トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

文字の大きさ
上 下
90 / 237
8章 ※

6

しおりを挟む
「どうして僕だけが、愚痴ったり当たったりしていいの。ここにいる人は皆同じようなことを思っていて、でも腹に溜めて口にはしないのに」

 逆鱗に触れてまた酷いことをされないように、控えめに反論するが、苦笑しながらあっさりと流された。

「志貴の前ではお利口な振りをしてるが、いないところでは皆適当にガス抜きをしている。特に商社や新聞の連中は、旅女房と称して女を連れ込んで暮らしてるのが殆どだ」
「……女中だと、思ってた」
「表向きはな。娼館通いをせずに女を抱けて、家のこともしてくれる。旅女房と言ったところで、とどのつまりは便利で都合の良い女だ。あちらはあちらで、内戦で旦那を亡くして、食うにも困る子持ちの寡婦が多いから、互助の側面もあるだろうが」

 民間の駐在員は、国に妻子がいる者が殆どだ。酒が入ってしんみりすると、望郷の念から、妻に会いたい、子に会いたい、老親が心配だと零すのは常のことだった。
 しかし、それとこれとは話は別、ということなのだろう。戦時下の異国での生活で疲弊した心身を癒す術として、ひととき妻とは別の恋人を作ることを、志貴は責めるべきとは思わない。強制した関係でなければ、それは当人たちの問題だからだ。

「でも、だからって、こんなこと……」

 彼らが現地妻を持つのと、こうして一洋に無理矢理欲望を解放されるのは、同じこととして片付けていいとは思えなかった。
 二人は恋人同士ではなく、一洋の行為は一方的なものだ。一洋ばかりが志貴を気遣い、悩みから解放しようとしている。年上の、絶対的な保護者として――それは、対等な関係ではない。

「お前は今、迷子になってるんだ。誰よりも広い視野を持ちながら、極端に視界が狭くなってしまっている。それでは、情報が武器であり戦果である俺たちの戦場では戦えない。貴重な戦力だからこそ、俺も梶さんも志貴を心配してるんだ。今ここで倒れられては困ると」

 労わるように、一洋が欲しい言葉を与えてくれる。これまでの仕事を認めてくれている。貴重な戦力と認めてくれている。
 でもそれは、一洋も梶も同じなのだ。彼らも貴重な戦力であり、倒れられては困る同胞だ。それなのに、自分一人だけが庇護されている。それが嫌なのだ。
 不満が顔に出たのだろう。心を覆う鎧を剥ぎ取られても、なかなか聞き分けようとしない年下の弟分に、一洋はため息をつく。

「まったく、お前は昔から妙なところが頑固だな。大体、気持ちよくしてもらって何が不満だ」
「きっ……!」
「悦く、してやっただろう?」

 色悪めいた艶やかな表情を浮かべ、一洋が覗き込んでくる。急に男の色気が匂い立つような――平素の堅い軍服姿からは想像もつかない幼馴染の変貌に、ぞくりと背筋が震える。
 胸の奥を疼かせるあやうさに戸惑い、咄嗟に思い切り首を振ってしまったのは失敗だった。間近にある男の顔が、得体の知れない笑みの形に歪んだのだ。

「……そうか、悪かった。認めるほどは悦くなかったか」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

処理中です...