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11章
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視界の端に映る待ち合わせの相手は、テオバルドではない。『スペイン語』をキャンセルし、それでもレティーロ公園に足を運んだのは、面会を求めてきた人物がいたからだ。
フェデリコ・ナヴァス――政権の親枢軸国派の急先鋒だった元外相だ。
「お久しぶりです、セニョール・ナヴァス。お元気でしたか」
「君もね、少し痩せたようだ。きちんと食べているのかね」
開口一番、特に親しいわけでもない知人に食事の心配をされては、苦笑するしかない。梶と一洋、たまにジェイムズ、そして彼らの意を受けたガルシア夫人の監視の下、食事はきちんと摂るようになっていた。それでもこうして口を挟まれる隙があるとは、誰からも何も言われなくなるためには、でっぷりと太ってみせなければならないのだろうか。
「さほど暑くなくて、気持ちのいい日だ。散歩日和だと思わんかね」
「ええ」
頷きながらベンチの隣を勧めると、ナヴァスはゆっくりと腰掛けて息をついた。気温が高くなくても、雲一つない真昼の日差しはきつく、地面に突き刺さるようだ。昼休みの帰宅以外に、この時間に外を出歩く人間は少ない。
「君は今も、夏でも外で『スペイン語』の勉強をしているようだが、私も酔狂な一人でね。外相を辞して時間だけはあるから、暑い中を毎日あちこち出歩いているんだよ」
「酔狂ではありますが、木陰を選べば健康にはいいですよ。水分補給をお忘れなく」
「酔狂仲間の忠告か、心に留めるよ」
手の甲で軽く額の汗を押さえながら、何気ない口調でナヴァスが続ける。
「君も、この酔狂仲間の忠告を聞く気はないかね」
「喜んで」
「――中立国に赴任した外交官にしかできない務めについて、考えたことは?」
お気に入りのチュロス屋を訊ねるような口ぶりだが、真意を測りかねる問いだ。志貴は慎重に問いを重ねた。
「……どういう意味でしょう」
「和平工作だよ」
字面は穏やかだが威力の高い一撃に、言葉を失う。思い掛けない人物から思い掛けない言葉を聞かされ、咄嗟に反応できない。
それも織り込み済みなのか、ナヴァスは前を向いたまま、わざとらしいため息をついた。
「仕事を失ってから気がついたが、私はあまり余暇を楽しめない人間のようだ。――いや、余暇なら楽しむことができる。仕事をした余りの時間を楽しむことなら。今は起きてから寝るまでが余暇だ。ずっと家にいると家族に煙たがられて、居場所がない。そうすると、嫌でも外を出歩く羽目になるわけだ」
皮肉気に夏の昼間の散歩の実情を吐露するが、その横顔には、大戦の両陣営と渡り合ってきた外相に相応しい、狡猾な笑みが浮かんでいる。
「私はまだこの国の役に立てる。ドイツに傾倒したことが誤りなら、それを正せば戻る場所はあるはずだ」
「誤りを正すとは……」
フェデリコ・ナヴァス――政権の親枢軸国派の急先鋒だった元外相だ。
「お久しぶりです、セニョール・ナヴァス。お元気でしたか」
「君もね、少し痩せたようだ。きちんと食べているのかね」
開口一番、特に親しいわけでもない知人に食事の心配をされては、苦笑するしかない。梶と一洋、たまにジェイムズ、そして彼らの意を受けたガルシア夫人の監視の下、食事はきちんと摂るようになっていた。それでもこうして口を挟まれる隙があるとは、誰からも何も言われなくなるためには、でっぷりと太ってみせなければならないのだろうか。
「さほど暑くなくて、気持ちのいい日だ。散歩日和だと思わんかね」
「ええ」
頷きながらベンチの隣を勧めると、ナヴァスはゆっくりと腰掛けて息をついた。気温が高くなくても、雲一つない真昼の日差しはきつく、地面に突き刺さるようだ。昼休みの帰宅以外に、この時間に外を出歩く人間は少ない。
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手の甲で軽く額の汗を押さえながら、何気ない口調でナヴァスが続ける。
「君も、この酔狂仲間の忠告を聞く気はないかね」
「喜んで」
「――中立国に赴任した外交官にしかできない務めについて、考えたことは?」
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「……どういう意味でしょう」
「和平工作だよ」
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それも織り込み済みなのか、ナヴァスは前を向いたまま、わざとらしいため息をついた。
「仕事を失ってから気がついたが、私はあまり余暇を楽しめない人間のようだ。――いや、余暇なら楽しむことができる。仕事をした余りの時間を楽しむことなら。今は起きてから寝るまでが余暇だ。ずっと家にいると家族に煙たがられて、居場所がない。そうすると、嫌でも外を出歩く羽目になるわけだ」
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「誤りを正すとは……」
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