トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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14章

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 しかしテオバルドの真意は計り知れない。ピラールを過去の思い出として、今は本当に志貴の愛を欲しているのか。それとも二重スパイとして、いよいよ正念場に差し掛かったと手ぐすねを引いているのか。

 そう警戒することで、志貴は引きずり込まれずに済む。外交官としての責務と誇りが、完全に堕ちることを踏みとどまらせる。
 自分も十分卑怯だが、テオバルドは卑怯という概念すら意味のない存在――スパイなのだ。利用することに、何の遠慮が要るものか、と。

「――時々怖い目をするようになった。今みたいに」

 互いに歯を磨いて、たっぷりと交わした口づけは、昼間だというのに湿った音を立てるほど深いものだった。
 この五ヵ月で、指摘されずとも自覚するほど、志貴は口づけが上手くなった。数多の経験があるらしい男の技巧に磨かれ、その好み通りに仕込まれた。自発的に仕掛けるには羞恥心が邪魔をし、そもそも経験に乏しい志貴は、男のやり方を受け入れ、覚えるしかなかったのだ。
 舌と舌を絡め合わせて好きなだけ貪られ、喘ぐように呼吸を整える志貴と目を合わせながら、テオバルドが囁く。

「交尾した雄を食らう雌は、多分今のあんたみたいな目をしてる」
「……私はカマキリか」
「蜘蛛もそうだろ、むしろそっちの方があんたらしい。例えば、気づいた時には囚われている蜘蛛の巣の城の女主人、――ぴったりだ」

 揶揄に気がつき、志貴は眉をひそめた。蜘蛛が巣食う城の女主人――テオバルドがほのめかしているのは、おそらくマクベス夫人だ。
 夫の野心に油を注ぎ火をつけて、自身は狂乱の中に命を絶つ、マクベスの最愛の妻。野心を持ちながらも尻込みする夫の望みを、猛々しいほどの勇気を奮い叶えた強い女。そして、罪の重さに自滅する弱い女。
 そんな女に擬せられてうれしいはずもない。しかしテオバルドは歌うように言うのだ。

「俺のものになれよ、志貴。そうして耳元で毒を吹き込んでみろよ。あんたのためなら、身が滅ぶまで踊ってやる」

 両頬に手が添えられ、また顔が近付いている。今日の餌は、今与えたばかりだ。
 しかし、志貴は逃げなかった。逃げようとするのを邪魔する者があったのだ――志貴の中に。

 身震いするほどの歓喜が湧き上がり、全身を支配していた。過分な餌を欲しがる犬を制止する意思を、その悦びが封じてしまう。
 これは、内なる獣の咆哮だ。この獲物が欲しい、こんな好機があるものか、手に入れてしまえ、という叫びだ。

 迫る熱い唇を、志貴は従順に受けとめた。再びねっとりと口内をかき回されながら、痺れるような心地好さと自身への嫌悪に呻く。手に入れてはいけないものを欲しがる獣の手綱は、まだ切れていない。飼い主の立場は失われていない。欲しい言葉も口づけも、だからこんなに甘美で苦しいのだ。
 ソファに並んで座り、腕の中に抱き込まれたまま、志貴は口づけの形で示されたテオバルドの情熱を味わった。許されるのは、男の欲望の上澄みを味わうことだけだった。沈殿する裏切りの可能性ごと、テオバルドという杯を飲み干すことはできない。
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