196 / 237
17章
3
しおりを挟む
若葉よりも先に可憐な花が咲く姿は、何度見ても桜を連想させ、否応なく郷愁に駆られる。
「……東京の家の近くに、桜並木があるんだ」
いたずらな風が、ふわりと前髪を持ち上げる。窘めるように押さえながら、志貴は最も愛していた故郷の桜に想いを馳せた。
「長い坂道の両側に植えられていて、満開になると桜のトンネルになる。子供の頃、両親に手を繋いでもらって、真上を見ながら通り抜けるのが好きだった。陽が落ちかけて、橙が混じって色味が増した桜は本当に綺麗で……口を開けて見上げていたら、花びらが入ってしまって、ひどく噎せたこともあったっけ」
呟くように付け加えた思い出に、テオバルドが目を細め、からかう口調で訊ねる。
「不味かったのか」
「花びらの味は覚えていないけど、誰も集めて食べようとはしないから、特段おいしいものではないんだろう。でも、塩漬けした桜の葉で包んだ、春のお菓子があるよ。香りがとてもいいんだ。毎年季節になると母が買ってきてくれたものだけど、もう何年も食べていないな……」
花の稜線に縁取られた空は、母国へ、母と息子の住む国へ続いている。時折舞う花びらのように風に乗り、あの懐かしい国へと飛んでいけたら――国とそこに住む人々という重く大きなものではなく、大切な家族の側にいて、その生活を守る日々を過ごせたなら――。
そう思ってしまうのは、あと一押しと思うのに進まない和平工作から生じる弱音のせいだ。ままならない現実から逃避しようとする心が、桜に似た花に乗って、母国の家族へと飛んでいく。
それを助けるように強い風が撫でつけ、ざあっとアーモンドの花を揺らす。降る花びらを全身で受けながら空を見上げる志貴に、背後から男の腕が伸びる。腰に回った腕に驚き振り向こうとする前に、テオバルドの体が密着し、覆うように志貴を抱き締めた。
「テオ……っ」
「駄目だ」
周囲に誰もいないとはいえ、白昼の公園だ。
身を捩り、志貴は男の腕を振り払った。
「……駄目って、何がっ」
「行ってはダメだ。……消えてしまいそうだ、花に攫われて」
無理に抱きとめようとはせず、テオバルドが眩しいものを見るような眼差しを向けてくる。
見ているこちらが胸を掴まれるような、切なさの滲んだそれに、志貴は再び彼の中の焦燥を見る。馬鹿なことを、と軽口で返せばいいのに、それすらもできない。
帰りたくても帰国の術がない現状で、志貴はこの国に留まり、職務を果たす以外に途はない。それを知っているのに、テオバルドは志貴が彼の前から去ると思っているかのようだ。
いずれその日が来るとしても、それは戦争が終わった後――日欧間の交通手段が元に戻ってからの話だというのに。
「こうして花に飾られるのが、本当に似合う。桜のトンネルを通り抜けて、花びらをつまみ食いして、その上桜の菓子まで。常々あんたは花のような男だと思っていたが、納得だ。一見儚げで、淡くて綺麗なのも」
「一見、ね」
「……東京の家の近くに、桜並木があるんだ」
いたずらな風が、ふわりと前髪を持ち上げる。窘めるように押さえながら、志貴は最も愛していた故郷の桜に想いを馳せた。
「長い坂道の両側に植えられていて、満開になると桜のトンネルになる。子供の頃、両親に手を繋いでもらって、真上を見ながら通り抜けるのが好きだった。陽が落ちかけて、橙が混じって色味が増した桜は本当に綺麗で……口を開けて見上げていたら、花びらが入ってしまって、ひどく噎せたこともあったっけ」
呟くように付け加えた思い出に、テオバルドが目を細め、からかう口調で訊ねる。
「不味かったのか」
「花びらの味は覚えていないけど、誰も集めて食べようとはしないから、特段おいしいものではないんだろう。でも、塩漬けした桜の葉で包んだ、春のお菓子があるよ。香りがとてもいいんだ。毎年季節になると母が買ってきてくれたものだけど、もう何年も食べていないな……」
花の稜線に縁取られた空は、母国へ、母と息子の住む国へ続いている。時折舞う花びらのように風に乗り、あの懐かしい国へと飛んでいけたら――国とそこに住む人々という重く大きなものではなく、大切な家族の側にいて、その生活を守る日々を過ごせたなら――。
そう思ってしまうのは、あと一押しと思うのに進まない和平工作から生じる弱音のせいだ。ままならない現実から逃避しようとする心が、桜に似た花に乗って、母国の家族へと飛んでいく。
それを助けるように強い風が撫でつけ、ざあっとアーモンドの花を揺らす。降る花びらを全身で受けながら空を見上げる志貴に、背後から男の腕が伸びる。腰に回った腕に驚き振り向こうとする前に、テオバルドの体が密着し、覆うように志貴を抱き締めた。
「テオ……っ」
「駄目だ」
周囲に誰もいないとはいえ、白昼の公園だ。
身を捩り、志貴は男の腕を振り払った。
「……駄目って、何がっ」
「行ってはダメだ。……消えてしまいそうだ、花に攫われて」
無理に抱きとめようとはせず、テオバルドが眩しいものを見るような眼差しを向けてくる。
見ているこちらが胸を掴まれるような、切なさの滲んだそれに、志貴は再び彼の中の焦燥を見る。馬鹿なことを、と軽口で返せばいいのに、それすらもできない。
帰りたくても帰国の術がない現状で、志貴はこの国に留まり、職務を果たす以外に途はない。それを知っているのに、テオバルドは志貴が彼の前から去ると思っているかのようだ。
いずれその日が来るとしても、それは戦争が終わった後――日欧間の交通手段が元に戻ってからの話だというのに。
「こうして花に飾られるのが、本当に似合う。桜のトンネルを通り抜けて、花びらをつまみ食いして、その上桜の菓子まで。常々あんたは花のような男だと思っていたが、納得だ。一見儚げで、淡くて綺麗なのも」
「一見、ね」
30
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。



別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる