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12章
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「……俺にキスしてほしいんだな」
冷静な声音だが、その目には押さえつけた感情が滲み、炯っている。不自然なほど視線を志貴に据えたまま、テオバルドは素早くテーブルを回り込み、微動だにしない志貴のすぐ横に腰を落とした。
「従順な飼い犬の名前も呼べないなんて、悪い飼い主だ……。たまにはちゃんと餌を与えてみせろ」
「餌?」
「この冷酷な飼い主は、ろくに餌やりもしない。餌は犬が自分で狩る物だと思ってる。だが普通は手ずから与えるものだ。それに、俺が涎を垂らして欲しがる餌を、本当はあんたも味わいたいんだろう」
「私は、何も欲しくない」
テオと呼んでくれる唯一の――自ら囚われ、過去を向いたままの女の代わりを、密かに志貴に求めていた男。
他人の恋愛感情は志貴を素通りするもので、正面から受けとめる努力をしたのは、亡き妻のものだけだった。それ以外は、博物館の陳列品のように興味深いが、自身には関わりのないものと思って生きてきた。母に対する一洋の恋情も、この状況で歪み形を変えたことで痛みを伴うようになったが、あくまで志貴を通り過ぎるだけのものだ。
だから、その正体を知った今、テオバルドの身勝手な感情にも心を乱されることはない。――そのはずなのに、こうして近づいてくる顔を避けることなく、自ら搦め捕られようとしているのは何故なのか。
テオバルドを搦め捕ろうと頭を擡げている、今自分の中に生まれた見知らぬ生き物は、何なのか。
「本当に、狡い男だ……」
逃げる素振りを見せない志貴の頬を両手で包むと、男は掠れた声で囁きながら顔を傾け、唇を重ねてきた。その熱を味わうように、志貴はそっと瞼を閉じる。
テオバルドがどんな顔をしているのか、見たくなかった。そして、テオバルドの目に映る自分が、どんな顔をしているのかも。
柔かく押し付けるだけの秘めやかな口づけは、コマ送りのような緩やかさで志貴の唇を通り過ぎた。
「牙を抜かれた、惨めな飼い犬を憐れんでるつもりか」
大きな手のひらが、頬を撫でてくる。闘牛士であり戦場記者であったテオバルドの手は固く、よく知る別の男の手を思い出させた。
その人は、少年の日の過ち以外に、こうして志貴の顔に触れ、唇を求めることはなかったが――。そんなことを思う自分を、志貴は恥じた。こんな不埒な場で、大切な幼馴染を思い出してしまったことで、彼を穢してしまったような気がした。
「牙がなくてもこんなに危険なら、昔の君は、私の手には負えなかっただろうな」
ひそめた声で志貴は答える。
急用がない限り誰も呼びに来ないが、ここは一等書記官の執務室だ。神聖な職場で不適切な行為をしているという自覚が、今更ながら羞恥と罪悪感を生むが、弛んだ手綱を引き締めるにはもう遅い。
目の前の男は、志貴の頬を撫でる手を離そうとはしない。
「どんな猛獣も飼い慣らしそうなくせに、何を言ってる」
「――君は私をどんな人間だと思ってるんだ」
「冷たい鞭と甘い餌で獣を手懐ける、性質の悪い飼い主だろ」
「性質の悪いって……自分のことを棚に上げて、よく言う…――」
冷静な声音だが、その目には押さえつけた感情が滲み、炯っている。不自然なほど視線を志貴に据えたまま、テオバルドは素早くテーブルを回り込み、微動だにしない志貴のすぐ横に腰を落とした。
「従順な飼い犬の名前も呼べないなんて、悪い飼い主だ……。たまにはちゃんと餌を与えてみせろ」
「餌?」
「この冷酷な飼い主は、ろくに餌やりもしない。餌は犬が自分で狩る物だと思ってる。だが普通は手ずから与えるものだ。それに、俺が涎を垂らして欲しがる餌を、本当はあんたも味わいたいんだろう」
「私は、何も欲しくない」
テオと呼んでくれる唯一の――自ら囚われ、過去を向いたままの女の代わりを、密かに志貴に求めていた男。
他人の恋愛感情は志貴を素通りするもので、正面から受けとめる努力をしたのは、亡き妻のものだけだった。それ以外は、博物館の陳列品のように興味深いが、自身には関わりのないものと思って生きてきた。母に対する一洋の恋情も、この状況で歪み形を変えたことで痛みを伴うようになったが、あくまで志貴を通り過ぎるだけのものだ。
だから、その正体を知った今、テオバルドの身勝手な感情にも心を乱されることはない。――そのはずなのに、こうして近づいてくる顔を避けることなく、自ら搦め捕られようとしているのは何故なのか。
テオバルドを搦め捕ろうと頭を擡げている、今自分の中に生まれた見知らぬ生き物は、何なのか。
「本当に、狡い男だ……」
逃げる素振りを見せない志貴の頬を両手で包むと、男は掠れた声で囁きながら顔を傾け、唇を重ねてきた。その熱を味わうように、志貴はそっと瞼を閉じる。
テオバルドがどんな顔をしているのか、見たくなかった。そして、テオバルドの目に映る自分が、どんな顔をしているのかも。
柔かく押し付けるだけの秘めやかな口づけは、コマ送りのような緩やかさで志貴の唇を通り過ぎた。
「牙を抜かれた、惨めな飼い犬を憐れんでるつもりか」
大きな手のひらが、頬を撫でてくる。闘牛士であり戦場記者であったテオバルドの手は固く、よく知る別の男の手を思い出させた。
その人は、少年の日の過ち以外に、こうして志貴の顔に触れ、唇を求めることはなかったが――。そんなことを思う自分を、志貴は恥じた。こんな不埒な場で、大切な幼馴染を思い出してしまったことで、彼を穢してしまったような気がした。
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