トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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9章 ※

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「海軍武官府に決まっている。衛藤の職場だろう」
「交戦国の武官府に、外交官である貴方が電話したというんですか」
「耳が遠くなったか? そう言っている」

 クマのぬいぐるみと同等の抱き枕扱いされたことすらも吹き飛ぶ事態に、まるで非はないにもかかわらず、一洋に謝らなければ、と志貴は何度もこめかみを揉んだ。
 この調子では、一洋が敵国の外交官から名指しで職場に電話される事態は、何度もあったはずだ。ジェイムズに常識は通用しないとわかっていたが、まさか一洋がその犠牲になっていたとは。
 これまで一洋から、ジェイムズについて苦情を言われたことはなかった。黙って防波堤になってくれていたのだろう。海軍武官府の面々には、彼がイギリスと通じているなどとくれぐれも疑わないように、次に会った時にしっかり説明しなければならない。

(ジェイムズが同僚じゃなくてよかった……)

 自身も敵国の外交官に職場を突撃されている真っ最中にもかかわらず、志貴はジェイムズの上官であるイギリス大使の胃と神経の無事を願った。
 この悪童の手綱を握ることができる人物が、この世にいるとは思えない。今日もこうして日本公使館ここにいることで、ジェイムズは大使の神経を衰弱させているのだろう。
 背筋から力が抜け、ぐったりソファに背を預けてしまったその時。向かい合う二人の間に、緊迫した調子のノックの音が響いた。

「はい、どうぞ」
「来客中に失礼します。矢嶋さん、ちょっと……」

 扉口で書記生が、日本語で小さく声を掛けてくる。
 来客中、しかもある意味最も取り扱いが難しく、誰も相手をしたがらない敵国の参事官が来ている時、一等書記官室に近寄ろうとする者はいない。珍しいなと思いながら「失礼」とジェイムズに声を掛け、廊下に出た志貴に、書記生は青ざめた顔で告げた。

「本国から入電です。山本提督が、戦死されたと」

 山本提督――山本五十六海軍大将。連合艦隊司令長官、つまり海軍の要であり――桐機関の設立にも間接的に影響をもたらした人物だ。

「梶さんに連絡は」
「外出先に人をやりました。すぐに戻られると思います」
「そうですか、ありがとう。梶さんが戻られるまで、いつも通りに業務を続けてください」

 動揺を隠せないまま頷いた書記生の背中を見送ると、志貴は短く深呼吸した。

「すみません、ジェイムズ卿。せっかくお越しいただきましたが、」
「何やら急を要するようだな」

 何事もなかったように室内に戻ると、立ち上がったジェイムズが帰り支度をしている。追い出す前に帰る気になってくれたのは助かるが、つまりは書記生との短いやりとりで何か勘づいたのだ。
 ただ傍若無人で鈍感な扱いやすい男だったらよかったのだが、ジェイムズはある意味でわかりやすいが単純ではなく、さらには無能でもない。他人の心情を慮ることはしないが、場の空気は目敏く読む。

(本当に厄介な……。でも、意外に外交官向きかもしれない)

 特に戦時下の今は、と思いながら玄関まで見送るべく並んで廊下を歩く。いかにも残念という風情で、ジェイムズが声を掛けてくる。
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