トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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13章

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 彼の行動には意味がある。
 ムッソリーニが権力の座を追われ、イタリアが降伏し、枢軸国の一角が崩れたのは先月のことだ。それを待っていたかのように、彼は毎週日曜日の夜、志貴の部屋を訪れるようになった。いつもなら『薬』の処方が行われる夜だが、一洋は今、マドリードを離れている。
 彼には立場があり、それゆえにその行動には意味がある――と志貴は思いたかった。こうして日本公使館一等書記官の住まいを単身訪れ、呑気にガルシア夫人の手料理に舌鼓を打っては惜しみなく賛辞を贈っている、イギリス大使館参事官のすることには。

「この国の暑さには日々殺意を抱いていたが、その去り際ときたらどうだ。つれない恋人のようじゃないか。情熱的な夜のことなど微塵も匂わせず、追い縋ろうにも冷ややかな一瞥でこちらを薙ぎ払う」

 切なげなため息には、大人の男の色気が滲む。恨めしそうな口調といい、過去の実体験を窺わせるが、この場には不似合い――というより甚だ不適切だ。
 イギリスの参事官の発言として何か含みがあるのでは、と往生際悪くあらゆる可能性を脳内演算してみても、この国の気候にかこつけて、つれない恋人への恨み節を聞かされている、という不本意な結論しか出てこない。

(どんな相手か知りませんが、貴方の、恋人の扱い方に問題があるに決まっています)

 三十男をクマのぬいぐるみ扱いしている時点で、はっきりそう断言できる。声に出して言いたいのをぐっと堪え、手にしたワインで喉を湿らせてから、志貴は冷ややかに答えた。

「おかげで肉と豆の煮込みコシードがより美味しく感じられる季節になったでしょう。そもそも貴方は夏の間、『この国の夏はまるでなっていない、暑すぎる!』と文句を垂れていたじゃないですか」
「そして君は、『おかげでサングリアの美味しさが際立ちますね』と澄まし顔で言っていたな」
「季節に逆らわず、共に生きる日本人なんですよ、私は」
「志貴は昔から、聞き分けが良すぎる」
「……貴方の口から、聞き分けなどという言葉を聞く日が来るとは思いませんでした」
「勿論それくらい知っているとも」

 心外そうに答えたジェイムズは、「私には無縁な言葉ではあるが」と付け足すことで、意図せず志貴を返り討ちにした。

(まさかとは思うけど……本当に夕食を食べに来ているだけ……?)

 何度排除しても不死鳥のように蘇る、考慮したくない可能性が、ずしりと頭上から伸し掛かる。

 枢軸国の外交官宅を、連合国の外交官が個人的に訪問する――しかもイタリア降伏直後から、毎週。
 否応なくスペイン外交界の耳目を集める事態を引き起こしておきながら、その目的がガルシア夫人の手料理のみ、などということがあるだろうか。――一洋が不在にしている今は、好きなだけ志貴宅を訪れる好機ではあるのだが。
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