トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

文字の大きさ
上 下
142 / 237
12章

11

しおりを挟む
「……俺にキスしてほしいんだな」

 冷静な声音だが、その目には押さえつけた感情が滲み、炯っている。不自然なほど視線を志貴に据えたまま、テオバルドは素早くテーブルを回り込み、微動だにしない志貴のすぐ横に腰を落とした。

「従順な飼い犬の名前も呼べないなんて、悪い飼い主だ……。たまにはちゃんと餌を与えてみせろ」
「餌?」
「この冷酷な飼い主は、ろくに餌やりもしない。餌は犬が自分で狩る物だと思ってる。だが普通は手ずから与えるものだ。それに、俺が涎を垂らして欲しがる餌を、本当はあんたも味わいたいんだろう」
「私は、何も欲しくない」

 テオと呼んでくれる唯一の――自ら囚われ、過去を向いたままの女の代わりを、密かに志貴に求めていた男。
 他人の恋愛感情は志貴を素通りするもので、正面から受けとめる努力をしたのは、亡き妻のものだけだった。それ以外は、博物館の陳列品のように興味深いが、自身には関わりのないものと思って生きてきた。母に対する一洋の恋情も、この状況で歪み形を変えたことで痛みを伴うようになったが、あくまで志貴を通り過ぎるだけのものだ。
 だから、その正体を知った今、テオバルドの身勝手な感情にも心を乱されることはない。――そのはずなのに、こうして近づいてくる顔を避けることなく、自ら搦め捕られようとしているのは何故なのか。
 テオバルドを搦め捕ろうと頭を擡げている、今自分の中に生まれた見知らぬ生き物は、何なのか。

「本当に、狡い男だ……」

 逃げる素振りを見せない志貴の頬を両手で包むと、男は掠れた声で囁きながら顔を傾け、唇を重ねてきた。その熱を味わうように、志貴はそっと瞼を閉じる。
 テオバルドがどんな顔をしているのか、見たくなかった。そして、テオバルドの目に映る自分が、どんな顔をしているのかも。
 柔かく押し付けるだけの秘めやかな口づけは、コマ送りのような緩やかさで志貴の唇を通り過ぎた。

「牙を抜かれた、惨めな飼い犬を憐れんでるつもりか」

 大きな手のひらが、頬を撫でてくる。闘牛士であり戦場記者であったテオバルドの手は固く、よく知る別の男の手を思い出させた。
 その人は、少年の日の過ち以外に、こうして志貴の顔に触れ、唇を求めることはなかったが――。そんなことを思う自分を、志貴は恥じた。こんな不埒な場で、大切な幼馴染を思い出してしまったことで、彼を穢してしまったような気がした。

「牙がなくてもこんなに危険なら、昔の君は、私の手には負えなかっただろうな」

 ひそめた声で志貴は答える。
 急用がない限り誰も呼びに来ないが、ここは一等書記官の執務室だ。神聖な職場で不適切な行為をしているという自覚が、今更ながら羞恥と罪悪感を生むが、弛んだ手綱を引き締めるにはもう遅い。
 目の前の男は、志貴の頬を撫でる手を離そうとはしない。

「どんな猛獣も飼い慣らしそうなくせに、何を言ってる」
「――君は私をどんな人間だと思ってるんだ」
「冷たい鞭と甘い餌で獣を手懐ける、性質の悪い飼い主だろ」
「性質の悪いって……自分のことを棚に上げて、よく言う…――」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

処理中です...