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8章 ※
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「どうして僕だけが、愚痴ったり当たったりしていいの。ここにいる人は皆同じようなことを思っていて、でも腹に溜めて口にはしないのに」
逆鱗に触れてまた酷いことをされないように、控えめに反論するが、苦笑しながらあっさりと流された。
「志貴の前ではお利口な振りをしてるが、いないところでは皆適当にガス抜きをしている。特に商社や新聞の連中は、旅女房と称して女を連れ込んで暮らしてるのが殆どだ」
「……女中だと、思ってた」
「表向きはな。娼館通いをせずに女を抱けて、家のこともしてくれる。旅女房と言ったところで、とどのつまりは便利で都合の良い女だ。あちらはあちらで、内戦で旦那を亡くして、食うにも困る子持ちの寡婦が多いから、互助の側面もあるだろうが」
民間の駐在員は、国に妻子がいる者が殆どだ。酒が入ってしんみりすると、望郷の念から、妻に会いたい、子に会いたい、老親が心配だと零すのは常のことだった。
しかし、それとこれとは話は別、ということなのだろう。戦時下の異国での生活で疲弊した心身を癒す術として、ひととき妻とは別の恋人を作ることを、志貴は責めるべきとは思わない。強制した関係でなければ、それは当人たちの問題だからだ。
「でも、だからって、こんなこと……」
彼らが現地妻を持つのと、こうして一洋に無理矢理欲望を解放されるのは、同じこととして片付けていいとは思えなかった。
二人は恋人同士ではなく、一洋の行為は一方的なものだ。一洋ばかりが志貴を気遣い、悩みから解放しようとしている。年上の、絶対的な保護者として――それは、対等な関係ではない。
「お前は今、迷子になってるんだ。誰よりも広い視野を持ちながら、極端に視界が狭くなってしまっている。それでは、情報が武器であり戦果である俺たちの戦場では戦えない。貴重な戦力だからこそ、俺も梶さんも志貴を心配してるんだ。今ここで倒れられては困ると」
労わるように、一洋が欲しい言葉を与えてくれる。これまでの仕事を認めてくれている。貴重な戦力と認めてくれている。
でもそれは、一洋も梶も同じなのだ。彼らも貴重な戦力であり、倒れられては困る同胞だ。それなのに、自分一人だけが庇護されている。それが嫌なのだ。
不満が顔に出たのだろう。心を覆う鎧を剥ぎ取られても、なかなか聞き分けようとしない年下の弟分に、一洋はため息をつく。
「まったく、お前は昔から妙なところが頑固だな。大体、気持ちよくしてもらって何が不満だ」
「きっ……!」
「悦く、してやっただろう?」
色悪めいた艶やかな表情を浮かべ、一洋が覗き込んでくる。急に男の色気が匂い立つような――平素の堅い軍服姿からは想像もつかない幼馴染の変貌に、ぞくりと背筋が震える。
胸の奥を疼かせるあやうさに戸惑い、咄嗟に思い切り首を振ってしまったのは失敗だった。間近にある男の顔が、得体の知れない笑みの形に歪んだのだ。
「……そうか、悪かった。認めるほどは悦くなかったか」
逆鱗に触れてまた酷いことをされないように、控えめに反論するが、苦笑しながらあっさりと流された。
「志貴の前ではお利口な振りをしてるが、いないところでは皆適当にガス抜きをしている。特に商社や新聞の連中は、旅女房と称して女を連れ込んで暮らしてるのが殆どだ」
「……女中だと、思ってた」
「表向きはな。娼館通いをせずに女を抱けて、家のこともしてくれる。旅女房と言ったところで、とどのつまりは便利で都合の良い女だ。あちらはあちらで、内戦で旦那を亡くして、食うにも困る子持ちの寡婦が多いから、互助の側面もあるだろうが」
民間の駐在員は、国に妻子がいる者が殆どだ。酒が入ってしんみりすると、望郷の念から、妻に会いたい、子に会いたい、老親が心配だと零すのは常のことだった。
しかし、それとこれとは話は別、ということなのだろう。戦時下の異国での生活で疲弊した心身を癒す術として、ひととき妻とは別の恋人を作ることを、志貴は責めるべきとは思わない。強制した関係でなければ、それは当人たちの問題だからだ。
「でも、だからって、こんなこと……」
彼らが現地妻を持つのと、こうして一洋に無理矢理欲望を解放されるのは、同じこととして片付けていいとは思えなかった。
二人は恋人同士ではなく、一洋の行為は一方的なものだ。一洋ばかりが志貴を気遣い、悩みから解放しようとしている。年上の、絶対的な保護者として――それは、対等な関係ではない。
「お前は今、迷子になってるんだ。誰よりも広い視野を持ちながら、極端に視界が狭くなってしまっている。それでは、情報が武器であり戦果である俺たちの戦場では戦えない。貴重な戦力だからこそ、俺も梶さんも志貴を心配してるんだ。今ここで倒れられては困ると」
労わるように、一洋が欲しい言葉を与えてくれる。これまでの仕事を認めてくれている。貴重な戦力と認めてくれている。
でもそれは、一洋も梶も同じなのだ。彼らも貴重な戦力であり、倒れられては困る同胞だ。それなのに、自分一人だけが庇護されている。それが嫌なのだ。
不満が顔に出たのだろう。心を覆う鎧を剥ぎ取られても、なかなか聞き分けようとしない年下の弟分に、一洋はため息をつく。
「まったく、お前は昔から妙なところが頑固だな。大体、気持ちよくしてもらって何が不満だ」
「きっ……!」
「悦く、してやっただろう?」
色悪めいた艶やかな表情を浮かべ、一洋が覗き込んでくる。急に男の色気が匂い立つような――平素の堅い軍服姿からは想像もつかない幼馴染の変貌に、ぞくりと背筋が震える。
胸の奥を疼かせるあやうさに戸惑い、咄嗟に思い切り首を振ってしまったのは失敗だった。間近にある男の顔が、得体の知れない笑みの形に歪んだのだ。
「……そうか、悪かった。認めるほどは悦くなかったか」
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