トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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12章

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「そう、あんたは清らかで儚げな美人の上に、気高くて強い。生半可な気持ちで手を出せる相手じゃないから、誰も言い寄れなかっただけだ。俺もそれに安心して、悠長に紳士らしく口説いてたんだが、――どうもそうは言ってられなくなったようだ」

 不意にテオバルドの指が志貴の首に掛かり、シャツの襟をぐっと後ろに引き下げた。
 正面から鏡で見ても確認できない、襟でぎりぎり隠れる首の斜め後ろに、痕がある。一昨日の月曜日、『スペイン語』の時には、生々しいほど鮮やかだった赤い痕。二日が経ち、薄くなったそれは、至近距離ですぐ後ろに立ち、高いところから見下ろさなければ見えない場所にある。
 一昨日見つけたそれを探るようにテオバルドの指先が滑り、志貴はびくっと身を引く。突然首筋に触れられ、警戒の中に困惑を浮かべてテオバルドを見つめる。
 それを付けた者と、志貴が座る後ろから近づき、声を掛ける人間だけが気付く痕――志貴すらも知らない秘密が、二人の男の間で共有されている。

「言えよ。……衛藤と寝てるのか」

 突然首に触れられ、さらに唐突で明け透けな問いを突きつけられ、志貴は激しく動揺した。一洋の名を出され、咄嗟に毎週行われる『薬』の処方を思い出してしまい、――彼との間には何もない、と言うことができなかった。

「中佐とは、――昔、一度、接吻しただけだ」

 混乱したまま答え、男の手を払ったが、その怯えたようにも見える様子に、テオバルドの声が苛立ちを増す。

「昔、一度! 接吻しただけ! ――堂に入った悪女の言い草じゃないか」
「君だって、接吻したじゃないか」

 挑発的な調子に、動揺に晒されていても、つい志貴はきつく言い返していた。ニヤリと口元を歪めて、テオバルドが受けて立つ。

「そう、たった三度――今ので四度『接吻しただけ』だ。あんまりよかったんで、時々それで抜いてたくらいだ」

 知りたくもないことを赤裸々にぶつけられ、かっと顔に血が上る。妄想だけで男を性欲処理の道具にできるなど、志貴の想像の域を超えている。
 それなのに、身の内に息づく未知の部分――別の生き物のようなそれは、歓喜しているのだ。――自身がテオバルドを惑わせていることに。
 身震いし、思わずソファの上で後退ったが、その分男は間を詰めてくる。

「どういう状況で衛藤としたのか教えろよ」

 睨みつけたが、まるで意に介さず、テオバルドは唸るように言い重ねた。

「教えないなら、あんたが俺とも『接吻』したことを衛藤に言うぞ。そしたら奴も、あんたにどんな『接吻』をしたのか、懇切丁寧に教えてくれるかもな」
「……私は、身代わりだ。中佐が口づけたい人は他にいる」

 露骨な脅迫に、志貴は折れるしかなかった。
 テオバルドとの間にあったことを――あの桜の木の下の思い出を、知らないところで二人が言い合うなど、空恐ろしくて想像するのも耐えられない。志貴が知る限り、二人は昨年末に二度ほど顔を合わせていたが、初対面時は何故かあまりいい空気ではなかった。
 それに男との口づけなど、当事者以外に知られていいことではない。
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