トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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14章

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 一洋は戻らないまま、マドリードは大晦日を迎えた。
 ジェイムズは降誕祭から年明けまで、イギリスに帰国している。最後に会ったのは帰国前にプレゼントを渡された時だが、どこか浮かれた様子に、いい年をしてよほど恋人と会うのが楽しみなのだな、と志貴は意地悪く思っていた。手渡されたものもクマのぬいぐるみではなく、繊細なティーカップと受け皿ソーサ―、ケーキ皿のトリオだったことも、そう揶揄する余裕をもたらした。
 中身は異星人だが、生まれも育ちも生粋の貴族なだけあり、こうしたものに対するジェイムズの趣味はいい。そう思っていた志貴に、

「我が家伝来のティーセットから、一客黙って失敬してきたのだ。今頃騒ぎになっているだろうから、家の者には、志貴に強請られたので持って行ったとだけ伝えておく。異議申し立てをしたいなら、自分で直接行きたまえ。では、良いクリスマスを!」

しゃあしゃあと言い放つと、ジェイムズは足取り軽く帰っていった。

 今年最後の悪童の仕打ちは、大きな宿題を志貴に残した。濡れ衣だと身の潔白を証明し貴重なトリオを返却するには、アスター家を訪れなければならない。そのためには和平を実現し、日英間の国交を回復させる必要がある。
 和平交渉の開始が遅れれば遅れるほど、状況は不利になる。その一方で、桐機関はアメリカの新兵器開発の関係者に食い込み始めている。圧倒的不利に陥り軍の体裁を保てなくなるまで敗北するのが先か、新型爆弾の情報を奪い一矢報いるのが先か――剣の刃先を裸足で渡るような危険な綱渡りが続いている。
 一等書記官の権限では外務大臣に公電を打てないため、その均衡を無理矢理にでも即時和平に傾けることはできない。地道に梶を説得し、ジェイムズとの連絡を密にして、状況が変わるのを待つことしか、今は手がないというのに。

(あの悪童め……!)

 重圧に、地面に足がめり込みそうだ。
 悲観はしないと決めた。諦めることもしないと決めた。
 外交官として、矢嶋周の息子として、自分一人だけの意志と力で、この難事業をやり遂げるのだ。――そう何度言い聞かせても、胸に空いた喪失感は今も塞がる気配がない。

「……イチ兄さん、どうか無事で……」

 誰もいない部屋で、そう声に出している自分に気づき、志貴は苦笑した。
 ガルシア夫人は昨日の午後から休みに入り、新年三日まで通ってこない。その間の食事は、たっぷり鍋に作り置きしてくれた煮込みと、専属の料理人がいる公使館で賄うように仰せつかっている。
 「年明けに鍋が空になっていなかったり、今以上に痩せていたら許しませんよ」ときついお達しも頂戴しており、この年末年始は養生に努めるしかなさそうだ。Uボートでの帰国の噂を聞いて以来、食事が疎かになりがちで、確かに少し痩せたかもしれない。こんな有り様では、待ち受ける難局に立ち向かうことなどできないだろう。
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