トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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17章

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(……焦りすぎだろうか)

 公使は外務大臣に直接公電を打てる立場にあるのだから、外務大臣を講和に傾けることができれば、聖断を仰ぐまであと一歩なのにと思ってしまうのは、拙速に過ぎるだろうか。

 大戦勃発前から日中戦争を戦っていた日本では、イギリスより早く配給制が導入されている。梶と志貴がスペインに赴任する前から、米、味噌、醤油、塩、砂糖を含む生活必需品は配給切符制となり、自由に手に入れることはできなくなっていた。
 その後アメリカに宣戦布告し、戦局厳しい今に至るまで、日々の生活で人々はどれほどの犠牲を強いられてきただろう。イギリスでは、小麦粉のかさ増しをすることで主食の配給化を免れているようだが、戦争の長期化で働き手も資源も軍に奪われ続ける状況で、母国の人々の腹を満たすだけの米が流通しているとは考えにくい。

 今年で六歳になる英は、お腹を空かせていないだろうか。頑健な人ではあるが、母は痩せてしまってはいないか。
 外交官特権で優先的に配給切符が支給されるため、この国で志貴が衣食住に困ることはない。だからこそ、苦境にある母と幼い息子を思わずにはいられない。
 ジェイムズも同じ思いでいるから、敢えてナショナル・ローフ――イギリスの苦しい内情を語ったのだろう。
 今は同じ苦境にあっても、自分たちはそれを不屈の闘志の燃料に変えて、遠からず勝利を掴む。何故なら、正義は我にある。そうした気概と示威を込め、早期の講和を強く促すために。

 レティーロ公園のいつものベンチに、珍しく先にテオバルドは座っていた。
 遠くからその姿を認め、志貴が年始のジェイムズを思い出したのは、近頃テオバルドからも苛立ちとも焦燥とも取れる気配を感じる時があるからだ。――ちょうど今のように。
 およそ焦燥など似合わない、かつては獰猛な牡牛を前にしても動じることなどなかったであろう男が、眉を寄せてじっと大池の水面を見つめている。
 いつもは軽佻浮薄を装う色男の、らしくない様子が胸の中に細波さざなみを立てるが、気づかないふりで志貴は声を掛けた。

「やあ、テオバルド。早いね」
「今日も綺麗だな、志貴。通りがけに、アーモンドの花を確認してきた。八分咲きといったところだから、花見と洒落込もう」

 過ぎた二回の春を経て、桜によく似たアーモンドの花を志貴が特別に好んでいることを、テオバルドは知っている。
 「生きたスペイン語を学ぶには、恋をするのが一番の近道だ。デートしよう」などとふざけた言い草の誘いを冷たく黙殺する志貴が、唯一異を唱えることなく大人しくついてくるのがアーモンドの花見ということを、このラテン男はしっかり学習しているのだ。ラテン男のマメさにはつくづく感心させられるが、花見に誘われ断る理由は志貴にはない。
 受け取った報告書をコートの内ポケットにしまい、連れ立って移動した先には、数本のアーモンドの木が植えられた一角がある。先々週見に来た時にはまだ硬い蕾ばかりだったのが、今日はやわらかな淡い薄桃の花冠を載せ、枝先を風にそよがせていた。
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