の方法はなかった。皇帝の名を使っても、皇帝直属の近衛、帝国最強の騎士四名で構成される『四神の近衛』の名を使っても、二人きりで話のできる場を設けることは叶わなかった。
禁欲と節制を旨とする神聖騎士であると同時に、高位の聖職者でもある相手に、俗世の権力は通用しなかったのだ。
結局、二人きりの逢瀬――向こうはそうは思っていないだろうが――が叶ったのは、皇帝の使いとして仮の身分で赴いた神殿での、ほんの短いひとときだった。神殿の者が気を利かせて応接間に通し、茶菓を饗してくれなかったら、立ち話の数分で切り上げられていたかもしれない。
差し向かいで交わす会話はそれでも短く、ユリウスの態度は常に礼儀正しかったが、こちらに興味がないことが明らかな素っ気ないものだった。帝国騎士の憧れ、最強の称号でもある『四神の近衛』への勧誘に欠片も興味を示さず、俗世とは関わりない身に世辞も社交辞令も不要、と冷たく告げられた。
それでも、正面からユリウスを見つめ、青灰色の瞳が持つ穢れなき透明な美しさに内心息を呑み、穏やかで澄んだ声を聞くことを許される、貴重な時間だった。たとえ毎回、初めて会う者としてよそよそしく挨拶され、その厚く堅固な壁に打ち拉がれても、神殿に通う足を止めることはできなかった。
侍従から面会の承諾を得られたと聞けば、その日から心待ちにし、終わってしまえば、次の機会を心待ちにした。
ユリウスはいつ会っても、何度目の訪問でも、常に端然と美しく、そしてその瞳には何も映していなかった。磨き抜かれた鏡のように相対するものを跳ね返し、任務に関わりのない異分子を自らの内に入れることを、頑なに拒んでいるようだった。
侍従に命じ、様々な口実をつけてもぎ取った逢瀬は、それでも片手で数えられるほどしか実現しなかった。
会えないことでいや増す渇望を持て余しながら、何故ここまで彼が気になるのか、執着するのか、自分でも不思議だった。美の精緻を極めたような美貌の持ち主だが、ユリウスは男だ。若かりし頃、興味本位で男娼を買ったことはあるが、女性と比べて特に勝る快感を得られる体験でもなく、性的嗜好は女性に限られている。
それなのに、あの白金の髪に縁取られた繊細な美貌を目にすると、心臓は落ち着かず、冷たい言葉しか発しない薄桃色の唇が動く様を、永遠に見ていたいと思わされる。
彼が自分の隣に立ち、腕の中に収まって、同じ地平を見てくれたら、どれほど自分は満たされるだろうか――。そう夢想するに至り、ようやく気が付いた。
これは、恋なのだと。
立場や常識が邪魔をして認められなかっただけで、あの剣を交わした日、あの凍てついた瞳に、救いようもないほど心を奪われていたのだと。
しかし現実として、ユリウスは男は勿論、女性との結婚も禁じられた神聖騎士だった。『四神の近衛』筆頭の地位を提示しても見向きもせず、世俗の栄誉に一切の興味を示さない。彼の意志で還俗することはあり得ず、それを強いることは誰にもできなかった。
数ヵ月に一度、やっとの思いで手に入れた逢瀬は、いつも初対面の挨拶から始まり、友人として仲を深めることすらも夢のまた夢だった。皇帝の名で届けた贈り物も、丁重な礼状とともにすべて送り返された。
想いを伝える術は悉く跳ね返され、断たれた。
そうして顧みられぬ月日を重ねる間に、打ち負かされた日に根こそぎ奪われた恋情は、どす黒い執着に育っていった。――身震いするほどの愛欲にも。
あの冷たい氷の美貌は、無垢なる身を男に散らされて、どのように乱れるのだろうか。あの凍てついた瞳は――帝国の最強騎士を下しても凪いだままだった瞳は、快楽に揺らぐことがあるのだろうか。
想像するだけで、生々しい雄の欲望が尽きずこみ上げてくる。
怜悧な眼差しで、近寄る者を悉く切り捨てる麗しい騎士は明日、至聖神教の総本山、聖市ユノーへ帰任する。この顔を、名を、記憶に残すことなく、出会う前と同じ真っさらな有り様で。
帰ってしまえば、この地で出会った人々のことなど、一度も思い出すことなく一生を過ごすのだろう。あの凪いだ湖面のような瞳を、どんな戦場であろうと揺るがせることなく、凍りついた心のまま――凍りついていることに気づくことすらないまま、その命を終えるのだろう。
(――そうはさせてなるものか)
アルフレートは、身を隠していた側廊から静かに歩を進めた。
完全に気配を消し、厚い絨毯の敷かれた皇宮の長廊下を、落ち着いた歩調で前を行くユリウスに忍び寄る。抜き身の剣を両手で構え、大きく踏み込むと音もなく斬り掛かる。
手に、腕に、全身に伝わる、愛する者の肉を斬る衝撃と感触。
よろめきながらも、ユリウスは呻き声一つ上げなかった。
斬られてもなお乱れず、神聖騎士の気品を崩さないその姿に、劣情を煽られるほどの昂奮を覚える。
切り裂かれた純白の制服がみるみる真紅に染まる中、その下に確かに生まれ、生々しく血を流す斜め十字の傷。
湧き上がるのは、穢れなき者に己の印を刻み、我がものとすることへの昏い喜び。
大空へ羽ばたこうとする白い羽をもぎ、血を流し倒れ伏す体に鎖を掛けて、地上に繋ぎ止める愉悦。
罪悪感は、欠片もなかった。
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