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14章
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生まれた時から側にいる頼もしい幼馴染は、この閉塞した戦時下の欧州の片隅で、志貴の欲望すらも管理しようとする情の強い男となり――いつのまにか心の支えともなっていた。どうしても敵わない保護者として、そして『戦後』という明日を希求する同志として、一洋はいつも側にいたのだ。
その、大空のように見守り志貴を包む男が、いない。
武官は外交官パスポートを所持するため、同盟国と中立国であれば外交官待遇で行き来ができる。ただの将校より格が高く、ウィーン条約により身の安全は保証されている。それなのに、どうしてこれほど不安が募るのだろう――もう会えないのでは、という恐れが。
不吉な妄想を振り切るように、志貴は無理矢理微笑みを浮かべてみせた。
「そう思われるのは、黒木さんが健全であることの証拠です。でもここだけの話にしてください。中佐にはお聞かせしたくない話ですので」
「……非国民と責めないんですか」
「私は国益を第一に考えることにしてるんですよ。黒木さんが非国民なら、私もそうなります」
彼のような、平衡感覚に優れた健全な視野の持ち主は貴重だ。どのような形でこの戦争が終わろうと、国の再興に必要なのは黒木のような人物だ。
本心から口にすると、黒木は困ったような顔で頭を搔いた。
「まったく、矢嶋さんにはまいるなあ。まあ、衛藤さんにお聞かせしたくても、永久にできないかもしれないが。……矢嶋さんは聞いてますか? ドイツの潜水艦で、海軍の軍人さんが帰国してるって噂」
「……え?」
「朝普通に出勤した軍人さんが、突然消えてしまうんですよ。家の中も荷物もそのまま、身一つで」
「それは、誘拐されたのでは」
「ベルリンで日本の軍人が誘拐されたら、大騒ぎになりますよ。でもそうはならない。すぐに海軍武官府から人が着て、荷物やら何やらすべて処分して、消えた人間のことには一切触れないんだそうです」
「武官府が沈黙してるから、逆にお役人さんには伝わってないのかもしれませんね」と黒木は付け足した。スペインの民間邦人は大手の商社マンか新聞記者ばかりで、彼ら独自の情報網があるらしい。
「Uボートに乗せてもらえたとしても、途中の海域は敵の機雷がうようよしてるだろうから、一概に羨ましいとも言えませんがね。マドリードに戻ってくるのを祈るべきか、今頃日本に向かって航行中であることを祈るべきか。どちらが衛藤さんのためなんでしょうね」
「そうですね……」
どうにかその場をやり過ごし、午前中の業務を終えると、志貴は昼食に帰宅する黒木を見送った。午後は用事があるから、と武官府での勤務に切り替えてもらうように促し、一人になった部屋で、黒木から聞かされた噂を反芻していた。
(Uボートで帰国……)
考えられない話ではない。シベリア鉄道しか帰国の途がなく、それもソ連が通過査証の発給を殆ど停止している状況で、日独間で人員や物資の輸送を行おうとすれば、むしろ潜水艦での輸送しか考えられない。
その、大空のように見守り志貴を包む男が、いない。
武官は外交官パスポートを所持するため、同盟国と中立国であれば外交官待遇で行き来ができる。ただの将校より格が高く、ウィーン条約により身の安全は保証されている。それなのに、どうしてこれほど不安が募るのだろう――もう会えないのでは、という恐れが。
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考えられない話ではない。シベリア鉄道しか帰国の途がなく、それもソ連が通過査証の発給を殆ど停止している状況で、日独間で人員や物資の輸送を行おうとすれば、むしろ潜水艦での輸送しか考えられない。
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