トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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18章

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 マドリードに戻った時、日はとっくに街の稜線の向こうへ落ち、夕食時を過ぎていた。途中有名な古都に寄り、のんびり旧市街を見て回ったせいで、すっかり遅くなってしまったのだ。
 あの小さな山村から日常に戻るまで、それだけの時間が必要だった。あの地で──愛着のある生まれ故郷で両親を殺されたテオバルドが何もなかったように振る舞うなら、志貴もそうするしかない。
 そのためには、惨劇の場所も日常からも遠い見知らぬ街で、心の状態を平らかにする必要があった。外交官という仕事柄、普段であれば得意な作業はかつてなく難しいものとなり、その分時間が掛かったのだ。
 勿論、初めて訪れる史跡を巡りながら交わす何気ない会話、穏やかな時間が心地好く、離れがたかったことは否めない。飼い犬にせがまれた散歩だったが、心を乱されることはあったにせよ──そしてそれは今も胸にわだかまっているにせよ──、振り返ってみれば悪くない休日だった。

「楽しいデートもとうとう終わりか」

 朝迎えに来た時と同じように、テオバルドは志貴の住む共同住宅の正面に車を停めた。その横顔が疲れを見せず、穏やかなことにほっとする。

「今日はありがとう。楽しかった──思いがけず」
「最後の一言は余計だな」

 ニッといつものようにテオバルドが笑みを浮かべる。
 口の端を吊り上げ目元を緩めただけなのに、愛嬌の中にも色気が滲んでひどく魅力的なそれは、『スペイン語』の時間に何度も繰り返されてきた。
 はじめは軽薄で胡散臭いばかりだったのに、今では目にするたびに鼓動が小さく跳ねる。懲りずにまた魅了されながらも、志貴はおもてには出さずに続けた。

「君の運転もなかなかだった。公使館の運転手の具合が悪い時は、代理を頼むかもしれない」
「犬を褒める時は、もっと素直にわかりやすくご褒美をくれよ」
「……今日はあげすぎた、反省してる。当分控えることにするよ。──じゃあ、おやすみ」

 会話があやうい方向に傾き、慌てて別れの言葉を口にする。
 いつまでも二人きりの狭い車内にいるのは危険だ。昼間散々求められた口づけを、別れ際にもねだろうという飼い犬の甘えを感じる。そしてその甘えを退けるのは、昨日よりも難しくなっている。
 二人の間の線を引き直すように、志貴は車から降りようとする。それを制止したテオバルドが、先に外に出てドアを開けようとし──しかし、一足先に助手席に近づく者があった。
 玄関の灯りを背に、車窓を覆うような人影。それが一洋だと気づき、志貴は体を強張らせた。

 今日は用事があると、確かに伝言した。
 武官宛の、しかも志貴からの言付けを、武官府の人間が伝え忘れるはずがない。
 それなのに、こんな時間に──テオバルドと二人で帰ってくるところに居合わせるなど、一洋は何故、今この場にいるのか。

「外出するとは聞いていたが、随分遅いお帰りだな」

 ドアを開けて掛けられた言葉は、志貴に向いているようでテオバルドを質すものだった。
 受けて立つように、テオバルドが一洋に向き直る。 
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