トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

文字の大きさ
上 下
127 / 237
11章

8

しおりを挟む
 視界の端に映る待ち合わせの相手は、テオバルドではない。『スペイン語』をキャンセルし、それでもレティーロ公園に足を運んだのは、面会を求めてきた人物がいたからだ。
 フェデリコ・ナヴァス――政権の親枢軸国派の急先鋒だった元外相だ。

「お久しぶりです、セニョール・ナヴァス。お元気でしたか」
「君もね、少し痩せたようだ。きちんと食べているのかね」

 開口一番、特に親しいわけでもない知人に食事の心配をされては、苦笑するしかない。梶と一洋、たまにジェイムズ、そして彼らの意を受けたガルシア夫人の監視の下、食事はきちんと摂るようになっていた。それでもこうして口を挟まれる隙があるとは、誰からも何も言われなくなるためには、でっぷりと太ってみせなければならないのだろうか。

「さほど暑くなくて、気持ちのいい日だ。散歩日和だと思わんかね」
「ええ」

 頷きながらベンチの隣を勧めると、ナヴァスはゆっくりと腰掛けて息をついた。気温が高くなくても、雲一つない真昼の日差しはきつく、地面に突き刺さるようだ。昼休みの帰宅以外に、この時間に外を出歩く人間は少ない。

「君は今も、夏でも外で『スペイン語』の勉強をしているようだが、私も酔狂な一人でね。外相を辞して時間だけはあるから、暑い中を毎日あちこち出歩いているんだよ」
「酔狂ではありますが、木陰を選べば健康にはいいですよ。水分補給をお忘れなく」
「酔狂仲間の忠告か、心に留めるよ」

 手の甲で軽く額の汗を押さえながら、何気ない口調でナヴァスが続ける。

「君も、この酔狂仲間の忠告を聞く気はないかね」
「喜んで」
「――中立国に赴任した外交官にしかできない務めについて、考えたことは?」

 お気に入りのチュロス屋チュレリアを訊ねるような口ぶりだが、真意を測りかねる問いだ。志貴は慎重に問いを重ねた。

「……どういう意味でしょう」
「和平工作だよ」

 字面は穏やかだが威力の高い一撃に、言葉を失う。思い掛けない人物から思い掛けない言葉を聞かされ、咄嗟に反応できない。
 それも織り込み済みなのか、ナヴァスは前を向いたまま、わざとらしいため息をついた。

「仕事を失ってから気がついたが、私はあまり余暇を楽しめない人間のようだ。――いや、余暇なら楽しむことができる。仕事をした余りの時間を楽しむことなら。今は起きてから寝るまでが余暇だ。ずっと家にいると家族に煙たがられて、居場所がない。そうすると、嫌でも外を出歩く羽目になるわけだ」

 皮肉気に夏の昼間の散歩の実情を吐露するが、その横顔には、大戦の両陣営と渡り合ってきた外相に相応しい、狡猾な笑みが浮かんでいる。

「私はまだこの国の役に立てる。ドイツに傾倒したことが誤りなら、それを正せば戻る場所はあるはずだ」
「誤りを正すとは……」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

処理中です...